スカイ姫のつぶやき19 つぶやき街角北西部ルート4  (法泉寺入口~地 蔵 坂 )  https://sky-princess.com/northwest4.html



                                    to top page  つぶやきいってみようへ
      〇葛飾北斎案内板(寺島法泉寺詣)    〇法 泉 寺    〇墨田区立堤通交通公園
    〇葛飾北斎案内板(白髭の翟(きじ)今戸の夕烟)  〇書家西川春洞・寧住居跡   白 鬚 神 社

子育地蔵堂  〇向島艇庫村跡  〇幸田露伴作詞の府立七中(現在の墨田川高校)の校歌の碑

文豪幸田露伴の旧居跡  歌川豊広の辞世の句を刻んだ碑  〇公立寺島学校発祥の地 
 
喜 楽 里 (きらり)すみだ工房
    大倉別邸「蔵 春 閣」跡   〇迷い子の道しるべ

西新井大師と共に江戸三大師に数えられていた蓮花寺   〇旧 墨 堤 の 道 案 内 板 



      


        


葛  飾  北  斎
Terashima Hosenji Temple mode
(Pilgrimage to Hosenji Temple)
寺 島 法 泉 寺 詣 
 




      





      


寺 島 法 泉 寺 詣
文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に
注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。
葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の
様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻不動明王寺嶌法泉寺」とあります。
現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション
以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。


A surimono print from between 1818 and 1830. Surimono prints are woodblock prints that were
commissioned for the private use of artists to distribute as gifts to comical tanka artists and
other such acquaintances, and because they were not for sale, many of these prints feature a level
of exaggerated gorgeousness that would not have been profitable under normal circumstances.
This print was created y katsushika Hokusai under the name of litsu when he was between 60 and
70 years old, and it portrays the many people who visit the Hosenji Temple in Higashi-Mukoujima,
Sumida-ku, to pray. On the right-hand column to the right of the gate is written Nitta
Yoshisada-Guardian-Acala-Hosenji.This is the only woodblock print related to the Hosen
Temple in the Edo Period currently in exstence, and no other ones heve been confirmed outside
of the Peter Morse collection that is stored in the Sumida-ku archives. It has been designated
as a Sumida-ku Tangible Cultural Asset.






   


曹洞宗 晴 河 山 法 泉 寺
住 所 / 東向島3-8-1  電 話 / 03-3614-5890





         





         





     


法 泉 寺 縁 起
法泉寺は永平寺と總持寺を両大本山と仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。今から
約八百年前、源頼朝公の重臣で奥州を支配した葛西三郎清重公がこの下総国大沼に堤を築いて
開墾し、父母追善供養の為に建立したと伝えられており、「寺島村」地名発祥の寺のひとつと
云われています。天文元年(一五三二)吉祥二世大州安充大和尚により伽藍が再興され、慶安元年
(一六四八)には江戸幕府より八石五斗の御朱印状を賜りました。寛文二年(一六六二)石造地蔵
菩薩立像、享保二年(一七一七)銅像地蔵菩薩立像が建立されたほか、東京大空襲による焼失を
免れた数々の文化財が継承されています。四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる三百
余基の石仏群が祀られ、粋でゆとり溢れる江戸文化が伝えられています。
                           清河山  法 泉 寺
 





     

不 許 葷 酒 入 山 門

葷(くん)酒(しゅ)山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず
寛政三年(1791)二月二十一日

禅寺門前にある戒壇石。香りの強い葱(ねぎ)・韮(にら)・大蒜(にんにく)等の野菜や酒等
は心乱し修行を妨げるため、寺内への持ち込みとそれらを口にした者の立入りを
許さないという意。
 





         





    


 <墨田区登録有形文化財>
窪俊満(くぼしゅんまん)「故郷(ふるさと)の」の歌碑(かひ)
    所在  墨田区東向島三丁目八番一号  法泉寺
江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪俊満(一七五七~一八二〇)を偲び、彼の友人たちが
文政四年(一八二一)六月に建立しました。正面には俊満の作品で狂歌作品集にも掲載された
「故郷の おやの袖にも やとるかとおもへは月は ふたつなきもの」という和歌が刻まれています。
裏面には石川雅望による俊満の人物紹介と建碑の経緯を記した一文が刻まれています。
書は秋元廣丸(あきもとひろまる)、碑刻は窪(くぼ)世(せ)祥(しょう)が受け持ちました。
    平成二十七年九月
                     墨田区教区委員会





      


千鳥庵(ちどりあん)鳥奏(ちゅうそう)の歌碑(かひ)
   
寛政九年(一七九七)  短冊塚
散(さん)日(にち)からちるを盛(さか)や花の山
思ひきって飛姿(ひし)なりほとときす
我を山に捨て名月入に鳧(けり)
夕煙(ゆうけぶり)雪の野末(のぞ)に里ありや
       千鳥庵鳥奏
  裏面 寛政九丁巳(ひのとみ)秋九月
     三世千鳥建之
 





      

〈墨田区登録有形民俗文化財〉
石造(せきぞう)地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)立像(りゅうぞう)
 所在  墨田区東向島三丁目八番一号  法泉寺

 寛文二年 (一六六二) に祀られた舟形光背をもつ浮彫地蔵菩薩立像で、三人の導師と
二十一名の建立者の名前が刻まれています。建立者の中には玉という女性の名前も
認できます。右手は欠損していますが、裳裾の状態から錫杖を持っていたと考えられます。
総じて眉目秀麗な造りです。光背には紀年銘とともに「願以此功徳 普及於一切我等与衆生
 皆共成佛道(願わくは此の功徳を以て、普(あまね)く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、
仏道を成ぜんことを)」という有名な回向文が刻まれています。
         平成二十七年九月
                    墨田区教育委員会





