飛木稲荷神社 圓 通 寺 押 上 文 庫 |
高松プロダクション・吾嬬撮影所跡 すみだ 向島EXPO 押 尾 川 部 屋 KAB Library and Residency 京島南公園 |
香取神社・紅梅園 東京モスリン吾嬬工場跡 花王 東京工場 緑と花の学習園 IU 情報経営イノベーション専門職大学 大 沢 梅 次 郎 像 千葉大学墨田サテライトキャンパス |
吾 嬬 神 社 萬年山明源寺 |
立花大正民家園 旧中川水辺公園 |
白 髭 神 社 (立花) 東 漸 寺 |
天台宗 飛木山普門院 圓通寺 かつて浅草寺(台東区)末の天台宗の寺院で、応仁 元年(1467)に創建されたと伝えられています。 住 所 / 押上2-39-6 電 話 / 03-3611-5508 |
六波羅蜜→布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧 |
飛 木 稲 荷 神 社 旧請地村の鎮守で、鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一 門が逃れてこの地に転住し、稲荷大明神を応仁2年 (1468)勧請したといいます。暴風雨の際にイチョウ の枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にか大木 にそびえたという言い伝えから飛木稲荷神社と命名 されたといいます。 住 所 / 押上2-39-6 電 話 / 03-3611-0862 |
‘身代わり’飛木の焼けイチョウ 名前の由来 昭和二十年(一九四五年)三月十日の東京大空襲で、ご神木(神霊が宿っているとされる木) は、我が身を焦がし、懸命に災をくい止め、町の延焼を防ぎました。そして幸いにも 多くの人達が助かりました。ご神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経 て緑の芽を吹き出しました。このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。 今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。きっと焼けイチョウ は、大変な戦争があったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。 平成二十二年六月吉日 飛木稲荷神社総代一同 掲示板奉納 多賀和弘殿 |
飛木稲荷神社のいちょう 所在 墨田区押上二丁目三十九番六号 飛木稲荷神社内 神社の名前に由来する御神木で、目通り約四・八メートルもあり、樹齢も五、六百年は くだらない区内随一の大木です。戦災で一部が焼失し、樹高も十五メートルと低いが、 近年いきおいを盛り返し、樹形も整ってきています。江戸時代以前、このあたりは利根川 (瀬替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域 の西の海岸線の一部となっており、平安・鎌倉時代あたりから、後の本所・向島の境とも なる古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。江戸時代この辺は寺島新田と呼ば れ、順次開拓されていく様子もうかがえます。このいちょうの大木は、その自然堤防に 育った歴史の証しといえます。 平成三年三月 墨 田 区 飛木稲荷神社の縁起と由来について 〇鎮座地 東京都墨田区押上二丁目 〇祭 神 宇迦之御霊神 一般に「おいなりさん」と言われ親しまれている神様で農工・殖産・生活の加護に 働きのある神様であります。 〇神 木 いちょう 樹齢千年をこえると言われ、戦火 (昭和二十年三月九日)により、損傷を受けましたが、 ご覧のように元気に繁茂しております。古老の言い伝えによれば、大昔のある時、 暴風雨の際、どこからかいちょうの枝が飛んで来て、この地に刺さったとのことです。 そしていつの間にか 亭亭とそびえたので、時の人が、これは異状のことであるとして、稲荷神社をお祀り したのが始めであると言われております。飛木稲荷の名もこれから起こったものです。 お祀りした時代については、当地は再三の水害・火災等により旧家や円通寺等では、 古い書物が失われて詳しいことはわかりませんが、旧幕舎寺奉行書によれば応仁二年 (西歴一四六八年)とありますが、おそらくそれ以前であると思われます。 〇お稲荷さんときつね 稲荷神社には石ぎつねがあり、またせともののきつねがたくさんあるもので、きつねが お稲荷さんと思われがちです。そのことは、稲荷神社が最初に祀られた京都伏見稲荷神社 境内のお山にきつねがたくさん住んでいたことから、きつねは、お稲荷さんのお使いである という信仰が生まれました。この信仰から神社の前に置かれるようになったものです。 〇境 内 神 社 日 枝 神 社 祭神・大山咋神 奥社稲荷神社 祭神・本社と同じ 寄進・昭和五十二年七月吉日 押上三丁目・伸成睦 |
