つぶやき街角南部ルート3パソコン編
両国駅西口〈回向院入口〉~江島杉山神社入口

葛飾北斎狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚 両国納涼一の橋弁天
━絵本隅田川両岸一覧・東京大空襲で伽藍が焼失し戦後再建された際に現在の
京葉道路沿い国技館通りに移された回向院の正門等を表示


                            machikado    店・工場関係


        両国駅西口(回向院入口)

葛飾北斎、両国納涼一の橋弁天    両 国 橋 ( 大高源吾の碑・表 忠 碑) 

 (はんのき)稲荷神社(榛馬場跡)    芥川龍之介成育の地   斎藤緑雨居住の地 

本所松坂町跡石碑     両国花火資料館      旧 国 技 館 跡 

江戸の町小泉町跡     両国橋錦絵集     春日野部屋(出羽海一門) 

回 向 院     回 向 院 正 門 跡     陸奥部屋(時津風一門) 

立札6枚両国物語 

        江島杉山神社入口

葛飾北斎(宮戸川長縄━千 絵 の 海━)       忠臣蔵、吉良邸裏門跡

江 東 義 塾 跡    鬼平犯科帳、料亭「井 筒」    忠臣蔵・一 之 橋 

出 羽 海 部 屋      烏亭焉馬(うていえんば)居住の地   江戸の町、与兵衛すし跡

御 船 蔵 跡       江 島 杉 山 神 社    塩  原  橋 

相 生 町 跡      井 筒 部 屋      相撲写真資料館 

与兵衛鮨発祥の地案内板    両国フォークロアセンター    塩原太助炭屋跡




        両国駅西口(回向院入口)



        葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida
River: Ryogoku Noryo Ichinohashi Benten
(The Cool of the Ryogoku Evening at
Ichi-no-Hashi Benten)
両国納涼一の橋弁天
━絵本隅田川両岸一覧━





         





     


両 国 納 涼 一 の 橋 弁 天 ━絵本隅田川両岸一覧━
狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の
様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や
茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言える
でしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の堅川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。
森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, panoramic
Views on Both Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people
enjoying the evening coolness on Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the
Ryogoku Main Street, a prominent amusement area during the Edo Era, and makeshift
theaters and tea houses, etc... can be seen side by side. The main feature of this print is
probably its size, which is wider thanit is high as is typical with picture books. The small
bridge that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the
present-day Tatekawa River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area aroud the
forest is 1chinohashi Benten,which is currently the Ejima Sugiyama Shirne. The
triangular building on the right is the Shogun's boathouse.






       陸 奥 部 屋(時津風一門)
両国国技館にもっとも近い相撲部屋です。
  住 所 : 両国1丁目-18-7
電 話:03-3633-7258 





         





         







陸 奥 部 屋 (時津風一門)

師匠は九代・陸奥一博(元大関・霧島)。幕内最高優勝一回、殊勲賞三回、敢闘賞一回、
技能賞四回の成績を残し、平成八年(一九九六)三月場所限りで引退した井筒部屋所属の
大関・霧島が、年寄・錣山(後に勝ノ浦に名跡変更)を襲名し、部屋付き親方として後進の
指導にあたっていました。平成九年(一九九七) 十二月、相撲協会を退職する八代・陸奥
(元前頭・星岩涛)から名跡を継承、また、平成十二年(二〇〇〇) 九月には立田川親方
(関脇・青の里)の定年退職に伴い、立田川部屋を吸収合併しました。
現在の陸奥部屋の創設者は、七代陸奥(井筒部屋所属、前頭・星甲)で、昭和三十九年(一
九六四)五月に引退、年寄・君ヶ濱を襲名、井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあ
たった後、昭和四十七年(一九七二)四月、陸奥より井筒に名跡変更、部屋を継承しまし
た。昭和四十九年(一九七四)四月、今度は、井筒より陸奥に名跡変更するという経緯
をた どっています。
        墨 田 区






      斎 藤 緑 雨 居 住 の 地
慶応三年 (一八六七) 伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)に生ま
れ、明治九年 (一八七六)一家で上京し、深川、本所千歳
町に居住の後、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師となった
ことから、本所緑町 (現緑二丁目) の藤堂家邸内に移り
住みました。親友馬場狐蝶に樋口家から預かっていた
一葉の遺稿と日記を託し,三十七歳の生涯閉じました。

住 所 / 両国2-19 





         





       

斎 藤 緑 雨 (さいとうりょくう)居 住 の 地
  墨田区両国二丁目十九番
 明治時代の作家斎藤緑雨は慶応三年 (一八六七) に伊勢国神戸(かんべ) (三重県鈴鹿市)
に父斎藤利光、母のぶの長男(本名は(まさる))として生まれました。明治九年 (一八七六)
一家で上京し、深川、本所千歳町に居住の後、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師となった
ことから、本所緑町 (現緑二丁目) の藤堂家邸内に移り住みました。上京後の緑雨は、土屋
小学校 (現千歳に旧在) や江東小学校 (両国小学校の前身) などで学びました。緑雨は
「日記帳」の中で「読書と数学はいつも高点」、「習字と画学は、いつも落第点にちかかり」
と回想しています。十二、三歳頃から上田萬年らと回覧雑誌を始め、十四歳頃からは詩文を
新聞に投稿するようになりました。明治十七年、十七歳の時には父とともに俳句を師事した
其角堂永機の紹介で仮名垣魯文(かながきろぶん)の門に入り、その縁で「今日(こんにち)新聞」の校正や記事収集の
手伝いを始めました。この頃、社主に伴われて出かけた柳橋や新橋での見聞が江戸
通人趣味につながったといわれています。翌年には坪内逍遥(つぼうちしょうよう)との親交が始まり、居住地の
緑町にちなんだ緑雨のペンネームを使用するようになります。処女作は江東みどりの
ペンネームで明治十九年に発表した「善悪押絵羽子板」で、五年後には柳橋を舞台とした
「油地獄」と「かくれんぼ」で小説家としての地位を確立しました。また、文芸批評でも
旺盛な執筆活動を展開し、森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」では、樋口一葉
「たけくらべ」を世に送り出しました。晩年には「眼前口頭」などの新聞連載で緑雨特有の
アフォリズム(警句)を表現しました。居住地を転々とした緑雨は、病気がちとなり明治三十六
年十月、本所横網町一丁目十七番地(現横網一丁目・両国二丁目の一部)の金沢タケ方に寄寓する
ことになりました。緑雨はその家の奥の六畳で臥しがちだったようです。翌年、親友馬場狐蝶
に樋口家から預かっていた一葉の遺稿と日記を託し、四月十三日に三十七歳の生涯を閉じました。
親友幸田露伴は緑雨の生涯に思いを馳せ、「春暁院緑雨醒客」と戒名をつけました。
平成二十七年三月
                               墨田区教育委員会


