つぶやき街角南部ルート6パソコン編
元徳稲荷神社入口~本所中学校入口

  相撲の高砂部屋親方の高砂浦五郎が、津軽上屋敷の跡地であったこの地に祀った野見宿禰神社、
歌舞伎劇場寿座、自転車の宮田製作所、赤穂浪士四十七士 堀部安兵衛武庸道場跡他8件を表示


                                machikado    店・工場関係

        元徳稲荷神社入口

宮 田 製 作 所 跡      長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡(歯科医院前)

 長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡(菊川駅前)

赤穂浪士四十七士 堀部安兵衛武庸道場跡   名刺と紙製品の博物館、山櫻


        みどりコミュニティー センター

鬼平犯科帳長谷川平蔵の住居跡     小林一茶居住の地

長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡       玉の肌石鹸

本所寿座(寿劇場)跡   墨田区みどりコミュニィティセンター


        野見宿禰神社入口

野見宿禰神社(のみすくね)(大相撲) 


        石 原 二 丁 目 南

松倉米吉住居       九 重 部 屋      栗本鋤雲住居跡 

徳ノ山稲荷神社          日本帝國海軍の駆逐艦「初霜」の主錨(アンカー)


        若 宮 公 園 入 口

墨田電話局の慰霊碑        能勢妙見山 東京別院  


        本 所 中 学 校 入 口

将棋名人木村義雄生誕の地     船 江 神 社     明徳小学校発祥の地

世界のホームラン王の碑     明徳小学校跡碑      錺かんざし・かざり工芸三浦

  墨田区立吾妻橋公園



        元徳稲荷神社入口



           宮 田 製 作 所 跡
新式猟銃の開発・量産に努めていましたが、狩猟法改正
の影響などもあって国産猟銃の需要は減退し、新たな産
業として自転車生産を主力にすべく方向転換を計りまし
た。アメリカ製の自転車をモデルとした「旭号」を第五
回内国勧業博覧会に出品して高い評価を受け、以後、
本格的に自転車の製造を手がけるようになりまた。
所在地 / 菊川3-3  





         





 

宮 田 製 作 所 跡
 所在地  墨田区菊川三丁目三番
 宮田製作所は、宮田栄助(一八四〇~一九〇〇)が、明治十四年(一八八一)
に京橋区木挽町一丁目(現中央区銀座)に創設した宮田製銃所から始まりました。
栄助はもと笠間藩抱えの鉄砲鍛冶師で、廃藩後、
砲兵工廠(ほうへいこうしょう)に勤めながら資金を貯え、
資本家大倉喜八郎の後援を得て工場を開設しました。当地 (本所区菊川町)に工場
を移したのは明治二十三年(一八九〇)のことで、次男政治郎 (一八六五~一九三一 
後の二代目宮田栄助)が協力しました。政治郎は父と同じく鉄砲鍛冶の修行経験をも
つ在来技術者の一人でしたが、田中久重工場 (東芝の前身)などに勤めたことから
近代的技術にも通じ、外国人からの依頼を受けて自転車修理を手がけるようになりました。
新工場の開設後は
旋盤(せんばん)など先進的な工作機械を導入し、新式猟銃の開発・量産に
努めていましたが、狩猟法改正の影響などもあって国産猟銃の需要は減退し、新たな
産業を興す必要が生じました。そこで自転車生産を主力にすべく、政治郎は方向転換を
計ったのです。政治郎は鋼棒を
穿孔(せんこう)する銃身製造技術を活かし、工場移転後、安全型
自転車の試作に成功しました。明治三十三年 (一九〇〇) には商号を宮田作所に改称し、
同三十六年にはアメリカ製の自転車をモデルとした「旭号」を第五回内国勧業博覧会に
出品して高い評価を受け、以後、本格的に自転車の製造を手がけるようになりました。
  平成二十七年五月
       墨田区教育委員会






            名刺と紙製品の博物館 山櫻
楽しい紙製品のグッズの数々が展示されていて、紙製品
を使ったワークショップなどが開かれています。又、
名刺の製造に関わる古い機械が展示されています。
所在地 :立川3-1-7
株式会社 山櫻 墨田支店 3F
開館時間 : 前10時から午後5時
電話 : 5625-0630





