スカイ姫のつぶやき19 つぶやき街角南部ルート3 (両国駅西口 (回向院入口) ) https://sky-princess.com/south3.html



                                      to top page  つぶやきいってみようへ
両 国 駅 西 口     〇葛飾北斎、両国納涼一の橋弁天    〇斎藤緑雨居住の地    〇芥川龍之介成育の地

榛(はんのき) 稲荷神社( 榛馬場跡)   〇表忠碑   〇江戸の町小泉町跡   〇大高源吾の碑

回 向 院   〇両 国 橋    〇両国橋錦絵集    〇両国花火資料館  〇
回向院正門跡

本所松坂町跡石碑   春日野部屋(出羽海一門)    〇旧国技館跡   

立札6枚両国物語江戸の町・ 忠臣蔵    〇陸奥部屋(時津風一門)





        両 国 駅 西 口



         
葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida
River: Ryogoku Noryo Ichinohashi Benten
(The Cool of the Ryogoku Evening at
Ichi-no-Hashi Benten)
両国納涼一の橋弁天
━絵本隅田川両岸一覧━




     




    


両 国 納 涼 一 の 橋 弁 天 ━絵本隅田川両岸一覧━
狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれて
います。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかり
ます。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、
今の堅川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の
三角の建物は幕府の御船蔵です。

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, panoramic Views on Both
Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people enjoying the evening coolness on
Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the Ryogoku Main Street, a prominent amusement area
during the Edo Era, and makeshift theaters and tea houses, etc... can be seen side by side. The main feature of
this print is probably its size, which is wider thanit is high as is typical with picture books. The small bridge
that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the present-day Tatekawa
River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area aroud the forest is 1chinohashi Benten,which is
currently the Ejima Sugiyama Shirne. The triangular building on the right is the Shogun's boathouse.






      
陸 奥 部 屋(時津風一門)
両国国技館にもっとも近い相撲部屋です。
  住 所 : 両国1丁目-18-7
電 話:03-3633-7258 





         





         





 

陸 奥 部 屋 (時津風一門)

師匠は九代・陸奥一博(元大関・霧島)。幕内最高優勝一回、殊勲賞三回、敢闘賞一回、

技能賞四回の成績を残し、平成八年(一九九六)三月場所限りで引退した井筒部屋所属の

大関・霧島が、年寄・錣山(後に勝ノ浦に名跡変更)を襲名し、部屋付き親方として後進の

指導にあたっていました。平成九年(一九九七)十二月、相撲協会を 退職する八代・陸奥
(元前頭・星岩涛)から名跡を継承、また、平成十二年(二〇〇〇) 九月には立田川親方
(関脇・青の里)の定年退職に伴い、立田川部屋を吸収合併しました。

現在の陸奥部屋の創設者は、七代陸奥(井筒部屋所属、前頭・星甲)で、昭和三十九年(

九六四)五月に引退、年寄・君ヶ濱を襲名、井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあ

たった後、昭和四十七年(一九七二)四月、陸奥より井筒に名跡変更、部屋を継承しまし

た。昭和四十九年(一九七四)四月、今度は、井筒より陸奥に名跡変更するという経緯をた

どっています。

                 墨田区







      
斎藤緑雨居住の地
森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」
では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り
出しました。
住 所 / 両国2-19 





         





       