Residence of Saito Ryokuu
Saito Ryokuu (1867-1904) was an author who lived during the Meiji period.
After moving to Tokyo with in 1876 and living in Fukagawa and Honjo,he resided
on the precincts of the Todo family’s property Midoricho (now Midori 2-chome),
as his father had become the court physician of the Todo family. His first book
was “Futaomote-Oshiehagoita,”published in 1886, and his masterpieces are
“Aburajigoku” and “Kakurenbo” the stories of which were set in Yanagibashi. He
actively gave literary criticism as well , and the joint review column“Sanninjogo,
”which he produced together with Mori Ogai and Koda Rohan, helped give
Higuchi Ichiyo’ s “Takekurabe”to the public. In his later years, his characteristic
aphorisms were seen in “Ganzenkoto”, serial artcles in newspaper. He moved
to 1-17 Honjo Yokokawacho in October 1904 and atayed there for about half a
year until he ended his short life atthe age of 37, April 13 the following year.






         芥 川 龍 之 介 成 育 の 地
大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地に
あった母の実家芥川道章の家で、一歳に満たない頃
から十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。

京葉道路に面して2ヵ所案内板が立っています。
住 所 / 両国3-21-4 





         





       


芥川龍之介成育の地
 所在地  両国三丁目二十二番十一号
大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地にあった母の実家芥川道章の家で、
一歳に満たない頃から十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。三歳の頃、自宅
が改築された様子や、新しい家の庭に(かや)木斛(もっこく)、五葉の松などが
植えられていたことを記憶し、特に蝋梅(ろうばい)を愛したと述べています(「追憶」)。
龍之介はこの家で、幼い頃から読書や文字の練習、昔話を聞くなどの教育を受け、
大切に育てられました。近くの回向院の敷地には、龍之介が通った幼稚園と小学校
(現在の両国小学校)があり、境内で遊んだことも「本所両国」や「追憶」から知る
ことができます。小学校では友人たちと回覧雑誌を編集し、龍之介は数多くの文章を
執筆、挿絵なども描きました 。また、小学校最後の夏休みの日記には、「今朝起き
ぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀にちかい)ふりまわしながら大川端を散歩
しました。緑の糸をたるヽ柳やまっくろな木立や活々した川の流れや(かに)の甲ら
をならべたよーな石崖(いしがき)などがのどかな朝日に照らされて一齊(いっせい)によろこびの
(こえ)を上げて(これ)をむかえるよーにかゞやき渡っています。」
(原文通り)と自然の残る隅田川の美しい情景を記しました。また、隅田川での水泳に
夢中になっていたことも多く書いており、普通の少年らしい一面もうかがえます。作家
芥川龍之介の原点は、ここ両国の地で刻まれていたのです。
平成二十六年七月
                 墨田区教育委員会

Akutagawa Ryunosuke is one of the best writers in the Taisyo Period. He was in
March 1892 in Tsukiji. Ryunosuke lived here in Ryogoku with his mother’s family,
from not yet one year old to the age of eighteen, When he Moved to Shinjuku,
The premises of Ekoin Temple,  which were ocated near the Akutagawa’s house,
were quite large, at the time, and housed the kindergarten and elementary school
which Ryunosuke attended. When he was an elementary school student, he enjoyed
editing the kairan zasshi (magazines children circulated amongst themselves).
Ryunosuke himself wrote many stories and drew illustrations for the magazines.
Ryunosuke also wrote in his summer vacation diary that hewas absorbed in swimming
in the Sumidagawa River, showing a more childlike side. We can read his remembrances
in Ryogoku through such as “Honjyo Ryogoku ”and “Tsuioku (reiminiscences)”
The orizin of Akutagawa Ryunosuke were kept here in Ryogoku.





         





          

芥川龍之介成育の地  両国三丁目二十一番四号
芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地
(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。
辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後七か月で、当時
本所区小泉町十五番地(両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道草に引き取られ、
十三歳の時、芥川家の養子となりました。芥川家は江戸時代からの旧家で、道草は、
教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、教養伎を見物する
など、江戸趣味の濃い家庭でした。明治四十三年(一九一○)十九歳で新宿に移転する
まで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しま大学在学中、同人雑誌「新思潮」
に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。
初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編
小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、
随筆にも優れました。昭和二年(一九二七)に三十五歳の生涯を閉じました。遺稿に
「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。龍之介のゆかりを慕い、区立
両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、
両国高校にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。

芥川龍之介賞
通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に
与えられる文学賞。昭和一○年(一九三五)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友
芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。






       (はんのき)稲 荷 神 社( 榛馬場跡)
この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。
本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周り
を囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があっ
たところから、そう呼ばれたようです。
本所(現在の
墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、
この稲荷神
社の脇に娘のお栄と住んでいたことがありました。

住 所 / 両国4-34-11 





         





       

