スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート9・パソコン編
森 鷗 外 住 居 跡


墨田区内循環バス森鴎外住居跡バス停→森鴎外住居跡案内板、堀辰雄・佐多稲子ら多くの
著名人を輩出し榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額で知られている牛嶋学校跡案内板、
越後長岡藩抱屋敷跡案内板、すみだゆかりの地名小梅案内板、紅葉の名所として描かれている
歌川広重が描いた「請地秋葉の境内」の向島秋葉神社、お茶の魅力を伝える一軒家カフェikkA、
甘夏書店、「風立ちぬ」等の名作で知られる堀辰雄住居跡案内板・明治時代の小説家で
演劇評論家の饗庭篁村旧居跡案内板、常泉寺・鬼平情景(常泉寺)案内板等を掲載 
 
                        店・工場関係


        森 鴎 外 住 居 跡

 森鴎外住居跡   牛嶋学校跡案内板   越後長岡藩抱屋敷(かかえやしき) 

  すみだゆかりの地名小梅   向島秋 葉 神 社     一軒家カフェikkA

甘 夏 書 店   堀辰雄住居跡   饗庭篁村(あえばこうそん)旧居跡  

常 泉 寺
   鬼平情景・常泉寺   





        森 鴎 外 住 居 跡




        向島 秋 葉 神 社
昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大
明神がまつられていた。草創は正応2年(1289)と伝
えられ、歌川広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所
として描かれています。
住 所 / 向島4-9-13   電 話 / 03-3622-5502
 





            





         





         





             





                      





         





        

秋 葉 神 社 御 由 緒
祭神 火産霊命(千栄秋葉大権現)
宇迦御魂命(千代世稲荷大明神)

昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応2年(1289)と伝える。
江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え
去った。元禄の始め修験者葉栄が神感を得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田与右衛門
を通じ寺社奉行に願出で上州沼田城主本多正永の報賽にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を
造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の
信仰を受け、享保2年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行
により、秋葉神社と稱し別当満願寺を廃した。大正12年の震災に社殿倒壊し、昭和5年復興したが、昭和20年
戦災にかかり昭和41年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した
※ 主な行事
歳旦祭 1月1日  祈念祭 3月3日 例祭 9月中旬 
鎮火大祭11月17日・11月18日  新嘗祭 11月23日 縁日 毎月3日18日
                               社 務 所
               昭和61年10月18日立
 


           







〈墨田区登録文化財〉
石 燈 籠

所在 墨田区向島4丁目9番13号 秋葉神社内

本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(1741)奉納した
ものです。吉里は将軍綱吉の寵臣柳沢吉保の子です。この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主
酒井雅楽頭忠拳が宝永6年(1709)奉献したもので、その手前にある一対の 石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥
が宝暦8年(1718)奉献しました。鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本田正永
が宝永元年(1704)奉献したものです。なお、この一対は〈墨田区登録文化財〉に登録されています。
当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれ、『江戸名所図絵』には「秋葉大権現社、
弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時游観の地なり」
とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。
平成五年三月
                           墨 田 区






名所江戸百景 請地秋葉の境内
著者→安藤広重
   
       
         
名所江戸百景 請地秋葉の境内
著者→安藤広重 出版者→魚栄
出版年月日→安政4
   
                                                  歌川広重ギャラリーヘ






江戸切絵図 ・隅田川向嶋絵図  
         
タイトル:絵本江戸土産 10編(請地 秋葉権現)
著者:松亭金水 解説[他]
出版者:菊屋三郎[ほか]
 






江戸名所図会  第4 著者:斎藤幸雄 [等著][他]  (国会図書館蔵)
中央には本社、その右手前に(さる)(茶主)(結界堂)
(開山堂)が描かれています。







江戸名所図会  第4 著者:斎藤幸雄 [等著][他]  (国会図書館蔵)
          
江戸の花名勝会 請地 番外
 尾上栄三郎/秋葉の紅葉

/秋葉【1】 






      森 鴎 外 住 居 跡
森鴎外の少年期の屋敷跡
文久2年(1862)に現在の島根県津和野町に生まれました。
日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍
軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)・
医学博士・文学博士・本名は森 林太郎(もり りんたろう)
住 所 / 向島3-37-25