斎 藤 緑 雨(さいとうりょくう)居住の地
  墨田区両国二丁目十九番
 明治時代の作家斎藤緑雨は慶応三年 (一八六七) に伊勢国神戸(かんべ) (三重県鈴鹿市) に父斎藤利光、
母のぶの長男(本名は賢(まさる))として生まれました。明治九年 (一八七六) 一家で上京し、深川、本所
千歳町に居住の後、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師となったことから、本所緑町 (現緑二丁目) の藤堂家
邸内に移り住みました。上京後の緑雨は、土屋小学校 (現千歳に旧在) や江東小学校 (両国小学校の前身)
などで学びました。緑雨は「日記帳」の中で「読書と数学はいつも高点」、「習字と画学は、いつも落第
点にちかかり」と回想しています。十二、三歳頃から上田萬年らと回覧雑誌を始め、十四歳頃からは詩文
を新聞に投稿するようになりました。明治十七年、十七歳の時には父とともに俳句を師事した其角堂永機
の紹介で仮名垣魯文(かながきろぶん)の門に入り、その縁で「今日(こんにち)新聞」の校正や記事収集の手伝
いを始めました。この頃、社主に伴われて出かけた柳橋や新橋での見聞が江戸通人趣味につながったといわ
れています。翌年には坪内逍遥(つぼうちしょうよう)との親交が始まり、居住地の緑町にちなんだ緑雨の
ペンネームを使用するようになります。処女作は江東みどりのペンネームで明治十九年に発表した
「善悪押絵羽子板」で、五年後には柳橋を舞台とした「油地獄」と「かくれんぼ」で小説家としての地位
を確立しました。また、文芸批評でも旺盛な執筆活動を展開し、森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」
では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り出しました。晩年には「眼前口頭」などの新聞連載で緑雨特有の
アフォリズム(警句)を表現しました。居住地を転々とした緑雨は、病気がちとなり明治三十六年十月、
本所横網町一丁目十七番地(現横網一丁目・両国二丁目の一部)の金沢タケ方に寄寓することになりました。
緑雨はその家の奥の六畳で臥しがちだったようです。翌年、親友馬場狐蝶に樋口家から預かっていた一葉の
遺稿と日記を託し、四月十三日に三十七歳の生涯を閉じました。親友幸田露伴は緑雨の生涯に思いを馳せ、
「春暁院緑雨醒客」と戒名をつけました。
平成二十七年三月
                               墨田区教育委員会


Residence of Saito Ryokuu
Saito Ryokuu (1867-1904) was an author who lived during the Meiji period.After moving to Tokyo with
in 1876 and living in Fukagawa and Honjo,he resided on the precincts of the Todo family’s property
Midoricho (now Midori 2-chome), as his father had become the court physician of the Todo family.
His first book was “Futaomote-Oshiehagoita,”published in 1886, and his masterpieces are “Aburajigoku”
and “Kakurenbo” the stories of which were set in Yanagibashi. He actively gave literary criticism as well ,
and the joint review column “Sanninjogo,”which he produced together with Mori Ogai and Koda Rohan,
helped give Higuchi Ichiyo’ s “Takekurabe”to the public. In his later years, his characteristic aphorisms
were seen in “Ganzenkoto”, serial artcles in newspaper. He moved to 1-17 Honjo Yokokawacho in
October 1904 and atayed there for about half a year until he ended his short life at
the age of 37, April 13 the following year.






       


芥 川 龍 之 介 成 育 の 地
京葉道路に面して2ヵ所案内板が
立っています。
住 所 / 両国3-21-4 





         





       


芥川龍之介成育の地
 所在地  両国三丁目二十二番十一号
大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地にあった母の実家芥川道章の家で、一歳に満たない頃から
十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。三歳の頃、自宅が改築された様子や、新しい家の庭に榧(かや)
や木斛(もっこく)、五葉の松などが植えられていたことを記憶し、特に蝋梅(ろうばい)を愛したと述べて
います(「追憶」)。龍之介はこの家で、幼い頃から読書や文字の練習、昔話を聞くなどの教育を受け、
大切に育てられました。近くの回向院の敷地には、龍之介が通った幼稚園と小学校(現在の両国小学校)
があり、境内で遊んだことも「本所両国」や「追憶」から知ることができます。小学校では友人たちと
回覧雑誌を編集し、龍之介は数多くの文章を執筆、挿絵なども描きました 。また、小学校最後の夏休みの
日記には、「今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀にちかい)ふりまわしながら大川端を散歩
しました。緑の糸をたるヽ柳やまっくろな木立や活々した川の流れや蟹(かに)の甲らをならべたよーな石崖
(いしがき)などがのどかな朝日に照らされて一齊(せい)によろこびの聲(こえ)を上げて之(これ)をむかえるよ
ーにかゞやき渡っています。」(原文通り)と自然の残る隅田川の美しい情景を記しました。また、隅田川での
水泳に夢中になっていたことも多く書いており、普通の少年らしい一面もうかがえます。作家芥川龍之介の
原点は、ここ両国の地で刻まれていたのです。
平成二十六年七月
                 墨田区教育委員会

Akutagawa Ryunosuke is one of the best writers in the Taisyo Period. He was in March 1892 in Tsukiji.
Ryunosuke lived here in Ryogoku with his mother’s family, from not yet one year old to the age of 
eighteen, When he Moved to Shinjuku, The premises of Ekoin Temple,  which were ocated near the
Akutagawa’s house, were quite large, at the time, and housed the kindergarten and elementary school
which Ryunosuke attended. When he was an elementary school student, he enjoyed editing the kairan
zasshi (magazines children circulated amongst themselves). Ryunosuke himself wrote many stories and
drew illustrations for the magazines. Ryunosuke also wrote in his summer vacation diary that hewas
absorbed in swimming in the Sumidagawa River, showing a more childlike side. We can read his
remembrances in Ryogoku through such as “Honjyo Ryogoku ”and “Tsuioku (reiminiscences)”
The orizin of Akutagawa Ryunosuke were kept here in Ryogoku.