押 上 文 庫 お酒と和食器(骨董~現代)・スタインウェイのピアノ 等文化的酒処を営んでいます。元オペラ歌手の文庫 オーナーによるピアノレッスン教室があります。 2階では義太夫やさおり織教室が開かれています。 すみだ区報(墨田区のお知らせ「すみだ」)2023年11月1日号 住 所 / 墨田区押上3-10-9 電 話 / 03-3617-7471 |
押 尾 川 部 屋 元関脇 豪 風 日本相撲協会所属で二所ノ関一門の相撲部屋 です。大相撲の文化伝統を継承し「心技体の成長」を 部屋の理念に掲げ力士の育成に力を注いでいます。 師匠 押尾川旭(委員) しこ名 関脇 豪風(本名→成田旭) 所在 / 墨田区文化3-6-3 |
一般コース 10,000円/年 ・デジタル会員証 ・朝稽古の優先見学(随時予約受付) ・最新番付表送付(6回/年) ・会員限定ちゃんこ交流会(年1回 参加費別途2000円) ・会員限定餅つき大会(年1回 参加費別途2000円) ・会員向けメールマガジン発行 ・押尾川部屋限定グッズプレゼント(入会時、更新時) ・押尾川部屋オリジナル卓上カレンダー(1部/年) ・日本相撲協会カレンダー(1部/年) ・親方サイン色紙(1枚/年) ・推し力士サイン色紙(関取限定)(1枚/年) |
レディースコース 10,000円/年(女性限定) ・デジタル会員証 ・朝稽古の優先見学(随時予約受付) ・最新番付表送付(6回/年) ・会員限定ちゃんこ交流会(年1回 参加費別途2000円) ・会員限定餅つき大会(年1回 参加費別途2000円) ・会員向けメールマガジン発行 ・押尾川部屋限定グッズプレゼント(入会時、更新時) ・押尾川部屋オリジナル卓上カレンダー(1部/年) ・日本相撲協会カレンダー(1部/年) ・レディースコース限定グッズプレゼント(入会時) ・レディースコース限定、親方&力士との「お茶会」 (1回/年 別途2000円) ・推し力士サイン色紙(関取限定)(1枚/年) ・親方or推し力士からのバースデーカード |
高松プロダクション・吾嬬撮影所跡 隅田川 河畔にあった日活向島撮影所(現在の桜堤 中学校敷地内)とともに、墨田区内に存在した映画 撮影所として、日本映画史の一端 を刻んでいます 所 在 / 墨田区京島3-62 |
高松プロダクション・吾嬬撮影所跡 所在 墨田区京島三丁目六二番 日本映画の製作は、日活、私竹など四つの大手会社が占めていま したが、大正10年前後になると、 短期間の内に幾つも独立プロダ クションが生まれては消えていく混沌とした時期を迎えました。 高松プロダクションの創略者・高松豊次郎は、始め、映画興行を 通じて労働演説等の活動をして いましたが、大正六年(一九一七)六月には 活動写真資料研究会を結成し、社会教育映画を製作す るようになりました。この過程において、プロダクション創立後に協力しあ うことになる牧野省三 らと親交を結びました。また、「大東京」などの映画館 を経営し、浅草六区 の興行組合長にも なりました。映画資料の収集にもあたりましたが、関東大震災で焼失しました 吾嬬撮影所のグ ラスステージは、高松プロダクションの活動拠点として、大正一四年(一九二五)10月に建てられ ました。 敷地は 一〇〇〇坪余り、現像室も一〇〇坪あったといわれています。主な スタッフ として所長兼監督山根幹人、文芸部今東光、俳優近藤伊与吉・・草間実・西山普烈 (江川宇礼雄) 等がいました。この撮影所で「輝ける扉」(山本嘉次郎監督)、「愛染手綱」(高松操監督)など、 四二本の時代劇等を製作配給し、俳優では西山普烈・近藤伊与吉・滝田静江・高島愛子等を 輩出しました。しかし、高松プロダクシ ョンは、提携していたマキノ映画社の撤退、監督の 他プロへの移籍などにより、わずか一年数カ月の経営で 休業状態に陥り、貸スタジオに転向 せざるを得ませんでした。 隅田川河畔にあった日活向島撮影所(現在の桜堤中学校 敷地内)と ともに、墨田区内に存在した映画撮影所として、日本映画史の一端 を刻んでいます。 平成一一年三月 墨田区教育委員会 |
Sumida Mukojima EXPO 2023 百 年 の 祝 福 2023.10.1(日)~10:30(月) 都会で生き抜く"百年先の長屋文化"に触れる街中博覧会 【開催場所】すみだ向島エリア (東京都墨田区京島・八広・文化他) 【総合受付】京島駅(墨田区京島3-50-12) 【開催時間】10:00~18:00 【定休日】火・水・木曜日 すみだ向島EXPO実行委員会 sumidaexpo@gmail.com |
KAB Library and Residency (民 泊 図 書 館) 民家リノベーション施設としてかいせつされた。 会員制図書館で、天井まで届く本棚に圧巻! 所 在 / 墨田区京島2-24-1 |
U字形の書棚で非常に珍しいそうです。 |
京 島 南 公 園 高さ約10mの巨大なすべり台を備えるマンモス公園で、 1963年に作られた区立の公園です。面積1596平方 メートルの広場に様々な遊具が点在しています 所 在 / 墨田区京島2-20-17 |
