スカイ姫のつぶやき街角パソコン編・北西部ルート8
見番通り入口〈桜橋東詰〉牛嶋神社周辺

隅田川の1年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』の中巻に収められたこの大川橋の月 
小梅の泊松 (船)、もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後昭和のはじめ、
水戸徳川邸跡の現位置に再建された牛嶋神社他19ケ所を掲載


                               machikado    店・工場関係


        見番通り入口(桜橋東詰) 牛島神社周辺

葛飾北斎大川橋の月・小の泊松          牛 島 神 社

堀辰雄ゆかりの地案内板    明治天皇御製碑   書家高林二峯先生の碑 

藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑      俳人富田木歩終焉の地 

すみだリバーウォーク   文字が削り取られている旗竿台   隅田川ボート記念碑

隅田公園 明治天皇行幸所&水戸徳川邸舊阯の石碑 隅田公園水戸邸跡由来記 

明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯の碑     鬼平情景 枕 橋 さなだや

隅田公園の歴史解説案内板【小梅邸と明治天皇行幸   震災、戦災そして再整備)】

隅田公園散策解説板1→江戸時代の墨堤・江戸随一の観光名所

隅田公園散策解説板2→江戸時代の墨堤・墨堤の花見 

隅田公園散策解説板3→隅田公園の開 園・日本初のリバーサイドパーク 】 

東京ミズマチイーストゾーン     東京ミズマチウエストゾーン





        見番通り入口(桜橋東詰) 牛島神社周辺




        葛 飾 北 斎
Second Volume (Total of Three Volumes):
Okawabash no Tsuki (Moon from Ohkawabashi
Bridge) Koume no Hakusen(boat)
大川橋の月 小梅の泊松 ( 船 )  
━絵本隅田川両岸一覧━
大川橋(現在の吾妻橋)のあたりが描かれており、
現在の墨田区役所はこの絵の中では大川橋の真上
にあたります。





         





       

大川橋の月 小梅の泊松 ( 船 )
隅田川の1年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』は全3巻25作品で、隅田川両岸の様子を
中心に高輪から吉原までを描いたものです。中巻に収められたこの作品は大川橋(現在の
吾妻橋)のあたりが描かれており、現在の墨田区役所はこの絵の中では大川橋の真上にあた
ります。大川橋の左の小さな橋が北十間川に架かる枕橋です。画面手前には御休處でくつろ
人たち、タライを回して子どもたちと戯れる人、そして茶店に集う人々の活き活きとした
様子が描かれています。また橋の上やたもとにはたくさんの人たちが往来し、
当時の賑わいを知ることができます。

The Panoramic Views on Both of the Sumida RIver is a seriesof comical tanka prints
consisting of 25 prints in three volumes portraying a portion of both banks of the
Sumida River from Takanawa to Yoshiwara over the course of one year. This print
comes from the third volume and depicts the area around the Okawabashi Bridge
(currently the Azumabashi Bridge), and the currentSumida Ward Hall would be
located directly above the Okawabashi Bridge as it is shownin the print.The
smallbridge to the left of Okawabashi Bridge is a block bridge that spans the
Kitajikken River. It portrays a lively scene in which the forefront showspeople
elaxing in a rest area, children and peopleplaying by twirling a pan on a pole, and
people gatheringat a tea shop. A lot of people can also be seen on the bridge and
at the foot of the bridge, which provides us wiht a glimpse of the bustle prevalent
at that time.






 
牛 嶋 神 社  住 所 / 向島1-4-5   
                        
    

→もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後
昭和のはじめ、水戸徳川邸跡の現位置に再建された。当社の縁起書によると貞観二年(八六〇年)御神託に
よって須佐之男命を郷土守護神として創祀した。 


 牛嶋神社について(銅板製)  牛嶋神社社殿・牛嶋神社神輿蔵案内板  牛島神社案内板

 撫 牛 江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)案内板 烏亭焉馬『いそかすは』の狂歌碑

   




         





         





         





牛嶋神社について(銅板)

         







牛嶋神社について
 牛嶋神社は、もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後昭和のはじめ、水戸徳
川邸跡の現位置に再建された。当社の縁起書によると貞観二年(八六〇年)御神託によって
須佐之男命を郷土守護神として創祀し、のちに天之穂日命をまつり、ついで清和天皇の皇子
貞辰親王をお祀りし「王子権現」と称した。また天文七年(一五三八年)後奈良院より「牛御前社」
との勅号を賜ったと言われ、隅田川に沿う旧本所一帯の土地を、むかし「牛島」と呼んだところから、
その鎮守として明治初年から「牛島神社」と称するようになった、例祭日九月十五日は、貞観の
むかしはじめて祭祀を行なった日とされている。治承四年(一一八〇年)源頼朝が大軍をひき当地
におもむき、豪雨による洪水に悩まされた時、武将千葉介平常瀧胤が祈願し、全軍無事を得た
ところから、頼朝はその神徳を尊信して社殿を建立し、多くの神領を寄進した。江戸時代には鬼門
守護の社として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光は、祭礼神輿渡御の旅所としての土地を
寄進した。現在の本所二丁目のお仮宮がこれである。総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る
牛嶋神社は、昭和三十二年鎮座千百年祭を執行、氏子五十余町牛嶋講の守護神として崇敬
尊信をあつめている。





牛嶋神社社殿・牛嶋神社神輿蔵案内板

         





     

