つぶやき街角北東部ルート
  押  上  駅~曳 舟 小 学 校

 ( スカイ姫のつぶやき19 )

                                                    ト ッ プ ペ ー ジ ヘ

バ ス 停 ル ー ト 一 覧 表

 
                                            バス停にリンクします
      

      

      








       飛木稲荷神社入口




          飛 木 稲 荷 神 社

鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れてこの地に
転住し、稲荷大明神を応仁2年(1468)勧請したと
いいます。暴風雨の際にイチョウの枝が飛んできて
この地に刺さり、いつの間にか大木にそびえたという
言い伝えから飛木稲荷神社と命名されたといいます。
旧請地村の鎮守である。
住所 / 押上2-39-6  電話 / 03-3611-0862 
 






             






             








飛木稲荷神社のいちょう
 
 所在  墨田区押上二丁目三十九番六号 飛木稲荷神社内

神社の名前に由来する御神木で、目通り約四・八メートルもあり、樹齢も五、六百年はくだらない区内随一の大木です。戦災で一部が焼失し、樹高も十五メートルと低いが、近年いきおいを盛り返し、樹形も整ってきています。江戸時代以前、このあたりは利根川(瀬替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域の西の海岸線の一部となっており、平安・鎌倉時代あたりから、後の本所・向島の境ともなる古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。江戸時代この辺は寺島新田と呼ばれ、順次開拓されていく様子もうかがえます。このいちょうの大木は、その自然堤防に育った歴史の証しといえます。
平成三年三月
        墨田区








飛木稲荷神社の縁起と由来について
〇鎮座地 東京都墨田区押上二丁目
〇祭 神 宇迦之御霊神
   一般に「おいなりさん」と言われ親しまれている神様で農工・殖産・生活の加護に
   働きのある神様であります。
〇神 木 いちょう
   樹齢千年をこえると言われ、戦火 (昭和二十年三月九日)により、損傷を受けました
が、ご覧のように元気に繁茂しております。古老の言い伝えによれば、大昔のある時、暴風雨の際、どこからかいちょうの枝が飛んで来て、この地に刺さったとのことです。そしていつの間にか亭亭とそびえたので、時の人が、これは異状のことであるとして、稲荷神社をお祀りしたのが始めであると言
われております。飛木稲荷の名もこれから起こったものです。お祀りした時代については、当地は再三の水害・火災等により旧家や円通寺等では、古い書物が失われて詳しいことはわかりませんが、旧幕舎寺奉行書によれば応仁二年(西歴一四六八年)とありますが、おそらくそれ以前であると思われます。
〇お稲荷さんときつね
   稲荷神社には石ぎつねがあり、またせともののきつねがたくさんあるもので、きつねがお稲荷さんと思われがちです。そのことは、稲荷神社が最初に祀られた京都伏見稲荷神社境内のお山にきつねがたくさん住んでいたことから、きつねは、お稲荷さんのお使いであるという信仰が生まれました。この信仰から神社の前に置かれるようになったものです。
〇境内神社
   日 枝 神 社   祭神・大山咋神
   奥社稲荷神社   祭神・本社と同じ

  寄進・昭和五十二年七月吉日   押上三丁目・伸成睦








‘身代わり’飛木の焼けイチョウ
名前の由来
昭和二十年(一九四五年)三月十日の東京大空襲で、ご神木(神霊が宿っているとされる木)は、我が身を焦がし、懸命に災をくい止め、町の延焼を防ぎました。そして幸いにも多くの人達が助かりました。ご神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。きっと焼けイチョウは、大変な戦争があったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。
平成二十二年六月吉日

                          飛木稲荷神社総代一同
                          掲示板奉納 多賀和弘殿






         

押 上 文 庫
縄文式土器をはじめとして、様々な器との出会い!
元オペラ歌手の文庫オーナーによる
スタインウェイのピアノレッスン教室があります・
住 所 / 墨田区押上3-10-9
電 話 / 03-3617-7471    定休日 / 月
営業時間火曜~金曜日 18:00~24:00(L.O.23:30)
土曜日 16:00~24:00(L.O.23:30)
日曜日、祝日 16:00~23:00(L.O.22:30)






             






             






            






             






さ お り 織 教 室
心を織るさおり織、11月より押上文庫2階で始めました。



           






             






            






            









         下町人情キラキラ橘商店街入口




                 すみだ  向 島
EXPO2020

「隣 人 と 幸 せ な 日 々」
Blend into the neighborhood
〔体験型芸術祭〕すみだ向島EXPO2020
2020.9.12(土)~10:11(日)
会 場 墨田区曳舟エリアの街中会場40個所
時 間 10:00~18:00
[お問合せ窓口]070-4563-6368





            






東京都知事が10月5日におみえになりました!