千葉大学墨田サテライトキャンパス 千葉大学工学部100周年を記念して、生活の全てを シミュレートできるデザイン教育・研究の新拠点 として開設されました。 住 所 / 東京都墨田区文化1-19-1 |
情報経営イノベーション専門職大学 専門職大学の情報経営イノベーション専門職大学 【iU】はICTを活用しグローバルにイノベーションを 起こす人材を育成し、「まだない幸せ」をつくる すみだで初めての大学! 住 所 / 文花1-18-13 |
緑 と 花 の 学 習 園 約350種類の植物が植栽され、花壇には 季節の花が四季折々の彩りで、潤いと安らぎを 与えてくれます。 住 所 /文化2-12-17 電 話 /03-3636-3823 開園時間 /9:00~16:00 |
香 取 神 社・香梅 園 平安時代末期、當地開拓のために千葉県香取郡から 六軒の人々が移住しました。開拓者の氏神として 永万元年(1165)に創建され、以来村の鎮守として 崇められてきました。美しい花梅の香梅園としても 江戸時代に三千坪を超える広大な「梅屋敷」と呼ばれ ていた小村井梅屋敷梅園があり、その再現として、 香取神社の境内に作られました。 住 所 / 文化2-5-8 電 話 / 03-3612-0878 |
〈墨田区登録文化財〉 禊盤( 手水鉢 ) 所在地 墨田区文化二丁目五番八号 香取神社内 手水鉢は神仏を礼拝するにあたって、参拝者が手を洗い、口をすすぐための器であり、 その行為のことを「手水を使う」ともいいます。この習慣は古代から行われていた 「斎戒沐浴」の名残で、水で心身の罪や穢れを清める、 「禊(」を簡略化したものと考えられます。そのために本堂や社殿の前には必ず 水を満たした盥や「手水桶」「手水鉢」などが常備されています。現在香取神社境内の 諏訪社前にある手水鉢が「禊盥」と刻まれていることは、江戸時代後期の篤信者たち がただ単に手を洗うだけではなく、こうした禊の習慣をよく理解したうえで神前に奉納 している貴重な例といえます。この禊盥の右側面には「文政11年(一八二八)戌子六月 吉祥日」、左側面には「星塢奏鐘書」、裏面には「氏子中」と能筆で刻まれています。 かつては本殿前に据えられていたものです。 平成二十年三月 墨田区教育委員会掲示より |
小 村 井 梅 園 の 由 来 小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の 梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井字出戸五百十一番に三千三百坪の 広さを持ち、切絵図には「梅屋敷名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年 梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅 と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。園内には、築山や池に多くの 名石が組まれ、東西に亙り松の大木が二列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び 交い、利根川の魚を畜った釣堀もあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。 安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り 此の所に香取の社あり その傍梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の鼻を穿つ 実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景・・・・・」と記されています。惜しくも明治四十 三年の大水で廃園となりました。面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。 平成二年九月吉日 平成二年度 世話人 |
小村井梅園 |
江戸名所図会 香取大神宮 |
東京モスリン吾嬬工場跡 本所・向島両地区は、江戸時代より隅田川につながる 水路が整備され、水運の発達には目覚ましいものがあ りました。このため、明治中期以降の両地区には、近 代産業を担う工場が次々に進出しました。日本橋の洋 反物商人たちが三井高保 (旧三井銀行社長)と資本提携 して創設しました。同社は、モスリンを中心に多様な 製品を手がけ急速に事業を拡大、大正15年 (1926) 頃 に各地に工場を創設して400人余の社員と12,000人にも 及ぶ工員を抱えるようになりました 住 所 / 文化一丁目二十五番~三十二番 |