         





         





         


森 鴎 外 住 居 跡
所在地 向島3丁目37番・38番
文久2年(1862)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治5年(1872)
10歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、
翌月からは屋敷近くの小梅村87番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族と共に
3年後には小梅村237番にあった300坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺の家の門
から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は萱松や梅、
楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では
「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治12ねんまで暮らしました。父の意志
で学業に専念する道をつけられた鷗外は、上京2か月後には西周宅に下宿して進文学社
でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。
明治9年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通り家には毎週帰り、時おり向島の
依田学海邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鷗外の代表作『渋江抽斎』には
「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺
の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治10年代に原稿用紙に用
いたという「牽舟居士」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟川通り)にちなむ
ものでした。鷗外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出
深い地として記憶にとどめられていたようです。
                     平成26年2月
                           墨田区教育委員会

The Site of the Former Residence of Mori Ogai
Mori Ogai (born as Mori Rintaro) was one of modern japan's preeminent novelists who
also served as a medical officer in the Imperial japaneseArmy. Born un 1862 in the town
currently known as Tsuwano in Shimane Prefecture. Ogai accompanied his father Shizuo
to Tokyo when he was 10years old. Up until relocating to Senju in 1879 . the Mori Family
resided here, when it was still called Koume-Mura. After changing residences twice in
Koume-Mura.they finally purchased and settled in a thatched -roof house with a spacious
garden. his garden. said to have been the ocject of sketchesby Ogai. was a highly sentimental,
sophisticated construction containing the likes of well-trained pine trees, japanese apricots,
and maple trees. Thisresidence in Mukojima was called “the house on Hikifune-dori” by
the Mori Family. In accordance with the will of his father, Ogai was placed on a path of
academic learning. Two months after coming to Tokyo.he boarded at the home of renowned
philosopher Nishi Amame to receive tutoring in German in a“Shinbungakusha”, and
 subsequently enrolled in what is now the Faculty of Medicien at the Univesity of Tokyo.
Through he went on to live a boarding student life in this fashion, he would return to “the
house onHikifune-Dori” every week, and would occasionally undergo instruction in the
Chinese classics at the home of Sinology scholar Yoda Gakkai in Mukojima. In one of his
leading works “Shibue Chusai,” Ogai left detailed passages egarding the people and world that
surrounder him, writing, “when I was little, I Ilived in Mukojima's Koume-Mura .” Of additional
note is that the penname “Hikifune Koji”that Ogai used during the second decade of the
Meiji Period comes from “Hikifunegawa (now Hikifunegawa-dori), the river that flowed
close to his home. While the time in his life that hespent around Mukojima's Koume-
Mura was hort, one can see just how deeply that place resonated in his memory.
 





           
明治5年上京した頃の鷗外(写真中央

森 鷗 外 旧 居 跡
森鴎外「文久2(1862)年~大正11(1922)年]
本名、森 林太郎
陸軍軍医、小説家、評論家、翻訳家。代表作に『舞姫』、『阿部一族』、高瀬舟』など。
森家は津和野藩主亀井家の御典医を務めていました。明治5(1872)年、鴎外は亀井家に請われた
父に従い上京、向島の同家屋敷に入った後、すぐ小梅村に転居します。同年8月には、勉学の
ため神田にあった親戚筋の西周邸に寓し、明治7(1874)年に東京医学学校予科に入学、同9(1876)
年に同校の寄宿舎に移りました。向島での生活は短いものでしたが、深い愛着があったようで、
「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた。」(『渋江抽斎』)と幼時の記憶を綴っており、
美子は、ペンネームを森鴎外の他にも「牽舟居士」を使用していたと述懐しています。道を
挟んだ向かいの本所高校前には「森鴎外住居跡」史跡説明文が設置されています。





        越後長岡藩抱屋敷(かかえやしき)
森鴎外住居跡のちかくにあります。
越後長岡藩は元和4(1618)年、牧野忠成が立藩、
以来13代続いた譜代大名で、その抱屋敷が
小梅村(本所高校西側一帯)にあり、敷地は
6,670坪という広大なものでした。