             






              






             






田 原 唯 之 作 品 (ウロボロスの庭)

             






             






DEAD OR ALIVE (水道管で作成されています)

           






水道管芸術 (陽昇 陽沈) 蛇口から水道水が出ていました!

             






壁に左官やさんが書かれました!

             






風 船 暖 簾 ?

             






                 民泊図書館KAB Library and Residency

天井まで届く本棚に圧巻!

所在 / 墨田区京島2-24-1





            






 
U字形の書棚で非常に珍しいそうです。
              






             






宿 泊 施 設 で す !

             






                 京 島 南 公 園

高さ約10mの巨大なすべり台を備えるマンモス
公園で、1963年に作られた区立の公園です。
面積1596平方メートルの広場に様々な遊具が
点在しています
所在 / 墨田区京島2-20-17





             






             






                    高 松 プ ロ ダ ク シ ョ ン

吾 嬬 撮 影 所 跡



所在 / 墨田区京島3-62





            








高松プロダクション・吾嬬撮影所跡
所在 墨田区京島三丁目六二番

日本映画の製作は、日活、私竹など四つの大手会社が占めていま したが、大正10年前後になると、短期間の内に幾つも独立プロダ クションが生まれては消えていく混沌とした時期を迎えました。 高松プロダクション の創略者・高松豊次郎 は、始め、映画興行を 通じて労働演説等の活動をしていましたが、大正六年(一九一七)六月には 活動写真資料研究会を結成し、社会教育映画を製作するようになりました。 この過程において、プロダクション創立後に協力しあ うことになる牧野省三らと親交を結びました。また、「大東京」 などの映画館 を経営し、浅草六区 の興行組合長にもなりました。映 画資料の収集にもあたりましたが、関東大震災で焼失しました 吾嬬撮影所のグラスステージは、高松プロダクションの活動 拠点として、大正一四年(一九二五)10月に建てられました 敷地は 一〇〇〇坪余り、現像室も一〇〇坪あったといわれています。主な スタッフとして所長兼監督山根幹人、文芸部今東光、俳優近藤伊与吉・・草間実・西山普烈 (江川宇礼雄)等がいました。この撮影所で「輝ける扉」(山本嘉次郎監督)、「愛染手綱」(高松操監督)な ど、四二本の時代劇等を製作配給し、俳優では西山普烈・近藤伊与吉・滝田静江・高島愛子等 を輩出しました。 しかし、高松プロダクシ ョンは、提携していたマキノ映画社 の撤退、監督の他プロへの移籍などにより、わずか一年数カ月の経営で 休業状態に陥り、貸スタジオに転向せざるを得ませんでした。 隅田川 河畔にあった日活向島撮影所(現在の桜堤中学校 敷地内)とともに、墨田区内に存在した映画撮影所として、日本映画史の一端 を刻んでいます
平成一一年三月
                                墨田区教育委員会









         緑と花の学習園・香取神社入口




                東京モスリン吾嬬工場跡

住 所 / 文化一丁目二十五番~三十二番





             






            






          