     

〈墨田区登録有形文化財〉
銅(どう) 像(ぞう) 地(じ) 蔵(ぞう) 菩(ぼ) 薩(さつ) 立(りゅう) 像(ぞう)
   所在  墨田区東向島三丁目八番一号  法泉寺
享保二年 (一七一七) 九月に十方万霊供養と施主浅草御堂前阿部主水の祖先及び二親の
一家霊魂菩提のために建立されました。延命地蔵として今日まで親しまれてきました。
右手に錫杖、左手に宝珠を持つのは地蔵菩薩の典型です。円光背があり、方形の台石と
銅像蓮台の上に地蔵菩薩が立っています。蓮台敷茄子には「奉造納 東海道武蔵國葛飾郡
西葛飾領寺島村佛頂山法泉寺」と陽鋳され、地蔵菩薩の衣には結衆者の名前と戒名が陰刻
されています。作者は鋳物師の宇田川善兵衛藤原重勝です。重勝は『大武鑑』にその名が
載り、小伝馬町三丁目(現中央区日本橋小伝馬町) に住んでいたことが分かります。常泉寺
(墨田区向島) の鐘 (享保四年) 等も製作しました。(現存しません)
  平成二十七年九月
             墨田区教育委員会





法 泉 寺 寺 宝 展

         






    





       
墨田区立堤通交通公園
子供が自転車に乗れる偽の道路網を備えた公園で、
すべり台や水遊びができる噴水プールもあります。
住 所:堤通一丁目8番ー1






         





         





         






右側はテニスコート場です。
          
 





         








     


        葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks ofthe Sumida
River Third Volume (Total of Three Volumes):
Shirahige no Kijimatsu Imado no Yu-Keburi )
白髭の翟(きじ)松 今戸の夕烟 
━絵本隅田川両岸一覧━  



      




      

白髭の翟(きじ)松 今戸の夕烟  ━絵本隅田川両岸一覧━

『絵本隅田川両岸一覧』は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる
狂歌絵本シリ-ズで、この作品は下巻に収められています。秋の夕暮れが広がる画面の左では、
今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川縁で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と
瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られていた白鬚明神社(現在の白鬚神社)
の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が
40~47~47歳頃の作品です。

The Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River is a series of comical tanka prints
consisting of 25 prints in three volumes portraying a portion of both banks of the Sumida River
from Takanawa to Yoshiwara, and this print comes from the third volume. The right-hand side
of the print shows roof slates being fired under an autumn sunset in Imado(currently Imado,Taito-ku),
as well as two people carring the slates while conversing and a boat loaded with slates. A copse of
trees aroundthe Shirahige Myojin Shrine(currently the Shirahige Shrine),which is known for its scenic
beauty, can be seen in the distance, and the movement of a white egret on the right-hand side provides
an accent. Katsushika Hokusai created this print between the age of 40 and 47.






       
書家 西川春洞・寧 住居跡
春洞は明治、大正にかけて活躍した大家でその門に
学ぶ者、2000名といわれた。今日の漢字書道界の
基礎をつくった中心的的存在であった。寧は書家、
中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者
住所 / 墨田区東向島3丁目4番5  





         




           

西 川 春 洞 ・ 寧 住 居 跡
所在 墨田区東向島丁目四番
 西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化四年(一八四七)日本橋の家で生まれました。幼い頃、
書を中沢雪城に学び、初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心
とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。そして、この地(寺島村
一二〇七番) に居を構え、多くの弟子を養成しました。春洞は、地域の社寺や人々の求めに
気軽に応じ、多くの作品を残し、大正四年この地に没しました。春洞の息子寧は、明治三十
五年ここに生まれ、寺島小学校 (現第一寺島小学校) に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、
さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和六十年に書家として初めて
文化勲章を受章しました。平成元年五月目黒区中町で没しました。
(なお、住居跡は階段下約三十メートル先の左側の辺りです)
平成十二年三月
                     墨田区教育委員






     
旧 墨 堤 の 道

旧墨堤の道は、度重なる整備によって、大きく変わって
しまいましたが、その面影は「白鬚神社」から
「子育て地蔵」までの湾曲した古道に残っています。
東向島3丁目・堤通1丁目境  





         





         






        旧(きゅう) 墨(ぼく) 堤(てい) の 道
所在地 墨田区東向島三丁目・堤通一丁目境
隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛(かん)文(ぶん)年間(一六六一~七三)。
徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通二丁目、都立東白髭公園辺り) から白髭神社
の北側辺りまででした。江戸時代中期には八代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりの
ために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島二丁目、言問通り)まで延ばして人々に
地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとな
っていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。白髭神社
脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残りです。
春は花見、正月は七福神めぐりの人々で、特ににぎわいました。関東大震災や東京大空襲
などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと
整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と
「墨堤植桜之碑」(向島五丁目四番先)近くの湾曲部の二か所だけとなっています。
平成二十一年三月
                                    墨田区教育委員会        
 







東都花歴  隅田堤之桜  絵 師:英 泉
            
新撰江戸名所 隅田川堤白雨之図
絵 師:一 立 斎 広 重





 
春色隅田堤の満花  絵師:香蝶楼豊国
           
江戸自慢三十六興
向嶋堤ノ花并ニさくら餅
絵師:広重 , 豊国







名所三十六景 
東都隅田堤  絵師:広重
          
隅田堤桜盛  絵 師:渓斎英泉   






隅田堤遠景之図  絵 師:初代歌川豊国
            
東都名所 江都名所 隅田川はな盛   絵 師:広 重






      