墨田区登録有形文化財
牛嶋神社社殿・牛嶋神社神輿蔵
牛嶋神社は、元来弘福寺の西隣(向島五丁目)に所在しましたが、関東大震災後、帝都復興計画事業
に伴い区画整理が実施された際、当地に遷座しました。その際新築されたのが、現在の社殿と神輿蔵です。
❶━墨田区登録有形文化財「牛嶋神社社殿」
 本殿(ほんでん)、幣殿(へいでん)、拝殿(はいでん)から成る木造複合社殿で、地元の棟梁
石川梅吉によって建築され、昭和七年(一九三二)に竣工しました。最奥に位置する本殿は、
入母屋造(いりもやづくり)、銅板瓦棒(どうばんがわらぼうぶき)葺(正面三間、側面三間)で、
組物(くみもの)は禅宗様を基調としています。板支輪(いたしりん)や蟇股(かえるまた)等に
亀や鯉、鷲などの彫刻が施されており、全体的に装飾性が高い建築となっています。また、
中央に位置する幣殿は両下造(りょうさげづくり)・銅板瓦棒葺(どうばんがわらぼうぶき)
(正面三間、側面五間)、最善に位置する拝殿は入母屋造(いりもやづくり)・銅板瓦棒葺
(正面七間、側面四間)となっており、拝殿正面にはそれぞれ三間の向拝(こうはい)と千鳥
破風(ちどりはふ)が取り付けられています。この建物の特徴は、基礎に亀腹(かめばら)を捺
(お)すコンクリート造の布基礎(ぬのきそ)です。これは、地震による建物倒壊の危険を緩和
する効果をねらったものと考えられます。
➋━墨田区登録有形文化財「牛嶋神社神輿蔵」
 境内東辺縁部に建てられています。正面二間の切妻造妻入(きりづまづくりつまいり)
の建物の両側に、幅五間の切妻造の建物が接続した鉄筋コンクリート造の建物です。
昭和初期の建物とみられています。この建物は、参道から見る外観を木造瓦葺(かわらぶき)
風に仕立てることで境内景観の統一を図る一方、耐震・耐火性も合理的に満たすよう
工夫されたことがうかがわれます。これら二つの建物は、伝統的な建築様式に近代技術を
調和させた優れた近代神社建築と評価され、平成三十年十一月八日に墨田区登録有形文化財
に登録されました。
令和二年一月
         墨田区教育委員会





江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)案内板

              





 

江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)
文武天皇(701~704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、
国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んていたのどかな
牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。大宝元年(701)、大宝
律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧(かんまき))
が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧(ちょくしまき))が設置され、この
付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。
時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、
牛乳の需要が増えることとなりました。明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の
資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの
乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫
「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。
                 平成9年度JA東京グループ
                       農業協同組合法施行五十周年記念事業

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
In the era of the Emperor Monmu(701-704).national cattle farms were said to
have been established in the area of so-called Ushijima (Cow Island) which is
from Mukojima toward Ryogoku at the present. Since 701. as many as 39
national and 32 Imperial cattle farms were established throughout Japan. .Here
in Honjo,was also one of the national famus called ‘Ushijima Dairy Farm’. With
the introduction of western civilization in the late Edo Era and the resulting increase
in demand for dairy Products, there were at the peak time a number of dairy farms
in Honjo area at the beginning of Meiji Era. Herdsof cattle were lagity grating
over the pastures around this shirine.





         





         





         





         





         





牛 島 神 社 案 内 板

             







A shrine toSusano'o'the neighbourhood deity of Honjyo
Ushijima Shrine
牛 嶋 神 社

貞観2(860)年に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀
したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。
昭7(1932)年に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。本殿の左右に、神牛が奉納
されている他、建長3(1251)年には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝とした
という伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭のや碑や江戸落語
を中興したといわれる<立川(鳥亭)焉馬(1743~1822)の
「いそかすは 濡まし物と夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」の句碑などがある。
5年に1度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭礼が向島から両国に広がる氏子の
町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅で所一迫する。返礼の町神輿の
宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。

This 1s the head shrine of the Honjo neigbbourhood, founded circa 860 AD by the great
Buddhist leader Jikaku. Legend has it that in 1251 the shrine was visited by a bull demon
which dropped a knot of hair as it ran arond the shrine, and the knot was enshrined as a
sacred treasure. The legend is commemorated in the statues of cattle deity that flank the
main shrine building


牛嶋神社大正11年頃 


 
    
葛飾北斎「須佐之男命厄神退治」
86歳の作といわれている。関東
大震災で消失したが、モノクロ
が写真に残っている。  
  
    
◆撫 牛
自分の悪い部分と同じ場所
を撫でると、病気が治ると
いわれている。  
 






撫  牛

             






 
            
日時計(牛の絵が刻まれています。)







〈墨 田 区 登 録 文 化 財〉
 撫  牛
所在地 墨田区向島1丁目4番 牛嶋神社内
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じ
ところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心
も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、よだれかけ
を奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。この牛の
像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に
       「なで牛の石は涼しき青葉かな」
と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で、「どこかメランコリックな目なざしをした牛が
大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
 





烏亭焉馬『いそがずば』の狂歌碑

            





 

