スカイ姫のつぶやき19 つぶやき街角南部ルート5 (勝海舟生誕の地・吉良邸跡入口~弥勒寺前) https://sky-princess.com/south5.html



                                   
                                     to top page  つぶやきいってみようへ
     葛飾北斎(新板浮絵忠臣蔵 第十一段目元禄赤穂事件」 〇本所立川、━富嶽三十六景━

吉良邸跡(本所松坂町公園)  〇吉良邸正門跡  〇鏡師中島伊勢住居跡  
 
赤穂浪士前原伊助住居跡  〇相撲部屋時津風部屋(時津風一門)    〇塩原太助炭屋跡

鬼平犯科帳(煙草屋壺屋)  〇将棋指しの八代伊藤宗印屋敷跡   〇錨の由来
 
芥川龍之介の文学碑
  尺 振八共立学舎跡  本因坊屋敷跡   〇二 之 橋

鬼平情景・軍鶏なべ屋「五鉄」    〇桐屋 田中     勝海舟生誕の地
千歳三丁目西(六間堀跡)     地中から見つかった六間堀の護岸の石の外壁(山崎製パン中央研究所) 
  
弥 勒 寺 橋 跡
    六間堀児童遊園
弥  勒  寺  前   弥 勒 寺     五 間 堀 跡





        



           葛 飾 北 斎
Shinban Ukie Chushingura : Dai
Juichi-Danme (Newly Published Perspective
Pictures of Chushingura:Act 11)
新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目
元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。
吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵
の様式で描かれております。




     







新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目
「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた
「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様子で描かれており、軒先や建物の
ラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。
この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曽祖父であると、北斎自から語っていたそうです。

A print from the series depicting the Genroku Ako incident.This uki-e print depicts the climax Of Kanadehon
Chushingura,which was performed frequently in puppet shows and Kabuki at that time, showing the forty-seven
Ronin raiding the Kira Residence,and the lines of the building’s eaves and the building itself express a deepperspective.
The person putting up a solitary fight against the forty-seven Ronin is Heihachiro Kobayashi, one of the kira master swordsmen,It is said that Hokusai used to speak of Heihachiro Kobayashi, a man who bravely died protecting
ozukenosuke Kira that night ,was his own grandifather.






        
葛 飾 北 斎
Thirty-six View Of Mount Fuji: Honjo Tatekawa
(The Timberyard at Honjo)
本 所 立 川  ━富嶽三十六景━
隅田川にそそぐ竪川の両脇に並んでいた
材木問屋を描いています。 




     




     


本 所 立 川  ━富嶽三十六景━
富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、堅川の北側
(旧相生町一丁目~二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と
職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意
とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂
仕入」などの墨書きがあり、版元名とその場所、本シリーズ(「富嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt.Fuji. This print was made when
Hokusai was about seventy years old. During the Edo Era. timberyards that used the river for transporting timber
were crowed along the north bank of the Tatekawa River (nearby the former Aioicho 1-chome through to 2-chome).
Hokusai has depicted a scene of Mt .Fuji seen from between the timberyards,the workers and the timber.The
composition of this print with Mt.Fuji visible between the piles of timber is typical of Hokusai, who was very
proficient at expressing perspective. “Nishimura Storage Yard”is written on the timber storage area at the bottom
right-hand side amd “2-Chome Bakurocho”and“Supplied by Eijudo”is written on the timber on the left and right
of this, enabling Hokusai to casually advertisethe name and address of the Thirty-six Views of Mount Fuji
series' publisher.






    
本所松坂町公園(吉良上野介屋敷跡)
住 所 / 両国3-13-9   電 話 / 03-5608-6951
 
       






         





         





          

忠 臣 蔵
Site of former residence of lord Kira
吉 良 邸 跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は二千五百五十坪
(約八四00平方メートル)だったとされています。吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(一七〇一)三月の刀傷事件
の数カ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えて
います。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。
この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った
稲荷神社が残されています。





                 

本 所 松 坂 町、公 園 由 来
      所在地 墨田区両国三丁目十三番九号
      面 積 九十七・五六平方メートル

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂浪士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、
吉良邸は松坂町一、二丁目(両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、
年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、
遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史跡公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月
墨田区に移管されました。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、
園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面
には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。






       
忠 臣 蔵
吉 良 邸 正 門 跡

この辺りに吉良邸正門がありました。元禄十五年 (1702)
十二月十四日、寅の刻 (午前四時) の七つ鐘を合図に
正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子
で邸内に侵入しました。
住 所 / 両国3-6-7





         





         

忠 臣 蔵
Site of the main gate of Lord Kira’s former residence
吉 良 邸 正 門 跡
この辺りに吉良邸正門がありました。元禄十五年 (十七0二) 十二月十四日、寅の刻 (午前四時) の七つ鐘を
聞いた後、正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、
「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、
大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に
飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、速水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて
威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。