         





         





         






           長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡
平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の
屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通りの
千二百三十八坪の邸に移りました。天明6年(1786)
、御先手弓頭に昇進して火付盗賊改役につき、8年間
の在職中に石川島の人足寄場を創設したり、多くの
犯罪者を更生させたことで有名です。
所在地 : 菊川3-16-2





         







長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
住 所 墨田区菊川三丁目十六番地二号
長谷川平蔵宣以のぶためは、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。平蔵
十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの
本所三之橋通りの千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西端に
あたります。長谷川家は家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(一七八六)、
かつて父もその職にあった役高(やくだか)千五百石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)
も兼務しました。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも
知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。
また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の
人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職場
訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始した
といえることです。寛政七年(一七九五)病を得てこの地に没し、孫の代
で屋敷替えとなり、替わって入居したのは遠山左衛門尉景元(とうやまさえもんのじょうかげもと)です。通称は金四郎。
時代劇でおなじみの江戸町奉行です。
遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年
(一八四〇)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されま
した。屋敷地の南東端にあたる所(菊川三丁目十六番1十三号)にも住居
跡碑が建っています
 平成十九年三月 
       墨田区教育委員会






            長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡
所在地 / 菊川3-16-13
医療法人社団丸山会 丸山歯科医院前
 





          





           

長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡
この一帯は江戸時代に火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)、長谷川平蔵や江戸町奉行、
遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)が暮らしていた屋敷跡です。長谷川家は家禄四00石
の旗本でした。平蔵宣以(のぶため)一九歳の明治元年(一七六四)父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えにより
築地から本所三の箸通り菊川の一二00坪余りの屋敷へ移りました。宣以は火付盗賊改役
として通例二~三年の任期のところ、没するまで八年に及び在職し盗賊逮捕に実績を上げ
ました。 池波丈太郎の「鬼平犯科帳」はその情景を彷彿させます。 また職業訓練をもって
社会復帰を目的とする石川島の人足寄場(にんそくよせば)を提案、実現させました。
寛政七年(一七五九)病のために五0歳で本所の屋敷で没しました。その後、弘化三年
(一八四六)に孫の四代目平蔵の屋敷替えにより、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)
の下屋敷になりました。 遠山金四郎は江戸北町奉行に天保一一年(一八四〇)に任命されました。
金四郎は天保一四年(一八四三)奉行を罷免されますが、老中水野忠邦失脚後の弘化二年
(一八四五)三月再び南町奉行として任命されました。 以後、名奉行の名を残す評判を集め
「遠山の金さん」として浪曲や講談に登場するほど人々にも慕われました。天保改革で弾圧を
受けた歌舞伎を浅草若町に再生したことは金四郎の尽力によると伝えられています。
この地は江戸の町人感覚にも通じ治安に貢献した二人のゆかりの土地です。
                         平成十五年十一月十日






         堀部安兵衛道場跡(赤穂浪士四十七士)
(安 兵 衛 公 園)
越後国新田藩(現・潟県新発田市)溝口家家臣中山弥
次右衛門の嫡子として生を受けた安兵衛は此の地、
林町五丁目に紀伊国屋店だなの二軒を借り長江長左
衛門と称して剣術道場を開き、江戸急進派の中心的
人物として吉良邸討ち入りの機会を探っていた。
所在地 / 立川3-15-6
  





          





         

忠 臣 蔵
堀 部 安 兵 衛 道 場 跡
安兵衛は越後国新発田藩(現・新潟県新発田市)溝口家家臣中山弥次右衛門の嫡子
として生を受ける。高田馬場の決闘での助太刀の大立ち回りで一躍有名になり、
赤穂藩浅野家家臣堀部弥兵衛に見込まれ婿養子となる。そして家督を継ぎ堀部安兵衛武庸(たけつね)
と名のる。此の地、林町五丁目に紀伊国屋(だな)の二軒を借り長江長左衛門と称
して剣術道場を開き、江戸急進派の中心的人物として吉良邸討ち入りの機会を探っていた。
討入り当夜の同志終結場所の三ヶ所のひとつであり、行装を整え出撃していった場所である。
また、道路を挟み東の徳右衛門町一丁目には杉野十平次が杉野九一右衛門と称して、
長十郎(だな)一軒をかり住んでいた。