住 所 / 向島3丁目 





         





 
隅田川向嶋絵図(安政3年尾張屋板)
上の牧野家抱屋敷(赤枠表示)
 
       
現代図上の抱屋敷跡 

【越後長岡藩】
元和4(1618)年、牧野忠成が立藩、以来13代続いた譜代大名です。石高は7.4万石ですが、
常に幕閣の中核を担い、幕末には9代忠精(ただきよ)、10代忠雅、11代忠恭(ただゆき)が
続けて老中を務めました。その抱屋敷が小梅村(本所高校西側一帯)にあり、敷地は6,670坪
という広大なものでした。しかし、戊申(北越)戦争では忠恭に仕えた家老・河井継之助の
奮闘空しく敗れ2.4万石に減封、廃藩置県の前年、明治3(1870)年藩が廃藩されました。

【抱 屋 敷】
江戸時代、全国300諸侯は参勤のため幕府より使途に応じた屋敷を拝領していました。
藩主の住む上屋敷、隠居・世継用の中屋敷、物資の保管や保養先の下屋敷などです。
これらに対し抱屋敷は藩自らが農地などを購入して設けたもので、大半は郊外にあり、
個人の調度品などを保管したり、時には下屋敷としての用途にも充てられていました。






         すみだゆかりの地名 小 梅
江戸時代、このあたりから北十間川にいたる一帯は
小梅村と呼ばれていました。三囲神社の縁起による
と、弘法大師が投じた一粒の梅がこの付近に落ち、
梅香村と呼ばれるようなったというのが巷間に伝わ
る名の由来です。
住 所 / 向島3丁
 





         







【名 の 由 来】
江戸時代、このあたりから北十間川にいたる一帯は小梅村と呼ばれていました。三囲神社の
縁起によると、弘法大師が投じた一粒の梅がこの付近に落ち、梅香村と呼ばれるようなったと
いうのが巷間に伝わる名の由来です。江戸時代後期に鍬形蕙斎が描いた「江戸名所之絵」には
「コムメ」とあり「こんめ」と呼んでいたことがわかります。

【村 の 様 子】
三井家(越後屋)が江戸進出時にその名にあやかって守護神とした三囲神社、天英院(徳川
6代将軍家宣正室)が帰依した常泉寺、水戸徳川家の下屋敷の他、桜の名所の墨堤も近くにあり、
浮世絵にも描かれた有名料亭も周辺に数多くありました。
文人墨客たちが集い、俳人の小林一茶は「水鳥の住こなしたり小梅筋」 「鍬のえに鶯鳴くや
小梅村」と詠み、浮世絵師の歌川広重は「名所江戸百景」や「江戸高名会亭尽」で、当時の情景を
巧みに描いています。






江本江戸土産 小梅の堤
             
江戸の花名勝絵 十四 北組
 沢村訥升/
小梅の朝の雨/小梅【2】





 
〔江戸高名会亭尽〕 本所小梅
出版者 / 藤彦
収載資料名 / 広重画帖
           
名所江戸百景 小梅堤 
著者 / 広重  出版者 / 魚栄
出版年月日 / 安政4
収載資料名 / 名所江戸百景





         






    牛 嶋 学 校 跡 案 内 板
明治五年 (1872) 学制が発布され、近代的教育制度が始
まったわずか六カ月後に
設立され公立小学校です。20年
(1945) 3月10日の大空襲によって全焼しました。戦後廃校
が決まり、同21年 (1946) 、73年間の歴史を閉じました
が、この間に堀辰雄・佐多稲子ら多くの著名人を輩出し
ました。また榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額
(墨田区登録文化財)が戦災をまぬかれ、現在、すみだ
郷土文化資料館に保存されています

住 所 / 向島3-30-30(本所高等学校内)





         





        

牛 嶋 学 校 跡
   所 在 墨田区向島三丁目三0番二0号
          (都立本所高等学校内)