     

赤穂浪士前原伊助宅跡
赤穂浪士四十七士の一人で、米屋五兵衛として吉良邸
裏門のすぐそばに米屋を開業して、吉良邸を探って
いたそうです。
住 所 / 両国3-2-4 





         





        

忠 臣 蔵
Site of former residence of Maebara Isuke
前 原 伊 助 宅 跡

この辺りに、前原伊助宅がありました。伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男
として生まれ、延宝四年(一六七六)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。
浅野内匠頭の刀傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、
やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を
探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。討ち入りの直前には、亡君の刀傷事件から討ち入り
までの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。






      
絵 画 と 文 学
鏡師 中 島 伊 勢 住 居 跡
伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(1763)
後の葛飾北斎 となる時太郎を養子にしました。
住 所 / 墨田区両国3-14-6 





         





       

絵 画 と 文 学
Site of former residence of Nakajima Ise
鏡 師 中 島 伊 勢 住 居 跡
中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。
伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(一七六三)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子とします。北斎の
出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に
家督を譲りますが北斎はその後も中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説も
あります。飯島虚心の『葛飾北斎伝によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林
平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです。






        相 撲 部 屋
時 津 風 部 屋 (時津風一門)
師匠は、十六代・時津風正博 (元前頭・時津海)
住 所 / 両国3-15-4
 





         





         







相 撲 部 屋
Tokitsukazu Stable
時 津 風 部 屋 (時津風一門)
師匠は、十六代・時津風正博 (元前頭・時津海)。昭和十七 (一九四二) 年、当時現役であった第三十五代横綱・
双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士のまま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」
を開いたのが、現在の時津風部屋創設につながっています。幕内最高優勝十二回 (内、全勝八回) 、いまだに
破られない歴代最高記録の六十九連勝など、輝かしい成績を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和二十
(一九四五)年十一月場所後に引退、十二代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋に変更しました。
双葉山道場の看板は、現在も掲げられています。十二代・時津風は、昭和四十三 (一九六八) 年十二月十六日、
満五十六歳で死去するまでの間、約十一年間にわたり、第三代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱
(鏡里・・・十三代・時津風)、三大関(大内山、北葉山、豊山・・・十四代・時津風。第八代相撲協会理事長)
をはじめ、多くの力士を育成しました。
                    墨 田 区






       

 江 戸 の 町
塩 原 太 助 炭 屋 跡

ここに、塩原多助 (1743~1816) の炭屋がありました。
住 所 / 両国3丁目3-1 





         





         





           

江  戸  の  町
Site of Shiobara Tasuke’s shop
塩 原 太 助 炭 屋 跡  42
ここに、塩原多助 (一七四三~一八一六) の炭屋がありました。
太助は、文化年間 (一八〇四~一八一七) の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開きました。十八才
で江戸に出、職を変えながら四十二才で炭屋山口屋に奉公しました。独立後、木炭の粉を丸くこね固めた
炭団が辺り、「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めました。
名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を「塩原多助一代記」として作品化しました。故郷、上野国
(現在の群馬県みなかみ町) にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に
共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材になりました。

                                                            墨 田 区






     
江 戸 の 町
伊 藤 宗 印 屋 敷 跡

明治12年(1879)に十一世微塵を襲位した八代伊藤宗印
が住んでいました。
京葉道路沿いの両国亭の前に立っています。
住 所 / 両国4-30-4 





         





       

江 戸 の 町
Site of former residence of Ito So-in
伊 藤 宗 印 屋敷 跡   17
 明治十二年 (一八七九) に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう
名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の
三家が持ち回りで世襲していました。三家ともはじめは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に
入って宗印だけが戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの屋敷で
腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄です。木村はこの屋敷でめき
めきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。本法寺(横川一‐十二‐十二)にある墓碑は駒形を
したものでしたが、戦災により破損してしまいました。






     
芥 川 龍 之 介 文 学 碑
両国小学校は芥川龍之介の出身校で、江東
尋常小学校と呼ばれていました。
学校の北西の角に自署と児童文学の「杜子春」
の一節が刻まれています。
住所 / 両国4-21-6(両国小学校内)





         





         

芥川龍之介 文学碑

「━━お前はもう仙人になりたい
といふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より
愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何に
なったら好いと思ふな」
「何になっても、人間らしい、
正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない
晴れ晴れした調子が罩って
ゐました。
     「杜子春」より