         





          


芥川龍之介成育の地 両国三丁目二十一番四号
芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地(中央区明石町)に牛乳
搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたので
龍之介と命名されたといわれます。生後七か月で、当時本所区小泉町十五番地(両国三丁目)に住んでいた
ふくの長兄、芥川道草に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。芥川家は江戸時代からの
旧家で、道草は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、教養伎を見物する
など、江戸趣味の濃い家庭でした。明治四十三年(一九一○)十九歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈
は、龍之介の精神的風土を形成しま大学在学中、同人雑誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞
され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を
残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、
評論、随筆にも優れました。昭和二年(一九二七)に三十五歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」
「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学
「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建
てられています。

芥川龍之介賞
通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えられる文学賞。
昭和一○年(一九三五)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展を
ねらい創設されました。






       


(はんのき) 稲 荷 神 社( 榛馬場跡)
葛飾北斎が娘のお栄と稲荷神社脇に
住んでいたことがあったそうです。
住 所 / 両国4-34-11 





         





       

葛 飾 北 斎 住 居 跡
(かつしかほくさいじゅうきょあと)
所在地  墨田区両国四丁目三十四番付近
この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約百八十五m、
南北約二十二mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛(はんのき)があったので「榛馬場」と呼ばれ
ました。馬場に祀(まつ)られていたのが「榛稲荷神社」です。本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾
北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は九十歳で没するまで常に新しい
技法を試み、「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、
数多くの作品を生み出しました。榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」
(露木為一(つゆきいいつ)筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄(おえい)が描かれています。阿栄も優れた
絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心(いいじまきょしん)は「蜜柑(みかん)箱を少しく高く釘づけになして、
中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍(かたわら)には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓(すし)の竹の皮な
ど、取ちらし、物置と掃溜(はきだめ)と、一様なるが如(ごと)し」(葛飾北斎伝)と記しています。北斎がこの地に
暮らしたのは天保末年頃(一八四十年頃)で、八十歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留
めないような暮らしぶりが見てとれます。北斎は生涯で九十回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所
のすべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画
資料も伴うものとして貴重な例です。また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟(かつかいしゅう)もこの近くで生
まれ育ちました。海舟の父、勝小吉(こきち)の自伝『夢酔独言(むすいどくげん)』の中にも、榛稲荷神社について
の思い出が記されています。
昭和二十一年三月
墨田区教育委員会墨田区教育委員会

Site Associated with Katsushika Hokusai
Katsushika Hokusai (1760-1849) is a famous Edo period ukiyo-e artist. He is particularly
wel known for his series of prints. The Thirty-six Vieus of Mount Fuji. Hokusai’ s Daughter, Pictured here
with her aged father,Was also a talented artist. The reproduction drawing entitled “Hokusai’s Temporary
House” Was made by Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s disciples, and he wrote that the house was near by the
Hannoki Inari Shrine. It is said that Hokusai moved more thanninety times among his life. While the locations
of most of his homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this are was made
by Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s disciples, and he wrote that the house was near by the Hannoki Inari Shrine.
It is said that Hokusai moved more than ninety times among his life. While the locations of most of his
homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this areKats Kaishu (1823-1899)
was a late Edo and Meiji period statesman. He was also born and raised in this neighbornhood.
Bord of Education, Sumida City





          

江 戸 の 町
Site of former Han-noki Riding ground
(はんのき) 馬 場 跡
この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、
周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。勝海舟
の父子吉の著書『夢酔独言』の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の
傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。天保八年(一八三七)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗
の奉仕立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。葛飾北斎も娘の阿栄といっしょに稲荷神社脇
に住んでいたことがあります。
奉紙立=正式の食事の時、膳の盛物の周囲に紙をさまざまな形に折って立てる器






      