明治五年 (一八七二) 学制が発布され、近代的教育制度が始まったわずか六カ月後の
同六年 (一八七三) 三月二二日、須崎村 (現在の向島二丁目) に公立小学校が設立されました。
それが牛嶋学校です。明治十四年 (一八八一) 九月に現在地に移転しました。牛嶋学校は、
周辺の人々の教育に対する関心の高さから、公立小学校としては本区で最も早く設立
されました。当時、牛嶋学校への寄付者は、須崎村にとどまらず、中ノ郷・小梅村など、
現在の向島全域にも及びました。昭和十六年 (一九四一) 、牛島国民学校となりました
が同二〇年 (一九四五) 三月一〇日の大空襲によって全焼しました。戦後廃校が決まり
同二一年 (一九四六) 、七三年間の歴史を閉じましたが、この間に堀辰雄・佐多稲子ら
多くの著名人を輩出しました。また榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額 (墨田区登録文化財)
が戦災をまぬかれ、現在、すみだ郷土文化資料館に保存されています。そして、昭和
二一年四月、廃校となった牛島国民学校跡に東京都立本所高等女学校が転入開校し、
二三年四月に新制本所高等学校となりました。
平成一二年三月
                墨田区教育委員会






     一軒家カフェ i k k A (い っ か)
お茶の魅力を伝えたくてギャラリーを併設したティーハウス
を開店。紅茶、中国茶、ハーブティー、薬膳茶、フルーツ酢
等50種以上のお茶や自家製ドリンクがあります。
二階には古本屋さん、キャンドルショップがあります。
住 所 / 向島3-6-5   電 話:03-5637-8773
営業時間 / 12:00~18:00  定 休 日 / 水曜日





             





               





         





            





         






     甘 夏 書 店
住 所 / 向島3-6-5 一軒家カフェikkA2階
営業時間 / 12:00~  定 休 日 / 火・水曜日





         





         





            





         





         





        堀 辰 雄 住 居 跡
堀辰雄は明治37年 ( 1904 ) 、麹町平河町(現在の千代田区
平河町) に生まれました。明治43年の大水で新小梅町2ノ4
(現在の向島一1目16番)に移るまで、この地で過ごしまし
た。牛嶋尋常小学校を経て、府立第3中学校 (現在の都立両
国高校) を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、
同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。

住 所 /  向島3-36 





         





        
堀辰雄(右)と上條松吉(左)大正四年撮影
写真の台紙には『浅草公園鴨下』の印刷 
(鴨下写真館は、現在も台東区浅草にて営業)
堀辰雄文学記念館所蔵

堀 辰 雄 住 居 跡
所在地 墨田区向島三丁目三十六番

 堀辰雄は明治三十七年 ( 1904 ) 、麹町平河町(現在の千代田区平河町) に生まれました。
二歳のとき、母に連れられ向島小梅町 (現在の向島三丁目) に住む叔母の家に移りました。
明治四十一年には母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷三十二番地 (現在のすみだ福祉
保健センター所在地) で暮らしはじめます。新居は 「曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、
新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと
感じさせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果の
木や日あたりのいい縁側などがあったと 『幼年時代』に記しています。明治四十三年の大水
で新小梅町二ノ四 (現在の向島一丁目十六番)に移るまで、この地で過ごしました。牛嶋尋常
小学校を経て、府立第三中学校 (現在の都立両国高校) を卒業した辰雄は、後に室生犀星の
紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。関東大震災で
九死に一生を得ますが母を亡くしました。大正十三年 (1924) 四月に父松吉が隅田公園裏
の新小梅町八番地 (現在の向島一丁目七番 )に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く
昭和十三年 (一九三八)まで父と共にそこで暮らしていました。辰雄は松吉を慕い、同年十二
月に松吉が亡くなるまで、彼を実父と信じていたようです。人生の過半を向島で過ごした
辰雄は、「暮畔の家」 や 『幼年時代』 などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を
記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた 『聖家族』をはじめ、
『風立ちぬ』『美しい村』 など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。
  平成二十三年二月
        墨 田 区 教 育 委 員 会