葛 飾 北 斎 住 居 跡かつしかほくさいじゅうきょあと
所在地  墨田区両国四丁目三十四番付近

この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。
東西約百八十五m、南北約二十二mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな(はん)のき
があったので「榛馬場」と呼ばれました。馬場に(まつ)られていたのが「榛稲荷神社」です。
本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、北斎は九十歳で没するまで常に新しい技法を試み、「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)
に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。
榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一(つゆきいいつ)筆)です。
絵を描く老いた北斎と娘の阿栄(おえい)が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。
その暮らしぶりを飯島虚心(いいじまきょしん)は「蜜柑(みかん)箱を少しく高く釘づけに
なして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢(かたわら)には、佐倉炭の俵、土産物の
桜餅の籠、(すし)の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜(はきだめ)と、一様なるが(ごと)し」
(葛飾北斎伝)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(一八四十年頃)で、
八十歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶり
が見てとれます。北斎は生涯で九十回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所の
すべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所
の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。また、幕末明治期に活躍した政治家
勝海舟(かつかいしゅう)もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉(こきち)
の自伝『夢酔独言(むすいどくげん)』の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。
昭和二十一年三月
墨田区教育委員会墨田区教育委員会


Site Associated with Katsushika Hokusai
Katsushika Hokusai (1760-1849) is a famous Edo period ukiyo-e artist. He is
particularly well known for his series of prints. The Thirty-six Vieus of Mount Fuji.
Hokusai’ s Daughter, Pictured here with her aged father,Was also a talented artist.
The reproduction drawing entitled “Hokusai’s Temporary House” Was made by
Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s disciples, and he wrote that the house was near by
the Hannoki Inari Shrine. It is said that Hokusai moved more thanninety times among
his life. While the locations of most of his homes are unknown, we have been able to
identify that Hokusai lived in this are was made by Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s
disciples, and he wrote that the house was near by the Hannoki Inari Shrine. It is said that
Hokusai moved more than ninety times among his life. While the locations of most of his
homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this areKats
Kaishu (1823-1899) was a late Edo and Meiji period statesman. He was also born and
raised in this neighbornhood. Bord of Education, Sumida City





          

江 戸 の 町
Site of former Han-noki Riding ground
榛 馬 場(はんのきばば)
この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古
のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、
そう呼ばれたようです。勝海舟の父子吉の著書『夢酔独言』の中にも、子どものころの回想
として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。
天保八年(一八三七)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗の奉仕立が、震災、戦災を逃れて
今でも保存されています。葛飾北斎も娘の阿栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいた
ことがあります。
奉紙立=正式の食事の時、膳の盛物の周囲に紙をさまざまな形に折って立てる器






       江 戸 の 町
小 泉 町 跡

昭和六年に横網町、元町、松坂町と合併して
「東両国」と名を変えるまでこの辺りは、小泉町
と呼ばれていました。
住 所 / 両国2丁目11番  





           





        

江 戸 の 町
Site of Koizumi-cho
小 泉 町 跡

昭和六年に横網町、元町、松坂町と合併して「東両国」と名を変えるまでこの辺りは、
小泉町と呼ばれていました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図には当時、両国橋際にあった
藤堂和泉守下屋敷の東隣、横網町の南隣に「小泉丁」とあります。寛文五年(一六六五)、
御材木蔵手代の大縄地(おおなわち=組単位で下級武士に与えられた屋敷地)となりましたが、
元禄九年(一六九六)に町屋の許しが出て、町名は小泉という者が草創者
のため、小泉町と呼ばれるようになりました。






          両  国  橋
両国橋は江戸時代に 隅田川で千住大橋に続いて
2番目に架けられた橋。明暦の大火後の万治
2年(1659)の架橋といわれる。江戸時代から
川開きの花火の名所。(平成20年)3月28日、
言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物
に選定されました。





         



                     

    
大 高 源 吾 の 碑

赤穂浪士のひとりであり、
其角の弟子と伝える子葉
こと大 高 源 吾の
「日の恩やたちまち
くだく厚氷」の碑。
昭和3年(1928)11月10日建立
 
     
 表 忠 碑
大 山 巌元帥の高さ4.5mの
表忠碑は日露戦争での戦没者
慰霊碑で、明治40年(1907)
1月1日に本所区徴兵慰労義会
によって建立されている。
所在地 / 墨田区両国1-11-2 
両国橋児童遊園内






          

両   国   橋
両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、
正式の名は、ただ“大橋”であった。しかし新大橋も造られたため、両国橋が正式の
名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられず、
多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。回向院はその人々を
弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。この橋
が架かったため、本所、深川がえどの新市街として発展ることとなった。橋詰の両側は、
賑やかな遊び場所としても、開心だ。幕末からは、川開きの花火もあって。江戸の市民
には喜ばれた。現在の橋は。昭和7年(1932年)に完成した。
               昭和59年3月
                       東 京 都





     


両 国 橋 と 百 本 杭
所在地 墨田区両国1丁目~横網1丁目
 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)
に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。
両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる
両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、
川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景
は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、
多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に
「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中
では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が
実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所
だったのです。また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側
の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。明治35年(1902)に幸田露伴
は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たる
ところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の
東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の
知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、
本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川
がおりなす風情は今では見られなくなりました。
                    平成23年(2011)3月 墨田区教育委員会






        立 札 6 枚
1-両国物語:片 葉 の 葦
江戸の町:2-駒留橋跡・3-藤代町跡
4-江戸の町:旧両国橋・広小路跡
5-忠臣蔵 赤穂浪士休息の地
6-江戸の町:石尊垢離場跡(せきそんこりんばあと)





         





          

両 国 物 語
Kataba-no-Ashi
片 葉 の 葦


駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、
片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと
考えられますが、当時はそれが、本所七不思議の一つとされていました。その由来は
・・昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。
留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向に
なびきません。を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に
投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。
当時、葦は吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。





         

江 戸 の 町
Site of Komadomebashi Bridge
駒 留 橋 跡

駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半
(約四.五メートル)、幅三間(約五.四メートル)の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路
を結んでいました。その堀の幅はもっと広いところが四間(約七.二メートル)で、奥に
行くほどだんだんと狭くなっていました。本所不思議の一つである片葉の葦が生えて
いたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい
場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑
としていたと伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番
(町内の私設交番)のまえに夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです
 





         

江 戸 の 町
Site-of-Fujishiro-cho
藤 代 町 跡


かつてこの辺りにあった町名です。その由来は・・・・・享保年間(一七一六~三五)、
紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村
の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが
幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門
が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれています。回向院や向島に通じる要衝だったため、
商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で本所の入口にふさわしい繁華街でした。
 