江 戸 の 町
小 泉 町 跡

昭和六年に横網町、元町、松坂町と合併して「東両国」
と名を変えるまでこの辺りは、小泉町と呼ばれていました。
住 所 / 両国2丁目11番  





           





        


江 戸 の 町
Site of Koizumi-cho
小 泉 町 跡
昭和六年に横網町、元町、松坂町と合併して「東両国」と名を変えるまでこの辺りは、小泉町と呼ばれて
いました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図には当時、両国橋際にあった藤堂和泉守下屋敷の東隣、横網町の
南隣に「小泉丁」とあります。寛文五年(一六六五)、御材木蔵手代の大縄地(おおなわち=組単位で下級武士
に与えられた屋敷地)となりましたが、元禄九年(一六九六)に町屋の許しが出て、町名は小泉という者が草創者
のため、小泉町と呼ばれるようになりました。






       
両  国  橋
両国橋は江戸時代に 隅田川で千住大橋に続いて
2番目に架けられた橋。明暦の大火後の万治
2年(1659)の架橋といわれる。江戸時代から
川開きの花火の名所。(平成20年)3月28日、
言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物
に選定されました。





         





           


両 国 橋
両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ“大橋”
であった。しかし新大橋も造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事
(1657年)では、橋がなくて逃げられず、多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。
回向院はその人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。この橋
が架かったため、本所、深川がえどの新市街として発展ることとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場所
としても、開心だ。幕末からは、川開きの花火もあって。江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は。昭和7年
(1932年)に完成した。
               昭和59年3月
                       東 京 都






    
大 高 源 吾 の 碑

赤穂浪士のひとりであり、
其角の弟子と伝える子葉
こと大 高 源 吾の
「日の恩やたちまち
くだく厚氷」の碑。
昭和3年(1928)11月10日建立
 
        
 表 忠 碑
大 山 巌元帥の高さ4.5mの
表忠碑は日露戦争での戦没者
慰霊碑で、明治40年(1907)
1月1日に本所区徴兵慰労義会
によって建立されている。
所在地 / 墨田区両国1-11-2 
両国橋児童遊園内







     


両 国 橋 と 百 本 杭
所在地 墨田区両国1丁目~横網1丁目
 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川放水路が完成する
まで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその
勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流から
の流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和ら
げ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の
風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両
国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川
は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」と
いう言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知ら
れた場所だったのです。また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿い
に細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、
「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ
百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人
の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島
に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始め
られた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
                    平成23年(2011)3月 墨田区教育委員






       
立 札 6 枚
➀両国物語:片 葉 の 葦
江戸の町:②駒留橋跡・③藤代町跡


④江戸の町:旧両国橋・広小路跡
⑤忠臣蔵 赤穂浪士休息の地
⑥江戸の町:石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)





         





          

両 国 物 語
Kataba-no-Ashi
片 葉 の 葦

駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、片葉の葦と
呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと考えられますが、当時
はそれが、本所七不思議の一つとされていました。その由来は・・昔、本所横網町に住んでいた
留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、
あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。を立てた留蔵は、お駒を殺害し、
片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になった
というものです。当時、葦は吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。





         

江 戸 の 町
Site of Komadomebashi Bridge
駒 留 橋 跡
駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半(約四.五メートル)、
幅三間(約五.四メートル)の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路を結んでいました。その堀の幅は
もっと広いところが四間(約七.二メートル)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。本所七
不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、
夜になると寂しい場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑
としていたと伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)
のまえに夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです
 





         

江 戸 の 町
Site-of-Fujishiro-cho
藤 代 町 跡

かつてこの辺りにあった町名です。その由来は・・・・・享保年間(一七一六~三五)、紀伊生まれで
麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費
で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げ
られ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれて
います。回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で本所の入口
にふさわしい繁華街でした。
 





         





         

 江 戸 の 町
Site of former Ryogokubashi Bridge and Hirokoji Street
旧両国橋・広小路跡  22

旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年
(一六五九)十二月。明暦三年(一六五七)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から
架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。橋の上は、四方が眺望できる
絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かった
ことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました西側
(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう
両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。寛保二年
(一七四二)の調査では一日に二万人以上が往来したとされています
。 





         

 忠 臣 蔵
A stop-off point of Lord Asano’s 47 faithful retainers
赤穂浪士休息の地  23

元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である
浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」
と呼ばれるようになりました。赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした
場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たち
を迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城
路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。 





          