東京モスリン吾嬬工場跡
                   所在地 墨田区文化一丁目二十五番~三十二番

本所・向島両地区は、江戸時代より隅田川につながる水路が整備され、水運の発達には目覚ましいものがありました。このため、明治中期以降の両地区には、近代産業を担う工場が次々に進出しました。当地には東京モスリン吾嬬工場が建設されました。東京モスリン紡績株式会は、明治二十九年 (一八九六) 三月、日本橋の洋反物商人たちが三井高保 (旧三井銀行社長) と資本提携して創設しました。同社は、モスリンを中心に多様な製品を手がけ急速に事業を拡大、大正十五年 (一九二六) 頃には各地に工場を創設して四百人余の社員と一万二千人にも及ぶ工員を抱えるようになりました。同社の製品の中には中国やインドで需要を伸ばすものもあり、国内繊維産業を盛況に導く原動力になったともいわれています。ただし、当時の急速な産業発展の背景には、過酷な労働条件のもとで働く労働者の存在がありました。東京モスリンをはじめ多くの紡績工場では、地方の貧しい農家から集められた女工たちが極めて低い賃金で働いていました。細井和喜蔵の『女工哀史』でよく知られているとおり、彼女たちは工場内の宿舎で共同生活をし、十一時間以上の労働に従事していました。そのため結核などの重い感染症にかかる例も少なくなかったのです。大正期には各地で労働争議が起きましたが、大正三年 (一九一四) の東京モスリン吾嬬工場の争議は、労働運動発展の契機として有名です。千人を超える大量解雇に対して、この時、大規模なストライキが起きました。この争議は結局成功しませんでしたが、「本区における労働争議の中でも特筆しなければならない」 『墨田区史 前史』出来事として今日家で語りつがれています。
  平成二十二年三月
       墨田区教育委員会






                情報経営イノベーション専門職大学

すみだに初めての大学

住 所 / 文花1-18-13





            






            






               香 取 神 社・紅 梅 園

江戸時代に三千坪を超える広大な「梅屋敷」
と呼ばれていた小村井梅屋敷梅園があり、その
再現として、香取神社の境内 に作られました。
 住 所 / 文化2-5-8  電 話 / 03-3612-0878





               






             






             






            






             






      

〈墨田区登録文化財〉
禊盤(けいかん)( 手水(ちょうず)鉢(ばち)
                                                所在地 墨田区文化二丁目五番八号 香取神社内

手水鉢は神仏を礼拝するにあたって、参拝者が手を洗い、口をすすぐための器であり、その行為のことを「手水を使う」ともいいます。この習慣は古代から行われていた「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」の名残で、水で心身の罪や穢(けが)れを清める、「禊(みそぎ)」を簡略化したものと考えられます。
そのために本堂や社殿の前には必ず水を満たした盥や「手水桶」「手水鉢」などが常備されています。
現在香取神社境内の諏訪社前にある手水鉢が「禊盥」と刻まれていることは、江戸時代後期の篤信社たちがただ単に手を洗うだけではなく、こうした禊の習慣をよく理解したうえで神前に奉納している貴重な例といえます。この禊盥の右側面には「文政11年(一八二八)戌子六月吉祥日」、左側面には「星塢奏鐘書」、裏面には「氏子中」と能筆で刻まれています。かつては本殿前に据えられていたものです。
平成二十年三月
                         墨田区教育委員会掲示より






 
    
安藤広重の小村井梅園の図  


小村井梅園の由来

小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井字出戸五百十一番に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に亙り松の大木が二列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣堀もあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り此の所に香取の社あり その傍梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の鼻を穿つ 実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景・・・・・」と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。
             平成二年九月吉日  平成二年度 世話人






                緑 と 花 の 学 習 園

都内有数の植物園
住 所 /文化2-12-17  電 話 /03-3636-3823
開園時間 /9:00~16:00





             






            






            









       吾嬬神社入口・明源寺前




            吾 嬬 神 社

吾嬬神社は、日本武尊東征の際に相模から上総
へ渡ろうとして暴風に遭い弟橘姫が身を海に投じ
て暴風を鎮めました。そしてこの地の浜辺に漂着
した弟橘姫の御召物を築山に納めて吾嬬大権現
として崇めたのが始まりだと伝えられます。
主祭神:弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)
相殿神:日本武命(やまとたけるのみこと)
住 所 / 立花1-1-15 





            






            






            






                    
名所江戸百景
吾嬬の森連理の梓
歌川 広重 初代






       

