つぶやき街角北西部ルート
➀・押上駅~シルバープラザ梅若

( スカイ姫のつぶやき19 )

                                                     ト ッ プ ペ ー ジ ヘ

バ ス 停 ル ー ト 一 覧 表


                                            バス停にリンクします
      

      








        



            
東京スカイツリー駅 周 辺

押上駅には京成電鉄・
都営地下鉄
東京メトロ半蔵門線・東武鉄道の4
つの駅があります。
住 所 / 墨田区押上一丁目





             






            






             






             






             






             






             






              






             






              






      生コンクリート工場発祥の地

東京スカイツリーが建つ前にはいくつか
のコンクリート工場が立っていました。
 





            





           

生コンクリート工場 発祥の地
 戦後、わが国のセメントが統制下にあった時代、昭和24年11月この地に日本で初めての生コンクリート製造会社が操業されました。 それまでの施行方法に比べ、簡便で工事費が安価であることから、生コンクリートは道路・軌道工事を中心に急速に広まり、わが国の高度成長期を支てきました。ここに生コンクリートの発祥の地を記念するとともに、今後も社会基盤を支えていくことを願い、記念碑を建立いたします。
             住友大阪セメント株式会社
             東京エスオーシー株式会社
                  平成21年5月






       東 武 鉄 道 船 渠 (ドック) 跡





            








東武鉄道船渠(ドック)跡

この地域での東武の歴史は、1902年4月1日に、東武伊勢崎線を北千住から延伸し、「吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー)駅」を開業したことに始まります。1904年には亀戸線(曳舟~亀戸間)の開通により一時廃止されましたが、その後、1908年には貨物駅として復活し1910年には「浅草駅」と改称して旅客駅としても再開業しました。当時、鉄道で駅に運び込まれた貨物は、ここで舟運に積みかえられ、北十間川から隅田川、中川を通って、広く各地に運びだされました。2009年、東京スカイツリータウン建設にともない、この広場から旧ドックの護岸石が多数出土しました。この土地の貴重な歴史を未来に受け継ぐため、敷石として再利用しています。






          わ ん ぱ く 天 国

住 所 / 墨田区押上一丁目47番8号
電話 / 03-3612-1456
利用時間:
午前9時から午後6時まで(4月から9月)
     午前9時から午後5時まで(10月から3月)





             





             









        曳舟駅南 (向島税務署入口)




           LE PETIT PARISIEN
(ルプチ パリジャン)

重厚な書斎!国会図書館にもない本が置いてあり、
オーナーは蔵書票に深い造詣があります。
この場所はかつて小説楢山節考の作者、深沢七郎
さんが今川焼屋を開いていました。
カウンターには
300~500年前の古紙が敷き詰められています。
 住 所 / 東向島2-14-12
電 話 / 03-3612-9961     定休日 / 水~木 曜





                        






             






             






            






蔵 書 票 色 々

             






        






             






HIROTAKE  OOTA 版画

                 













マーブリングで表紙を飾りました!
ここでしか手に入らない貴重な台帳だそうです。側面にも施されています。

             






             

パリジャン・ギャラリーヘ





東京新聞  2020年12月10日に掲載されました。








令和2年7月 文 MON NEXT に掲載されました。







                    





   平成28年10月19日(金) 午後7時30分~ 午後8時00分
NHKの美の壺「心をつかむ 本の装丁」で
▽装丁愛好家が夜な夜な集う「開かれた書斎」と題して紹介されました。