       饗 庭 篁 村(あえばこうそん)旧居跡
明治時代の小説家で演劇評論家・江戸文学の継承者。
安政2(1855)年、下谷龍泉寺町に生まれた篁村は、19歳
になった時に、読売新聞を発行していた日就社に校正
担当として入社。2年後に読売新聞の記者となって活躍
する。31歳の時、読売新聞に『当世商人気質』を連載
して大好評を博し、篁村の名を不動のものにした。
住 所 / 向島3-11 





         





                







A famous novelist and theater critic of the Meiji period
Residence of Aeba Koson
饗 庭 篁 村 旧 居 跡


安政2(1855)年、下谷龍泉寺町に生まれた篁村は、「安政の大地震」で母を失う。父は無事だったが、
乳飲み子を育てるのは難しい、それを助けたのが、近くに住む「竹村氏」で、その恩を忘れないため、
後に「篁村」「竹の屋」の号を用いることにしたという。11歳で日本橋の質屋に奉公に出たが、主人に
可愛がられ、観劇のお供や貸本読み放題の高待遇を受けたため、劇、俳諧、花柳界などに関する知識を
身につけた。19歳になった篁村は、読売新聞を発行していた日就社に校正担当として入社。2年後に読売
新聞の記者となって活躍する。31歳の時、読売新聞に『当世商人気質』を連載して大好評を博し、篁村
の名を不動のものにした。その後、東京朝日新聞社に移ってからも、劇評や小説を執筆。特に演劇
批評は、「竹の屋劇評」として評判が高かった。向島小梅町や寺島の地に居住し、依田學海といっしょ
に酒を飲み明かしたエピソードなどを東京朝日新聞に連載した『隅田の春』に書いている。


 
◆明治43年に大洪水に見舞
われた向島小梅町付近
     
直筆の葉書


 
     
竹屋の渡し(明治30年頃)  



     本名:饗庭興三郎
安政2(1855)年8月15日~大正11(1922)年6月20日・
明治時代の小説家で演劇評論家。新聞社の編集
記者として、劇評や小説を執筆した。特に劇評
は、竹の屋劇評として評判が高かった 

Aeba Koson(1855~1922) is best known for his novel Tose Akiudo Katagi
which he wrote serially in the Yomiuri Shimbun newspaper at the age of 31.
He later moved to the Tokyo Asahi Shimbun newspaper, and continued
to publish his own novels. He was also a renowned theater critic,writing
under another pen name of Takenoya.






     
   
 鬼 平 犯 科 帳
    常 泉 寺
鬼平犯科帳の番外編とされる「にっぽん怪盗伝」
収録の「正月四日の客」には、御用聞きの清蔵が
常泉寺に寺男になりすましていた前砂の甚七を
捕縛したと寺名が登場します。

住 所 / 向島3丁目1





         





         

鬼 平 情 景
常  泉  寺

慶長元(一五九六)年の開基で、徳川六代将軍家宣(在職一七〇九~十二)の御台所・
天英院が帰依してから繁栄しました。寛永七(一六三0)年の記録には、寺地は
三千四百坪とあり、この辺り一帯は寺域内でした。現在は区画整理で寺地も大幅に
狭まり、西側は高札から一本道を隔てたところまで退いており、当地は寺域外と
なっています。鬼平犯科帳の番外編とされる「にっぽん怪盗伝」収録の「正月四日の客」
には、御用聞きの清蔵が常泉寺に寺男になりすましていた前砂の甚七を捕縛したと寺名が
登場します。その帰りに清蔵が〔さなだや〕の亭主・庄兵衛を訪ねます。
話がその親分の大泥棒・亀の小五郎の彫ものに及び、押し込みに両親を撲殺された
幼時のおぞましい記憶が蘇って一気に話は進みます。
               墨田区






       常 泉 寺
慶長元(1596)年に牛島村の草創者の一人である
高橋新右衛門が開基、弟の仙樹院日貞贈上人が
開山した日蓮正宗の寺院。江戸中期に六代将軍
家宣公(在職1709~12)の御台所・天英院殿が
帰依し、寺料30石が給されるようになり繁栄。
住 所 / 向島3丁目12