子 育 地 蔵 堂
東向島三丁目二番一号
文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防
改修築工事の際に土中から発見された
と伝えられています  





         





         





         







子 育 地 蔵 堂
    所在地 墨田区東向島三丁目二番一号
 この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(一八〇四~一八一八)に行われた隅田川
の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、
神輿(みこし)がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。この地蔵には、次のような伝承
があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの
田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が
村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置
して朝夕に供養するようになりました。その後、天保三年(一八三二)四月に十一代将軍
徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。
平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しま
した。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵
あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。 御堂前の坂は、明治四
十四年(一九一一)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれて
います。昭和八年(一九三三)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、
地元出身の書家、西川寧(やすし)(文化勲章受章者)が揮毫(きごう)したものです。
 平成二十三年八月
                    墨田区教育委員会
 






西 川 寧 揮 毫 
                  
御 詠 歌






     
 向 島 艇 庫 村 跡
隅田川レガッタ(ボートレース)競技用の
ボートを収納するための艇庫が立ち並び、親
しみを込めて「艇庫村」と呼ばれていました。
所在地 / 墨田区堤通一丁目(区立堤通公園





         





         





         





 


     
昭和15年(1940)の向島艇庫村
(「火保図」より作成)この説明版が立っている
場所もかつては水辺でした
 

向 島 艇 庫 村 跡
所在地 墨田区堤通一丁目(区立堤通公園)
明治から昭和にかけて、隅田川ではレガッタ(ボートレース)が盛んに行われました。
この辺りには競技用のボートを収納るための艇庫が立ち並び、親しみを込めて「艇庫村」
とも呼ばれていました。レガッタはイギリスで発達し、明治10年(1877)から日本の学生たち
の間に広まり始めました。明治15年(1882)、日本人の主催による初のレガッタが隅田川で
開催されました。これは海軍によるものでしたが、明治17年(1884)には東京帝国大学
(現在の東京大学)によって初の学生レガッタも行われました。明治20年(1887)、ここ
から約700メートル南の川沿い、現在の向島五丁目に、日本で初めてとなる東京大学の艇庫
が建設されました。その後、各校が向島に艇庫を建てるようになり、やがて堤通一丁目には
独特の風景が形づくられました。レガッタと学生たちの練習風景は隅田川の風物詩となり、
大会の開催時には多くの人々が応援や見物に集まりました。しかし昭和35年(1960)頃から、
隅田川の水質悪化や高速道路建設などのため、多くの艇庫が他の地区へと移りました。最後
まで残っていた一橋大学の艇庫も昭和42年(1967)に移転し、向島艇庫村の風景はなくなり
ました。その後、水質改善の努力が続けられた結果、昭和53年(1978)には早慶レガッタが
復活しました。また昭和56年(1981)からは、「水の週間」を記念したウォーターフェア
隅田川レガッタが開催されるようになり、現在も続けられています。
               平成22年3月 
                                      墨田区教育委員会
 






      大 倉 別 邸「蔵 春 閣」跡
田沼意次の黒幕といわれた中野碩翁の屋敷を移築したといわれ、
明治・大正期の実業家大倉喜八郎が4年の歳月をかけて、明治45年
に向島別邸内に増築した迎賓館です。豊臣秀吉の桃山御殿の襖、杉戸
を用い、狩野探幽の屏風や谷文晁の龍などを張り付けてある豪華な
建造物で、解体後は大倉文化財団が管理していましたが、この度
大倉喜八郎さんの出身地新潟県新発田市に寄贈されました。
住 所 / 墨田区堤通1-1 





         





大倉別邸跡地に立つ共栄倉庫
(エスケーロジ株式会社)
  

         





   大 倉 喜 八 郎 別 邸 跡
この一角は田沼意次にとりいり養女を大奥に入れて権勢を
ほしいままにした中野碩翁の別邸跡で、隅田川に面して贅を
こらしていた。そこを明治の政商大倉喜八郎が受け継ぎ、
大蔵別邸としていた。邸内の川に面して建てられていた、
「蔵春閣」は船橋の『ららぽーと』に移築されている。
            共栄倉庫株式会社 





蔵春閣解体前の大倉別邸
蔵春閣解体の前に大成建設から依頼を受けて、
写真を撮影された建築写真家岩崎和雄氏の頁にリンクします


         





         





         





大倉別邸 「蔵春閣」 講演会
平成31年4月20日(土)


             





         





 
言問団子さんに展示されています。
        
墨田区伝統工芸 江戸文字提灯 大石智博氏作






     
幸 田 露 伴 作 詩 の 校 歌
大正14年4月、府立七中(現在の墨田川高校)に校歌
が制定されました。作曲は童謡作家の弘田龍太郎です。
住 所 / 東向島3丁目34−14
電 話 / 03-3611-2125 





         







墨 田 川 高 校 校 歌
   作詞 幸 田 露 伴
    作曲 弘田龍太郎


1、隅田の川は吾が師なり
   日夜をせかずおこたらず
流れてやまぬ何十里
注々として海に入る
            2、 弥生のつつみ朝ゆけば
くれないにじむ花の露
こぼれて清くいさぎよき
桜にそまる我がこ丶ろ
 






       幸 田 露 伴 旧 居 跡
(露 伴 児 童 公 園)
第一回文化勲章(1937年2月)を受賞されています。文豪
幸田露伴の区内3番目の家があった所です。雨宮酒店横の
別棟を「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名づけて間借りをして
いました。明治41年(1908)には自分で家を設計し「蝸牛庵」
と名づけて住んでいましたが、関東大震災の影響で井戸の水
に油が浮くようになった為、大正13年小石川へ転居しました。
住 所 / 東向島1-7-12





