スカイ姫のつぶやき19 つぶやき街角南部ルート4  (江島杉山神社入口) https://sky-princess.com/south4.html



                                    to top page  つぶやきいってみようへ
江島杉山神社入口      〇葛飾北斎(宮戸川長縄━千 絵 の 海━)   〇相生町跡   〇江戸の町、与兵衛す し 跡 

〇鬼平犯科帳、料亭「井 筒」   〇忠臣蔵、吉良邸裏門跡   〇江 東 義 塾 跡

一 之 橋   〇出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)   〇井 筒 部 屋 (時津風一門)   〇塩 原 橋

江島杉山神社   〇烏亭焉馬(うていえんば)居住の地  〇与兵衛鮨発祥の地
 
相撲写真資料館    〇御 船 蔵 跡   〇両国フォークロアセンター 





        江島杉山神社入口



        葛 飾 北 斎
Chie no Umi:Miyatogawa Naganawa(Sea at Chie:
Long-line Fishing on theMiyato River)
宮戸川長縄━千絵の海━
浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、
両国界隈の景観が描かれています。
 




     




     


宮戸川長縄━千絵の海━
水が織り成す造形美と漁師たちを描いた「千絵の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、両国
界隈の景観が描かれています。宮戸川とは、江戸時代の隅田川下流の呼称の一つ。長縄は、一本の幹糸から多くの
釣糸を垂らす釣法のことです。奥の建物は幕府の軍船を係留する「御船蔵(おふなぐら)」で、今の千歳一丁目から
新大橋にかけての一帯にありました。4800坪の土地に14棟の船蔵が並び、徳川家光が新造した軍船形式の御座船
「安宅丸(あたけまる)」も係留されていたことから、この一帯は「御船蔵安宅町」と呼ばれていました。

A print from the Sea at Chie series composed with formative art depicting the interwoven water and fishermen.
The fishing scene on the Miyato River as seen from the banks of Hamacho shows a Panorama of the
neighborhood of Ryogoku.The Miyato River was one of the names of a downriver portion of the Sumida
River during the Edo Era.Long-line fishing is a method of fishing in which many hooked lines lead off from
a single main line.The building at the rear are the Ofunagura boathouses in which the Shogun's military
vessels were stored, and this consists of an area from Chitose 1-chome to Shin-Ohashi Bridge today.Fourteen
boart houses were lined up along an area of land 4,800 tsubo(15,864 square meters) in size, and this piece
of land was called Ofunagura Atakecho owing to the fact that lemitsu Tokugawa's newly-build state barge,
the Atake Maru, which assumed the shape of a military vessel, was also anchored here.
 






        忠 臣 蔵
一 之 橋

一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際の
最初に渡った橋として知られているそうです。
住 所 / 両国一の橋通り  
 





         





      

忠 臣 蔵 ・一 之 橋

幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、
掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
万治二年(一六五九)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意
で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、巾二間半ほどありました。堅川の両岸には全国から水運で
もたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。






       御 船 蔵 跡
この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の
艦船を格納する御船蔵がありました。
住 所 / 千歳1-5-15   電話 / 03-3631-8273
 





         






タイトル:名所江戸百景 
大はしあたけの夕立
著者:広重   出版者:魚栄
出版年月日:安政4 
  
          
本 所 深 川 絵 図







        

江戸の町
Site of Ofunagura, ship hangar
御 船 蔵 跡   48
この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。
四千八百九十坪の広大な土地に大小十四棟の船蔵が並んでいて、巨大な軍船「安宅(あたか)丸」
は船蔵の外に係留されていました。安宅丸の取り壊しを機に供養塔が建てられたことから、
ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれています。
明暦三年(一六五七)頃の「明暦江戸大絵図」には、すでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、
川下の尾張屋敷との間の堀に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれています。
 






       両国フォークロアセンター
60年代よりウディ・ガースリーのフィルム上映会などを
手がけていた國崎清秀氏が、1970年に始めたイベント
スペースであり、まだライブハウスなどという言葉もない
時代に定期的にライブやフィルム上映会を行い、高田渡ら
日本のフォーク勢のみならず、外国のミュージシャンも
多くここで演奏を繰り広げた「伝説」が残っている。
住 所 / 千歳1-5-15   電話 / 03-3631-8273
 





         





            






        相 生 町 跡
1688(元禄元)年~1697(元禄10)年にかけて、本因坊拝領屋敷、
川筋常設請負者の助成地等となり、相生町1~5丁目が誕生
祝賀の意をもって相生町の名前が付けられたそうです。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。
住 所 / 両国2丁目2