 

忠臣蔵」討ち入り出発の地―吉良邸を目指すー
「吉良邸討ち入り」集結地のひとつ、堀部安兵衛の剣術道場はこの辺りにあった。
ここから安兵衛らが、杉野十平次宅や前原伊助宅を出発した浪士と共に、表門と裏門
の両門から吉良邸へ討ち入ったのは元禄15年12月14日寅の刻。明け方には討ち取りの
合図が鳴り響く・・・。吉良邸まではわずかな距離だが、「松の廊下事件」から1年と9か月、
ここに至るまでの道のりは、長く、険しいものであったにちがいない。

―The Point of Departure of “Chushingura”, the 47 Ronin on
Their Way to Raid the Kira Residence to Avenge their Master―
Before their raid of the Kira residence, this was one of the gathering places
of the 47 ronin (masterless samurai), and the kendo dojo (Japanese swordsmanship
training hall) of warrior Horibe Yasube, one of the ronin. From this place, Yasube
and his men, along with other ronin who came from the residences of Sugino Juheiji
and Maehara Isuke, raided the kira residence from its front and back gates during
the early hours of Decenber 14, 1702. You can almost hear the raid’s clanging
signal during the early dawn…

もっと討ち入りルートのまち歩きを楽しみましょう(多言語サイトへ)
Enjoy more of the raid route (Get more information in your lanuage)










        みどりコミュニティー センター




         小 林 一 茶 居 住 の 地
江戸時代後期の俳人、宝暦13年(1763)5月、信濃国
水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)
で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。
我ときて遊べや親のない雀
やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ
めでたさも中位なりおらが春
是がまあついの栖か雪五尺
住 所 / 緑1-1





          




              

小 林 一 茶 居 住 の 地
所在地 墨田区緑一丁目一番
江戸時代後期の俳人小林一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、信濃国水内郡柏原宿
(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。
本名は小林信之、幼名は弥太郎といいます。三歳で母くにと死別し、八歳の時迎えた
継母とは不和とあり、一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。十五歳の時に
江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみました。やがて葛飾派の溝口素丸(みぞぐちそまる)
小林竹阿(こばやしちくあ)に師事し俳諧を学び、各地を巡歴しながら多くの俳人と交流し俳諧への
理解を深めていきました。一茶は文化元年(一八〇四)十月、それまで住んでいた
本所五ツ目大島(言江東区大島)から本所相生町(ほんじょあいおいちょう)五丁目(現一丁目一番の一部
および二・三番)の借家に移ります。家財道具が運び込まれた日に一茶は
       寝始る其夜を竹の時雨哉    (『文化句帖』より)
という句を詠んでおり、居宅の周辺には竹が植わっていたことがうかがわれます。
一茶は五年ほどこの地を拠点に活動しましたが、文化五年十二月に旅から帰ると、
留守中に借家が他人に貸し出されてしまっていました。行年を元の家なしと成りにけり 
(『文化五・六年句日記』より)以後弟子や後援者の家を転々とし、文化元年に故郷に戻り
ました。晩年は妻と三男一女の死、度重なる病、住居の類焼などに悩まされながらも句を
詠み続け、文政十年(1827)六十五歳で亡くなるまでの作品数は約二万句に及びました。
主な著作に『父の終焉日記』、『七番日記』、『おらが春』などがあります。子供や
小動物への慈愛に満ちた作品がよく知られていますが、自らの境遇、都市や農村の日常
に生きる人々の姿、政治や社会に対する思いを平明な言葉で句に詠んでおり、当時の
社会状況や日常生活の実情を今日に伝えるものともなっています

平成二十五年三月
                         墨田区教育委員会





          
 鬼平犯科帳・長谷川平蔵の住居跡
鬼平こと平蔵が27才の時迄暮らしていた
屋敷があったところです。
住 所 / 千歳4-12-7 
 





          




          