         





         





         





      幸 田 露 伴 と 向 島
幸田露伴(慶応3年(1867))~昭和22年(1947)は、明治・大正・昭和の三代にわたって小説をはじめ評論や随筆、詩歌、考証研究などに幅広く活躍し、大きな足跡(そくせき)を残した文学者です。若き日の明治20年代から、「風流仏
(ふうりゅうぶつ)」や「五重塔」などの名作を次々に発表し、尾崎(おざき)
紅葉(こうよう)とともに「紅(こう)露(ろ)時代」と並び称されました。向島
にはじめて住んだは明治二十六年のことで、現在の白(しら)髭(ひげ)橋
(ばし)近くにいた父母や兄が、隅田川対岸の橋場(はしば)へと転居したのに
ともない、そのあとに入ったのです。岐(ぎ)雲(うん)園(えん)と称されるこ
の家は、もと幕末の外国奉行だった岩瀬(いわせ)忠震(ただなり)が建てたも
ので、汐入(しおいり)の池や梨(なし)畑(ばたけ)のある広い庭を持っていま
した。





    向 島 蝸 牛 庵
露伴が岐雲園に住んだのはわずか1年ほどでしたが、数年後の明治三十年にはふたたび向島へと戻り、当地よりほど近い、雨宮酒店の隠居所を借りて居を定めました。現在、博物館明治村に移築されているこの家では、のちに作家になる娘の幸田文(あや)が生まれています。「蝸牛(かぎゅう)庵(あん)」とは露伴の家のことで、若いころから転居続きだった自分を、殻を背負って歩くかたつむり(蝸牛)に譬(たと)えたのが由来です。生涯にわたって用いられた庵号で、特定の建物を指すわけではありませんので、区別のためにしばしば地名を冠して呼ばれます





     当 地 に つ い て
明治41年(1908)、露伴はみずからの設計で家を新築し、当地に移り住みました。短期間の居住におわった岐雲園をのぞけば、ここが第二の向島蝸牛庵に
あたります。隣には割烹(かっぽう)料亭「雲水(うんすい)」の庭が広がるす
ぐれた環境で、中国明(みん)代の靖難(せいなん)の変(へん)を題材にした歴史小説「運命」をはじめ、「幽(ゆう)情記(じょうき)」や「望樹帰(ぼうじゅ
き)」といった代表作がいくつも執筆されました。この家で少女時代をすごした幸田文は、当時の様子を「みそっかす」や「糞土(ふんど)の墻(かき)」
に美しく描いています。しかし、関東大震災によって井戸水が濁ってしまっ
たことなどから、大正13年、一家は16年あまりをすごしたこの地を離れ、
小石川に移転していったのです。








 
   odern Author Koda Rohan and his“Snail Cottage”

Koda Rohan (1867-1947) was a famous writer active throughout Japan’s modern period

By the middle of the Meiji Period, when modern Japanese literature arose under theInfluence of Western culture, Rohan had already received recognition as first-classwriter through novels such as Furyubutsu (The lcon of Liberty)and Gojunoto (The Five-Storied Pagoda ). He continued to publish pieces including novels, bookreviews, essays, and poetry for nearly sixty years until after World War 11.

Rohan lived in the Mukojima area three times, each time in a different house. He first stayed in a large estate in the northern part of Mukojima near Shirahige-bashi Bridge in 1893, but only

for a year ①. Rohan lived in the area for the second time in 1897, renting a wing of Amemiya’s liquor shop which was located near this site ②. Aya Koda, his daughter who would later become a popular writer in her own right, was born there. Starting in 1908, Rohan lived here inMukojima for the third time ③. It is said that the house located here was designed by Rohan himself. Here he wrote many well-known masterpieces including Unmei (Destiny), but the Great Kanto Earthquake of 1923 made the wellwater cloudy, so he moved
out the following year.

Rohan often called his house Kagyuan, or “Snail Cottage”The writer had moved often since his youth, and through this moniker he compares himself humorously to the snail, which carries its shell as it travels. Combining this name which that of the area, the house once located on this site is called Mukojima Kagyuan







幸田露伴 文学碑

世おのづから數(すう)というもの有りや。
有りといへば有るが如く、
無しと為せば無きにも似たり。
洪水天に滔(はびこ)るも、禹(う)の功これを治め、
大旱地を焦せども、湯(たう)の徳これを済(すく)えば、
數有るが如くにして、而も数無きが如し。
                        「運命」より/碑文
 





 

露 伴 児 童 遊 園 の こ と
ここは文豪幸田露伴が明治41年から大正13年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。
露伴は明治26年冬この寺島町かいわいに来往しそれから約30年最も力の溢れた時期をこの地
にすごし数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に劍道、弓道、相撲、などして
よく庭で遊んだそうです。このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷
辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい
遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。
                           昭和39年3月建立   墨田区
 





     




堀 辰 雄  
   
森 鴎 外 
   
吉川 英治
 
正岡 子規  

谷崎 潤一郎
                 
 
饗庭 篁村 
           
淡島 寒月
             
佐多 稲子 
                 

富田 木浦 
   
依田 学海
 
成島 柳北 
   
幸田 露伴
 
村上 浪六

向 島 文 学 散 歩
Map of Literary Sites in the Mukoujima Area

向島地域には、明治時代以降、魅力ある土地柄に惹かれた多くの作家が住まいを構えました。
彼らは、向島での暮らしを作品に残し、かつての向島の様子を伝えてくれます。

Starting the 19th century, especially after the Meiji Restoration in 1868,the pastoral atmosphere
of the Mukoujima area brought many novel ists to make their homes here.The writings they
left of a Mukoujima long past. and record the lives of its inhabitant