< 墨田区登録文化財 >
烏亭焉馬『いそかすは』の狂歌碑
所在  墨田区向島一丁目四番五号   牛嶋神社内
「“いそかすは 濡れまし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(一八一〇)に建てた碑です。
江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。
寛保三年(一七四三)生れ、本所相生町五丁目(現緑一丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文
をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結ん
ことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であること
から「鑿釿言墨曲尺(のみておのげんすみかねじゃく)」とも号しました。元禄時代にひとつ
の話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明四年(一七八四)に向島の料亭
武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺(はなし)の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が
盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という
呼び方が定着しました。文政五年(一八二二)八0歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)
            平成七年三月 墨田区





慰霊 包丁塚
人の世の奉仕に生きる牛黙す目魚と牛の後ろに句がきざまれています。

             





                





                





                





            





              





         





          





         





         





                





          





            





         






牛御前宮 長命寺  隅田川東岸   (東京名所図絵)
  著者:中野了随   出版者:小川尚栄堂  出版年月日:明23.2
 
    
江戸の華名勝会  向嶋 番外
嵐吉三郎/牛島牛の御前/
牛の御前【1】. 





記 念 撮 影

             





         





         






 
    隅田公園(向島一丁目、二丁目、五丁目) 
   





         





         





         





        





         





         





         





         





         





         





         





         





         





         





         





         





         





明治天皇行幸所 &水戸徳川邸舊阯の石碑

             






隅田公園水戸邸跡由来記



隅田公園水戸邸跡由来記

 コノ地ハ江戸時代 水戸徳川家ノ下屋敷 小梅別邸ガ置カレタトコロデアル徳川御三家ノ一ッデアル
水戸家ガオ浜屋敷 中央区 ニ替エテコノ地ヲ賜ッタノハ元禄六年 一六九三年   三代綱條公ノ時デアル
 屋敷ハ 西ハ隅田川ニ面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪  南北二百
メートル余 東西約三百メートルニワタリ南ニ広ガル梯形ノ地デ 現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ 墨田区
南部ニ置カレタ大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタコノ屋敷ハ 現在後楽園ノ名ガ残
ル小石川本邸 駒込別邸イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ
マタ西側ニ接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ  弘化元年 一八四
四年烈公トシテ知ラレル九代斉昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際、
改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一班ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ
屋敷内ノ長屋デアッタ ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩制度ハ解消 一時政府ノ管理
スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 明治天皇 同二十五年ニハ
 昭憲皇太后ノゴ訪問ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニヨリ烏有ニ帰シ 二百三十年
ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハココデ閉ジタノデアル昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 
水戸邸ノ旧跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガヲソノ一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッ
テイタ  シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモニ環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ 
ソノ面影モオオカタ失ワレタ昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施行
三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手シ コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ 
カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレタコトヲ機会トシテ一碑ヲ建テ イササカコノ地ノ由来ヲ記シ
後世ニ伝エルモノデアル
    昭和五十四年四月 





明 治 天 皇 御 製 碑
(水戸徳川家13代当主の徳川圀順(くにゆき)が建てました。)


 
[碑 陽 西 向]
明治天皇御製
花くはし櫻もあれと此やと(宿)の』
世々のこゝろを我はと(問)ひけり』



         
[碑  陰]
明治八年四月四日 明治天皇先臣昭武の邸に臨
ませ』られ畏くも宸筆の御製を賜ふ此地は當年
の邸』趾にして大正十二年の大震火灾後帝都の
復興に』際し隅田公園となれり圀順此光榮ある
て茲に此碑を建つ』
 昭和五年三月        公爵 徳川圀順 






      堀辰雄ゆかりの地案内板
大正十三年(一九二四) 四月に父松吉が隅田公園東隣の新
小梅町八番地に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ
赴く昭和十三年 (一九三八)まで父と共に暮らした所です。
辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花 」の中でこの家を懐か
しみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関―辰雄はそんな
自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。
所在地 / 墨田区向島1-3 (隅田公園) 





             





 
          
左側は書家高林二峯先生の碑案内板





               

堀 辰 雄 ゆ か り の 地
             現在地 墨田区向島一丁目三番

 堀辰雄は明治三十七年 (一九〇四)、 麹町平河町 (現在の千代田区平河町)に生まれました。
二歳のとき、母志気(しげ)に連れられ向島小梅町 (現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移
りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中之郷町三十二番
地(左図1) で暮らしはじめます。更にその二年後には大水の影響で新小梅町二ノ四 (同2)
に移り、ここから牛島尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校 (現在の都立両国高校)
を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響
を受けます。関東大震災では九死に一生を得ましたが、母を亡くしました。大正十三年
(一九二四) 四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地 (左図3) に住居を新築し、辰雄
が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年 (一九三八)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の
夫人多恵氏は随筆「蓮の花 」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関
―辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。人生の過半を向島
で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の
様子を記しています。「寺社の境内の奥まったところに、赤い(よだれ)かけをかけた石の
牛が一ぴき()てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。
」(『幼年時代』)とあるのは牛嶋神社境内の撫牛のことです。昭和初期の文学の傑作として
高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマ
とする作品を残し、昭和二十八年(一九五三)に没しました。
           平成二十三年八月
                      墨田区教育委員会






       書家高林二峯先生の碑
 
幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家で文政2年
(1819) 9月3日に上野国後閑村
(群馬県安中市)に生まれま
した。幼少より書の才を現わし、天保14年 (1843) には幕
末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出まし
た。 この碑は明治30年(1897) 8月16日に二峯が没した
翌年の3月、円通寺 (押上2) に建碑され、のちに現在地
に移設されました