杜子春」の あらすじ(ウィキペディアより)
唐王朝の洛陽の都。
西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして
散財し、今は乞食同然になっていた。そんな彼を哀れんだ片眼すがめ(斜視)の不思議な老人が、「この場所
を掘る様に」と杜子春に言い含める。その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は
大富豪になる。しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の
下で老人に出会っては黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。3度目、西門の下
に来た杜子春の心境には変化があった。金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を
返したように冷たくあしらわれる。人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人が仙人であることを見破り、
仙術を教えてほしいと懇願する。そこで老人は自分が鉄冠子小説『三国志演義』などに登場する左慈の号)
という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行く。峨眉山の頂上に一人残された
杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰ってくるまで、何があっても口をきいてはならないのというのだ。
虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、
杜子春は一言も言わない。怒った閻魔大王は、畜生道に落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前
で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、苦しみながらも杜子春を思う母親の
心を知り、耐え切れず「お母さん!」と一声、叫んでしまった。叫ぶと同時に杜子春は現実に戻される。
洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。これからは人間らしい暮らしをすると
言う杜子春に 、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を与えて去っていった。


芥川龍之介 文学碑
芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれ
ました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ケ月の時、母ふくが突然
発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳
の時芥川家の養子となりました。芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術
を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家あげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸
趣味豊かな家庭でした。本所は龍之介の幼児時から小青年期までの大事な時期を育くんだ場所で「大導寺信輔の
半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることができます。龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東
尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三
中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。
その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌
『新思潮』『新小説』に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。この文学碑は龍之介の代表作の
一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表
する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、
平成二年十月に建立されたものです。






      日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)
この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事 (旧岡田菊治郎商会)
が軍艦解体作業で得たのを昭和の初年に江東 (現両国)
小学校に寄贈したものである。芥川龍之介の文学碑の隣に
置かれています。
住 所 / 両国4-21-6(両国小学校内)





         







錨(いかり) の 由 来
この錨は日露戦争 (一九〇四年~一九〇五年) で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)」のものである。
この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治三十一年・進水三十二年・三百二十六トン・
(艦長六三・五メートル・五四七〇馬力・三〇ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。
錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事 (旧岡田菊治郎商会) が軍艦解体作業で得たのを昭和の初年に
江東 (現両国) 小学校に寄贈したものである。
平成三年  月
       両国(相生・江東)小学校同窓会





岡田商事: 墨田区両国1-11-5 TEL, 03-3632-2111
岡田商事の建物は『日本近代建築総覧』に載っているそうです。


         






       
尺 振 八 の 共立学舎跡
天保10年(1839) 江戸に生まれた英語学者です。漢学を学んだ後
元年 (1861) に幕府に勤め、同年12月の第一回遣唐使節団に
通訳として福沢諭吉(慶應義塾創設者)などと共に随行し、
同3年(1863) の第2回遣唐使節団にも同行しました。
住 所 / 両国4丁目26番 





         





         





             

尺 振 八 の 共 立 学 舎 跡
所在地 墨田区両国四丁目26番 区立両国小学校付近
尺振八(せきしんぱち)は、天保10年 (1839) 、江戸に生まれた英語学者です。漢学を学んだ後、万延元年 (1860)
にジョン万次郎から英語を学びました。文久元年 (1861) に幕府に勤め、同年12月の第一回遣唐使節団に、通訳
として福沢諭吉(慶應義塾創設者)などと共に随行し、同3年 (1863) の第2回遣唐使節団にも同行しました。振八
の英語学者としての力量は、当時の日本では、天下第一流であったと伝えられています。明治3年 (1870) に
本所相生町(ほんじょあいおいちょう) (現両国四丁目付近) に私塾「共立学舎(きょうりつがくしゃ)」を創設し、
英学教育を行いました。この学校は、名門私塾として有名で、門下生には政治家の島田三郎や波多野伝三郎、
法学博士の田口卯吉など有能な人物がいました。その後、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert
Spencer、当て字で斯辺撤(スペンサー))の❛Education:intellectual,moral,and physical❜(教育論)を翻訳した『斯氏
教育論(すしきょういくろん)』(スペンサー氏の教育論という意味)を刊行しました。
  平成29年3月
                      墨田区教育委員






     
江 戸 の 町
Site of former residence of Hom-inbo
本 因 坊 屋 敷 跡
本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の
三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で棋手
を輩出してきました。
住 所 / 両国3-5-7 





         





         







江 戸 の 町
Site of former residence of Hom-inbo
本 因 坊 屋 敷 跡
ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた
日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋手を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を
務めた寂光時の塔頭の一つに由来しています。もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収
されたためその代地として寛文7年(1667)この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁四
家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・秀和・秀策などの棋手を生んで
います。現在は、実力制で争われるタイトルの1つとして名が残っています。






      
  鬼 平 情 景
煙 草 屋・壺 屋

鬼平情景の作品の数多くに登場し、核となる店です
住 所 / 両国4-4-5






         





               