         





       

江 戸 の 町
Site of former Ai oi-cho
相 生 町 跡
ここから東側は相生町といわれていました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図によると、一之橋から二之橋
東側にかけての堅川沿いが相生町となっています。元禄二年(一六八九)から徐々に町屋ができていった
ようです。町名は、おめでたい言葉である「相生」がつけられました。なお、旧両国橋の東詰め、隅田川
と堅川が交差する角地が、相生と対をなす「尾上」町と名付けられました。相生町五丁目(現、緑一丁目)
には、俳人の小林一茶が、深川の愛宕神社居住の後に文化元年(一八〇四)十月頃から祖母の三十三回忌に
郷里に旅立つまでの文化五年(一八〇八)まで住んでいました。
                                墨 田 区






     

忠 臣 蔵
 吉 良 邸 裏 門 跡 

。赤穂浪士討ち入りの際に大石主税以下24名が侵入した所。
約2500坪の広大な敷地だったそうです。
住 所 / 両国 3-10






         





        

忠 臣 蔵
Site of the back gate of lord Kira’s former residence
吉 良 邸 裏 門 跡   31

吉良邸の裏門はこの辺りにありました。赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き
壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。吉良家にも何人か勇士が
いましたが、寝間き姿では鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には到底適わなかったようです。広大な屋敷の
中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が三十八名だったのに対し、赤穂
浪士側は二名が軽い傷を負っただけでした。

                                                             墨 田 区






      


江  東  義  塾  跡 
夏目漱石が教師をしていた私立学校がありました。
当時漱石は、大学予備門 (一高) で学んでいました
住 所 / 両国 3-9-1 





         





      

江  東  義  塾  跡
絵 画 と 文 学

Site of former Koto Gijuku School
文豪、夏目漱石が明治十九年 (一八八六) から約一年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。
当時漱石は、大学予備門 (一高) で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、
ほとんどの教科で主席でした。漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同
で設けたもので、・・・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二
時間だけで、予備門から帰って来ておしえることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強を
することができた。」といったことが書かれています。

                                                                墨 田 区






      
相 撲 写 真 資 料 館
歴代の横綱や力士の暮らしの写真と資料が
展示されています。
住 所:両国3-13-2   電 話 : 03-3631-2150
開 館:火 10:00~17:00 ただし初・5月・9月場所中は毎日。






          






      
与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地
この横町の左手に, 江戸握り鮨発祥といわれる
与兵衛鮨がありました。文政の初めに, 初代・
小泉与兵衛(1799 ~1858)により大成されました。
住 所 / 両 国 1-8





         







与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地
所 在 墨田区両国1丁目8番
 この横町の左手に, 江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに, 初代・小泉与兵衛
(1799 ~1858)により大成されました。小泉与兵衛は, 霊岸島の生まれでしたが, 次々と商売を替えて, 本所で
暮らすようになりました。その頃に, 大阪風の押し鮨にあきたらず, これを江戸風に鮮度を保ち, 手早く造る
方法を工夫しました。始めは, 毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが, 評判を呼ぶようになり, 屋台を出し,
後には店舗を開くほどになり, 殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。当時の狂歌きょうか
にも「鯛比良目ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができ
ます。また, 食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で
山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。以後, 昭和5年に惜しくも廃業しました。
平成12年3月
                  墨田区教育委員会






      
江 戸 の 町
与 兵 衛 す し 跡

現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは約二百年前
の文政年間で、小泉与兵衛が考案したといわれています。
住 所 / 両国1-8-11
 





         





       


江 戸 の 町
Site of the former Yohei Sushi
与兵衛すし跡   27
現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは、約二百年前の文政年間で、小泉与兵衛が考案したと
いわれています。当時は鮨といえば大阪風の押し鮨ばかりだったところを、酢で締めた飯の上に、ワサビを
はさんでネタを乗せて握られたものを屋台で立ち喰いするという新しいスタイルは、一挙に江戸っ子の
人気となりました。与兵衛は、握り鮨を岡持に入れて盛り場を売り歩くことから始め、屋台、裏店での
店売りを経て、文政七年(一八二四)に元町(両国一丁目)に「華屋」という屋号の店を開き大繁盛しました。
この成功によって鮨屋という形態が確立し、その軒数が増えるに従って、職人が腕を競うようになり、
一大食文化を築きました。






         鬼 平 情 景
     料 亭 「井 筒

Upmarket restaurant
“Izutsu” in the novel “Onihei”
小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する
料亭で、この辺りにあったとされています。
住 所 / 両国1-8-11





         





        