所在地 墨田区向島一丁目三番 隅田公園内







二 峯 先 生 之 碑
        所在地 墨田区向島1丁目3番 隅田公園内
二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯
の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治30年(1897) 8月16に二峯が没した翌年の3月、
円通寺 (押上2) に建碑され、のち現在地に移設されました。二峯は、文政2年(1819) 9月3日
に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望め妙義・榛名の二山にちなみ
二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保14年 (1843) には幕末の三筆と呼ばれた
巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は
中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の
「しのふつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。碑文を担当したのは
長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎさらに中国の書に近世の諸流を学び、独自
の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。建碑
の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校 (現在の東京芸術大学) 創立者の一人で、
二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は61才で二峯に入門し
た後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。
裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院
議員江原芳平などの名も見られます。
平成22年12月
          墨田区教育委員会






      藤 田 東 湖 「天地正大気」の漢詩碑
江戸末期の尊王攘夷論者として知られた水戸藩士・藤田彪
(号は東湖)が中国宋時代の忠臣文天祥が敵に捕まり、故国
を賛美した「正気之歌」を作詩したことから、同じ境遇の
東湖は同名の漢詩を水戸藩下屋敷に幽閉された時に作り
ました。明治維新を前に志士の間で愛唱されたそうです。
所在地 / 墨田区向島1-3 (隅田公園) 





         







藤 田 東 湖「天 地 正 大 気」の漢詩碑
所在地  墨田区向島1丁目3番 隅田公園内

江戸末期の尊王攘夷論者として知られた水戸藩士藤田(たけし)(号は東湖)の「和文天祥正気歌」
の刻まれた漢詩碑です。弘化2年(1845)11月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家
下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
「天地正大の気、悴然(すいぜん)として神州に(あつ)まる。(ひい)でては富士の(がく)となり、巍々(ぎぎ)として
千秋に(そび)ゆ・・・(下略)」と、五言74句の中に天然自然の美しさと日本古来の国体
を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。中国宋時代の忠臣文天祥も
敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詞したことから、同じ境遇の東湖は
同名の漢詩を作りました。東湖は、文化3年(1806)水戸に生まれ、彰考館編修として
攘夷論を水戸学としてまとめあげました。また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に
活躍したことでも知られています。安政2年(1855)の大地震のときに、50歳で不運
な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなり、さらには
幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
この碑は、昭和19年(1944) 6月に東湖会が建立しました。
平成20年3月
       墨田区教育委員会