東京モスリン吾嬬工場跡 所在地 墨田区文化一丁目二十五番~三十二番 本所・向島両地区は、江戸時代より隅田川につながる水路が整備され、水運の発達には目覚ましい ものがありました。このため、明治中期以降の両地区には、近代産業を担う工場が次々に進出し ました。当地には東京モスリン吾嬬工場が建設されました。東京モスリン紡績株式会社は、明治 二十九年 (一八九六) 三月、日本橋の洋反物商人たちが三井高保 (旧三井銀行社長)と資本提携して 創設しました。同社は、モスリンを中心に多様な製品を手がけ急速に事業を拡大、大正十五年 (一九二六) 頃には各地に工場を創設して四百人余の社員と一万二千人にも及ぶ工員を抱えるよう になりました。同社の製品の中には中国やインドで需要を伸ばすものもあり、国内繊維産業を 盛況に導く原動力になったともいわれています。ただし、当時の急速な産業発展の背景には、 過酷な労働条件のもとで働く労働者の存在がありました。東京モスリンをはじめ多くの紡績 工場では、地方の貧しい農家から集められた女工たちが極めて低い賃金で働いていました。 細井和喜蔵の『女工哀史』でよく知られているとおり、彼女たちは工場内の宿舎で共同生活 をし、十一時間以上の労働に従事していました。そのため結核などの重い感染症にかかる例 も少なくなかったのです。大正期には各地で労働争議が起きましたが、大正三年 (一九一四) の東京モスリン吾嬬工場の争議は、労働運動発展の契機として有名です。千人を超える大量 解雇に対して、この時、大規模なストライキが起きました。この争議は結局成功しません でしたが、「本区における労働争議の中でも特筆しなければならない」『墨田区史前史』 出来事として今日家で語りつがれています。 平成二十二年三月 墨田区教育委員会 |
花 王 東京工場 私たちの使命は、持続可能で豊かな共生世界を実現する ことです。そのために、サステナビリティ以外の退路 を断ち、「未来のいのちを守る会社」として、人、 社会、地球に貢献することをめざしていきます。 (花王のホーム頁より) 住 所 / 文化2-1-3 電 話 / 03-5630-9000 |
大 沢 梅 次 郎 像 東京都議会議員選挙で、当時の向島区選挙区から 立候補して、初当選しました。 隣接する花王とは無関係の方のようです。 藍綬褒章及び没後 - 従五位・勲四等瑞宝章を 受けられているそうです。 住 所 / 文化2-1-10 |
吾 嬬 神 社 (連理の楠) 日本武尊とその 妃弟橘媛 ゆかりの伝承を持つ神社で、連理の楠は竹垣で囲 まれ、しめ縄がかけられています。連理とは一つ の根から2 つの幹が出たもので、大正年間に枯死 してしまい、枯れた根と一部の幹のみが残ってい ます。日本武尊が走水で海に身を投じた后・弟橘 媛の霊を鎮め、食事をした後に箸を地に刺したも のが連理の楠に成長したといい、瑞兆、神木として 崇めるようになったそうです。江戸七森めぐりや 太田道灌七稲荷めぐりの一つだそうです。 住 所 / 立花1-1-15 |
吾 嬬 神 社 御祭神 弟橘姫ノ命 日本武ノ命 縁 起 往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った森林の 神域にあった名社である草創は遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼり御祭神は 弟橘姫ノ命を主神とし日本武ノ尊を御合祀奉斉してあります。正治元年(一一九九) 北条泰時が幕下の遠山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進し社殿を造営した嘉元 元年(一三〇三)開創の真言宗宝蓮寺現亀戸四丁目を別当寺とし吾嬬大権現と称した 以後武家の尊宗があって安永三年(一七七四)大川橋の新設にあたり江戸から当社え の参道にあたるところから橋名を吾妻橋と称したともいい明治二十一年に数村を合 せて吾妻村と称したのは時の府知事高橋五代の発案で社名をとったのである。抑当社 御神橘は昔時日本武ノ命東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の国に到り給はん と御船に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御船すでに危ふかりしに御右 橘姫の命海神の心を知りて御身を海底に沈め給かしかば忽海上おだやかに鎮りたり 時に一つの島忽然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひて あ丶吾妻恋しと宣ひしに俄かに東風吹き来りて橘姫ノ命の御召物海上に浮び磯部に た丶寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ橘姫ノ命の御召物を則此浮洲に納め築山 をきづき御廟となしたりこれ現在の御本殿の位置なり此時尊は食し給ひし橘の御箸を 以て末代天下平安ならんには此箸忽ち根枝を生じし処葉茂り連理の男木女木となれり 神代より二千有余年の星霜おし移ると云へ共尚梢えの色変らず栄えし処名樹も第二次 大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱を造りご神前 に永く保存される事となった以後御神徳に依る数々の奇瑞を現わし諸人の助けとなり たる神樹を惜みて明治維新百年祭を記念して元木に優る名樹日本語成長を祈念しつつ 二本の若木が植えられた爾来十年余念積成就の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えたりこれ こそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也 平成二十四年十月 江都西葛飾 亀戸郡 七十八歳 老書 樰澤信博 |