鬼 平 情 景
長谷川平蔵の旧邸
付け火が元の明和九(一七七二)年の目黒行人坂の大火は約一万五千人が亡くなった
といわれ、明暦の大火に次ぐものでした。その下手人を捕らえたのが、平蔵宣以の実父、
長谷川平蔵宣雄です。この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が
変わった翌、安永二(一七七三)年六月に客死してしまいました。家督を継いだ平蔵宣以
は天明七(一七八七)年、四十二才の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。
京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。義母に「妾腹の子」と
いじめられ、その反発で屋敷を飛び出し本所・深川を根城に「入江町の銕」と呼ばれ、
後に密偵となる相模の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。
                        墨 田 区






           本 所 寿 座(寿劇場)跡
歌舞伎劇場寿座は、明治25年廃絶したが、明治31年、
廃絶を惜しむ声に支えられ、3月10日の戦災により
焼失し、その幕を閉じた。
住 所 / 緑2-16  
 





          




                    

本 所 寿 座(寿劇場)跡
本所相生町五丁目(現緑一丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治二十五年廃絶したが、
廃絶を惜しむ声に支えられ明治三十一年、この地に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居劇場
として開座した。幾多の盟友の芸の修行場や庶民の楽しみの場となっていたが、惜し
くも昭和二十年二月閉座、同年三月十日戦災により焼失し、その幕を閉じた。
 






           墨田区みどりコミュニティセンター
2
Fパソコンコーナーとヘルストロンコーナー
は無料です。
1階は、墨田区緑出張所が併設されています。
住 所 / 墨田区緑3丁目7番3号
電 話 / 03-5600-5811





          





          






        【玉 の 肌 石 鹸】
玉の肌石鹸は明治25年(1892年)、「芳誠舎」
という名称で誕生しました。化粧石けんの製造を
開始して以来、創業120年以上に及ぶ歴史と伝統を
誇る石けんの専業メーカーです。
天皇・皇后両陛下及び宮家へ「菊」石鹸を献上
住 所 / 緑3丁目8-12  電 話 / 03-3634-1344





         









        野見宿禰神社入口



            野 見 宿 禰(のみすくね)神 社
大 相 撲
Nominosukune Shrine
かつて神社の東側に相撲の高砂部屋があり、
明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、
津軽上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様
として知られる野見宿禰を祀られました。
住 所 / 亀沢2-8-10





          





          




 
歴 代 横 綱 の 石 碑
所在地 墨田区亀沢二丁目八番十号
         野見宿禰神社(のみすくねじんじゃ)
歴代横綱(よこづな)の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和二十七年 (一九五二) 十一月
に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐 (潮)
太郎までのなまえを刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれて
います。野見宿禰神社は、明治十七年 (一八八四) に初代高砂親方 (高砂浦五郎) が相撲
の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。玉垣には、力士や相撲関係者の
名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を
執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。創建当時は、神社の東側に初代高砂親方
の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の神屋敷跡でもあります。
  平成二十八年三月
                  墨田区教育委員会




        石 原 二 丁 目 南



         松 倉 米 吉 住 居 跡
アララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなる
まで、三年間くらした理髪店があった場所。

住 所 / 石原4-22 
 





         







松倉米吉(まつくらよねきち)住居跡
    
所在 墨田区石原四丁目二二番

 ここはアララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなるまで、三年間くらした理髪店が
あった場所(本所区長岡町四十三番地)でした。米吉は明治二八年(一八九五)、新潟県
の糸魚川で生まれました。十二歳の時に母の再婚先(日毛家)に入るために上京しました。
日毛家は現在の二葉小学校の周辺にあったようです。米吉は近くのメッキ工場で働き始め
ますが、十六歳の時に作った回覧誌「青年文壇」で短歌に出会います。大正二年(一九一三)、
工場近くに住む歌人の小泉千樫を訪ねて正式に会員として活躍を始めます。米吉は結核等
の病いや貧しさと戦いながら、異色ではありましたが鋭く研ぎ澄まされた労働歌を次々と
紡ぎだしていきました。同六年(一九一七)に母の死により松倉姓に復し、ここで暮らし
始めましたが、同八年(一九一九)二四歳を目前にして没しました。
 平成十三年三月 墨田区教育委員会