吾 嬬 神 社

御祭神  弟橘姫ノ命
     日本武ノ命

縁 起
往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った森林の神域にあった名社である草創は遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼり御祭神は弟橘姫ノ命を主神とし日本武ノ尊を御合祀奉斉してあります。正治元年(一一九九)北条泰時が幕下の遠山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進し社殿を造営した嘉元元年(一三〇三)開創の真言宗宝蓮寺現亀戸四丁目を別当寺とし吾嬬大権現と称した以後武家の尊宗があって安永三年(一七七四)大川橋の新設にあたり江戸から当社えの参道にあたるところから橋名を吾妻橋と称したともいい明治二十一年に数村を合せて吾妻村と称したのは時の府知事高橋五代の発案で社名をとったのである。抑当社御神橘は昔時日本武ノ命東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の国に到り給はんと御船に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御船すでに危ふかりしに御右橘姫の命海神の心を知りて御身を海底に沈め給かしかば忽海上おだやかに鎮りたり時に一つの島忽然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあ丶吾妻恋しと宣ひしに俄かに東風吹き来りて橘姫ノ命の御召物海上に浮び磯部にた丶寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ橘姫ノ命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき御廟となしたりこれ現在の御本殿の位置なり此時尊は食し給ひし橘の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸忽ち根枝を生じし処葉茂り連理の男木女木となれり神代より二千有余年の星霜おし移ると云へ共尚梢えの色変らず栄えし処名樹も第二次大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱を造りご神前に永く保存される事となった以後御神徳に依る数々の奇瑞を現わし諸人の助けとなりたる神樹を惜みて明治維新百年祭を記念して元木に優る名樹日本語成長を祈念しつつ二本の若木が植えられた爾来十年余念積成就の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えたりこれこそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也
平成二十四年十月  江都西葛飾 亀戸郡 七十八歳 老書 樰澤信博









       立花大正民家園入口




           
立 花 大 正 民 家 園 
旧 小 山 家 住宅
江戸時代からの農家と町家の雰囲気を今に伝える20世紀
初めの建築物で、関東大震災、東京大空襲の災害もまぬ
がれ、墨田区の文化財となっています。
(利用が無い時は無料で住宅内を見学できます)

住所 / 立花6-13-17   電話 / 03-3611-4518  
定 休 日 / 12月29日~1月3日 入園料 / 無料
開館時間 / 9時~4時30分(庭園部分)
                       12時30分~4時30分
(住宅部分)





            






            






            







黒い壁の下方部分に漆を混ぜて塗った壁が
光って見えます。 
             
 
 黒い穴の床下は炭や薪等を入れていたそうです。








墨田区指定有形文化財〉
旧 小 山 家 住 宅

  所在地  墨田区立花6丁目13番17号
             立花大正民家園内

旧小山家住宅は、大正6年(1917)建築の平屋建寄棟造瓦葺の住宅で、平成10年(1998)に墨田区に寄贈されました。この住宅は、土間のある整形四間取(方形を4等分した田の字型の間取り)の典型的農家の構造形式と、出格子窓や堅格子戸など町家の伝統に客間を充実させた構造とを併せもち、近代以降に普及したと考えられる都市近郊住宅の特色をよく留めています。正面に玄関を二つに設け、縁側の両端に押入れと便所を配置している構造は、墨田区周辺地域の他の民家にも見られます。昭和10年代に屋根を茅葺から瓦葺に葺き替えたほか、土間に床を張るなどの改修が部分的に行われていますが、板ガラスも当時のままの状態で残されるなどほぼ原形を保っており、建築当初の姿を伝えています。関東大震災や東京大空襲などをのがれた旧小山家住宅は、都市化の進んだ墨田区内で数少ない歴史的建造物として、近代以降のこの地域の人々の生活様式の変化を伝える貴重な文化財です。

平成二十七年三月
                             墨田区教育委員会






               中 川 沿 い に て

江戸川区と墨田区、江東区の境界を流れる
全長 6.68kmの河川 





          






            






            









       白 髭 神 社 入 口




       白  髭  神  社

葛西川村の鎮守社として天和2年(1682)に創建
されたともいわれています。
葛西川の白髭神社と呼ばれています。
住所 / 墨田区立花6-19-17

 





            






            








