向島百花園~墨東歳時記より 現在から約200年前の文化・文政時代、仙台出身の佐原鞠塢によって開設されました。 開設当時、太田南畝をはじめとした文人墨客が数多く常連客として訪れ、作庭にも江戸庶民 の趣向をこらし、その庭の雰囲気は今も受け継がれています。その後も、11代将軍家斉公 などの賓客ともに、江戸庶民の行楽の場として「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」の盛況 を得、明治へ時が移ってもご幼少時代の昭和天皇、伊藤博文や乃木将軍など多くの人々に 愛されてきました。 明治にうつり、数多くの工場が周辺にできるなどの環境の変化、またたびかさなる隅田川 の洪水により疲弊してきましたが、大正時代初期に小倉常吉氏の支援により息を吹き返し、 昭和8年、国指定の「名勝・史跡」となりました。その後、小倉氏の遺志により百花園は 東京市に寄付をされ、昭和14年に東京市の公園として再開園されました。 昭和20年3月の東京大空襲にで全園焼失しましたが、昭和24年に復興園地として 再開され現在に至っています。私達「茶亭 さはら」は佐原鞠塢から数えて8代目に当たり、 園内の売店にてお土産物やお抹茶・甘酒等を販売したり、集会施設のお食事手配と配膳を 承る、東京都の委託業者でございます。集会施設はクラス会・食事会・家族会等でお使い いただけ、ゆったりと庭を楽しんで頂けると思います。詳しくはお問合せ下さい。 |
◆百花園茶や (明治末頃) |
「隅田川焼」(角田川焼)は、新梅屋敷(現向島百花園)を開いた佐原菊塢が創始した 楽焼で、文政2 年(1819)に自邸内に窯を開いて以降、隅田川周辺の土を使用して 製作されました。作品は新梅屋敷で土産物として売られ、特に都鳥の香合が人気があった といわれています。陶法については諸説あり、酒井抱一(1761~1829) 所伝の乾山伝書に倣ったとも、陶工吉向治兵衛 (1784~1861)から学んだものともいわれています。昭和13 年(1938)に閉窯するまで百花園主5 代 が作陶を続けました(窯は東京大空襲により失われました)。なお、「スミタ川」銘または「角田川」 銘が江戸時代、「百花園」銘が明治期以降の作品であろうと考えられています。 (すみだ郷土資料館より) |
「秋のなゝくさ」絵はがきは、明治末年、挿絵画家 として活躍した齋藤五百枝氏が、百花園の秋のなゝ くさを題材に描いたものです。 齋藤五百枝 (明治17年~昭和41年)千葉県生まれ、東京美術学校 に進み、岡田三郎助に師事。20代で挿絵をはじめ 「少年倶楽部」を中心に活躍。 上は代表作「桃太郎」の挿絵 (新・講談の絵本 「桃太郎」より) |
江戸の名物名店 向島花屋敷の梅干しの商牌(ラベル) |
東郷菊 和名発祥の地 元帥がいただいた菊 今(いま)から100年前の頃の明治時代。日本の国は、 北にあるロシアの国と戦争をしました。ロシアからバルチック艦隊 という大変に強い海軍が押し寄せました。世界の人 が日本は負けると思いましたが、その海軍を対馬の沖で破 り、日本は勝ちました。その時、日本の海軍を指揮したのが東郷平八郎さんで、元帥(軍人の中で一番偉)い人) なりました。東郷さんがイギリスのエドワード7世の戴冠式 (王様になる式)に出席した時、ロンドンのキュー植物園 から種をいただきました。日本に帰った東郷さんは、よく遊 びに行っていた百花園でその種を育てることにしました。この花は「東郷菊 」と呼ばれ、8月から10月ごろまで、山吹色 の花びらと茶色の花芯(花の真ん中)の花を咲 かせます。日本の菊は、生まれた国は離れていますが東郷菊 の仲間です。 ・百花園は東郷菊の和名発祥(わめいはっしょう)の地(ち)です。 注: この文では、植物の分類が同じ「属」のものを兄弟、「科」が同じものを 仲間と呼びます。 百花園探検カード NO003 制作 百花園サポート士隊 墨田区東向島3-18-3 向島百花園内 協力 向島百花園創設200周年行事実行委員会 |
或る日ロシア人の方が百花園に来られて この絵を佐原さんに見せて下さったそうです。 絵を描かれた方のお孫さんに当たる方で、 佐原さん所有の、白黒の写真と一致して 驚かれ、歓びの中にこの絵を下さった そうです。 |
向 島 百 花 園 |
葛 飾 北 斎 |
大 蔵 別 邸 |
◆百花園茶や (明治末頃) |
百花園の木札の書家の方に記念に書いて頂きました。 |
伝統工芸作家 大石さんの 江戸文字提灯 |
毘 沙 門 天 (多 聞 寺) |
本尊の毘沙門天は弘法大師の作と伝えられる。 昔、村人達は、本堂の前に住む狸の悪戯に悩んでいた。 その村人を毘沙門天門下の禅尼師童子が狸を懲らしめ 救ったという伝説が伝わる。 |
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↓ 約1500m |