        日本帝國海軍の駆逐艦「初霜」の主錨(アンカー)
山田病院の開設者である山田正明初代院長が帝國
海軍の軍医であり「初霜」軍医長を勤めた縁から
展示されてます。
住 所 / 石原2-20-1 
 





         





             







(いかり)
 
この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。 初霜はさきの大戦に北は
アリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、
最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於
いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻
の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。 初霜は
日本に残り解撤され、その錨がこれである。私は昭和15年軍医長として初霜に乗組
み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として
長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長

   元海軍々医少佐 山田正明






       九 重 部 屋
部屋別優勝回数は最多の52回を誇る
高砂一門に属する相撲部屋です。
住 所 / 石原4-22-4  電 話 / 03-5608-0404
  





         





                   






        徳 ノ 山 稲 荷 神社
本所・深川の開発事業を推進した本所築地
奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡である
住 所 / 石原1-36-10 
  





          








徳 山 五 兵 衛 邸 跡
所 在 墨田区石原一丁目
徳 之 山 神 社


江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡です。
開府当寺の江戸は、明暦3年(1657)の大火をはじめ、たびたびの火災で大きな被害を
受けたので、幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の
開拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路
の整備と市街地の造成をしました。この事業のため万冶3年(1660)に徳山五兵衛と
山崎四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。徳山五兵衛は功
により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷神としてま
つられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀され、
徳之山稲荷神社として大切にされてきました。
(墨田区教育委員会掲示より)
 







日本左衛門首洗い井戸跡の碑
日本左衛門ハ本名ヲ浜島庄兵衛ト称シ侠骨剣豪ノ士トシテ時ノ悪代官ヲ斬リ遠州ヲ
浪人シ江戸ニ出デ向島方西ニ居ヲ構ヘタ。幕府ハコノ罪ヲ以テ奉行ニ召捕リ方ヲ命ズ。
彼ノ神出鬼没ニシテ剣豪ノタメ奉行ハ召捕方ヲ出来ズココニ幕府ハ本所築地奉行タル
徳ノ山五兵衛ニ召捕方ヲ命ズ。ソノ前ニ日本左衛門ハ再三徳ノ山邸ニ現レタガ黙殺
放逐ス。ソノ命ガ出テ向島ニテ捕ヘ、ココニオイテ処刑サル時ニ寛文七年(西暦1667年)
捕ワレタ時五兵衛ハ日本左衛門ニコノ世ニ思ヒ残スコトハナイカト問ワレ彼ハ只一ツ日光
ヲ見タコトガナイト申シタノデ不憫ニ思ヒ又他の罪ノナイタメ地内ノ戸崎氏ニ連行ヲ命ジ
内々デ日光見物ノ願ヒヲ叶エテヤッタ。無事ニ戻リソノ功ニヨリ戸崎氏ハ今ノ石原町一ノ
一西側三百坪ヲ五兵衛ヨリ拝領シ現在戸崎家ノ子孫ハコノ地ノ地主トシテ今モ下北沢ニ住ム。
コノ碑ハ約三百年前由縁ノココに建立サレ大正大震災戦災等ノ災禍デ見ル影モナク損傷シ
徳ノ山講員ハコノ史蹟ヲ後世ニ残スベクコノ石碑ヲ再建ス。
昭和四十年五月十九日
         徳ノ山講
           町内有志





        

江 戸 の 町
Site of former residence of Tokunoyama Gohei
徳 山 五 兵 衛 屋 敷 跡

明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万治三年(一六六○)、
本所築地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人は山崎四郎左衛門)。
堀割りの開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を
作り上げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。五兵衛の死後、屋敷
内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。また、
孫の徳山五兵衛(秀榮)は、寛保四年(一七四四)に御使番から御先手鉄砲頭に転じた後、
火付盗賊方に就任し、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄右衛門のモデルになった盗賊、
日本左衛門を捕らえたことで有名です。






       栗 本 鋤 雲 住 居 跡
文政五年(一八二二)神田に生まれ、奥医師となる。
その後、フランスとの交流で国際感覚を身につけ、
軍艦奉行、外国奉行を歴任し、フランス式軍隊の
伝習などフランスの諸知識を日本に導入した。維
新後は新政府に仕えずこの北双葉町四一番の借紅
園に移り新聞界で活躍し、初代本所区会儀長も
つとめた。明治三0年この地で没す。
住 所 / 石原3-18-1 
  