吾 嬬 神 社 御祭神 弟橘姫命合殿日本武命 縁 起 抑当社御神木楠は昔時日本武命尊東夷征伐の御時相模の國に御進向上の國に到り 給はんと御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て御船危ふかしりて御后 橘媛命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに成りぬれ 共御舟を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの 嶋忽然と現到る御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻戀しと宣ひし に俄に東風吹耒りて橘媛命の御召物海上に浮び磯辺にただ奇らせ給ひしかば尊大き に喜ばせ給ひ橘媛命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき瑞離を結び御廟となし 此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ海上船中の守護神たり尊神ここに食し給ひし楠の 御箸を以て末代天下平安ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟 の東の方にささせ給ひしに此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれ い神代より今に至りて梢えの色変らぬ萬代をさめし事宛然神業なり其後民家の人々 疫にあたり死する者多かりしに時の宮僧此御神木の葉を与えしに病苦を払ひ平癒せ しより諸人挙って尊び敬ひぬ今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服する に如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし凡二千有余年の星霜おし移ると云へ 共神徳の変らざる事を伝ふべし共猶諸人の助けとならんと略してしるす也 |
《墨田区登録文化財》 吾 嬬 の 森 碑 所在地 墨田区立花一丁目一番十五号 吾嬬神社内 この碑は、明三年(一七六六)に儒学者山県大貳により建立された と伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する 神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。 碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の 東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、 人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれて います。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。 神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から 二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は 広重の作品「江戸名所道化盡吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高く そびえるのが「連理の樟」です。明治四十三年(一九一○)の大水や関東大震災、 東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を 通じても垣間見ることができます。 平成二十一年三月 墨田区教育委員会 |
〈墨田区登録文化財〉 狛 犬 安永二年五月銘 所在 墨田区立花一丁目一番 この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人一0名と奉納者二二名もの名前が刻まれて います。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地六・七丁目)や本船町地引河岸 (中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながり をよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています 日本の神話に、日本武尊が現在の東京湾を舟で渡っている時に 海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて 海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だった ということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。 