江 戸 の 町
Site of Sekisonkoriba
石 尊 垢 離 場 跡(せきそんこりばあと)  24

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益
があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました
出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が
敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ六根罪障、おしめにはったい、
金剛童子・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流した
のです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。






両 国 橋 錦 絵 集


名所江戸百景 
両国橋大川ばた
絵師:初代歌川広重  
            
東都三十六景 両国橋
絵師:二代歌川広重   
          
浮絵両国夜景ノ図
絵師:五渡亭国貞  






江戸両国すずみの図    絵師/初代歌川豊国






江戸高名会亭尽 両国柳橋
絵師:初代歌川広重   
          
 江戸高名会亭尽  両国柳ばし
絵師:初代歌川広重 






両国夕涼之図  絵師/ 哥川豊春  
          
東都名所八景 両国橋秋月  絵師:歌川芳虎    






東都両国の夕涼   絵師:歌川房種   
            
両国橋夕涼光景  絵師:国貞改二代豊国  





 
両国夕涼の光景
絵師:香蝶樓豊国
          
両国涼船遊ノ図
絵師:香蝶楼豊国 






両国にわか夕立
    絵師:香蝶楼豊国    
          
両国夕景一ツ目千金
  絵師:三代歌川豊国 
  






東都両国橋渡初寿之図
絵師:一幽斎重宣   
          
三都涼之図 東都両国ばし夏景色
 絵師:五雲亭貞秀   






      
両 国 花 火 資 料館
江戸の花火の歴史をはじめとした花火の資料館。
日本の花火の技術や歴史を模型やビデオ等で解説。
住 所 / 両国2-10-8 (住友不動産両国ビル1F) 
料金 / 無料  営業時間 / 12:00~16:00 
開館日 / 木、金、土、日  





         





         





         





         






両 国 夕 涼 ミ の 図
絵 師:香蝶楼豊国出版者:古勝 
 
          
東都名所  両国橋夕涼全図
絵師:一立斎広重出版者:蔦屋吉蔵 
 






  名所江戸百景 両 国 花 火
絵 師 : 広 重 出版者 : 魚 栄
刊 行年 : 安 政 5
 
        
江戸名勝図会 両 国 橋
絵 師:広 重
 
        
江戸自慢三十六興 両こく大花火
絵 師 : 広 重 , 豊 国
出版者:平のや 
 刊行年:元治1





 
 江都名所  両 国 橋 [ 納 涼 ]  絵 師:広 重
          
江戸八景  両 国 橋 の 夕 照
絵 師:渓斎英泉  出 版 者:山 本 
 






新撰江戸名所 両 国 納 涼 花 火 ノ 図
絵 師:一立斎広重
 
          
 両 国 橋 川 開 の 図  絵 師 : 絵 師 不 詳
 






東都両国の夕涼
絵 師:房種出版者:藤慶  刊行年:文久2
          
東都両国夕凉之図
絵 師:貞房 出版者:山城屋甚兵衛 
 






      


本 所 松 坂 町 跡 石 碑
昭和7年(1932年)に区画整理で由緒ある本所松坂町
の地名が消える事を惜しんで建てられました。
住 所 / 両 国3-19






         





               







       
     碑ヲ中心トスル一帯ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ然ルニ
大正大震災後ノ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日町名ヲ變更
ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ永ク後世ニ傳ハラ
ムコトヲ希ミ之ヲ勤ス
 昭和七年六月當町會建之 






葛飾北斎仮名手本忠臣蔵


北斎仮名手本忠臣蔵表紙 
          
仮名手本忠臣蔵1段目
 

 
 

 仮名手本忠臣蔵二段目 
 
仮名手本忠臣蔵三段目
   

 

仮名手本忠臣蔵四段目
 
仮名手本忠臣蔵五段目
 

 
 

仮名手本忠臣蔵六段目 
 
 仮名手本忠臣蔵七段目
 

 
 

仮名手本忠臣蔵八段目 
 
仮名手本忠臣蔵九段目 
   

 
 
 仮名手本忠臣蔵十段目 
   
仮名手本忠臣蔵十一段目 






      旧 国 技 館 跡
天保4年(1883)から回向院で相撲興行が始まった
ことから境内に明治42年(1909)に建設されました。
ドーム型屋根の洋風建築で開館当時は両国元町
常設館という名前でしたが、翌年から国技館
という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
住 所 / 両 国2-8-10





         





       