鬼 平 情 景
Upmarket restaurant “Izutsu”in the novel“Onihei”
料亭「井 筒」 28
小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する料亭で、この辺りにあったとされています。この小説には、
裏の世界の人間がたくさん出てきます。羽沢の嘉兵衛もその一人です。表向きは両国で「井筒」という
大きな料亭を経営していますが、裏では土地の盛り場ににらみをきかす香具師の元締で、江戸市中の暗黒街
では知らない者はいません。大阪でたいへん羽ぶりがいい香具師の元締、白子の菊右衛門と親交が深く、
その菊右衛門の依頼で、鬼平を暗殺しようとします。その計画は失敗に終わりますが、嘉兵衛はその後も
鬼平の手を焼かせます。






       
出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)
大正六年(一九一七)一月場所から大正十年(一九二一)
五月場所まで、十場所連続で出羽海部屋所属力士が
優勝(栃木山五回、大錦四回、常ノ花一回)していますが、
これは現在でも破られていない大相撲記録です。
住所 / 両国2-3-15 





         







相 撲 部 屋
Dewanoumi Stable
出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)
師匠は、十一代・出羽海昭和(元小城の花)。出羽海部屋は現存する部屋では、最多の九人の横綱を輩出した
ほか、三人が相撲協会理事長を務めるなど、相撲界の名門中の名門、十二部屋からなる出羽海一門の中心
す。その歴史は古く、初代・出羽海は、天明から寛政年間(一七八一~一八〇〇年)に活躍した前頭筆頭・
出羽ノ海金蔵(のちに、運右衛門)で、年寄資格を得て、出羽ノ海部屋を創設しましたが、文化五年(一八〇八)
に部屋はいったん閉じられたとされています。現在の出羽海部屋は、文久二年(一八六二)、桂川立吉が出羽ノ海
を襲名、出羽海部屋を創設したもので、以来、今日まで連綿と継承されています。大正六年(一九一七)一月
場所から大正十年(一九二一)五月場所まで、十場所連続で出羽海部屋所属力士が優勝(栃木山五回大錦四回、
常ノ花一回)していますが、これは現在でも破られていない大相撲記録です。
               墨  田  区






       

相 撲 部 屋
井 筒 部 屋
(時津風一門)
明治時代、七代・井筒 (第十六代横綱・初代西ノ海)
によって創設
住 所 / 両国2-2-7
 





         







相  撲  部  屋
Izutsu Stabe
井  筒  部  屋 (時津風一門)
師匠は、十四代・井筒好昭 (元関脇・逆鉾) 。
明治時代、七代・井筒 (第十六代横綱・初代西ノ海) によって創設。昭和十九年 (一九四四)九月、九代・井筒の
死去に伴い一時消滅。昭和二十二年 (一九四七) 六月、元幕内・鶴ヶ嶺道良が十代・井筒を襲名し、井筒部屋を
再興しましたが、昭和四十九年 (一九七四) 四月、十一代井筒は井筒の年寄り名跡を返上、陸奥を襲名、陸奥部屋
へ名称変更し、井筒部屋は再度消滅しました。同年七月、九重部屋所属の第五十二代横綱・北の富士が引退、
十二代・井筒を襲名、九重部屋から分家独立して井筒部屋を創設しましたが、昭和五十二年 (一九七七) 十一月、
十一代・九重の死去に伴い十二代・九重を襲名、九重部屋を継承したため、井筒部屋の名称はここでも一時消滅
しました。翌月の同年十二月、君ヶ濱親方 (元関脇・鶴ヶ嶺) は、昭和四十七年 (一九七二)、井筒部屋から分家
独立、君ヶ濱部屋をを創設していたが、十三代・井筒昭男を襲名、部屋名称を井筒部屋に変更し、
今日に至っています。
                           墨 田 区






      
塩  原  橋
裸一貫から、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷
に炭屋塩原」と歌に詠まれるほどの成功を収めた江戸時代
の豪商、塩原太助が近くに住んでいました。
住 所 / 両国三丁目1番から千歳一丁目9番 
 





         





     

塩 原 橋 の 由 来
塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。当時は木橋でしたが、昭和29年
3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、
津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町
(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。
歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。天明元年
(1781)当時、本所相生町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈篭は今も境内に残っています。
               平成4年3月  墨 田 区






      


烏 亭 焉 馬(うていえんば)居住の地
烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者、狂歌師で、
江戸落語を中興した人物です。
所在地 / 墨田区千歳2-14





         





        