         





        

 江 戸 の 町
Site of former Ryogokubashi Bridge and Hirokoji Street
旧両国橋・広小路跡  22


旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。
完成は万治二年(一六五九)十二月。明暦三年(一六五七)の大火が大災害となったため、
幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の
筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂
には火除け地としての広小路が設けられました西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、
芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、
食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。寛保二年(一七四二)の調査では一日
に二万人以上が往来したとされています
。 





       

 忠 臣 蔵
A stop-off point of Lord Asano’s 47 faithful retainers
赤穂浪士休息の地
  23

元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、
主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居
などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への
引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけ
て来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、
大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を
経由して、泉岳寺へと引き揚げました。 





          

江 戸 の 町
Site of Sekisonkoriba
石尊垢離場跡(せきそんこりんばあと) 24

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、
商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、
木太刀を背負った姿でお参りに出かけました出発前に水垢離を取り、体を清めました。
その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に
出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ六根罪障、おしめに
はったい、金剛童子・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびに
ワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場
のようだったとされています。






両 国 橋 錦 絵 集


名所江戸百景 
両国橋大川ばた
絵師:初代歌川広重  
           
東都三十六景 両国橋
絵師:二代歌川広重   
         
浮絵両国夜景ノ図
絵師:五渡亭国貞  






江戸両国すずみの図    絵師/初代歌川豊国






江戸高名会亭尽 両国柳橋
絵師:初代歌川広重   
          
 江戸高名会亭尽  両国柳ばし
絵師:初代歌川広重 






両国夕涼之図  絵師/ 哥川豊春  
          
東都名所八景 両国橋秋月  絵師:歌川芳虎    






東都両国の夕涼   絵師:歌川房種   
           
両国橋夕涼光景  絵師:国貞改二代豊国  





 
両国夕涼の光景
絵師:香蝶樓豊国
         
両国涼船遊ノ図
絵師:香蝶楼豊国 






両国にわか夕立
    絵師:香蝶楼豊国    
         
両国夕景一ツ目千金
  絵師:三代歌川豊国 
  






東都両国橋渡初寿之図
絵師:一幽斎重宣   
         
三都涼之図 東都両国ばし夏景色
 絵師:五雲亭貞秀   






       両 国 花 火 資 料館
江戸の花火の歴史をはじめとした花火の資料館。
日本の花火の技術や歴史を模型やビデオ等で解説。
住 所 / 両国2-10-8 (住友不動産両国ビル1F) 
料金 / 無料  営業時間 / 12:00~16:00 
開館日 / 木、金、土、日  





         





         





         





         






両 国 夕 涼 ミ の 図
絵 師:香蝶楼豊国出版者:古勝 
 
          
東都名所  両国橋夕涼全図
絵師:一立斎広重出版者:蔦屋吉蔵 
 






  名所江戸百景 両 国 花 火
絵 師 : 広 重 出版者 : 魚 栄
刊 行年 : 安 政 5
 
       
江戸名勝図会 両 国 橋
絵 師:広 重
 
       
江戸自慢三十六興 両こく大花火
絵 師 : 広 重 , 豊 国
出版者:平のや 
 刊行年:元治1





 
 江都名所  両 国 橋 [ 納 涼 ]  絵 師:広 重
        
江戸八景  両 国 橋 の 夕 照
絵 師:渓斎英泉  出 版 者:山 本 
 






新撰江戸名所 両 国 納 涼 花 火 ノ 図
絵 師:一立斎広重
 
        
 両 国 橋 川 開 の 図  絵 師 : 絵 師 不 詳
 






東都両国の夕涼
絵 師:房種出版者:藤慶  刊行年:文久2
        
東都両国夕凉之図
絵 師:貞房 出版者:山城屋甚兵衛 
 






        本 所 松 坂 町 跡 石 碑
昭和7年(1932年)に区画整理で由緒ある本所松坂町
の地名が消える事を惜しんで建てられました。
住 所 / 両 国3-19






         





               







       
     碑ヲ中心トスル一帯ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地
ナリ然ルニ大正大震災後ノ區劃整理ノタメ昭和四年
十一月一日町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル
不可失ノ地名ノ永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之ヲ勤ス
 昭和七年六月當町會建之 






葛飾北斎仮名手本忠臣蔵


北斎仮名手本忠臣蔵表紙 
        
仮名手本忠臣蔵1段目
 

 
 

 仮名手本忠臣蔵二段目 
 
仮名手本忠臣蔵三段目
   

 

仮名手本忠臣蔵四段目

仮名手本忠臣蔵五段目
 

 
 

仮名手本忠臣蔵六段目 
 
 仮名手本忠臣蔵七段目
 

 
 

仮名手本忠臣蔵八段目 
 
仮名手本忠臣蔵九段目 
   

 
 
 仮名手本忠臣蔵十段目 
 
仮名手本忠臣蔵十一段目 






      旧 国 技 館 跡
天保4年(1883)から回向院で相撲興行が始まった
ことから境内に明治42年(1909)に建設されました。
ドーム型屋根の洋風建築で開館当時は両国元町
常設館という名前でしたが、翌年から国技館
という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
住 所 / 両 国2-8-10





         





       

大 相 撲
Site of former Kokugikan Arena
旧 国 技 館 跡  16

旧国技館は、天保四年 (一八三三) から回向院で相撲興行が行われていたことから、
明治四十二年 (一九〇九) に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円
(現在の価値では七十五億円程度) です。ドーム型屋根の風建築で、収容人数は
一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から
国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、
三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は
日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年 (一九八三) に解体され
ました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
                                 墨 田区





         








国 技 館 ( 大鉄傘(だいてっさん)) 跡
                 所在地 墨田区両国二丁目八・九番

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、
江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、
天保四年 (一八三三) から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行
本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の境内に明治四十
二年 (一九〇九) に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は
大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。二本銀行本店や
東京駅の設計で著名な辰野金吾設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収
されていた国技館で行われました。しかしメモリアルホールと改称された後は本場所の
開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設
された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、
日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八 (一九八三) に解体されました。
そして同六十年 (一九八五) 、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡
に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設
となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
  平成二十年三月
                          墨田区教育委員会