          










        若 宮 公 園 入 口



        能 勢 妙 見 山 東 京 別 院
勝海舟と父勝子吉親子の熱烈な信仰を得ていたこ
とで有名。関西の能勢妙見山の東京別院で能勢の
妙見さんと呼ばれています。ご住職の奥様の
丹精込めた四季折々の花々との出合
いが嬉しいです。
住所 / 本所4-6-14 電話 / 03-3623-2485  





       





         





         





             





              





         





             





         





         





         






       墨 田 電 話 局 の 慰 霊 碑
昭和三十三年三月十日建立
大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換
の職務を遂行した殉職者を慰霊している。
吉川英治氏の自筆による碑文がある。
住所 / 石原4丁目 36-1 (NTT石原ビル)
 





          





          







由 来
 
この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、
電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員
三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員
二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年
三月十日に建立されました。慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。
   昭和五十九年三月十日
         墨 田 電 話 局











        本 所 中 学 校 入 口



        世界のホームラン王の碑
王選手自筆の「気力」の文字
昭和62年(1987)本所中学校開校40周年を記念して
建立された同校大先輩の
王貞治氏の記念碑です。王選手
は墨田区に生まれ、本所中学校時代には卓球部や陸上部
で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会
にも出場しました。さらに2年生の時、それまで休部
だった野球部を再開させ3年生の時には区大会で優勝、
都大会にも出場しました。

住 所 / 東駒形3-1-10 (本所中学校内)





          





         





         






       明 徳 小 学 校 跡 碑
本所表町照本山本久寺の寺子屋を前身とし明治八年
(西暦一八七五)旧肥前平戸藩主松浦肥前守の下屋敷跡に
佐竹義脩侯爵はじめ地元有志の御協力により開校され、
旧秋田佐竹藩校明徳館の名をとり明徳小学校と命名され、
区内屈指の名門校であった。碑文は大正六年卒業生
第十四世将棋終生名人木村義雄氏の筆によるものである。

住 所 / 東駒形3-1-10 (区立本所中学校内)
 





         





                





               





            

明徳小学校は本所表町照本山本久寺の寺子屋を前身とし明治八年(西暦一八七五)文部省令
に基き旧肥前平戸藩主松浦肥前守の下屋敷跡に、佐竹義脩侯爵はじめ地元有志の御協力に
より開校され、旧秋田佐竹藩校明徳館の名をとり明徳小学校と命名され、区内屈指の名門校
であった。其の出典は「大学之道、在明明徳。」(大学)である。爾来数回増改築されたが
大正十二年(一九二三)九月一日関東大震災により木造二階建校舎は全焼、そのため若宮公園
内に仮校舎を建て移り昭和四年(一九二九)区画整理完成とともに近代型鉄筋コンクリート
三階建校舎が竣工した。然しこれも昭和二十年(一九四五)三月十日太平洋戦争の戦禍により
焼失し、惜しくも開校以来七十年の歴史を閉じた。其の二年後に修復されたが新学制による
、本所中学校となって今日に至っている。明徳卒業生は母校を失って淋しい限りであるが、
この由緒を永く記念し、歴代の教職員や関係各位に対する感謝の意を懐かしめ思い出を込め、
昭和四十二年十月二十九日この記念碑を建設した。建設資金は明徳校友会員有志の寄附に
より、碑文は大正六年卒業生第十四世将棋終生名人木村義雄氏の筆によるものである。
  照本山本久寺三十一世 持田貫道書






       明 徳 小 学 校 発 祥 の 地
1872(明治5)年に学制が公布され 公立学校が設立
されることになり、本久寺に寺子屋が開設された。
これが 後の明徳小学校である。1946(昭和21)年国民
学校の廃止に伴い廃校になった。この発祥碑は(2006)
6月に 開校130周年記念として建立された。
住 所 / 東駒形2-21-12  (本久寺内) 
 





          





             





         