          歌川豊広辞世の狂歌碑
歌川派の基礎を築いた浮世絵師、歌川豊広の辞世の句を
刻んだ碑で、明治20(1887)年の歌川豊広60回忌に三世
歌川広重が建立しています。墨堤下に建立したとされる
石碑で2度目の移設で現在地にあります。
住所 / 東向島1-7-11露伴児童遊園






         





         





  

墨田区有形文化財
歌川豊広辞世の狂歌碑
所在地 墨田区東向島一丁目七番十一号
所有者 墨田区
歌川豊広(うたがわとよひろ)は江戸(えど)に生(う)まれ、現在(げんざい)の港区(みなとく)
芝(しば)あたりに住(す)んでいました。浮世絵(うきよえ)を歌川(うたがわ)豊(とよ)春(はる)
に学(まな)び、兄弟(きょうだい)弟子(でし)の初代(しょだい)歌川(うたがわ)豊国(とよくに)
とともに歌川派(うたがわは)が活躍(かつやく)する基礎(きそ)を固(かた)めました。瀧澤
(たきざわ)馬(ば)琴(きん)や十返舎一九(じっぺんしゃいっく)など人気(にんき)作家(さっか)
の小説(しょうせつ)の挿絵(さしえ)や肉筆(にくひつ)の美人画(びじんが)を残(のこ)しています。
━━死(し)んで行(ゆ)く地獄(じごく)の沙汰(さた)は兎(と)も角(かく)も
       跡(あと)の始末(しまつ)はかね次第(しだい)なる━━
この狂(きょう)歌碑(かひ)は、江戸(えど)時代(じだい)に活躍(かつやく)した歌川(うたがわ)
豊(とよ)広(ひろ)(一柳齋(いちりゅうさい))という浮世絵師(うきよえし)の六十回目の命日
(めいにち)を記念(きねん)して建(た)てられました。表(おもて)に豊(とよ)寛(ひろ)辞世
(じせい)の狂歌(きょうか)が、となり、裏(うら)に明治(めいじ)二十年(一八八七)四月の日付
(ひづけ)が刻(きざ)まれています。なお、かの有名(ゆうめい)な『東海道(とうかいどう)
五十三次(ごじゅうさんつぎ)』の作者(さくしゃ)、初代(しょだい歌川(うたがわ)広重
(ひろしげ)(安藤(あんどう)広重(ひろしげ))は、豊(とよ)広(ひろ)の後継者(こうけいしゃ)でした。
狂(きょう)歌碑(かひ)は、平成(へいせい)十三年三月二十二日に墨田区(すみだく)の登録(とうろく)
文化(ぶんか)財(ざい)となり、同二十八年二月十日に墨田区(すみだく)向島(むこうじま)五丁目
十一番一号の旧地(きゅうち)より当地(とうち)へ移(うつ)されました。
平成三十年二月
             墨田区教育委員会






      
公立寺島学校発祥の地
発祥の地碑は以前寺島図書館の敷地内にたっていました。
明治12年に「寺島村立村立寺島小学校」が創立され, その後
「寺島尋常小学校」「第一寺島尋常高等小学校」などの名称
を経て,現在の「墨田区立第一寺島小学校」 となりました。
住所 / 墨田区東向島3丁目





         





 


         

魁  (さきがけ)の地
   寺島村字前沼
     1555、1556番地
明治12年10月12日、この地に萱葺農家を一部改修して、寺島村立寺島小学校が創立した。
村の発展とともに児童が増え、明治39年頃、西校舎(現第一寺島小学校)に校地を拡大した。
大正12年に寺島町となり、大正13年には第二寺島小学校が開校し、寺島小学校は第一寺島
小学校となる。昭和3年には第三寺島小学校が開校する。寺島町では旧制中学校の誘致を進め、
大正11年の府中七中(現都立墨田川高校)開校に伴い、敷地の一部を分割し、新校舎が出来る
までは、この地にあった旧小学校の校舎を利用して授業をおこなった。子ども達の学びの場を
整えた寺島町では、大人も学ぶ場として、昭和4年に寺島町立図書館を開館し、府立七中の先生
を講師とした講座も開催された。公立の図書館が少なかった時代のため寺島町が向島区になる
と、図書館は都立日比谷図書館の分館となり、戦後、墨田区立となった。平成31年、障害の有
無に関わらず差別のない、いきいきと暮らせる街をめざして「喜楽里すみだ工房」が開設され
た。寺島のまちで、教育・福祉を先導する施設が展開したこの地は、まちに暮らす人々の幸せ
をつむぐ、「魁の地」と言える。なお、「公立寺島小学校発祥之地」石碑は、第一寺島小学校
創立80周年を記念し建立され、書は、「書の巨人」と言われ、寺島小学校同窓生で文化勲章を
受章した「西川 寧」氏の揮毫となる。本石碑の他、子育て地蔵白鬚神社にも西川氏の書が
残されている。令和元年10月「墨田区立第一寺島小学校創立140周年」、
「すみだ工房」を寿ぎ、この解説版を設ける。   第一寺島小学校同窓会






      

喜楽里(きらり)すみだ工房
パンが美味しいと評判です!
住 所 / 東向島3-34-4 定 休 日 / 土日・祝日
電 話 / 03-6661-8561  営業時間 / 10:00~16:0
0