また、地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山 のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。 現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた 人名など、良い状態で保存されています。 平成九年三月 墨田区教育委員会 |
江戸近郊八景之内 吾嬬杜夜雨 絵師:広重 収載資料名:江戸近郊八景 |
名所江戸百景 吾嬬の森連理の梓 絵師:広重 出版者:魚栄 刊行年:安政3 |
絵本江戸土産第十編 吾 嬬 の 森 中央は吾嬬の森、森の中に吾嬬明神(現 吾嬬神社) 右の川は北十間川です。 |
江戸名所図会 第4巻 著者:斎藤幸雄 [等著] 国会図書館蔵 |
東都名所 吾嬬之森 著者:広重 出版者:佐野喜 収載資料名:東都名所 |
※江戸名所図会 第4巻 著者:斎藤幸雄 [等著] (国会図書館蔵) ※江戸名所図会 7巻. [18] 著者:松濤軒斎藤長秋 著[他] 出版者:須原屋茂兵衛[ほか] 出版年月日:天保5-7 [1834-1836] |
東都舊蹟畫 吾嬬の森の故事 |
明 源 寺 曹洞宗駒込吉祥寺の末寺で、萬年山と号し、大州安充 (永禄12年寂)が開山梅巌桂林(弘治3年寂)が開基 となり天文9年(1540)に創建したと伝えられます。 南葛八十八ヶ所霊場71番札所です 住 所 / 立花1-13-10 |
立 花 大 正 民 家 園 (旧小山家住宅) 江戸時代からの農家と町家の雰囲気を今に伝える20世 紀初めの建築物で、関東大震災、東京大空襲の災害も まぬがれました。墨田区の文化財となっています。 (利用が無い時は無料で住宅内を見学できます) 住所 / 立花6-13-17 電話 / 03-3611-4518 定 休 日 / 12月29日~1月3日 入園料 / 無料 開館時間 / 9時~4:30(庭園部分) |
立花大正民家園旧小山家住宅の年間イベント 庭には七福神の像があり、わずか1分間で七福神めぐりができるスポットになっています。 3月3日のひなまつりにちなみ、毎年2月下旬から3月上旬まで小山家のひな人形を中心に展示します。 5月5日の端午の節句にちなみ、毎年4月下旬から5月上旬まで小山家の五月人形を展示します。 お問い合わせ・・・すみだ郷土文化資料館が担当しています。(電 話 / 03-5619-7034) |
〈墨田区指定有形文化財〉 旧 小 山 家 住 宅 所在地 墨田区立花6丁目13番17号 立花大正民家園内 旧小山家住宅は、大正6年(1917)建築の平屋建寄棟造瓦葺の住宅で、平成10年(1998)に 墨田区に寄贈されました。この住宅は、土間のある整形四間取(方形を4等分した田の字型 の間取り)の典型的農家の構造形式と、出格子窓や堅格子戸など町家の伝統に客間を充実 させた構造とを併せもち、近代以降に普及したと考えられる都市近郊住宅の特色をよく 留めています。正面に玄関を二つに設け、縁側の両端に押入れと便所を配置している構造は、 墨田区周辺地域の他の民家にも見られます。昭和10年代に屋根を茅葺から瓦葺に葺き替えた ほか、土間に床を張るなどの改修が部分的に行われていますが、板ガラスも当時のまま の状態で残されるなどほぼ原形を保っており、建築当初の姿を伝えています。関東大震災 や東京大空襲などをのがれた旧小山家住宅は、都市化の進んだ墨田区内で数少ない歴史的 建造物として、近代以降のこの地域の人々の生活様式の変化を伝える貴重な文化財です。 平成二十七年三月 墨田区教育委員会 |
黒い壁の下の部分に漆を混ぜて塗った壁が光って見えます。 |
黒い穴の床下は炭や薪等を入れていたそうです。 |
木の扉を開きますと金庫です |
旧 中 川 水 辺 公 園 面積:62,255.90平方メートル 延長:2,767メートル 荒川放水路により分断された中川の下流、およそ6.7kmの 区間を旧中川と呼び、川の東側には江戸川区と江東区、 西側には墨田区が接している。染井吉野、河津桜、思川、 陽光、関山、普賢象、一葉、大山桜、仙台枝垂と早咲き から遅咲きまでの9種259本の桜が植えてあるそうです。 所在地:東墨田一丁目11 |