大 相 撲
Site of former Kokugikan Arena
旧 国 技 館 跡  16

旧国技館は、天保四年 (一八三三) から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年 (一九〇九) に、
その境内に建設されました。建設費は二十八万円 (現在の価値では七十五億円程度) です。ドーム型屋根の風建築
で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方
が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は
進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年 (一九八三) に解体され
ました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
                                 墨 田区





         








国技館 ( 大鉄傘(だいてつさん) ) 跡
                 所在地 墨田区両国二丁目八・九番

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を
始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年 (一八三三) から国技館に開催場所が
移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の
境内に明治四十二年 (一九〇九) に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘
とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。二本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野
金吾設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかしメモ
リアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を
経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、
日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八 (一九八三) に解体されました。そして同六十年
(一九八五) 、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、
「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、
中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
  平成二十年三月
                          墨田区教育委員会






       
住 所 / 両国2-8-10   電話 / 03-3634-7776
       





         





         





       


明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、
未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川
家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、菩提を永代にわたり弔うように
念仏堂が建立されました。有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという
理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な
天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる
生命が埋葬供養されています。





     

相 撲 関 係 石 碑 軍(力塚)
    所 在  墨田区両国二丁目八番 回向院
 
墨田区と相撲の関わりは、明和5年 (一七六八) 九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、
幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保四年 (一八三三) 一〇月からは、回向院境内の
掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が
衰えました。しかし、明治一七年 (一八八四) に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が
生まれました。そして、明治四二年 (一九〇九) に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲
が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。力塚は、昭和一一年に歴代
相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年 (一九一六) に
建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔(ほうかいばんれいとう)もこの中に移動しました。現在は、相撲
興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六にわたり刻まれ、
現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
 平成一一年三月
                     墨田区教育委員会






       
回 向 院 正 門 跡
回向院の伽藍は東京大空襲で焼失し,戦後、
再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通り
に移されました
住 所 / 両国2-8-10  





         







江 戸 の 町
Site of former main gate of Eko-in Temple
回 向 院 正 門 跡
回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建
され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての回向院正門は、
江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋
があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院
の社会的な存在意義を表したものといえます。両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画
「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。







回向院開帳参(挿絵)  絵師/松濤軒斎藤長秋
江戸名所図会 第4巻  著者:斎藤幸雄 [等著]
            
名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋
絵師:広重 出版者:魚栄 
 刊行年:安政4






江戸名所図会 7巻. [18] 国会図書館 著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
  出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836]







       

 春 日 野 部 屋 (出羽海一門)
師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)
住 所 / 墨田区両国1-7-11






         







相 撲 部 屋
Kasugano Stable
春 日 野 部 屋 (出羽海一門)
 師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)。
大正十四年(一九二五)五月、第二十七代横綱・栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋から分家独立し、創設
しました。昭和三十四年(一九五九)十月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役
のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和三十五年(一九六○)、現役、を引退するまでの間、二枚鑑札で
部屋経営にあたりました。また、九代・春日野は昭和四十九年(一九七四)から同六十三年(一九八八)まで日本相撲
協会理事長を務めました。平成二年(一九九〇)一月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方(第四十九
代横綱・栃ノ海)が部屋を継承、十代春日野晃将を襲名しました。平成十五年(二○○三)二月、十代・春日野の
定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に
至っています.

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つぶやきいってみよう
両国駅西口(回向院入口)バス停


両 国 駅 西 口     半生菓子 両国とし田    〇中田屋茶舗 支店     〇元禄二八そば 玉 屋  



        両 国 駅 西 口



        半生菓子 両国とし田

お店の中は春を感じます!この暖かさは
何処から来るのでしょう?
 住 所:両 国
4032-19
電 話:
03-3631-5928
営業時間 : 9:30~19:00
定休日 : 日曜日、祝日






         





         





         





         






         (株)中田屋茶舗 支店

安政元年創業、160年の歴史を持つ老舗茶舗
農林水産大臣賞通算34回受賞
住 所:両 国
4丁目32−13 (中田屋ビル)
電 話:
03-3634-5538
営業時間 : 9:00~18:00
定休日 : 日曜日、祝日






         





         





         






      元禄二八そば 玉 屋

      住 所:墨田区両国3-21-16
電 話:
03-3631-3844
営業時間 : 11:00~15:00(L.O.)
                         17:00~20:30(L.O.20:00)
日曜営業
定休日 : 木曜日






         

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墨田区内循環バス時刻
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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