● 和文天祥正氣歌

天地正大氣,粹然鍾 神州。

秀爲不二嶽,巍巍聳千秋。

注爲大瀛水,洋洋環八洲。

發爲萬朶櫻,衆芳難與儔。

凝爲百錬鐵,鋭利可割鍪。

藎臣皆熊羆,武夫盡好仇。

神州孰君臨,萬古仰天皇。

皇風洽六合,明德侔大陽。

不世無汚隆,正氣時放光。

乃參大連議,侃侃排瞿曇。

乃助 明主斷,燄燄焚伽藍。

中郞嘗用之,宗社磐石安。

淸丸嘗用之,妖僧肝膽寒。

忽揮龍口劍,虜使頭足分。

忽起西海颶,怒濤殱胡氛。

志賀月明夜,陽爲 鳳輦巡。

芳野戰酣日,又代 帝子屯。

或投鎌倉窟,憂憤正愪愪。

或伴櫻井驛,遺訓何殷勤。

或守伏見城,一身當萬軍。

或殉天目山,幽囚不忘君。

承平二百歳,斯氣常獲伸。

然當其鬱屈,生四十七人。

乃知人雖亡,英靈未嘗泯。

長在天地間,凛然敍彜倫。

孰能扶持之,卓立東海濱。

忠誠尊 皇室,孝敬事天神。

修文兼奮武,誓欲淸胡塵。

一朝天歩艱,邦君身先淪。

頑鈍不知機,罪戻及孤臣。

孤臣困葛藟,君冤向誰陳。

孤子遠墳墓,何以報先親。

荏苒二周星,獨有斯氣隨。

嗟予雖萬死,豈忍與汝離。

屈伸付天地,生死又何疑。

生當雪 君冤,復見張四維。

死爲忠義鬼,極天護皇基。
       文天祥の正氣歌に 和す 
天地 正大の氣、
粹然として 神州に (あつま)る。
秀でては 不二(ふじ) の嶽となり、
巍巍(きぎ) として  千秋に (そび) ゆ。
注ぎては 大瀛(だいえい) の水となり、
洋洋として 八洲を (めぐ) る。
發しては 萬朶 (ばんだ の櫻となり,
衆芳 (とも) に (たぐ) ひし難し。
() りては 百錬の鐵となり、
鋭利 (かぶと) を 割く () し。
藎臣(じんしん) 皆な 熊羆(ゆうひ)
武夫 (ことごと) く 好(かうきう)
神州 (たれ)か 君臨する、
萬古 天皇を 仰ぐ。
皇風 六合 (りくがふ)(あまね) く、
明徳 大陽に (ひと) し。
世に 汚隆 (をりゅう) 無らざれば,
正氣 時に 光を放つ。
乃 ( すなは ) ち 大連の議に 參し、
侃侃 ( かんかん ) 瞿曇 ( くどん ) を 排す。
乃 ( すなは ) ち 明主の斷を 助け、
燄燄として 伽藍を 焚 ( や ) く。
中郞 嘗 ( かつ ) て 之 ( これ ) を 用ひ、
宗社 磐石 ( ばんじゃく ) 安し。
淸丸 嘗 ( かつ ) て 之 ( これ ) を 用ひ、
妖僧 肝膽 寒し。
忽 ( たちま ) ち 龍口の劍を 揮 ( ふるひ ) て、
虜使 頭足 分 ( わかた ) る。
忽ち 西海の颶を 起して、
怒濤 胡氛を 殱 ( ころしつ ) くす。
志賀 月明なる 夜、
陽 ( いつは ) りて 鳳輦 ( ほうれん ) と
爲 ( な ) りて 巡 ( めぐ ) る。
芳野 戰 酣 ( たけなは ) なるの日,
又 帝子に 代って 屯す。
或は 鎌倉の窟に 投じ、
憂憤 正に 愪愪 ( うんうん ) 。
或は 櫻井の驛に 伴ひ、
遺訓 何ぞ 殷勤なる。
或は 伏見城を 守り、
一身 萬軍に 當る。
或は 天目山に 殉 ( したが ) ひ,
幽囚 君を 忘れず。
承平 二百歳、
斯氣 常に 伸を 獲る。
然 ( しか ) れども 其の鬱屈するに 當 ( あたり ) ては、
四十七人を 生ず。
乃 ( すなは ) ち 知る 人 亡すと 雖 ( いへど ) も、
英靈 未 ( いま ) だ嘗 ( かつ ) て 泯 ( ほろ ) びず。
長く 天地の間に 在りて、
隱然 彜倫 ( いりん ) を 敍 ( つい ) づ。
孰 ( たれ ) か能 ( よ ) く 之 ( これ ) を 扶持 ( ふぢ ) す、
卓立す 東海の濱 ( ひん ) 。
忠誠 皇室を 尊び、
孝敬 天神に 事 ( つか ) ふ。
文を 修むるは 武を 奮ふを 兼ね,
誓つて 胡塵を 淸めんと 欲す。
一朝 天歩 艱 ( なや ) み、
邦君 身 先 ( ま ) づ 淪 ( しづ ) む。
頑鈍 機を 知らず、
罪戻 孤臣に 及ぶ。
孤臣 葛藟 ( かつるゐ ) に 困しむ,
君冤 誰に 向てか 陳せん。
孤子 墳墓に 遠 ( とほざ ) かる、
何を 以てか 先親に 報 ( むく ) ひん。
荏苒 ( じんぜん ) たり 二周星、
獨 ( ひと ) り 斯 ( こ ) の氣の隨ふにあり。
嗟 ( あゝ ) 予 萬死すと 雖 ( いへど ) も、
豈 ( あに ) 汝 ( なんぢ ) と 離るるに 忍びんや。
屈伸 天地に 付し、
生死 又た 何ぞ 疑はん。
生きては 當 ( まさ ) に 君の冤を 雪 ( すす ) ぎ、
復 ( ま ) た 綱維を 張らるるを 見るべし。
死しては 忠義の鬼と 爲り、
極天 皇基を 護せん。






       俳人 富 田 木 歩 終焉の地
幼くして両足の自由を失い、小学校にも入学でき
なかった富田木浦は、大正12年の大震災に枕橋の
ふもと迄助けられて避難しました・・・
「犬猫と同じ姿や冬座敷」・
「死装束縫ひ(い) 寄る燈下秋めきぬ」
住 所 / 向島1-3(隅田公園)
 


明治30年に墨田区向島2丁目の鰻屋の次男に生まれました。2歳のとき両足の自由を失い、
小学校に入学できず、彼はいろは カルタ等で遊びながら文字を覚え、 やがて俳誌
『ホトトギス』を知り、俳句に惹かれます。後に臼田亜浪に師事して句作に精進し、
その俳句は高く評価されるようになります。木歩は関東大震災にあい、声風に背負われて
墨堤に避難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。



         





        木歩は本名を一(はじめ)といい、明治三十年に墨田区向島二丁目の鰻屋の次男
に生まれました。二歳のとき両足の自由を失い、小学校に入学できず、彼はいろは
カルタ等で遊びながら文字を覚えました。たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に
陥り、二人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公
に出ました。しかし仲間に(つら)く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみ
と孤独の中で、彼は俳誌『ホトトギス』を知り、俳句に惹かれます。やがて、彼は
臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになります。
さらに彼を理解し、援助する新井声風という俳友もでき、彼に俳句を学ぶ者も
でてきました。しかし、妹も弟も肺患で死に、彼自身も肺を病むといった苦境
での句として、
かそけくも 咽喉鳴る(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
木歩は関東大震災にあい、声風に背負われて墨堤に避難しましたが、枕橋が
焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。二十六歳でした。





三囲神社境内の富田木浦の句碑

         






      明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯の碑
碑の建つ場所は、明治年間に明治天皇のレガッタ視察
のために幾度も玉座をしつらえた場所です。現在は堤
防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、
かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん
風情のある光景でした

住 所 / 向島1-3(隅田公園内)





         





         