白 髭 神 社 御 由 緒
御祭神  猿田彦大神

 猿田彦大神、またの御名を大地御祖(おおづちのみおや)神と申し上げ、天孫「ニニギノ尊」が我が國土におくだりになった際、天の八街(はちまた)にお出むかえ申し上げ、天孫を高千穂の峯に道案内申し上げ、この大任を果されてから伊勢の五十鈴の川上に宮居を定められ、こゝを中心に広く國土開拓の指導にあたられました。御神徳高い大神は白髭大神・佐田大神(伏見稲荷大社 御 祭 神) 道祖神(道しるべ)庚申(長命)さまとして全国津々浦々にお祀りされております。大神は古くより物事の始めに災いを祓い給い最も善き方へお導き下さいます御神穂をおもちになり、海陸の交通の安全を護り商工業の繁栄、田畑、山林、宅地の凶を払い、土の御祖神としてあまねく万人万事に尊い御神恵を垂れさせ給う大恩神でございます。当社は古来より南葛飾郡葛西川村の鎮守神であり、新編武蔵風土記に「村の鎮守とす」と記されている。葛西誌によると創立は霊言天皇の御代天和二年、徳川綱吉将軍 (五代) の時代で、当時の庄屋鹿倉吉兵衛、関口一郎治両氏が幕府に許しを受け、現在地の中川のほとりに社地を定め里人を導きて当社を勧請した。現在の御本殿は大正十二年の御造営にして、幣殿拝殿は昭和四十六年氏子崇敬者の熱誠溢れる努力により御造営された。






       金林山明了院 東 漸 寺(とうぜんじ)

浅草寺の隠居寺としても知られ,宝暦13年
(1763)の庚申塔(道標)がある。

住所 / 墨田区立花6丁目17-4
電 話 / 03-3611-5325
 





            








〈墨田区登録文化財〉
庚申塔 ( 道標付 )

 所在  墨田区立花六丁目十七番四号  東漸寺内
 
この庚申塔は宝暦十三年(一七六三)十一月の銘を持つ駒形の??で、正面には青面金剛像を半肉彫りし、一鬼・二鶏・三猿を配した典型的な庚申塔ですが、左側面には「左やくし道」、右側面には「右市川道」と刻まれており、木下川(きねがわ)薬師 (元は荒川放水路の中程にあった) へ抜ける道と市川へ抜ける道の分岐点に立てられ、道標の役割を兼ねていました。このことから、元は当寺より南を通る平井街道(平井の渡しから東は市川道と呼ばれた)沿いにあったものが、当寺に保管されたものと思われます。
かつては区内にも、いくつもの街道が交差し、多くの道標が立てられていたものと思われますが、数々の災害に見舞われ、区画が整理されたため、現存する道標は少なく、庚申塔と兼ねているものはこれ一基のみで、貴重な存在となっています。
                   平成四年三月
                          
墨 田 区









       すみだスポーツ健康センター入口




      すみだスポーツ健康センター

住 所 / 東墨田1-6-1
  電 話 / 03-5247-7755

 





            






            






       墨 田 清 掃 工 場

住 所 / 東墨田一丁目10番23号
電 話 / 03-3613-5311

 





            






             







中川からです。 
 
すみだ健康スポーツセンター前からです。  







見学者入口です。 
   
指揮者のオブジェです






   






   






     






     






      墨田清掃工場近辺の中川風景

隅田川にはない自然を感じます!





            






             






             






対岸の鷺に向かって何か言っている感じがしました。
      






対岸の鷺が飛んできて二羽揃って飛立ちました。
     








旧 中 川 の 桜 と 中 川 桜 愛 護 会

多くの方々に親しまれている旧中川の水辺を、より一層区民に親しまれ、魅力的な空間とするため、区では、区の木である桜を植樹しています。それを契機に平成十五年六月十九日に沿川の五町会で構成された中川桜愛護会が発足しました。中川桜愛護会は、旧中川の桜の保全をはじめ、自然豊かな空間を大切にし、墨田区の桜の名所となるような美しい環境づくりを目指しています。平成二十二年四月十三日には、三町会一自治会が新たに参加し、沿川の全町会による愛護会となりました。旧中川の桜は、平成十三年三月に植樹した六本の桜から始まり、平成二十四年三月現在では257本になり、区を代表する桜の名所の一つとなりました。中平井橋のたもとには、平成二十二年二月に立花五丁目町会より、紅白の夫婦桜が寄贈されました。
             平成二十四年三月   墨田区

【中川桜愛護会】
  東墨田三丁目町会
東墨田一・二丁目町会
立花五丁目町会
立花五丁目東町会
立花六丁目町会
(平成十五年六月十九日発足)
 
  都営立花六丁目アパート自治会
  立花四丁目町会
立花あづま町会
立花南町会
    (平成二十二年四月十三日参加)
 









       東 墨 田 二 丁 目




         白   髭   神   社


住 所 / 東墨田3-13-24
 





            






            