鬼 平 情 景
煙 草 屋・壺 屋

大盗・蓑火の喜之助の下で修業を積んだ真の盗賊、大滝の五郎蔵が捕縛され、密偵となり親子の契りを結んだ
養父、舟形の宗平と始めました。後に夫婦となった女密偵のおまさも同居するようになりました。作品の
数多くに登場し、核となる店です。「密偵たちの宴」では、冒頭に相模の彦十、小房の条八、伊佐次の三名
が壺屋に集まり、合わせて六名が、豪勢な料理を前に忙中閑の酒盛りをしている場面が出てきます。平蔵が
最も信頼を寄せ、腕の利く密偵たちが思い出話に耽って興趣を高め、その勢いで畜生盗めが支配する世を嘆き、
平蔵に悟られないように本格盗めの手本を示そうという話になる展開には心が踊らさせます。






       鬼 平 情 景 
軍鶏なべ屋「五 鉄」

鬼平犯科帳で重要な舞台となっている軍鶏鍋屋。
日本橋人形町で1760年から続く老舗鶏料理店
玉ひでがモデルといわれています。
中田屋茶舗の前にあります。 





         





         

鬼 平 情 景
軍鶏
(しゃも)なべ屋 「五鉄」
小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二ツ目橋
の角地で南側は堅川」とあるように、この辺りだと推定されます。鬼平とその配下の密偵たちは、ここに
集まって、軍鶏なべをつついていました。その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから
出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐい
ぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。






      
江 戸 の 町
二   之   橋

隅田川より二つ目の橋で本所堅川に架かる橋、鬼平犯科帳
では「二ツ目橋」という名で登場します。中田屋茶舗
の前にあります。
所 在 / 両国4-1-12  





         





        

江 戸 の 町
二  之  橋

万治二年(一六五九)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近い方から一之橋から五之橋と
名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ十間(十八メートル)、幅三間(五・四メートル)ほどありました。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決
するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」
に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。現在の橋は平成十年(一九九八)に
架橋されたものです。






       
勝 海 舟 生 誕 の 地
勝海舟は文政6(1823)年、江戸本所亀沢町にある父の
実家である男谷家で生まれ、7歳までここで生活。独立
してからは実家の近くに居を構えた。咸臨丸で渡米、
帰国後は軍艦奉行となり神戸海軍操練所を開設した。
江戸城無血開城を実現したことで有名。
住 所 / 墨田区両国4-25-3(両国公園内) 





         





         







勝 海 舟 生 誕 の 地
所在の地 墨田区両国4丁目25番
勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅
(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、
文政2年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれた
のは、このためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、
旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々と
し、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居
してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助
(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられて
います。海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843)21歳の時
には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」
を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさ
にその頃、嘉永6年(1853)6月3日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政
2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌3年
に講武所砲術師範役、同6年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。
そして、同7年正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断
に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でます
ます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(1868)3月に行われた西郷隆盛との会見は、
徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の
代表的な事績となりました。海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院
議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治19年(1886)5月に
は酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けて
いました。明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。
平成23年3月 墨田区教育委員会


The birthplace of Katsu Kaishu
The birthplace of katsu kaishu, who is a very famous person in Japanese history (1823-1899).
Katsu was a servant of the Tokugawa Shogun, who learned advanced knowledge from Western
countries including the military in his youth, He took an active role in the mid-19th century
dedicated to the modernization of military forces. He served as the captain of the warship
‘Kanrin Maru’in 1860, taking a delegate with a mission of ratification of the Convention with
the Unaited States to San Francisco.





         







由 来 碑
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助
に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定
して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年77歳であった。墓は洗足池畔に建立
されている。
平成元年10月
墨 田 区 (幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)











       勝 海 舟 幕 末 絵 巻
勝海舟の歩みと、様々な出会い
鳶が鷹を生んだ
勝海舟誕生  文政6年 1823年


勝海舟肖像写真:勝康氏所蔵

勝 海 舟 通称「麟太郎」、本名「義邦」のち「安芳」
【文政6年1月30日―明治32年1月19日】 (1823-1899)
海舟は本所亀沢町にあった、父の実家である、男谷家の屋敷(現在
の両国公園)で生まれました。海舟の曽祖父検校は元々は地方の出
身で、江戸に出て成功し富を得て旗本男谷家の株を買い入れ、息
子(海舟の祖父)平蔵に男谷家を継がせました。海舟の父惟寅は跡
継ぎのいない勝家の婿養子となり勝小吉と称することとなりまし
た。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが、小普請組に属する無
役で、いわゆる貧乏旗本でした。若年期の海舟は貧しい生活を送
りながらも、剣術、蘭学、参禅と修行に励み、この時の剣術と参
禅の修行が自分の精神の土台をつくったと、後に本人が語ってい
ます。
 