隅田川聖蹟記念碑碑文
國府屋東氏   中村素道氏謹撰



恭シク惟ミルニ
明治天皇夙ニ 叡慮ヲ帝國海軍ノ發達ニ勞シ給ヒ明治元年三月親シク大阪ニ幸シテ
 諸艦ヲ天保山ニ閲セラン爾來屢艦船部隊官衙學校等ニ行幸アラセ給ヘリ殊ニ海軍
短艇競漕ノ墨田川ニ行ハルルヤ 玉座ハ設ケテ此ニ在リ親シク 天覧ヲ賜フコト
前後四次ニ及ベリ明治十五年ニハ十一月二十一日二十六年ニハ六月三日二十七年
ニハ四月二日ニ臨御アラセラレ是ノ日皇后亦行啓セラレ二十九年ニハ十二月十
八日ヲ以テ親閲アラセ給ヘリ其ノ間二十五年ニハ六月十九日ヲ以テ
皇后竝 皇太子ノ行啓ヲ辱ウセリ参加ノ将士齊シク恐懼感激シテ踴躍技ヲ競ヒ行
事最モ盛大ヲ極ハメリ斯ノ如キハ皆是レ宸慮ノ深キニ出デ帝國海軍ノ無上ナル光
榮トシテ牢記スベキ所ナリ只恐ル當年玉座ノ 聖蹟星移リ物替ハリテ滄桑ノ變
ヲ経或ハ湮晦ニ歸センコトヲ是レ本會ガ天皇親臨ノ此ノ尊ブベキノ地ヲ永遠ニ顕彰
 ン奉リ永ク 聖徳ノ至大ナルヲ仰ガンコトヲ期シ帝國海軍及朝野ノ諸彦ト謀リテ
 昭和十六年ノ 明治節日ヲ卜シ一碑ヲ玉座ノ阯ニ建ツル所以ナリ乃テ謹ミテ事
 ノ由來ヲ勒シ之ヲ不朽ニ傳フ
 紀元二千六百一年十一月三日
      隅 田 川 聖 蹟 顕 彰 會






「明治天皇海軍漕艇展覧玉座阯」の碑
この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた
場所です。現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った
堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年11月21日、
同26年6月3日、同27年4月2日、同29年12月18日の4度にわたりレガッタを展覧したのです。
隅田川のレガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年11月に建碑されました。






            
隅田川聖蹟記念碑題字 有馬海軍大将謹題






文字が削り取られている旗竿台
聖徳欽仰
 隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書
かつては「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑と並んでいた

          






       隅 田 川 ボ ー ト 記 念 碑
ボート競技の中心地であった隅田川の思い出を
市民の記憶にとどめるべく建設されました。
明治初期から”近代文化の華”として日本のオアズマンは
ここで猛訓練をしスポーツマンシップを鍛えあげた。
河畔には艇庫が立ち並び、レースには人々が堤や橋上に
参集し大声をあげた。




         





           


日本のボートは ここ隅田川を中心に発展し その隆盛を迎えた
Rowing in Japan was Nurtured here on the Sumida River, which then became its primary venue.

“春は春は桜咲く向島 ヤッコラセー オール持つ手に花が散る・・・・・・”
明治初期から”近代文化の華”として日本のオアズマンはここで猛訓練をしスポーツマンシップを
鍛えあげた。河畔には艇庫が立ち並び、レースには人々が堤や橋上に参集し大声をあげた。往時
の面影は全くないが、堤に立つと当時の熱狂的な応援の声がいまもなお聞こえてくる。この国の
大いなる発展を象徴するかのように。それを忘れないために、記念碑をこの地に建立する。
 平成28年9月
  隅田川ボート記念碑建設委員会
   会長 半藤一利 撰







         






昭和29年ケンブリッジ大学招待レース時の風景
      












        鬼 平 情 景
     枕 橋 さなだや

「蛇の眼」で平蔵の勘が、蛇の平十郎の去っていく姿に
「あやしい奴」と感じた場所で、当時は源兵衛橋と呼ば
れていました。鬼平犯科帳では、枕橋とその北詰にある
蕎麦屋(さなだや)がいっしょに数多く登場します。

住 所 / 墨田区向島1-1





         





          





         

鬼 平 情 景
枕 橋 さ な だ や
当時は堀留となっていた源森川に架かる橋で、作品の中では源森橋、源兵衛橋と名を変えて
出てきます。その北隣の水戸家下屋敷に引き込まれた水路に架かる小梅橋と対になると夫婦
が枕を並べた様子に似ていることから、枕橋と呼ばれていました。鬼平犯科帳では、その北詰
にある蕎麦屋(さなだや)がいっしょに数多く登場します。蛇の眼」ではその店で、平蔵独特
の勘ばたらきからあやしい奴に出くわし、追跡する場面があります。実はこの男、大盗・
蛇の平十郎で、源平衛橋の下に潜り込んで、まんま逃げ失せてしまいます。鬼平犯科帳の
番外編とされる「にっぽん怪盗伝」収録の「正月四日の客」は、(さなだや)が舞台になり、
亭主の庄兵衛と客の亀の小五郎とのむだ口のない遣り取りが実にいい味を出しています。
                               墨 田 区






東京ミズマチイーストゾーン


         





         






         






東京ミズマチウエストゾーン

         





         






北十間川プレス紹介ブース

         





         





         






すみだリバーウオーク開通
すみだリバーウォークは全長約160メートルの遊歩道で、7時から22時まで開門
しており、徒歩で浅草寺から東京スカイツリーまで最短で行くことができます。
2020年6月18日(木)7:00~に開通


         





         





         






      隅田公園の歴史解説
小梅邸と明治天皇行幸案内板

“Koume Residence and Emperor Meiji’s Visit”





小梅邸と明治天皇行幸
“Koume Residence and Emperor Meiji’s Visit”
                      隅田公園の歴史解説
                            Sumda Park History Description