旧 中 川 の 桜 と 中 川 桜 愛 護 会 多くの方々に親しまれている旧中川の水辺を、より一層区民に親しまれ、魅力的な空間と するため、区では、区の木である桜を植樹しています。それを契機に平成十五年六月十九日 に沿川の五町会で構成された中川桜愛護会が発足しました。中川桜愛護会は、旧中川の桜 の保全をはじめ、自然豊かな空間を大切にし、墨田区の桜の名所となるような美しい環境 づくりを目指しています。平成二十二年四月十三日には、三町会一自治会が新たに参加し 、沿川の全町会による愛護会となりました。旧中川の桜は、平成十三年三月に植樹した 六本の桜から始まり、平成二十四年三月現在では257本になり、区を代表する桜の名所の 一つとなりました。中平井橋のたもとには、平成二十二年二月に立花五丁目町会より、 紅白の夫婦桜が寄贈されました。 平成二十四年三月 墨田区 【中川桜愛護会】 東墨田三丁目町会 東墨田一・二丁目町会 立花五丁目町会 立花五丁目東町会 立花六丁目町会 (平成十五年六月十九日発足) 都営立花六丁目アパート自治会 立花四丁目町会 立花あづま町会 立花南町会 (平成二十二年四月十三日参加) |
絵本江戸土産10編 中川 著者:松亭金水 解説[他] 出版者:菊屋三郎[ほか] |
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名所江戸百景 中川口 著者:広重 出版者:魚栄 出版年月日:安政4 |
江戸名所図会 中川口 |
江戸名所図会 中川釣舟 |
白 髭 神 社 (立花) 葛飾郡葛西川村の鎮守で社伝によれば、天和2年(1682) 当時の庄屋であった鹿倉吉兵衛と関口一郎治が幕府の 許可を得て勧請したといわれています。昭和19年(1944) 村社に昇格。現在の本殿は大正12年(1923)、幣拝殿は 昭和46年(1971)の造営である。社殿左手にある明神 鳥居は安永9年(1780)に寄進されたもの。墨田区内で も最古に属し、区の登録有形文化財に指定されている。 住 所 / 墨田区立花6-19-17 |
白 鬚 神 社 鳥 居 |
白 鬚 神 社 拝 殿 |
白 髭 神 社 御 由 緒 御祭神 猿田彦大神 猿田彦大神、またの御名を大地御祖(おおづちのみおや)神と申し上げ、天孫「ニニギノ尊」 が我が國土におくだりになった際、天の八街(はちまた)にお出むかえ申し上げ、天孫を高千穂 の峯に道案内申し上げ、この大任を果されてから伊勢の五十鈴の川上に宮居を定められ、こゝを 中心に広く國土開拓の指導にあたられました。御神徳高い大神は白髭大神・佐田大神(伏見稲荷 大社御祭神) 道祖神(道しるべ)庚申(長命)さまとして全国津々浦々にお祀りされております。 大神は古くより物事の始めに災いを祓い給い最も善き方へお導き下さいます御神穂をおもちに なり、海陸の交通の安全を護り商工業の繁栄、田畑、山林、宅地の凶を払い、土の御祖神として あまねく万人万事に尊い御神恵を垂れさせ給う大恩神でございます。当社は古来より南葛飾郡 葛西川村の鎮守神であり、新編武蔵風土記に「村の鎮守とす」と記されている。葛西誌による と創立は霊言天皇の御代天和二年、徳川綱吉将軍 (五代) の時代で、当時の庄屋鹿倉吉兵衛、 関口一郎治両氏が幕府に許しを受け、現在地の中川のほとりに社地を定め里人を導きて当社を 勧請した。現在の御本殿は大正十二年の御造営にして、幣殿拝殿は昭和四十六年氏子崇敬者の 熱誠溢れる努力により御造営された。 |
金林山明了院 東 漸 寺 天台宗寺院の東漸寺は、文安元年(1444)秀尊法印 が創建、円挙法印が宝永年間(1704-1710)に中興した と伝えられます。本尊は阿弥陀如来で、葛西三十三所 観音参りの一つに数えられた十一面観世音が安置 されています。 住 所 / 墨田区立花6丁目17-4 電 話 / 03-3611-5325 |
〈墨田区登録文化財〉 庚 申 塔 ( 道標付 ) 所 在 墨田区立花六丁目十七番四号 東漸寺内 この庚申塔は宝暦十三年(一七六三)十一月の銘を持つ駒形の??で、正面には青面 金剛像を半肉彫りし、一鬼・二鶏・三猿を配した典型的な庚申塔ですが、左側面には 「左やくし道」、右側面には「右市川道」と刻まれており、木下川薬師 (元は荒川放水路の中程にあった) へ抜ける道と市川へ抜ける道の分岐点に立てられ、 道標の役割を兼ねていました。このことから、元は当寺より南を通る平井街道(平井の 渡しから東は市川道と呼ばれた)沿いにあったものが、当寺に保管されたものと思われます。 かつては区内にも、いくつもの街道が交差し、多くの道標が立てられていたものと思われ ますが、数々の災害に見舞われ、区画が整理されたため、現存する道標は少なく、 庚申塔と兼ねているものはこれ一基のみで、貴重な存在となっています。 平成四年三月 墨 田 区 |
そば処・中むら もちよりぱんSAMBA |
東京エントツ |
ハ ト 屋 パ ン 店 Machiyasu 三善豆腐工房キラキラ橘店 カフェ 白 蛇 伝 三 昌 堂 紙 文 具 店 デリカショプ くるみ |
スパイスカフェ (有)ツバメ研磨工業所 (株) 霧下そば 本家 |
Kitchen KAMEYA 洋食館 かめぱん店(立花) |
それいゆ Deux |
そ ば 処 中 む ら 静かな通りの一角にあり、ランチに2回ほど 立ち寄りました。感じがいいお店に出合えたこと に嬉しさを覚えました。 住 所 / 押上3-18-11 電 話 / 03-3612-4673 定 休 日 / 木曜日 営業時間 / 11:00〜20:00頃; |