         





            






      


迷 い 子 の し る べ

住 所 /東向島1-16-2 (第一寺島小学校内) 





         





 

迷い子のしるべについて
現在のように新聞やラジオ・テレビなどや警察がなかった江戸時代には、迷い子・
家出人・行き倒れなど江戸市中で人をさがすことは想像以上の困難があったと思われる。
特に子どもが迷ったが最後 それが一生の別れとなり、その日を忌日としていた。
親たちは子どもに人さらいが来るからといって、家の近くか町内で遊ばせるようにし、
日暮れと共に家に入るよう厳しく躾(しつけ)ていた。しかし祭の時など家人とはぐれる
時もありそのための迷い子のしるべ石が江戸下町の方々にいくつかあったらしい。高さ
二メートル位の石柱で北側に「たつぬるかた」南側に「をしふるかた」と彫ってあり
一種の伝言板である。迷い子・たずね人をさがしている人は「たつぬるかた」に、たずね
人の名前・人相・特徴を書いて貼っておく。それを見て知っている人は「をしふるかた」に、
その旨を紙に書いて貼って教えてくれる。このようにして毎日迷い子の知るしるべ石へきて
情報を待つという方法で 江戸っ子が生んだ当時の生活の知恵の見本のようなものである。
現在都内に同じようなものが、他四カ所あるので特記する。
 中央区八重洲  一石橋西河岸
 台東区浅草   浅草公園内
 台東区寿町   永見寺境内
 文京区湯島   湯島天神内
                 (藤川淳郎記)






      
蓮 花 寺
真言宗智山派の寺院で、鎌倉時代の創建と伝えられている。
江戸時代には、霊験あらたかな厄除け寺島大師として有名
で、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに江戸三大師
に数えられていました。
本尊は空海自筆と言われる弘法大師画像。
住 所 / 東向島3-23-17





         





         





         





         

〈墨田区登録文化財〉道 標 ・二基

所在地 墨田区東向島三丁目二三番一七号 蓮花寺内
「女人済度御自筆 弘法大師」の道標
 左右側面に「大しみち(大師道)とあり、もと地蔵坂を登った墨堤にあったものです。
片方は蓮花寺で、もう片方の「大しみち」は西新井大師を指したと考えられます。文化15年(1818)
の建立です。台石に「と組」と記されているので江戸火消しが建てたのでしょう。
「厄 除 弘 法 大 師 」の道標
右側面に「西 白ひげ はしはみち(白鬚 橋場道)」とあります。
文面から、門前に建てられていたものと考えられます。文政5年の建立です。ともに蓮花寺とは
ゆかり深い道標です。文化文政のころには「寺島の大師」として、川崎、西新井の大師と並んで
江戸三大師の一つとして栄えていました。厄除けの護符をいただきにくる大師参りの人々の
ために建てられた
道標に違いありません。
  平成8年3月 
           墨田区教育委員会
 





         





         





         





         






絵本江戸土産 10編其2 蓮花寺






江戸名所図会. 第4  著者:斎藤幸雄 [等著][他]
中央に、(本堂)(太子)があります
   
             
江戸名所図会. 第4 (国会図書館蔵)
著者:斎藤幸雄 [等著][他]









四国八十八ヶ所写石碑第七十五番
南無大師遍照金剛碑(なむだいしへんじょうこんごう)
讃岐国 善通寺(さぬきのくに ぜんつうじ)の写し。
本尊・薬師如来。慶応三年(1867)の建碑。
南無大師遍照金剛は、『弘法大師空海に帰依する』
との意。『我すまば よもきへはてじぜんつうじ ふか
きちかひの法のともし火』
     
亀田則恒之碑
この歌に、妻の七回忌に歌を手向けたこと、娘婿の
金子勝五郎が歌を添えて彫らせたこと等が、歌同様
懸詞(かけことば)をふんだんに使った技巧的な文
で綴られています。文政八年(1825)の建碑。
『老の身の 枯木にもまた死に花の さきだつ妻の
碑に向島  91歳翁亀田則恒』
『浦嶋の 亀田則恒齢さへ つくことあらじ呉竹の
杖  呉竹亭真直 俗称金子勝五郎治喜
 

 
 

『先嬉し 雪に明るき 西の空』
題郡盲評古之図之碑
(だいぐんもうひょうすこのずのひ)
インドの寓話に、昔、鏡面王(きょうめんおうが郡盲者
に象を撫でさせ、それぞれ自分の思った象の形を述べさ
せた所、皆的外れの答えをしたという話があります。郡
盲者とは肉眼の盲者のことでなく、見性の無い衆生即ち
衆愚のことである等、心眼の大切さについて述べていま
す。環中斎高独歩の撰並びに書で、その門人山中抜山
が、天保五年(1834)に建てたものです。 
 
   
宮内源之輔辞世句碑
詳細不明。明治三年(1870)の建碑。
『先嬉し 雪に明るき 西の空』







 
 
   

 
雪月雅望 山幽囗離 春花秋葉 雲囗鳥飛
石工の娘で13歳の繁(号、春山)の筆による、
建碑は文政11年(1828)
 
 
寺 号 碑
 



                 






     
白 鬚 神 社  墨田区東向島3-5-2
      





         





         





         





           





        





         





         





毎月第一土曜日に行われます。
         





      

白  鬚  神  社
   祭神  猿田彦大神  天照大御神  高皇産霊神  神皇産霊神  大宮能売神 
 豊田気大神  健御名方神

由  緒
 天暦五年 (西暦九五一年) に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山に鎮座する
白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年
(一五九二年) には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 
隅 田 川 七 福 神
当社に寿老人を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、
どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の
老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機知を働かせて、
この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、
寿老人と神の字を用いる所以である。
 