        将棋名人 木村義雄生誕の地
将棋の十四世名人木村義雄は、明治三十八年(一九○五)
に本所区表町三十九番地に生まれ、明徳(めいとく)尋常
小学校(現本所中学校)を卒業しました。子どもの頃から
将棋や囲碁が強く、大正五年(一九一六)に十三世名人
関根金次郎の下に入門し、頭角を現わしました

住 所 / 東駒形一丁目十八番
 






         





 

将棋名人 木村義雄生誕の地、
所在地 墨田区東駒形一丁目十八番


 
将棋 の十四世名人木村義雄は、明治三十八年(一九○五)に本所区表町三十九番地に生まれ、
明徳(めいとく)尋常小学校(現本所中学校)を卒業しました。子どもの頃から将棋や囲碁が強く、
大正五年(一九一六)に十三世名人関根金次郎の下に入門し、頭角を現わしました。昭和十三年
(一九三八)に第一期実力制名人となり、その後四期連続で名人位を防衛しました。同二十二年
(一九四七)に塚田八段に敗れたものの、同二十四年(一九四九)には再び名人位に就き、通算八期
十年の間、その地位を守りました。同二十七年(一九五二)に大山八段に敗れて以後、公式戦休場
を表明し、十四世永世名人を襲位しました。また、同二十二年(一九四七)には日本将棋連盟 の
初代会長に就任するなど、将棋界の近代化を進めました。多筆家としても知られ、『将棋大観』
など多くの著作を残しています。その功績が認められて、昭和五十三年(一九七三)には勲三等
旭日中綬章を授与されました。以後も執筆活動などを行っていましたが、昭和六十一年(一九八六)
十一月十七日に八十一歳で亡くなりました。墨田区は将棋とのゆかりが深く、東駒形では十一世
名人伊藤宗印の弟子で「本所小僧 」と呼ばれた相川治三吉 が生まれたほか、両国四丁目には師の
宗印も屋敷を構えていました。本法寺(横川一丁目)には駒の形をした宗印の墓があります。また、
木村義雄の実弟の文俊は駒師として有名で、押上(現在の文花一丁目)などに店を構えました。
      平成二十一年三月
                  墨田区教育委員会
 






       船 江 神 社
元慶元年(877-885)に創建したと伝えられ、
江戸時代には朝日神明社と称し、船手奉行向井将監
等が船の安全を祈願したといいます。北本所表町
(現東駒形二丁目)にありましたが、関東
大震災の区画整理により当地へ遷座しました。
住 所 / 東駒形1-18-10 
 





          





 

船 江 神 社 御 由 緒
                      
東京都墨田区東駒形一一、三二八六三二
船江神社の草創は、今より千百二十余年の昔、平安期陽成天皇の御宇元慶丁酉年(八七七二年)
御祭神は天照皇大神を奉祀す。その御由緒を記すれば、往古本所の郷人あまた夢にみるよう伊勢
大神宮、虚空を駆りて飛来り給ひ、虚空のあひだには又、大光明輝き光り、そのうちに気高く微妙
なる御声ありて、我此土安隠天人常充満という法華経寿量品の文を唱へ、われはこれ、伊勢の神明
にておはします、と見て郷中の人互いに語り合わするにすこしも違わず、誠に奇特の御事也とて
宮所をかまへ伊勢大神宮を勧請し奉りけり。神明なお佛法を尊み給ひ、本地和光の内證を示し給
ふもの也。それより北のかた星霜うつり年月かさぬと雖も、古にし昔のあと絶えず、利生あらたか
に在わしますこと掌をさすが如くなり。
あまてらす神のめぐみのかはらねば 
                ここも五十鈴の本所なりけり  と傳わる。
船江神社は、初め朝日神明社と称し本所表町(現東駒形二丁目)に在り、本所大神宮とて、
お伊勢参りが一生の念願たりしその昔、このお社に参拝することにて同じ神徳を授けられると、
厚い信仰を受け、後 天祖神社と称え幕府船手奉行向井将監などの人々が船の安全を祈願した
といわれる。明治維新後神名改め、里俗に船江神社と称するを以て今は之を神名とせり。
関東大震災後の帝都復興計画の一環としての区画整理に伴い、昭和五年現在地 東駒形
一丁目に遷座せられた。昔は御大祭は五月二十一日なり。
船江神社総代会 平成十二年庚辰年五月吉日建立






    
     墨 田 区 立 吾 妻 橋 公 園

住 所 / 吾妻橋1丁目12





               





黄色いポールの先は階段です。ウッカリ自転車で通る人を見かけます!