長崎海軍伝習所絵図:公益財団法人鍋島報效会所蔵
【安政2年7月29日】(1855年)海軍創設を目指す幕府
が、オランダからの支援を受け設立された教育機
関。海舟は伝習生を監督する「海軍伝習重立取扱」
として、伝習所へ派遣されました。このとき小十
人組となり、無役の小普請組から脱しました。
ここで海舟はオランダ語とともに近代西洋技術、
実践的な操船技術も修得しました。  
 
      幕 府 海 軍 の 礎 と な る
長崎海軍伝習所
 安政2年 1855年


ペリー提督横浜上陸の図:横浜開港資料館所蔵
黒  船  来  航
【嘉永6年6月3日】(1853年)
ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍インド艦隊の艦船が、
浦賀に来航しました。アメリカの軍事力を前にして、対応
に苦慮した老中阿部正弘は、幕閣のみならず広く意見を求
めました。このとき海舟が提出した意見書が幕府内で注目
され海舟は、次いで大阪湾の防備体制を検討するための
現地調査団の一員に命じられ、自らの手で出世への足が
かりを掴みました。
(ペリー提督・横浜上陸の図:横浜開港資料館所蔵 )

島 田 寅 之 助
【文化11年4月3日―嘉永5年9月16日】 (1814-1852)
男谷道場の師範代を勤めたのちに自らの道場を開き、直心影流
島田派の祖となった剣客。海舟も従弟である男谷信友の道場
で剣術を学んだのち、彼の道場に入門、21歳で直心影流免許
皆伝となります。彼の薦めもあって蘭学や参禅修行も修め
した。





 


咸臨丸難航図(鈴藤勇次郎画):木村家所蔵 
横浜開港資料館保管
     勝 海 舟 ア メ リ カ へ
咸臨丸の渡航 安政7年 1860年
【万延元年】(1850年)
幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団をアメリカ
に派遣しました。海舟は随行艦咸臨丸に乗船し航海を指揮、ア
メリカまでの航海は悪天候が続き困難を極めましたが、同乗
していたアメリカ海軍大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助
力もあって、日本の船として始めて太平洋横断に成功しまし
た。安政7年1月13日(1860年2月4日)に品川から出帆したのち、
浦賀に寄り、安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を出港、
安政7年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、
約43日間で航海したとされています。海舟はアメリカの軍事
技術のみならず、政治団体や社会構成について日本との違い
を確認しました。



咸  臨  丸
幕府がオランダから購入した船で、長さ約47m、幅約7.3m,
重量380t、約100馬力の蒸気機関を搭載した木造、3本マス
ト、12門の大砲を備えた帆船で、幕府の所有した初期の軍
艦です。安政4年(1857年)にオランダから日本に送られ、長
崎海軍伝習所の練習艦となり、太平洋横断後は戊辰戦争に
も参加しました。新政府軍に拿捕され、明治政府の開拓史
の輸送船となりました。明治4年(1871年)に輸送中に暴風
雨に遭い沈没しました。
 








(坂本龍馬肖像写真(立位)
高知県立坂本龍馬記念館所蔵 )  


坂 本  龍 馬
【天保6年11月15日―慶応3年11月15日】
1835年―1867年
土佐藩出身 海舟に世界情勢と海軍の重要性を説かれ、
その諸説に感服し弟子となり、海舟の片腕となって神戸
海軍操練所設立に尽力しました。龍馬は姉乙女に宛てた
手紙で「日本第一の人物」と海舟を絶賛しており、深く
尊敬していたことが窺えます。亀山社中(後の海援隊)を
結成し薩長同盟の成立や、大政奉還の成立に尽力する
など、倒幕及び明治維新に大きな影響を与えました。
 
     坂 本 龍 馬 と の 出 会 い


遣欧使節一行 福沢諭吉  東京大学資料編纂所所蔵

福  沢  諭  吉 
【天保5年12月12日―明治34年2月3日】  (1834年―1901年)
中津藩出身 明治維新後は平民となり主に教育者として尽力
しました。慶應義塾の創設者であり、一万円紙幣の肖像にも
なっています。軍艦奉行の木村摂津守の従者として、海舟と
ともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。アメリ
カから帰国した翌年には、欧州各国への文久遣欧使節団にも
通訳方として同行し、西洋文化を目の当たりにした諭吉は、
帰国後、著書、学校、新聞を通して西欧の文化や考え方を日
本に広め、学問の大切さを説きました。
    (遣欧使節一行福沢諭吉  :東京大学史料編纂)


中濱万次郎氏肖像写真:
中濱万次郎直系5代目中濱京氏所蔵

ジョン 万次郎
【文政10年1月1日―明治31年11月12日】  (1827年―1898年)
本名は中濱万次郎 漁師の次男として生まれ、漁の最中に
遭難しアメリカの捕鯨船に救助され渡米、アメリカで英語
や造船技術などを学びました。帰国後は幕府の旗本となり
通訳や教師として活躍しました。通訳として海舟とともに
咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。 
 