         







常 泉 寺
慶長元(1596)年に牛島村の草創者の一人である高橋新右衛門が開基、弟の仙樹院日貞贈上人が
開山した日蓮正宗の寺院。江戸中期に六代将軍家宣公(在職1709~12)の御台所・天英院殿が帰依し、
寺料30石が給されるようになり繁栄。この時期に大伽藍を築き、境内には本行坊、本種坊、本住坊の
三つの塔頭があった。寛永6(1853)年には、島津斉彬公が十三代将軍家定公(在職1853~58)の御台所と
なる養女、篤姫の輿入れ成就を祈願している。当時、隣地は水戸藩下屋敷で幕府からは葵御紋の使用
を許され、高い格式を誇っていた。篤姫は輿入れ直前に天英院殿の生家で境内に墓所もあった近衛家と
養子縁組しており、これが縁で落飾して天璋院殿となった後も篤い信仰を寄せている。昭和3(1928)年、
言問橋の完成に伴い、言問通りが境内の中央を横切ることになり、国は代替地を提案してきたが、
古刹としての歴史を重視し、寺域を縮小して現在地にとどまった。境内には江戸の儒学者で医者の
朝川善庵の墓やドイツなど海外で研究を重ね、日本で初の薬学博士となった尾張犬山藩士、
下山順一郎の記念碑などがある。


This Nichiren Shoshu Buddhist temple was established in 1596 by Takahashi
Shinemon.one of the founders of Ushijima village.The first head priest was his
brother Senjuin-Nichi/e-Zoshonin.The temple had many devotees among the
Tokugawa Shogunate. including Teneiin.the wife of the 6th Shogun lenobu.and
Atsuhime. The wife of the 13th Shogun lesada.


               

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    つぶやきいってみよう(店・工場関係)

        森 鴎 外 住 居 跡

 向島 大 和 田    石窯パン工房KAMEYA(向島店)   バナナ ファクトリー

 (株) 美松製菓(バームクーヘン)  レストラン ア ラ ン ド(aland)  貯 水 葉 





        森 鴎 外 住 居 跡



       
割烹 うなぎ蒲焼
向 島 大 和 田

割烹うなぎのかば焼き、創業大正13年(1924年)から
3代に亘り受け継がれたタレが自慢だそうです。
住 / 向島4-10-21   定 休 日 / 水
電 話 / 03-3622-1844  営業時間 / 11:30~14:00
                16:30~21:00  





         





         






     
石窯パン工房KAMEYA(向島店)

住 所 / 向島3丁目39番8号 定 休 日 / 月曜・火曜日
電 話 / 03-3625-2201  営業時間 / 6:30~19:00  
 





今のお店の反対側に準備中です!

            





         





         





         





         






     

バナナ ファクトリー
バナナ製品専門店です。
住 所 / 向島3-34-17  定 休 日 / 火・水曜日
電 話 / 03-6240-4163  営業時間 / 10:00~19:00
 





         






         ア ラ ン ド(aland)
焼き方を注文できます。
rare(外側は焼けているが中はまだ生の状態)
medium(ミディアムは中程度に火が通り,
中央に生の部分が残っている状態)
well-done(よく焼けて中まで火の通っている状態)
住 所 / 向島3-41-11  電 話 / 03-3829-6200
定 休 日 / 水 曜





         






      (株) 美 松 製 菓
バームクーヘン専門店
毎週木曜日に一袋130円の久助ちゃんの
バームクーヘンが人気です。
営業時間 / 平日 9:00~17:00 土曜日 / 10:00~16:00
住 所 / 向島3-43-10
定 休 日 / 日曜・祝祭日夏季休暇・年末年始
 





         






     貯  水 葉  (シダだらけの魯肉飯屋)

肉飯(ルーローハン)きざんだ豚バラ肉をお醤油や
スパイスでじっくり甘辛く煮込み、 ホカホカのごはんに
かけた丼ぶり飯。
住 所 / 向島4丁目5−7 金子ビル
営業時間 / 12:00~18:00  定 休 日 / 水 木





         





         





            

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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