            回 向 院
明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となっ
た明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、四代将軍
徳川家綱により念仏堂が建立されたのが始まり。

住 所 / 両国2-8-10   電話 / 03-3634-7776





      回 向 院
Ekoin Temple
明暦3年 (1657) に開かれた浄土宗の寺院。振袖火事で知られる
明暦の大火の犠牲者10万人以上の無縁仏供養や、鼠小僧の墓が
あります。また、明和5年 (1768) に境内で初めて勧進相撲が
行われました。
This old temple of the Pure Land School of Japanese Buddhism
(Jodo-shu) is the site of a memorial to more than 100,000 victims
of a great fire in the seventeenth century as well as the grave of
Edo-period folk hero Nezumi Kozo






         





         





       


明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、
犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手
のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国
の地に「無縁塚」を築き、菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念
のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京
大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、
刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。







相 撲 関 係 石 碑 群 (力 塚)
    所 在  墨田区両国二丁目八番 回向院
 
墨田区と相撲の関わりは、明和5年 (一七六八) 九月の回向院における初めての興行
にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保四年 (一八三三) 一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、
年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に
入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に
相撲の人気が衰えました。しかし、明治一七年 (一八八四) に行われた天覧相撲を契機
に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四二年 (一九〇九) に
回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲
の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊
のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年 (一九一六) に
建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔(ほうかいばんれいとう)もこの中に移動しました。
現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の
歴史が七六にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
 平成一一年三月
                     墨田区教育委員会






        回 向 院 正 門 跡
かつてこの位置にあった回向院の正門は、
東京大空襲で伽藍は焼失しましたが戦後再建され、
正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対
する位置に移されました 

住 所 / 両国2-8-10  





         







江 戸 の 町
Site of former main gate of Eko-in Temple
回 向 院 正 門 跡

回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失
しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置
に移されました。かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、
橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の
一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院
の社会的な存在意義を表したものといえます。両国橋や回向院正門に至る広小路や元町
の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。







回向院開帳参(挿絵)  絵師/松濤軒斎藤長秋
江戸名所図会 第4巻  著者:斎藤幸雄 [等著]


            
名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋
絵師:広重 出版者:魚栄 
 刊行年:安政4






江戸名所図会 7巻. [18] 国会図書館 著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
  出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836]







         春 日 野 部 屋 (出羽海一門)
大正十四年(一九二五)五月、第二十七代横綱・
栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋から
分家独立し、創設しました。

師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)
住 所 / 墨田区両国1-7-11




         







相 撲 部 屋
Kasugano Stable
春 日 野 部 屋
 (出羽海一門)
 師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)。
大正十四年(一九二五)五月、第二十七代横綱・栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋
から分家独立し、創設しました。昭和三十四年(一九五九)十月、八代・春日野の死去に伴い
、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、
昭和三十五年(一九六○)、現役、を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営にあたりました。
また、九代・春日野は昭和四十九年(一九七四)から同六十三年(一九八八)まで日本相撲協会
理事長を務めました。平成二年(一九九〇)一月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方
(第四十九代横綱・栃ノ海)が部屋を継承、十代春日野晃将を襲名しました。平成十五年
(二○○三)二月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)
が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています.






        江島杉山神社入口



         葛 飾 北 斎
Chie no Umi:Miyatogawa Naganawa(Sea at Chie:
Long-line Fishing on theMiyato River)
宮戸川長縄━千絵の海━
水が織り成す造形美と漁師たちを描いた「千絵
の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た宮戸川
の漁風景と、両国界隈の景観が描かれています
 





         





      


宮戸川長縄━千絵の海━
水が織り成す造形美と漁師たちを描いた「千絵の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た
宮戸川の漁風景と、両国界隈の景観が描かれています。宮戸川とは、江戸時代の隅田川
下流の呼称の一つ。長縄は、一本の幹糸から多くの釣糸を垂らす釣法のことです。奥の
建物は幕府の軍船を係留する「御船蔵(おふなぐら)」で、今の千歳一丁目から新大橋に
かけての一帯にありました。4800坪の土地に14棟の船蔵が並び、徳川家光が新造した
軍船形式の御座船「安宅丸(あたけまる)」も係留されていたことから、この一帯は
「御船蔵安宅町」と呼ばれていました。

A print from the Sea at Chie series composed with formative art depicting the interwoven
water and fishermen. The fishing scene on the Miyato River as seen from the banks of
Hamacho shows a Panorama of the neighborhood of Ryogoku.The Miyato River was one
of the names of a downriver portion of the Sumida River during the Edo Era.Long-line
fishing is a method of fishing in which many hooked lines lead off from a single main line.
The building at the rear are the Ofunagura boathouses in which the Shogun's military vessels
were stored, and this consists of an area from Chitose 1-chome to Shin-Ohashi Bridge today.
Fourteen boart houses were lined up along an area of land 4,800 tsubo(15,864 square meters)
in size, and this piece of land was called Ofunagura Atakecho owing to the fact that lemitsu
Tokugawa's newly-build state barge, the Atake Maru, which assumed the shape of a
military vessel, was also anchored here.
 






        忠臣蔵・一 之 橋
一之橋は長さ13間、巾2間半ほどありました。堅川
の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を
扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も
多く、大いに賑わいました。赤穂浪士が泉岳寺に引き
揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。
住 所 / 両国一の橋通り  
 





         





      

忠 臣 蔵  一 之 橋


幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を
碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川
に対し縦・横に開削されました。万治二年(一六五九)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架
けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、
巾二間半ほどありました。堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う
商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。一之橋は、
赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。






       御 船 蔵 跡
この辺りから新大橋にかけての一帯 に江戸幕府の艦船
を格納する御船蔵がありました。4890坪の広大
な土地に大小14棟の船蔵が並んでいて、巨大な軍船
安宅(あたか)丸」は船蔵の外に係留されていました。

住 所 / 千歳1-5-15   電 話 / 03-3631-8273
 





         






タイトル:名所江戸百景 
大はしあたけの夕立
著者:広重   出版者:魚栄
出版年月日:安政4 
  
          
本 所 深 川 絵 図







        