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寿 老 神 ( 白 鬚 神 社) |
祭神の猿田彦命は道案内の守り神ということから、お客を案内 する千客万来、商売繁盛の信仰が生まれる。隅田川七福神の中 でなかなか見つからなかった寿老人を、白い鬚の長寿の神様 として白鬚大明神にあてたことから「神」としている。 |
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↓ 約200m |
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福 禄 寿 尊 (向島百花園 ) |
文化元年(1804)に開かれた百花園に集まる江戸の町民文化 を代表する文化人達の発案で隅田川七福神巡りが始まっ た。福禄寿尊像は開祖佐原鞠塢が百花園の草花にちなみ、 本草の神として愛蔵し信仰していたもの。 |
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↓ 約1000m |
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(弁 財 天) 長 命 寺 |
三代将軍家光が、鷹狩り途中の腹痛を、寺内の井戸水で薬を 服用し快癒したことから、長命水の名をいただき、寺号も 長命寺とした。弁財天は河(水)の神ということから蛇が お使いとして選ばれ、己の日に参拝する風習が生まれた。 |
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↓ 約50m |
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布 袋 尊 (弘 福 寺) |
黄檗宗で中国風の特色を持つ禅宗建物。布袋尊は七福神の中 で唯一実在した中国の禅僧で弥勒の化身といわれる。咳の爺婆 尊像は、風外和尚が修行中、両親を偲び刻んだもので、風外 の石像だから風邪にも強かろうと風邪除けの信仰を集めた。 |
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↓ 約300m |
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恵 比 寿 神 大 国 神 (三 囲 神 社) |
三井寺の僧源慶が弘法大師創建の由来を持つ荒れた祠を再建 したとき、出土した神像の周りを、白狐が現れ三回巡り、 消え去ったことから「みめぐり」の名が起こったとされる。 大國・恵比寿は越後屋(現三越)にまつられていたもの。 |
茶店の煎茶に百花園横の 芋笑さんの御芋でランチしました! |
明治通りから2分ぐらいの左側にあります。 |
氷梅です! トップには梅ジャム、 ピンクはシソの色で、全て天然です。 |
茶亭さはらは庭門をくぐって左側にあります。 |
奥に茶亭さはらが見えます |
梅干し「寿星梅」器付き ¥1,200 園祖 佐原きくうが梅樹三百数十本を植え、「梅は百花にさきがけて咲く」と酒井抱一が 名づけられたといわれる百花園。その中の老樹を徳川田安候が、隅田川七福神の福禄寿尊 にちなみ「寿星梅」と命名され、また、園内で採れる梅干しも「寿星梅」の商標でお土産 といたしておりました。昔の味を今に小梅をご賞味ください。 文 化 元 年 開 園 向 島 百 花 園 茶 亭 さはら 都 鳥 土 鈴 ¥850 東窯では、乃木大将も自作の酒器を焼き、百花園のひとときを楽しんでいたと言われています。 東窯の素焼でもう一品お土産を作りました。都鳥の素焼きに絵を施した土鈴です。涼やかな 音色は懐かしさと共に、百花園の思い出を何時までも蘇らせてくれることと思います。 都鳥箸置き(隅田川焼きレプリカ) 2羽一組 ¥800 百花園には、戦前まで「東窯」という窯があり、隅田川の土でお土産として 都鳥の箸置きや香炉などの焼き物を作ったり、現在で言う楽焼きがおこなわれていました。 お土産の「都鳥箸置き」は、当時のものを型どり、つがいで寄り添う可愛い姿が評判となって おります。ご両親へのお土産、結婚のお祝いや引き出物にもご好評をいただいております。 名菓百花園 麦こがし.抹茶.落花生 ¥300 戦災からの復興を記念してつくられた、麦・抹茶・南京豆の三色の落雁です。麦には、 お月見の会を表す「ススキと月」、挽き茶には、源氏香の中から「鈴虫」を借り 「虫の音を聴く会」を、南京豆には隅田川を象徴する「都鳥」がデザインされています。
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