江戸名所図会 7巻. [19]  著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836]

白鬚明神社  (しらひげみょうじんやしろ)





社 務 所

         





2階の大広間は結婚式の披露宴会場として使われていました。

         





         





        

ア  マ  ビ  エ

弘化三年 ( 一八四六 ) 、肥後国 (熊本県) の海中に毎度のように
光るものがあり、役人が確かめに行ったところ、 海中に住む 
「アマビエ」 と名乗る怪物が現れ、当年より六年の間は豊作が続くが、
という。この故事により 「アマビエ」 を絵馬にしましたので、
悪疫退散を御祈念ください。                  
 白鬚神社社務所
 





お 正 月 風 景

         





         




      


〈 墨田区登録文化財 〉
山 玉 向 島 講 社 の 碑
所在地  墨田区東向島三丁目五番二号  白鬚神社
山玉向島講社(やまたまむこうじまこうしゃ)は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、
山玉深川元講(もとこう)の枝講(えだこう)だったと考えられています。明治八年( 一八七五 )
七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中之郷・須崎の三地区に居住していました。
専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝
(とうはい)していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大
正十一年(一九二二)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 
大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行(ぎょくざんじょうぎょう)、講元松本萬次郎、
そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二
名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々
が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者
は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高い
ことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、
四代目先達玉山丈行は、本名を重城丈吉といい、白髭神社の氏子総代の一人でした。遅くとも
大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果た
して富士吉田の御師「大番城(だいばんじょう)」の屋敷に記念碑を建立していました。左に
立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており講社の沿革を
知るうえで貴重な情報を提供しています。
                平成二十四年一月
                  墨田区教育委員会
 





        

岩 瀬 鴎 所(おうしょ)の墓碑
所在 墨田区東向島3丁目五番二号 白鬚神社内
 江戸時代末期の外交家。文政元年 (一八一八) 江戸に生まれました。名は忠震(ただなり)で、
鴎所(おうしょ)の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭(かちがしら)設楽貞丈
の第三子で天保十一年(一八四〇) 、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年 (一八四九)
老中阿部正弘から目付に抜てきされました。鴎所は昌平坂学問所で漢字を学ぶにとどまらず
蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鴎所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を
非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講式所と藩所調所(はんしょしらべしょ)を設け海軍伝習
を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と
対立したため、安政六年八月に官位を奪われ、蟄居(ちっきょ)を命ぜられました。その後向島に
隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年 (一八六一)
七月十六日、四十四歳で没しました。
平成十六年三月
             墨田区教育委員会
 





 

墨田区登録文化財〉
 
「墨多三絶(すみたさんぜつ)」 の碑
 
     所在 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社内
  隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶
 (? は絶の古字)」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は文政五年 (一八
二二) のことです。なお、絶とは五字または七字の四句で、一体をなす漢詩のことで、三詩
からなるので三絶と呼びます。この碑 (草書) は
三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書) の両碑を加えて、
大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
維舟渡口歩汀沙来飲祠前売酒家
道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
欲管繁華事閑唾落花流水中
断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
鴎邊柳処元陳遼付与詩人吟至今
上毛淡斎佐羽芳詩壬午冬日書詩仏老人大窪行

平成十八年十月
             墨田区





 

鷲 津 毅 堂 碑
  所在 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社内
 鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政八年(一八二五)尾張に生まれました。通称
を毅堂または蘇州と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。三十歳のころ
江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読
となり、さらに教授に進み、毅堂自身も師弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、
藩主徳田康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。
明治元年朝廷より権弁事を任ぜられ同二年大学少承に転じます。そして権大書記官 五等判事、
司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治十五年司
法権大書記官となりますが、同年 (一八八二) 十月五日、五十八歳で没しました。なお、
毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美、撰文は、三島毅、
書は巌谷一六による碑です。
       平成十八年三月
                墨田区教育委員会






筆塚 中原耕張之碑 
      
蒼山衣剱之蔵の碑 
  
     
黒人塚 
北島玄二
「うつせみの」の歌碑 
         
         
         

こころほど こと葉のたらぬ 
さくらかな
四世今日庵)元風
 
 


 
 
 
         
 
入きんは百花園の隣にあった
向島の八百松の女中頭の入山
きんのひらいた料理茶屋です
 
       




 
       






 







江戸・東京の農業  寺 島 ナ ス
   
かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688~1704)によれば、
この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた
肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれて
いました。享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡誌」には、寺島茄子西葛西の内也。
中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」また、文政11年
(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」
として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記
されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店
(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯
であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行50周年記念事業


THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Terajima Nasu (Egg plant)
Terajima village around this Shrrahige was paddy rice areas in the years 1688-1704.
Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the
egg plant which was popular as ‘Terajima Nasu’. Farmers shipped their products by
boats to the markets of Senjyu, Honjyo-Yotsume andKanda, etc.
 