江戸の町
Site of Ofunagura, ship hangar
御 船 蔵 跡 
  48
この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。
四千八百九十坪の広大な土地に大小十四棟の船蔵が並んでいて、巨大な軍船「安宅(あたか)丸」
は船蔵の外に係留されていました。安宅丸の取り壊しを機に供養塔が建てられたことから、
ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれています。
明暦三年(一六五七)頃の「明暦江戸大絵図」には、すでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、
川下の尾張屋敷との間の堀に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれています。
 






       両国フォークロアセンター
60年代よりウディ・ガースリーのフィルム上映会などを
手がけていた國崎清秀氏が、1970年に始めたイベント
スペースであり、まだライブハウスなどという言葉もない
時代に定期的にライブやフィルム上映会を行い、高田渡ら
日本のフォーク勢のみならず、外国のミュージシャンも
多くここで演奏を繰り広げた「伝説」が残っている。
住 所 / 千歳1-5-15   電話 / 03-3631-8273
 





         





            






        相 生 町 跡
1688(元禄元)年~1697(元禄10)年にかけて、
本因坊拝領屋敷、川筋常設請負者の助成地等
となり、相生町1~5丁目が誕生祝賀の意を
もって相生町の名前が付けられたそうです。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。
住 所 / 両国2丁目2





         





       

江 戸 の 町
Site of former Ai oi-cho
相 生 町 跡
ここから東側は相生町といわれていました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図によると、
一之橋から二之橋東側にかけての堅川沿いが相生町となっています。元禄二年(一六八九)
から徐々に町屋ができていったようです。町名は、おめでたい言葉である「相生」が
つけられました。なお、旧両国橋の東詰め、隅田川と堅川が交差する角地が、相生と対
をなす「尾上」町と名付けられました。相生町五丁目(現、緑一丁目)には、俳人の小林
一茶が、深川の愛宕神社居住の後に文化元年(一八〇四)十月頃から祖母の三十三回忌に
郷里に旅立つまでの文化五年(一八〇八)まで住んでいました。
                                墨 田 区






      忠 臣 蔵
 吉 良 邸 裏 門 跡 

赤穂浪士討ち入りの際に大石主税以下24名が侵入
した所。約2500坪の広大な敷地だったそうです。
住 所 / 両国 3-10






         





        

忠 臣 蔵
Site of the back gate of lord Kira’s former residence
       吉 良 邸 裏 門 跡   31

吉良邸の裏門はこの辺りにありました。赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税
以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を
次々と斬り伏せました。吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝間き姿では鎖帷子を
着込み完全武装の赤穂浪士には到底適わなかったようです。広大な屋敷の中で一時間
余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が三十八名だった
のに対し、赤穂浪士側は二名が軽い傷を負っただけでした。

                                                             
墨 田 区






       江  東  義  塾  跡 
文豪、夏目漱石が明治十九年 (1886) から約1年間
教師をしていた私立学校跡。

当時漱石は、大学予備門 (一高) で学んでいました
住 所 / 両国 3-9-1 





         





      

江  東  義  塾  跡
絵 画 と 文 学

Site of former Koto Gijuku School
文豪、夏目漱石が明治十九年 (一八八六) から約一年間教師をしていた私立学校
江東義塾はこの辺りにありました。当時漱石は、大学予備門 (一高) で学んで
いましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんど
の教科で主席でした。漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、
「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・・・月に使えるお金は五円で、
少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二時間だけで、予備門から
帰って来ておしえることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の
勉強をすることができた。」といったことが書かれています。

                                                                
墨 田 区






      
相 撲 写 真 資 料 館
歴代の横綱や力士の暮らしの写真と資料が
展示されています。
住 所:両国3-13-2   電 話 : 03-3631-2150
開 館:火 10:00~17:00
ただし初・5月・9月場所中は毎日。






            





                












         






       与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地
この横町の左手に, 江戸握り鮨発祥といわれる
与兵衛鮨がありました。文政の初めに, 初代・
小泉与兵衛(1799 ~1858)により大成されました。
住 所 / 両 国 1-8





         







与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地
所 在 墨田区両国1丁目8番

 この横町の左手に, 江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに,
初代・小泉与兵衛(1799 ~1858)により大成されました。小泉与兵衛は, 霊岸島の生まれ
でしたが, 次々と商売を替えて, 本所で暮らすようになりました。その頃に, 大阪風の
押し鮨にあきたらず, これを江戸風に鮮度を保ち, 手早く造る方法を工夫しました。
始めは, 毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが, 評判を呼ぶようになり, 屋台を出し,
後には店舗を開くほどになり, 殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝え
られます。当時の狂歌きょうかにも「鯛比良目ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は
見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。また, 食通の武士の注文
に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶
を出したことも人気に拍車をかけました。以後, 昭和5年に惜しくも廃業しました。
平成12年3月
                  墨田区教育委員会






      江 戸 の 町
与 兵 衛 す し 跡

江戸前の握り鮨ができたのは、約200年前の文政年間
で、小泉与兵衛が考案したといわれています。当時は
鮨といえば大阪風の押し鮨ばかりだったところを、酢
で締めた飯の上に、ワサビをはさんでネタを乗せて握
られたものを屋台で立ち喰いするという新しいスタ
イルは、一挙に江戸っ子の人気となりました。 
住 所 / 両国1-8-11
 





         





       

江 戸 の 町
Site of the former Yohei Sushi
     与兵衛すし跡   27
現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは、約二百年前の文政年間で、小泉
与兵衛が考案したといわれています。当時は鮨といえば大阪風の押し鮨ばかりだった
ところを、酢で締めた飯の上に、ワサビをはさんでネタを乗せて握られたものを
屋台で立ち喰いするという新しいスタイルは、一挙に江戸っ子の人気となりました。
与兵衛は、握り鮨を岡持に入れて盛り場を売り歩くことから始め、屋台、裏店での
店売りを経て、文政七年(一八二四)に元町(両国一丁目)に「華屋」という屋号の店を
開き大繁盛しました。この成功によって鮨屋という形態が確立し、その軒数が増える
に従って、職人が腕を競うようになり、一大食文化を築きました。