 


陸奥宗光肖像写真(青年期) 和歌山市博物館所蔵
      わずか一年の夢の跡
神戸海軍操練所

元治元年 1864年


【元治元年5月開所―翌慶応元年閉所】(1864年―1865年)海舟
は幕府の許可を得て、海軍士官の養成機関である神戸海軍操
練所を開設しました。幕府や雄藩の枠を超えた日本国海軍
の創設を構想し、血筋、家柄、身分に拘泥せず、有能な人
材を集めて養成することが急務と考えた海舟は、幕臣の子
弟だけではなく、操練所とともに設けた私塾である海軍塾
に諸藩の脱藩浪士も受け入れました。しかし、池田屋騒動
や禁門の変などに塾生が参加していたことから、幕府から
「激徒養成」とみなされ。海舟は海軍奉公を罷免され、
操練所は閉鎖されました。
【元治元年5月開所ー翌慶応元年閉所】(1864年ー1865年) 







陸 奥 宗 光
【天保15年7月7日―明治30年8月24日】(1844年―1897年)
紀伊藩出身、海舟の神戸海軍操練所で航海術などを学び、
坂本龍馬の海援隊に加わり、貿易で才能を発揮しました。
明治維新後は政治家や外交官として活躍、地租改正の立案
や、第二次伊藤内閣では外務大臣として不平等条約の改正
や下関条約締結に貢献しました。





 

激動の幕末期と勝海舟
ペリー来航以来、その対応をめぐって政争は激化、
「安政の大獄」によって長州藩や水戸藩を中心とす
る尊王攘夷派と幕府や薩摩藩を主体とする公武合体
派の対立が顕著となります。これに朝廷の動静も加
わり内政は混迷の度を深めていきました。その中で
海舟は、攘夷を排し、有力諸藩と幕府が協力的に国
内を統治する新たな政治体制の構築を目指すべきと
主張しました。将軍徳川慶喜はあくまで、幕府の回
復、強化を目指しますが、武力倒幕などの動きに
直面し、ついに大政奉還を上表します。その後、
王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地の
方針が決定されます。鳥羽・伏見の戦いで完敗した
慶喜は大阪城を脱出し江戸に戻ります。このとき慶
喜は朝敵となり、官軍となった新政府軍は慶喜追
討のため江戸を目指して進撃を開始します
 
    
山岡鉄舟肖像写真
福井市立郷土歴史博物館所蔵


 山
(やま) (おか) (てっ) (しゅう)
【天保7年6月10日―明治21年7月19日】  (1836-1888年)
江戸生まれの幕臣。武術に天賦の才能を示しました。徳川慶喜
の警護役高橋(たかはし)泥(げい)舟(しゅう)が、義弟である鉄舟
を東征大総督府に徳川慶喜恭順の趣旨を伝える使者として、海
舟に紹介しました。鉄舟は、東征軍参謀西郷隆盛と単身で面会
し、慶喜恭順の意を伝え、新政府の徳川家に対する条件を
確認し、江戸城開城の交渉に向けての大役を果たしました。
勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称されています。
 





 




江戸開城談判(結城素明画):聖徳記念絵画館所蔵 
      勝 と 西 郷 で 江 戸 を 救 う
   
江戸城開城 慶応4年1868年

戊 辰 戦 争
【慶応4年1月3日―明治2年5月18日】(1868年―1888年)鳥羽・
伏見の戦いから始まる、新政府軍と旧幕府勢力による一連の
内戦で、鳥羽・伏見の戦い後、旧幕府勢力の指導者である、
徳川慶喜が恭順の意を示し、江戸城を無血開城したことに
よって、以降の戦闘は恭順に従えない旧幕臣及び東北諸藩に
よる戦いとなります。新政府軍に装備で劣る旧幕府軍は、敗
戦を繰り返し、東北各地での戦闘ののち箱館戦争を最後に集
結しました。

「一朝不測の変あらば官軍へ駆入、其罪を一身に
乞はむと決意す。」
(ひとたび予測のつかない事態が発
生したら、自分(海舟)が官軍(東征軍)に駆け入り責任はすべ
て自分が負うことを決意した。)「海舟日記」慶応四年(一八
六八)四月十一日条(江戸城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出発)