         





         






      すみだ小さな博物館

錺かんざし・かざり工芸三浦
現在かざり工芸三浦四代目として、歌舞伎や日本舞踊
などの演劇用簪を中心とする他、一般向けの和装小物
を製作。体験ができます!
住 所 / 東駒形3-22-7 電話 / 03-6751-8858
営業日 / 月~土曜日(祝祭日は除く)
営業時間 / 10~18時(土は~17時)  
 





         





                         





                





                  

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つぶやきいってみよう

        元徳稲荷神社入口

 コ ー チ ャ ル
         ライオンズファシリティー     

        若 宮 公 園 入 口

 
割烹 三州屋         ジャパニーズ・レストラン 三州家

        本 所 中 学 校 入 口

野口鮮魚店     中 山 製 菓       風船タウン 

 こんぶの岩 崎      三代目網元・魚 鮮 水 産 
 




        元徳稲荷神社入口



      
    800円のお弁当です、食材が豊富で嬉しいです!  
【コーチャル】
2019年家庭画報通販食品部門で
年間売り上げ4位の味!
お弁当制作者さんへの安心感が嬉しいです。
住 所 /立川3-15-1 電 話 / 03-6361-1688
定 休 日 / ナシ  





         





         





         





         





         





         






       
ライオンズファシリティー

LIONS FACILITY
東京23区内初のドローンフライト練習場
住 所/立川2-10-10 電話 /03-6240-2053
定 休 日/ 月、火曜日
https://www.lionsfacility.com/
国土交通省認定団体 





         





         





         





                




        若 宮 公 園 入 口



       割烹 三 州 家
創業明治22年の老舗割烹料理店
会席・懐石料理店
住 所 / 本所4丁目17−3 電 話 / 03-3622-1230
時 間:  11:30~22;00
 





              





春雨や風子さん令和6年5月真打精進を決定

         





                 





         





         






       ジャパニーズ・レストラン 三州家
明治22年に創業した割烹三州家 が、より多くの人
に和食を味わっていただきたいと願って生まれた和食
レストランです。食材はコース料理をメインとした
割烹三州家と同じものを使用しているそうです。
住 所 / 本所4丁目17−3 電 話 / 03-3624-7019
営業時間 / 平日:11:30~14:30
土日曜日・祝祭日:11:30~14:30 / 16:30~21:30(LO 21:00)





         





         






 
          
お刺身定食が何と800円でした。  




        本 所 中 学 校 入 口



       野  口  鮮  魚  店
築地の魚河岸直送の新鮮な魚がいっぱい!
住 所 / 東駒形4-6-9 1F 電話 / 03-5608-063
定 休 日 / 木 営業時間 / 11:30〜14:30
           15:00〜19:00 





         





         





         





         






        中 山 製 菓
おこしや豆菓子を製造しています。
工場ならではの製品に出会えます。
住 所 / 東駒形2-15-9 電 話 / 03-3622-5669
定休日 / 日曜・祝日・土曜―不定休

 





         





         






       風 船 タ ウ ン
風船はすべて1個から小売販売しているそうです。
住 所 / 吾妻橋1-6-5 電 話 / 03-5610-4045
営業時間 / AM10:30~PM19:00





         





         





         





         






      
 三代目網元 魚鮮水産
 
本所吾妻橋店
8月3日からランチがあるそうです!
とても明るいチンドン屋さんで、楽しい一時でした!
住 所 / 吾妻橋2-1-5 電 話 / 0120-70-7621
定 休 日 / 年中無休





         





         






       こんぶの 岩 崎
明治27年昆布問屋として創業されました。先代
(三代目)が一般の方にも美味しい昆布をという
思いで問屋だけではなく小売業も始められた
そうです。干し椎茸は天然干しだそうです。
住 所 / 吾妻橋1-4-3  定 休 日 / 日曜&祝日
電 話 / 03-3622-8994 営業時間 / 9:00~20:00





         





                 





         





         

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(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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