         鬼 平 情 景
     料 亭 「井 筒

Upmarket restaurant
“Izutsu” in the novel “Onihei”

小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する料亭
で、この辺りにあったとされています。この小説
には、裏の世界の人間がたくさん出てきます。
住 所 / 両国1-8-11





         





        

鬼 平 情 景
Upmarket restaurant “Izutsu”in the novel“Onihei”
料亭「井 筒」
 28
小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する料亭で、この辺りにあったとされています。
この小説には、裏の世界の人間がたくさん出てきます。羽沢の嘉兵衛もその一人です。
表向きは両国で「井筒」という大きな料亭を経営していますが、裏では土地の盛り場に
にらみをきかす香具師の元締で、江戸市中の暗黒街では知らない者はいません。大阪で
たいへん羽ぶりがいい香具師の元締、白子の菊右衛門と親交が深く、その菊右衛門の
依頼で、鬼平を暗殺しようとします。その計画は失敗に終わりますが、嘉兵衛はその後
も鬼平の手を焼かせます。






       出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)
初代・出羽海は、天明から寛政年間(1781~1800年)
に活躍した前頭筆頭・出羽ノ海金蔵(のちに、運右衛門)
で、年寄資格を得て、出羽ノ海部屋を創設しました。
大正6年(1917)1月場所から大正10年(1921)五5場所まで、
十場所連続で出羽海部屋所属力士が優勝(栃木山五回、
大錦四回、常ノ花1回)していますが、これは現在でも
破られていない大相撲記録です。
住 所 / 両国2-3-15 




         







相 撲 部 屋
Dewanoumi Stable
出 羽 海 部 屋
 (出羽海一門)
師匠は、十一代・出羽海昭和(元小城の花)。出羽海部屋は現存する部屋では、最多の九人の
横綱を輩出したほか、三人が相撲協会理事長を務めるなど、相撲界の名門中の名門、十二部屋
からなる出羽海一門の中心す。その歴史は古く、初代・出羽海は、天明から寛政年間
(一七八一~一八〇〇年)に活躍した前頭筆頭・出羽ノ海金蔵(のちに、運右衛門)で、年寄資格
を得て、出羽ノ海部屋を創設しましたが、文化五年(一八〇八)に部屋はいったん閉じられたと
されています。現在の出羽海部屋は、文久二年(一八六二)、桂川立吉が出羽ノ海を襲名、出羽
海部屋を創設したもので、以来、今日まで連綿と継承されています。大正六年(一九一七)一月
場所から大正十年(一九二一)五月場所まで、十場所連続で出羽海部屋所属力士が優勝(栃木山
五回大錦四回、常ノ花一回)していますが、これは現在でも破られていない大相撲記録です。
               墨  田  区






        相 撲 部 屋
井 筒 部 屋 (時津風一門)
明治時代、七7代・井筒 (第16代横綱・
初代西ノ海) によって創設
住 所 / 両国2-2-7
 





         







相  撲  部  屋
Izutsu Stabe
井  筒  部  屋
(時津風一門)
師匠は、十四代・井筒好昭 (元関脇・逆鉾) 。
明治時代、七代・井筒 (第十六代横綱・初代西ノ海) によって創設。昭和十九年 (一九四四)
九月、九代・井筒の死去に伴い一時消滅。昭和二十二年 (一九四七) 六月、元幕内・鶴ヶ嶺道良
が十代・井筒を襲名し、井筒部屋を再興しましたが、昭和四十九年 (一九七四) 四月、十一代
井筒は井筒の年寄り名跡を返上、陸奥を襲名、陸奥部屋へ名称変更し、井筒部屋は再度消滅
しました。同年七月、九重部屋所属の第五十二代横綱・北の富士が引退、十二代・井筒を襲名、
九重部屋から分家独立して井筒部屋を創設しましたが、昭和五十二年 (一九七七) 十一月、十一代・
九重の死去に伴い十二代・九重を襲名、九重部屋を継承したため、井筒部屋の名称はここでも
一時消滅しました。翌月の同年十二月、君ヶ濱親方 (元関脇・鶴ヶ嶺) は、昭和四十七年
(一九七二)、井筒部屋から分家独立、君ヶ濱部屋をを創設していたが、十三代・井筒昭男を
襲名、部屋名称を井筒部屋に変更し、今日に至っています。
                           墨 田 区






         江 戸 の 町
塩 原 太 助 炭 屋 跡

太助は、文化年間 (1804~1817) の商人で、18才で江戸
に出、職を変えながら四42才で炭屋山口屋に奉公しまし
た。独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が辺り、
「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」
と謳われるほどの成功を収めました。
住 所 / 両国3丁目3-1 





         





         





           

江  戸  の  町
Site of Shiobara Tasuke’s shop
塩 原 太 助 炭 屋 跡
  42
ここに、塩原多助 (一七四三~一八一六) の炭屋がありました。
太助は、文化年間 (一八〇四~一八一七) の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を
開きました。十八才で江戸に出、職を変えながら四十二才で炭屋山口屋に奉公しました。
独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が辺り、「本所に過ぎたるもの二つあり、
津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めました。名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、
その人生を「塩原多助一代記」として作品化しました。故郷、上野国 (現在の群馬県みなかみ町)
にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、
その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材になりました。

                                                            
墨 田 区






       塩  原  橋
江戸時代の末、裸一貫から、「本所に過ぎたるものが
二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌に詠まれるほど
の成功を収めた豪商、塩原太助が近くに住んでいた
ことから、それに因んで付けられました。
住 所 / 両国三丁目1番から千歳一丁目9番 
 





         





     

塩 原 橋 の 由 来
塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。当時は
木橋でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。橋名は
江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた
塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝
は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立て
られ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年
に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。天明元年(1781)当時、本所
相生町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈篭は今も
境内に残っています。
               平成4年3月  墨 田 区






       烏 亭 焉 馬(うていえんば)居住の地
江戸時代中期に活躍した戯作者、狂歌師で、江戸落語
を中興した人物で、 寛保3年 (1743) に本所相生町3
丁目(現墨田区両国四丁目) に生まれ、文政5年 (1822)
に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えした
所 在 地 / 墨田区千歳2-14