         八 広 地 域 プ ラ ザ

吾 嬬 の 里







 
  
赤い車の後ろの道を入ります。 






            









       八   広 (八 広 駅)




          八 広 庚 申 堂  

中央が庚申塔(元禄2年(1689))
左側は地蔵(享保5年(1720))・
右側は観音像
住 所 /
墨田区八広5-32-7   





             








墨田区登録文化財〉
八広庚申塔

所在 墨田区八広五丁目三十二番
 
 この地はもと大畑村の地域で「新編武蔵風土記稿」によれば、元禄の改郷帳に初めて大畑新田村と記載され、後に新田を省いています。また前記風土記稿には「庚申堂村持」ともみえ、当時から庚申堂が村の人々によって維持されていたことがわかります。庚申堂内向って左から地蔵菩薩像、中央が駒型庚申供養塔、右が観音菩薩像です。庚申塔は左右に「奉造立青面金剛庚申供養現当安楽所」「元禄二己巳年正月吉日大畠村」(一六八九)とあり、台座の銘の部分を巾広くとり「宇田川彦兵衛・坂田平兵衛」等十一名建立者が刻まれています。地蔵菩薩像には「地蔵尊講中 上大畑村」 「享保五子天九月吉日」(一七二〇)の銘があり、この地域の人々の建立であることがわかります。また、観音像は全体に摩滅し、銘等不明ながら同時代のものと考えられます。
                  平成五年三月
                       墨 田 区









       八 広 四 丁 目 西




              
や く し み ち 道 標

住 所 / 八広4-12-3







            






 

や く し み ち 道 標
                    所在地 墨田区八広四丁目十二番三号先
 この道標は、木下川(きねがわ)薬師への道しるべで、享保年間 (一七一六―三六) に八代将軍徳川吉宗が薬師参詣の際、大畑村 (現八広周辺) の人々に道の要所に建てさせたものといわれています。木下川薬師は天台宗寺院浄光寺のことで、貞観二年 (八六〇) に創建されました。本尊の薬師如来は伝教(でんきょう)大師作といわれ、『江戸名所図会』には「木下川(きねがわ)薬師堂」と紹介され徳川家祈願所として、江戸の多くの人々が参詣した関東屈指の古刹です。かつての浄光寺は現在の木下川橋のやや下流、川の中央辺りにありましたが、荒川開削に伴い、葛飾区東四つ木一丁目に移転しました。この道標も開削以前は、この場所ではなく、他の場所から移されてきたものと考えられます。向かって正面に「右 やくしみち」右面に「左 えど(江戸)」みち 左面に「大畠村講中」と刻まれており、長い間この道標が、薬師参りの人々のために道案内の役割を果たしてきたことがわかります。薬師道のかつての道筋は、白鬚の渡し (現堤通一丁目交差点の辺り) から東に向かい、曳舟川で薬師橋 (現在の八広一・東向島六交差点) を東進し、この道標前を北上した辺りでゆるやかに右折して薬師堂に続いていました。
  平成二十年三月
                            墨田区教育委員会









       三輪里稲荷神社入口




              
三 輪 里 稲 荷 神 社

通称こんにゃくいなり

   住 所 /墨田区八広3-6-13

電 話 / 03-3612-2297






             






 

三輪里稲荷神社 (こんにゃく稲荷)

慶長十九年(一六一四)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として御鎮座致しました。 通称「こんにゃく稲荷」と呼ばれて人々の信仰を集めてまいりました。「こんにゃく稲荷」のいわれは、初午の日に当社が「こんにゃくの護符」を授与され、これをいただき煎じて服用すれば、のどや風邪の病に効くとされることに依ります。
平成五年八月吉日
               墨田区文化観光協会









         中 村 病 院




      江戸小紋・江戸更紗博物館  

平成25年 黄綬褒章 拝受

住 所 / 八広2-27-10
  電 話 / 03-3611-5019






            






            









       曳  舟  小  学  校




        墨田区立ひきふね図書館

住 所 / 京島1-36-5
  電 話 / 03-5655-2350

 





            






            






        藍 染 博 物 館

藍染ゆかたは科学染料のゆかたに無い
やわらかな染色の感じが味わえるそうです。


住 所 / 京島1-29-1
    電 話 / 03-3611-6760

 





            





墨田区内循環バス時刻表 
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)



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