【慶応4年3月から4月】(1868年)
東征軍が江戸に迫る中、海舟は徳川慶喜の助命と徳川家の
存続のため、東征軍参謀西郷隆盛との会談にのぞみました。
この会談は3月13、14日の2回にわたって行われ、江戸城明け
渡しについての交渉がなされました。海舟は交渉が決裂した
場合に備え、民衆を避難させた上で江戸市街を焼き払う焦土
作戦と、慶喜を英国に亡命させる準備をしており、和戦両様
の態勢を整えていました。また、海舟は英仏公使への事情工
作も行っていたと推測されています。海舟から嘆願書を受け
取った隆盛は、薩長支持の英公使スパークスに攻撃を反対さ
れていることも考慮し、江戸総攻撃中止を決断、駿府の総督
府に出頭し、その後、京都二条城での三職会議に臨み、隆盛
の尽力によって、海舟の嘆願がほぼ受け入れられるに至りま
した。これにより、江戸城は天正18年(1590年)以来、278年
間、徳川氏の居城でありましたが、ついに無血開城され、
江戸市民は戦火から守られ、軍事介入による内乱も防止
されるに至りました。
 






       桐 屋 田 中

創業明治25年の桐箪笥メーカーの桐の博物館

住 所:本店-両国4-1-8 
電 話:03-3632-0341   0120-72-1001
定 休 日:水曜   営業時間:9:00~180  





         





         





         





         





         





             





         






        千歳三丁目西(六間堀跡)



        山崎製パン株式会社/本社/中央研究所
地中から見つかった六間堀の護岸の石の外壁!
六間堀は竪川と小名木川とを南北につなぐ運河で、
隅田川のやや東側を流れていました。戦後、
空襲の瓦礫処理の為に埋められてしまったそうです。
墨田区千歳3丁目15−6
03-3632-0630





         





         

「六間堀」石組護岸の石垣

  “Rokkenbori” Ishigaki Stone Wall Block

「六間堀」という名称は、川幅が六間(11m)であるところから付けら、江戸時代から重要な水路でした。
「六間堀」の開削年代は不明ですが、寛文
11(1671)の江戸外絵図には記載されており、深川村開拓当初、
堅川と小名木川を結ぶ水路として既に開けていたようです。
(長さ約900m)下の石垣は、当ビル建設の際、
地中から見つかった「六間堀」の護岸の石を並べ、堀の石垣を再現したものです。



















       六 間 堀 児 童 遊 園
昭和34年4月1日に墨田区の六間堀跡に開園されました。
六間堀は、江戸時代の慶長年間に疎通した小名木川と、
明暦の大火後の万治2年に開削された竪川を結ぶ幅六間
(10.8m)、長さ900m程の掘割(北端→墨田区千歳3-18 
南端→江東区常盤1-19)で、江戸時代には大名屋敷
が並んでいたそうです。
墨田区千歳三丁目1番1号






突き当たりは新大橋通りです。
            





         





         





         






       弥 勒 寺 橋 跡
弥勒寺橋は、清澄通が五間掘と交わる森下駅のところに
架けられていた橋で、名前の由来が近くに在る弥勒寺
からきています。
住 所:江東区森下





         





        

弥勒寺橋(みろくじばし)
 弥勒寺橋は六間堀からわかれる五間堀にかけられていた橋です。この橋の初見は寛文十一年
(一六七一) の江戸図で、江戸時代前期には、すでに架橋されていたことがわかります。
弥勒寺橋という名称は、橋の北東に真言宗弥勒寺があったことに由来します。しかし、弥勒寺は、
元禄二年(一六八九)に本所へ移ってきたので、弥勒寺橋と呼ばれるようになったのはそれ以降のことと
考えられます。五軒堀は、昭和一一年(一九三六)・昭和三0年の二度の埋め立て許可により、全て埋め
立られ、その後弥勒寺橋も廃橋となりました。
平成十二年八月
              江東区






        弥  勒  寺  前



       
弥 勒 寺 
弥勒寺は、慶長15年(1610)僧宥鑁が小石川鷹匠町
に創建、元禄2年(1689)本所に移転したといいます。
真言宗関東四ヶ寺の一つとして触頭を勤めた大寺でした。
鍼灸師杉山検校の墓所があります。
住 所:立川1-4-13





         





         





          

東京都指定旧跡
杉 山 和 一 墓
            所在地 墨田区立川一丁目四番十三号  弥勒寺内
指 定 昭和十八年五月
 江戸時代の鍼医。慶長十五年(一六一〇)伊勢に生まれ名は和一といい、父は藤堂家の家臣。幼くして失明し、
江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学んだ。江の島弁天祠に詣でて断食祈願を行い、杉山流管鍼術を創案した。
さらに京都の入江豊明について鍼術を学び、その道の奥義を窮めた。貞享二年(一六八五)、五代将軍綱吉
の病を治療して厚く賞され、のちに禄五百石を賜り、さらに三百石を加えられた。元禄五年(一六九二)
関東総検校に任じられ本所一ツ目に方一町(約一万二千平方メートル)の宅地を与えられた。和一はここに
鍼治講習所と弁天堂を建立したほか、諸国に講堂を建てて多くの門人を育てた。著書には『療治之大概集』
『選鍼三要集』 『医学節要集』等がある。元禄七年(一六九四)五月十八日、八十五歳で没した。
    平成二十年十二月   設置
          東京都教育委員会