         





        

烏 亭 焉 馬(うていえんば) 居住の地
所在地 墨田区千歳二丁目十四番

烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。
本名は中村英祝、通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。
寛保三年 (一七四三) に本所相生町三丁目(現墨田区両国四丁目) に生まれ、文政五年
(一八二二) に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたことから、太田南?は『太平楽紀文』
の序文で、「相生町のはへぬき」と呼びました。焉馬の父は大工棟梁、兄も山形庄内藩
お抱えの棟梁でした。演劇や茶番に通じ、俳諧や狂歌を嗜むなど町人としては余裕のある
暮らしぶりでした。隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香道を営み、
さらにゆとりが増えます。多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に
活動します。まず、作品として両国の見世物を題材とした滑稽本や、現在でも上演される
人気演目「碁太平記白石噺」などが発表されます。天明六年 (一七八六) 、向島の料亭
武蔵屋にて「落噺(らくはなし)の会」が行われました。焉馬の狂歌師仲間や競演作者たちが
百人余り集い、その中には焉馬が贔屓にする五代目市川團十郎もいました。その後、焉馬
の自宅などで定会 (月例会) が開かれるようになり鹿野武左衛門以来途絶えていた落語が
復活しました。この流れから初代三笑亭可楽(さんしょうていからく)や初代三遊亭圓生
らの職業落語家が誕生し、現在に伝統をつないでいます。ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖
      と呼ばれています。現在、牛嶋神社の境内にある焉馬の狂歌碑 (墨田区登録有形文化財)には        「いそがずば濡れまじものと
               夕立の西とよりはるる堪忍の虹」談州楼 烏亭焉馬」、
裏面には「文化七???三月吉日建  本所堅川相生町  中村和助英祝」
と刻まれています。
  墨田区教育委員会






       江 島 杉 山 神 社
盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693)当地に
五代将軍綱吉より屋敷地を拝領、彼が修業した江
の島の弁天岩窟を模して屋敷内に創建されました。
 祭日→杉山大祭5月18日
住 所 / 千歳1-8-2 電話 / 03-3863-1308
 





         





         

江 戸 の 町
Ejima-sugiyama Shrine
江 島 杉 山 神 社

鍼術の神様・杉山和一(一六一〇~九四)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に
約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社
を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、
杉山和一総検校が祀られています。和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明
しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである
管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人
として活躍しました。この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、
日夜自分の治療に当たらせました。







江 島 杉 山 神 社   由 緒
        墨田区千歳1-8-2  03-3863-1308

当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した
杉山和一を併せ祀る。杉山和一(慶長十五年〈一六一〇〉年~元禄七年〈一六九四〉年)
は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の
山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。業が
明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、
筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。「いくら細い
鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」こうして、現在鍼治療の
主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られ
ている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で
治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人
教育の場、職業の確立を進めた。寛文十(一六七○)年一月、和一は六一歳にして検校
の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。元禄五
(一六九二)年五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八三歳の時、綱吉公の難病
を治療した功により「何か望みのものはないか」との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」
と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が高齢になっても月参りを
欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、
本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七(一六九四)
年五月十八日八四歳没。明治四年、当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、
当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。明治二三年四月
杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀、震災、戦災により二つの社殿
とも焼失するが戦後昭和二七年合祀し、江島杉山神社となる。





          
杉山和一に正五位が追贈されたことを記念して、
大正十五年(1926)に建てられた点字の石碑。 





         





 

杉 山 和 一 と 総 禄 屋 敷 跡
所 在 墨田区千歳一丁目八番二号江島杉山神社内

 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた
総禄屋敷の跡です。杉山和一は慶長十五年(一六一〇)、伊勢国安濃津(三重県津市)
で生まれました。幼児に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に
京都の鍼灸・入江豊明に弟子入りしました。厳しい修業の後、江ノ島の岩窟で断食祈願
を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。
杉山流管針術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。
その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(一六七○)、検校に任じられました。
さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目
(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年
(一六九三)六月のことでした。一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄屋敷と
神社が建てられ、現在の場所には鍼灸講習所もありました。現在の神社の名は、土地の
拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟
を模した洞窟があります。
    平成十六年八月
                  墨田区教育委員会
                                     
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つぶやきいってみよう(お店・工場関係)
両国駅西口(回向院入口)バス停

        両国駅西口(回向院入口)

半生菓子 両国とし田   中田屋茶舗 支店   元禄二八そば 玉 屋

        江島杉山神社入口

一 元 ヤ(うつわ)





        両国駅西口(回向院入口)



        半 生 菓 子   両 国 と し 田

お店の中は春を感じます!この暖かさは
何処から来るのでしょう?
 住 所:両 国
4032-19
電 話:
03-3631-5928
営業時間 : 9:30~19:00
定休日 : 日曜日、祝日






         





         





         





         






         (株)中 田 屋 茶 舗 支 店

安政元年創業、160年の歴史を持つ老舗茶舗
農林水産大臣賞通算34回受賞
住 所:両 国
4丁目32−13 (中田屋ビル)
電 話:
03-3634-5538
営業時間 : 9:00~18:00
定休日 : 日曜日、祝日






         





         





         






      元禄二八そば 玉 屋

      住 所:墨田区両国3-21-16
電 話:
03-3631-3844
営業時間 : 11:00~15:00(L.O.)
                         17:00~20:30(L.O.20:00)
日曜営業   定休日 : 木曜日






         





     江島杉山神社入口



       一 元 ヤ(うつわ)
江戸時代の文化二年創業という老舗の和食器屋さんで、
伝統的な焼物はもちろん、現代風の食器や小物類まで
品揃えが豊富で、お手頃な価格で誰にでも買えます。
楽しくて嬉しい癒しの場所!
テーブルコーディネーターの資格をお持ちとの事!
住 所 / 千歳1-5-15 電 話 / 03-5669-5232
定休日 / 日・祝  営業時間 / 10:30~18:00





         





         





         





         





         





                      

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