烏 亭 焉 馬(うていえんば)居 住 の 地
所在地 墨田区千歳二丁目十四番
烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。本名は中村英祝、
通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。寛保三年 (一七四三) に本所相生町三丁目
(現墨田区両国四丁目) に生まれ、文政五年 (一八二二) に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたことから、
太田南?は『太平楽紀文』の序文で、「相生町のはへぬき」と呼びました。焉馬の父は大工棟梁、兄も山形
庄内藩お抱えの棟梁でした。演劇や茶番に通じ、俳諧や狂歌を嗜むなど町人としては余裕のある暮らしぶり
でした。隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香道を営み、さらにゆとりが増えます。
多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に活動します。まず、作品として両国の見世物
を題材とした滑稽本や、現在でも上演される人気演目「碁太平記白石噺」などが発表されます。天明六年
(一七八六) 、向島の料亭武蔵屋にて「落噺(らくはなし)の会」が行われました。焉馬の狂歌師仲間や競演作者
たちが百人余り集い、その中には焉馬が贔屓にする五代目市川團十郎もいました。その後、焉馬の自宅などで
定会 (月例会) が開かれるようになり鹿野武左衛門以来途絶えていた落語が復活しました。この流れから初代
三笑亭可楽(さんしょうていからく)や初代三遊亭圓生らの職業落語家が誕生し、現在に伝統をつないでいます。
ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖と呼ばれています。現在、牛嶋神社の境内にある焉馬の狂歌碑
(墨田区登録有形文化財)には「いそがずば濡れまじものと夕立の西とよりはるる堪忍の虹」談州楼 烏亭焉馬」、
裏面には「文化七???三月吉日建  本所堅川相生町  中村和助英祝」と刻まれています。
  墨田区教育委員会






      
江 島 杉 山 神 社

盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693)当地に
五代将軍綱吉より屋敷地を拝領、彼が修業した江
の島の弁天岩窟を模して屋敷内に創建されました。
 祭日→杉山大祭5月18日
住 所 / 千歳1-8-2 電話 / 03-3863-1308
 





         





         

江 戸 の 町
Ejima-sugiyama Shrine
江 島 杉 山 神 社
鍼術の神様・杉山和一(一六一〇~九四)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの
土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。
神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。和一は、現在の三重県津市の出身で
幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術
を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。この評判
を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。







江 島 杉 山 神 社   由 緒
        墨田区千歳1-8-2  03-3863-1308
当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。
杉山和一(慶長十五年〈一六一〇〉年~元禄七年〈一六九四〉年)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃
失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて
七日七夜の参籠をした。業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探って
みると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。「いくら細い鍼でも管に
入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。
躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江
豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、
世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十(一六七○)年一月、和一は六一歳にして検校の位を
受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。元禄五(一六九二)年五月九日将軍
より総検校に任ぜられる。和一が八三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みのものはないか」
との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が
高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、
本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七(一六九四)年五月十八日八四歳没。
明治四年、当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、
社名も江島神社となる。明治二三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀、震災、
戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和二七年合祀し、江島杉山神社となる。





          
杉山和一に正五位が追贈されたことを記念して、
大正十五年(1926)に建てられた点字の石碑。 





         





 

杉 山 和 一 と 総 禄 屋 敷 跡
所在 墨田区千歳一丁目八番二号江島杉山神社内
 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄屋敷の跡です。
杉山和一は慶長十五年(一六一〇)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼児に失明、はじめ
江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼灸・入江豊明に弟子入りしました。厳しい修業の
後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。
杉山流管針術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は
日増しに高まり、寛文十年(一六七○)、検校に任じられました。さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を
尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝え
られています。時に元禄六年(一六九三)六月のことでした。一町四方(約一万二千平方メートル)の土地
に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼灸講習所もありました。現在の神社の名は、土地の
拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した
洞窟があります。
    平成十六年八月
                  墨田区教育委員会


                                                   ペ ー ジ ト ッ プ へ






つぶやきいってみよう
江島杉山神社入口 バス停


        江島杉山神社入口



       一 元 ヤ(うつわ)
江戸時代の文化二年創業という老舗の和食器屋さんで、
伝統的な焼物はもちろん、現代風の食器や小物類まで
品揃えが豊富で、お手頃な価格で誰にでも買えます。
楽しくて嬉しい癒しの場所!
テーブルコーディネーターの資格をお持ちとの事!
住 所 / 千歳1-5-15 電 話 / 03-5669-5232
定休日 / 日・祝  営業時間 / 10:30~18:00





         





         





         





         





         





                      

                                                      ペ ー ジ ト ッ プ へ






墨田区内循環バス時刻
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






Copyright (C) 2011 K Asasaka All Rights Reserved