ごまだれ冷や汁うどん |
玉子丼セット |
もちよりぱんSAMBA 住 所 / 押上3-26-6 営業日 / 火水金土曜日 営業時間 / 12:30〜18:00頃; |
東 京 え ん と つ カップに入ったシフォンケーキ美味しいです! 住 所 / 東京都墨田区京島2-9-10 ( グローバルフード ラボラトリ) 電 話 / 03-3617-6777 定休日 / 水曜日 営業時間 / 10:00~ |
ハ ト 屋 パ ン 店 大正元年創業の古き良きコッペパン屋さん の燈火を継承 サンドイッチパン素直で美味しい味です。 住 所 / 京島3-23-10 電 話 / 03-4288-8918 定休日 / 水曜日 営業時間 / 平日6時30分〜15時(売切まで) 休日10時~16時(売切まで) |
三 昌 堂 紙 文 具 店 昔懐かしいお店です! 住 所 / 京島3-47-5 電 話 / 070-3773-5211 営業時間 1時30~ 営業日 月~土 |
三善豆腐工房 キラキラ橘店 おから茶なんて嬉しいですね! 住 所 / 京島3-22-11 ルミナス京島 電 話 / 03-3613-1088 営業時間 11:00 - 19:00 定休日 日曜日 |
おからケーキ おからと卵で焼き上げた自家製おからケーキで、 お腹も満たされて、ダイエット中のスイーツ商品 |
豆 腐 プ リ ン 低カロリー、高タンパクな豆乳を活かし、豆乳の まろやかさをプルプル食感に仕上げた一品。 |
デリカショプ くるみ 揚げ物、おかず、おつま等バラエティーに富んだ お総菜屋さん! 住 所 / 京島3-21-9 定 休 日 / 日 電 話 / 03-3610-6188 営業時間 / 10:00~18:00 |
Machiyasu 美味しい果物で作った手作りシャーベットのお店が ホットケーキと生パスタもはじめました。 住 所 / 京島3-20-1 定 休 日 / 日・祝日 電 話 / 03-3611-3531 営業時間 / 11:00~19:00 |
カフェ 白 蛇 伝 マンモス公園の横の道をはいった所にあります。 月~金のモーニングランチのトーストが2度焼きで一味違います プリンも味がよく大きいのには驚きました! 土、日曜日はオーナーが入れ替わり、ワッフルのメニュー が登場します。。 住 所 / 京島2丁目20−12 電 話 / 090-3875-2196 営業時間 10:00 - 17:00 休 日 / 祝日 |
(株) 霧下そば 本家 安永元年(1772年)新潟県妙高高原で創業→昭和28年、 墨田区のこの地にそば粉専門の製粉工場を設立、 神田やぶそば、浅草尾張屋をはじめ、全国の名だたる 名店に納入しておられます。本社店頭にてそば粉・ そば・そば茶など、全商品直接購入できます 住 所 /文化1-34-3 定 休 日 / 土日・祝祭日 電 話:03-3617-4197 営業時間/ 8:30~17:00 |
(株)霧下そば本家 安永元年(1772年)新潟県妙高高原で創業→昭和28年、墨田区のこの地にそば粉専門の製粉工場を設立、 神田やぶそば、浅草尾張屋をはじめ、全国の名だたる名店に当社の霧下そば粉を使っていただいて おります。最上級の原料を仕入れ、石臼でていねいに挽かれたそば粉で作った無添加の乾麺、手打ち 生そば(冷凍)、ご家庭でのそば打ち・そばがき、ガレットなどのそば料理に最適な各種そば粉、毎日の 健康維持に効果的なそばの実・そば茶など。一般のスーパーや小売店では中々打っておりませんので、 お土産や贈り物としても大変喜ばれております。 製粉所直売の文化名物、お気軽に店内にどうぞ! (営業時間月~金8:30~17:00) |
有限会社ツバメ研磨工業所 東京にただ1社、6mの長尺ステンレスを磨き上げる会社 目の当たりに初めて見る光景!楽しい体験でした。 住 所 /文化1-34-3 電 話 03-3619-7811 |
スパイスカフェ カ レ ー の 館、オーナーは世界48ヵ国 の食べ物を旅されてこられた方です! (ディナーコースのみ予約制) 住 所 /文化1-6-10 定 休 日 /月・火 電 話 0/3-3613-4020 営業時間/ 11:30~15:00 18:0~23:00 |
Kitchen KAMEYA 洋食館 一軒先にかめパン店(立花)があります。 住 所 / 立花2-1-11 定 休 日 / 月曜日 電 話 / 03-3619-0547 営業時間 / 11:00~15:00(L.O.14:30) 17:00~21:00(L.O.20:30) |
か め ぱ ん 店 (立花) 一軒先にキッチンカメヤがあります! 住 所 / 立花2-1-11 定 休 日/ 毎週火曜日 電 話 / 03-3619-2223 営業時間 / 6:30~19:00 |
そ れ い ゆ Deux 一人2個限定販売のアンドーナツ! カレーパンもあっとゆうまに売り切れでした 住 所 /立花4-30-16 定 休 日/土・日・祝日 電 話/03-5631-3305 営業時間 /10:00~16::30 |