Historic Places
Sugiyama Waichi Haka
(The grave of Sugiyama Waichi)

Provisionally designated in 1924,Designated in 1955 Sugiyama Waichi (1610-94) is
an acupuncturist in the early Edo period.
He lost his eyesight in his childhood, and then
came up to Edo and
learned acupuncture from Yamase Takuichi,a Kengyo (the highest rank
within an association of blind men).Fasting and praying at Enoshima Benten Shrine, he
established the Sugiyama method of tube acupuncture.
In 1685, he successfully cured the fifth
shogun Tsunayoshi’s illness and
received high praise.Waichi was appointed the first Head
of Kengyo
for Kanto region in1692.

        Tokyo Metropolitan Board of Education







 江戸名所図会  第4巻  著者 :斎藤幸雄 [等著]
右側の斜めの道に,竪川(たてかわ)二の橋(にのはし)通りと書かれています。
竪川二の橋通りとは、現在の清澄
(きよすみ)通りです。竪川二の橋通りから本堂に続く参道が書かれています。
参道の右側に塔中
(たっちゅう)と書かれています、これは寺院内の小寺院で、昔は6寺院ほどあったようです
絵の上の川は五間堀川です。五間堀川は既に埋め立てられていて、当時の川の流れは公園、道路などになって残っています。
弥勒寺は、鬼平犯科帳シリーズで、お熊ばあさんの営む茶店「笹や」が在る寺としてお馴染みです。






        五 間 堀 跡
川幅が五間(約九m)であるところから付けられた
名称で六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした
江東区森下森下1-17~3-13





         





    

江東区登録史跡
 
五 間 堀 跡
    江東区森下一~一七~三~一三
 五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間堀からわかれる入り堀です。五間堀という名称は川幅が五間
(約九m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。
 五間堀の初見は寛文一一年(一六七一)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削
された時期は、明暦の大火(一六五七)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(一六五八~六〇)
ころか、それ以前と考えられます。五間堀は江戸時代には富川町(森下三)までで留となっていましたが、
明治八年(一八七五)、付近の地主であった元尾張藩主德川義宣(よしのり)により堀りすすめられ、
明治一〇年ころに小名木川まで貫通しました。昭和一一年(一九三六)・昭和三〇年の二度の埋め立て
により、現在、五間堀は全て埋め立てられています。
    平成一二年三月
            江東区教育委員会

                                               ペ ー ジ ト ッ プ へ





つぶやきいってみよう
勝海舟生誕之地・吉良邸跡入口バス停~弥勒寺前バス停


    〇大 川 屋 本 店     〇大 川 屋 支 店     〇中 田 屋 茶 舗 



        



       大 川 屋 本 店
本所松坂町と呼ばれていた明治2年(1869)に開業。
お店の一帯は、忠臣蔵の舞台である吉良邸があった
場所で、代々のご主人が味ひとすじに江戸のお菓子
を作ってこられたそうです。
住 所:両国3-7-5 定 休 日:月曜日
電 話:03-3631-3759  営業時間:9:00~18:00  





         






       【大 川 屋 支 店】
大川屋さんは、吉良邸前の本店と清澄通の両国四丁目店
があり、商品は本店の工場から毎日配送されてきます。
最中、団子などの和菓子は、純国産の北海道の小豆を
使用しています。
住 所:両国4-18-6 営業時間:10:30~18:00
日曜営業 





         






      
(株) 中 田 屋 茶 舗
安政元年創業のお茶屋さん
住 所:本店-両国4-1-12 支店-両国4-32-13
電 話:03-3632-1122  03-3634-5537
定 休 日:日曜・祭日  営業時間:9:00~19:00  





         





            

中 田 屋 茶 舗
両国では数少ない、江戸は安政元年(1854)の創業です。この年は、前年のペリー来航を受けた
日米和親条約が締結され、翌年には安政の大地震が発生するという、政治、社会の両面において、
激動の時代を迎えようとする時期に当たります。このような時、日本橋の老舗茶舗「山本山」
で修行を積んでいた中田屋創業者は独立の道を選び、現在の店に程近い、荷揚げに便利な堅川沿
いの本所相生町に店を構えました。当時は、周囲の多くの店と同様、問屋を営んでいました。
昭和20年(1945)の大空襲で店を焼失し、間もなく現在地に再建し、昭和52年(1977)には京葉道路
沿いに支店を出しています。

                                                  ペ ー ジ ト ッ プ へ





墨田区内循環バス時刻
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






Copyright (C) 2011 K Asasaka All Rights Reserved