「徳川邸行幸」明治8年(1875)4月4日
木村武山 昭和5年 (1930) 12月
(聖徳記念絵画館所蔵)



小梅邸西洋館 明治33年(1900)
(松戸市戸定歴史館所蔵)”



小梅邸庭園 明治38年 (1905)
徳川昭武撮影
(松戸市戸定歴史館所蔵)
 
     江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸
(その外庭が小石川後楽園)が明治時代初めに砲兵工〇となったため、
この小梅邸が本邸 (当主・徳川昭武:15代将軍慶喜の弟)となりました。
小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、
水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。
江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年 (1875 )
4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻ま
れています。これは徳川関係屋敷への最明治29年 (1896) には
洋館が造られました。

In the Edo period, this used to be the daimyo’s city
storehouse of the Mito-Tokugawa family. Since their
main residence, the Koishikawa Residence (The outer
court is Koishikawa Korakuen), became an artillery
arsenal in the early Meiji period, the Koume
Residence became their main residence. (The head of
the 15th shogun, Yoshinobu Tokugawa).The Koume
Residence as well as being a key point for water
transportation from the Kitajukken River to the
Sumida River, because of its location along
Mitokaido, which connects Mito and the Koishikawa
Residence, also served as a key point for the highway.

On April 4, 1875, when the cherry blossoms of
Sumida Tsutsumi (embankment of the Sumida River),
a famous place for cherry blossoms since the Edo
Period were in full bloom, Emperor Meiji made an
imperial visit to the Koume Residence. The poem
written by the Emperor upon his visit is engraved on
the ston monument. It was the first visit made to the
Tokugawa-related residence. It is also where the Meiji
government and Tokugawa reconciled. Five more
visits were made since then and in 1896, a
Western-style house was also built.




 
小石川後楽園 (水戸徳川家旧本邸)
   
戸定邸(水戸徳川家別邸)
南庭のコウヤマキの木立ち






      隅田公園の歴史解説
震災、戦災そして再整備
“Earthquake, War Damage, and Redevelopment”





震災、戦災そして再整備
“Earthquake, War Damage, and Redevelopment”
                 隅田公園の歴史解説
                        Sumida Park History Descnption





 
    大正12年 (1923) 9月1日の関東大震災で水戸徳川家の小梅邸は崩壊・焼失し、昭和5年 (1930)、跡地は震災復興局によって隅田公園として整備されました。隅田公園は、隅田川の両岸 (本所側・浅草側) に展開し、本所側には三列の桜並木をもつ公園道路と旧小梅邸の園池を取り囲む園路と広場等が整備されました。震災復興を代表する隅田公園も第二次世界大戦の東京大空襲によって焼け野原になり、大勢の方がこの地に仮埋葬されました。
昭和33~36年 (1958~1961)、には公園道路上に首都高速道路が造られました。昭和52,3年 (1977, 1978)、東京都から移管を受けた墨田区は区制30周年記念事業として公園改修をし、さらに今回 (平成30年~令和2年) (2018~2020) は小梅邸や震災復興公園の遺構を保存・活用しながら、浅草と東京スカイツリーを繋ぐ回廊の拠点として再整備されました。

The Koume Residence of the Mito-Tokugawa family collapsed and was destroyed by the Great Kanto Earthquake on September 1, 1923. In 1930, the site was developed as Sumida Park by the Earthquake
Reconstruction Bureau.

Sumida Park was developed on both banks of the Sumida
River (Honjo side and Asakusa side ). On the Honjo saide,
a park road with three rows of cherry blossom trees, as
well as a garden path and open space surrounding the
garden and a pond of the former Koume Residence were
constructed. Although Sumida Park was the epitome of
reconstruction from the earthquake disaster, it was
burnt down by the Great Tokyo Air Raids during World
War 11, and many people were temporarily buried here

From 1958 to 1961, the park was restored and repaired by the Tokyo Metropolitan Government. In 1971, the Shuto Expressway was constructed above the Sumidaembankment.

In 1977 and 1978, Sumida City, which was entrusted with the development of Sumida Park from the Tokyo Metropolitan Government, renovated the park as a commemorative project for the 30th anniversary of the city. Furthermore, currently, from 2018 to 2020, by preserving and utilizing the remains of the koume Residence and Sumida Park that had been restored after the earthquake disaster, it is undergoing redevelopment to serve as a base for a promenade that connects Asakusa and Tokyo Sky Tree


            






     
隅田公園 散策解説板1 江戸時代の墨堤

江 戸 随 一 の 観 光 名 所
  住 所 / 向 島1-3(隅田公園内)  





         





       

隅田公園 散策解説板1
江戸時代の墨堤
江戸随一の観光名所

Bokutei in Edo cra-one of the most famous scenic places in Edo
江戸時代以前の墨堤は、牛御前と呼ばれる牛嶋神社に表されるように、放牧や農業(田畑)
を営む地域でした。江戸時代に入り、三代将軍徳川家光の頃から盛んに鷹狩などが行われる
ようになり、徐々に江戸の市民に景勝地として認知されてきました。墨堤の始まりは、四代
将軍徳川家綱の頃の植桜とされていますが、実際は八代将軍徳川吉宗の頃の植桜を期に
江戸の花見の名所として認識され、上野寛永寺・飛鳥山・御殿山等とともに江戸の桜の名所
として親しまれました。当時の墨堤の繁栄の様子は、数多く残されている浮世絵や
俳句・和歌等によって伝えられています。