                                               ペ ー ジ ト ッ プ へ






つぶやきいってみよう


  レストランカタヤマ   
    向じま 志‘’満ん草餅    〇吉 備 子 屋    〇百 花 珈 琲     〇Otis Ham&Salami

パスタアンドピザ サンティーニ      〇栄   堂    〇向 島 松 む ら

東 向 島 珈 琲 店    〇鳩  屋
      満  喜 (み づ き)      〇肉 の 菊 屋



      



         
レストラン カタヤマ
お隣に待合室があります。
住 所 / 東向島4-2-6  電 話 / 03-3610-1500
  営業時間 / 月~日/11:00~2:30 / 4:30~8
 
定休日 / 年中無休





         






     



        
満 喜 (み づ き)
和カフェ&ギャラリー
色々な分野の作品展が開催されています。
(2月と8月はそれぞれ1ヶ月お休みです)
駐車場完備。ギャラリースペース貸し出しています。
住 所 / 東向島3-27-9  定 休 日 / 日&月曜日
電 話 / 03-3618-8529  営業時間 / 11:30~18:00
 





             





         





         





         





         






      
向じま 志‘’満ん草餅
明治2年に創業、
香り高い生のよもぎだけの草餅です。
住 所 / 堤通1-5-9  定 休 日 / 水曜日
電 話 / 03-3611-6831  営業時間 / 9:00~17:00
 





         





         







古きかな 志”満ん草餅(栞より)

かつて古き隅田川沿岸の土手には蓬が自生していました。元来、蓬はちょっとした土が堆積した場所
には必ずと言っていいほど自然に繁殖し広範囲に分布していました。実際、お年寄りの方達等の話を
伺うと、時期になると自生している蓬を摘んできて自家製の「草餅」を作っていたと聞いたことが
有ります。今は時代も変わり、自生している蓬もほとんど見受けられないです。また、仮に自生して
いたとしても環境汚染の影がありとても食用としての使用は出来ないと思います。弊店で使用して
いる蓬は、栽培環境の整った完全管理された安心して食用としての蓬だけを使用しています。
110年以上の歴史を未だ忠実に守り続けている年間を通じて「生の蓬」だけを使用し続ける頑固な
こだわり。生の蓬の色合いと香りはどんなに手間がかかろうとも、弊店をご利用いただけるお客様へ
素朴な和菓子「草餅」をお召し上がり頂く事が使命と考えております。






       
吉  備  子  屋
桃太郎さんのきびだんご専門店
浅草の観音様の近くに支店があります。
住 所 / 東向島1-2-14  定 休 日 / 月曜日
電 話 / 03-3614-5371  営業時間 / 11:00~17:00
            日・祝 / 10:30~17:30
 





         





           







吉備子屋さんからの一言
♪桃太郎さん桃太郎さん、おこしにつけたきびだんご♪
桃太郎が鬼退治の時に携えていたきびだんごは、戦争前には子供の大人気のおやつでした。しかし
今では、下町へ屋台でやって来るきびだんご屋に群がる子供の光景を見ることもありません。この
懐かしのおやつを再現したのが「地蔵坂」バス停近くの吉備子屋。昔話『桃太郎』を読んだ息子の
「きびだんごが食べたい」という願いを叶えるために作り始めたものです。茶屋風の店内に置かれた
リアカーで、串に刺さったビー玉大の団子が作られています。軽くゆでられた団子にはきな粉が
たっぷりとかかっており、思いのほかさっぱりとした後味で飽きがきません。これも栄養価の高い
タカきびで作られた団子がきな粉とマッチして程よい甘さを作り出しているためでしょう。また、
添加物が一切使われていないのもおいしさの秘訣です。「渡る世間は鬼ばかり」というドラマが
ありますが、どんな人生も度々起こる鬼のような出来事を避けて通ることはできません。そんな
出来事にぶつかったときには、きびだんごの力を借りよう!きっと桃太郎のように鬼にうち勝つ
勇気と正義が沸いてきます!






        百 花 珈 琲
(ヒャッカ コーヒー)  自家焙煎店
向島百花園に徒歩2分の近さです。
珈琲豆の厳選に力を入れておられます!
住 所 / 東向島3-15-24 
電 話 / 090-4173-3605  





         





         





                





               






      
Otis Ham&Salami
サラミ、生ハムの製造工房
自家製のサラミと生ハムにナチュラルワイン
お店の前は郵便局です。
住 所 / 東向島3-32-4 電 話 / 03-6657-1384 
定休日/日・月曜日 





         





         






       PASTA&PIZZASANTINI
パスタアンドピザ サンティーニ
目の前は百花園です!
住 所 / 東向島3-29-10   定 休 日 / 月 曜 日
電 話 / 03-3610-1323  営業時間 / 火~金:11:30〜14:00
                  17:30〜21:00
             土・日・祝 11:30〜21:00
 





         





         






      
栄   堂
老舗の和菓子屋さん大福が美味しいと評判です!
百花園の茶店に持参して頂いています。
住 所 / 東向島1-4-8 
電 話 / 03-3611-1670  





         





         






      
向 島 松 む ら
おいなりさん専門店
美味しいと評判の稲荷ずし!
住 所 / 東向島1-15-12  定 休 日 / 火曜日
電 話 / 03-3612-5045  営業時間 / 7:30~18:00
 





         





         





             





         





         






       肉 の 菊 屋
美味しいと評判のお店です!
住 所 / 東向島1-35-7  定 休 日 / 日曜日
電 話 / 03-3611-1733  営業時間 / 10:00〜18:30 

※揚げ物は、11:00〜12:50、15:30〜18:30の2部制です!





         





         





              






      
 東 向 島 珈 琲 店
公園の隣のコーヒー店
時折テレビのロケ隊に出会います。
住 所 / 東向島1-34-7  定 休 日 / 水 曜 日
電 話 / 03-3612-4178  営業時間 / 8:30~20:00
 





        





         






      
鳩  屋
100年の歴史を重ねるレストラン
住 所:東向島3-37-7-101  定 休 日:火 曜
電 話:03-3611-8208  営業時間:1:30~14:00
                 17:00~21:00





         





             





             

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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