Before Edo era, “Bokutei”the banks of the Sumida River, was the area where pasturage
and agriculture (fields) were followed as it is clear by Ushijima shrine called “
Ush-gozen” (a sovereign cow) In Edo era falconry etc took place frequently in
Bokutei by the third shogun Lemitsu, and gradually the citizens of Edo have recognized
it's a scenic place. Although the beginning of “Cherry blossoms in Bokutei”was planted at
the time of fourth shogun letsuna, It began to be a famous place to see cherry blossoms
whichi were planted more at the time of eight shogun Yoshimune, and was loved as a
famous place of cherry trees in Edo as well as Uenokaneii temple, Asukayama,
Gotenyama. And so on. The situation of prosperity in Bokutei those days was
passed down to now by countless Ukiyoe(Japaness wood block printing),Haiku
(Japanese poem), and Waka(Japanese poem).







     
隅田公園 散策解説板2 江戸時代の墨堤
墨 堤 の 花 見
住 所 / 向 島1-3 (隅田公園内) 





         








             

隅田公園 散策解説板2
江戸時代の墨堤  墨 堤 の 花 見

Bokutei in Edo cra ━ cherry blossom viewing Bokutei

桜の花見は、貴族の間で平安時代の中期から、主に一本の桜を見る形式の花見が重要な
行事となりました。一方農民の間では、古くから「春山入り」と呼ばれる、春先に飲食物を
携えて近くの山に入り、一日を過ごす行事が行われていました。この2つが花見の源流と考え
られています。江戸時代に入ると多くの桜の下で江戸の町人達が集まり、酒を飲みながら
花を見るという「江戸の花見」が広がり、現在まで受け継がれています。墨堤の花見は、残
されている文献や絵画から判断すると、桜の下を皆で連れだってそぞろ歩きをするという
見方が一般的だったようです。

Cherry blossom viewing became an important event among aristocarats from the middle
of Heian era. The form of cherry blossom viewing was mainly watching a single cherry tree
at that time. On the other hand ,there was an event called “Haruyamairi”among farmers.
“Haruyamairi” is to spend a day in a nearby mountain with foods and drinks. These two
ways are considered as mainstreams of cherry blossom viewing In Edo era. “the form of
cherry blossom viewing in Edo” Spread among citizens of Edo. The form is drinking in
the crowd under a great number of cherry trees, and came down to now. According to r
emained references and pictures, it is common way of viewing that the form of cherry
blossom viewing in Bokutei was to stroll under cherry trees together.






     


隅田公園 散策解説板3 隅 田 公 園 の 開 園
日本初のリバーサイドパーク  





             





 


      

隅田公園散策解説板3 隅田公園の開園
日本初のリバーサイドパーク
The opening of Sumida Park The first riverside-park in Japan

1923年 (大正12年) 9月1日に発生した関東大震災の直後、時の内務大臣後藤新平の指揮の下で
作られた 「帝都復興院 (復興局) 」によって、公園・街路を含む東京の抜本的な都市改造が計画
されました。その中に計画された隅田公園は、規模を縮小しながらも言問橋の架橋や東武鉄道の
浅草乗り入れ等の事業とあわせて一大開発として整備されました。日本初のリバーサイドパーク
として市民にウオーターフロントを開放するという、東京にとっても日本の公園史上でも画期的な
公園として実現されました。1931年 (昭和6年) の開園には、昭和天皇の記念来訪や、大勢の市民
がお弁当を持って詰めかけるといったお祭り騒ぎだったと伝えられています。

Right after the Great kanto Earthquake on September 1192 (Taisho 12) , the Home Secretary,
Shinpei Goto established “Teito-Fukkoin (revival office )” in order them to make a plan for a
radical reconstruction of Tokyo including parks and streets. Redevelopment of Sumida Park
was a part of the plan. Although the size of the park was a decreased, a series of redevelopment
was carried out as a whole large project including a construction of “Kototoi Bridge” and a
connection to Asakusa station of Tobu Line. This park opened waterfront to citizens as the
irst riverside-park in Japan. and was very unique in the history of the park design to Tokyo.
In 1931(Showa 6), the emperor in Showa visited the park on the opening day and citizens crowded
into the park carrying their 1unch parks like merry-making.

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つぶやきってみよう(店・工場関係)

        見番通り入口(桜橋東詰) 牛島神社周辺

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     む う や     コンセント 東京ミズマチ 
  





        見番通り入口(桜橋東詰) 牛島神社周辺



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モノを創る人と造る人を、そして使う人を、つないでゆく
デザインのプラットホーム。
雑貨類を中心に取扱うショップです。
住 所 : 向島1-2-5 東京ミズマチ W 02
Tel : 03-5637-8285   営業時間:11:00~19:00





         





         





         





                    





              





            






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9時から11時半の間にモーニングセットが頂けます。
住 所 / 向島1-2-12 (東京ミズマチ A-7 )
電 話 / 03-6240-4880
営業時間 / 午前9時~午後18時まで
定休日 / 不定休
 





         





         





         





            





             





                      





         





         






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世界中の旅人達と地域の賑わいを創出するコミュニティ型ホステル
向島1-23-3 東京ミズマチイーストゾーン(E01)
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創業111年、初代が明治三十年に創業しました。
あずきは京都丹波の大納言でつくっています。
住 所 / 向島1-5-5  電 話 / 03-3622-1214
時 間 / 9:00~19:00
定 休 日 / 月曜 





         





         





         

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(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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