令和元年7月6日(土)日経新聞に掲載されました。
    今 昔 ま ち 話
深沢七郎の夢屋(東京・東向島)
  今はユニークな「書斎」に
 「楢山節考」で知られる作家、深沢七郎(1914~87年)が一時、東京都墨田区東向島で今川焼き屋を営んでいたエピソードは有名だ。埼玉県にひらいた「ラブミー農場」が暇な時期の道楽だったが、「夢屋」と名づけた店は、深沢自身が驚くほど繁盛した。店のあった建物は東武鉄道曳舟駅近くに現存。かつて深沢が立ち働いた1階の一室は、珍しい古書などが訪れる人を楽しませるユニークな空間に変わっている。今の部屋のあるじは石川順一さん(34)。本の装丁や、持ち主を示すため、本に貼られた「蔵書票」の研究家だ。古い時代の装丁や、蔵書票の魅力を伝えたいと、自身の書斎も兼ねるこの部屋を「ルプチパリジヤン」の名で2014年から公開した。今の日本で蔵書票を目にしたことがある人は少ないだろう。石川さんによると、欧州発祥の蔵書票は明治期に日本にも伝わった。しかし日本はハンコ文化の国。本には蔵書印を押す習慣がすでにあり、蔵書票は普及しなかった。一方欧州では、蔵書票の歴史は15世紀のドイツまでさかのぼる。当時本は希少で、持つことはステータスでもあった。そこで君主、貴族らが紋章や家訓
を描いた蔵書票を表紙の裏に貼る風習が生まれた。やがて庶民に広がり、版画やリトグラフの使用もあってデザインが多様化。19世紀には小さな版画として単体で鑑賞されるまでになったという。このころまでは本の装丁もオーダーメード。読むだけでなく、本棚を飾るインテリアの意味があった。石川さんは十数年前、洋古書店で偶然手にした総皮で装丁された本に魅入られ、「モノとしての本」の研究にのめり込んだ。今は蔵書票の歴史を「とことん調べる」のが目標だが、簡単な蔵書票を作る一般向けの教室や、深沢にちなんだイベントを開いたこともある。知人の紹介で入居したこの部屋に、夢屋があったことは近所の人に教えられて初めて知ったという。文学史に名を残す作家の店とデジタル時代の異空間のような「書斎」。たたずまいは全く違うが、どちらも本にゆかりがあるところに不思議な縁を感じる 
                                 (中丸亮夫) 






                小 説 家 深 沢 七 郎

今 川 焼 屋 『夢 屋』の 店 舗 跡

深沢七郎は『笛吹川』『東京プリンスたち』
『楢山節考』など多くの作品を残しました。昭和46年
から48年頃まで夢屋という店の名前で今川焼屋
を開いていましたが、夢屋の今川焼は大きく、餡も
たっぷり入っていてとてもおいしかったそうです。

住 所 / 東向島2-14-12   





             





深沢七郎を偲ぶ会 au PETIT Parisien

年末は、深沢七郎を共に偲びましょう。
今年6月にご来訪、深沢七郎との思い出話をご披露くださいました深沢七郎記念館館長森田進氏
および、書斎における展示等で平素よりお世話になっております鈴木誠氏によるギター演奏会です。
また、森田様のご友人である榎本氏にも参加頂く予定です。

プログラム:
祖母の昔語り 武井守成 演奏:榎本
落葉の精   武井守成 演奏:榎本
夕焼     武井守成 演奏:森田
くちなしの花 小栗孝之 演奏:森田
紡ぎ唄    小栗孝之 演奏:榎本

休憩

アストリアス     アルベニス    演奏:榎本
アラビア風奇想曲   タレルガ     演奏:榎本
アルハンブラの思い出 タレルガ     演奏:榎本
松のロマンス     モレーノトローバ 演奏:榎本
愛のロマンス     作者不詳     演奏:榎本

森田:終わりの言葉

日時:12/16(日) 13:00〜15:00くらいまで
会場:書斎 (LE PETIT PARSIEIN)
演者:森田進(深沢七郎記念館館長)、榎本、鈴木誠(彫金師)
会費:¥1000-(ワンドリンク込)
定員:マックス10名(森田さんのご友人が多数いらっしゃる模様ですので、立ち見となる可能性あり)






          仕 立 て 直 や
 住 所 / 東向島2-22-2  
電 話 / 090-6473-9608
定休日 / 水・木曜日
                営業時間 / 13:00~18:00





             






             






                                






         江 戸 木 箸 大 黒 屋

夫婦箸、結婚祝い、還暦のお祝いのギフトや
五角箸、七角箸、八角箸、携帯用のマイ箸など
大黒屋の職人の方が心を込めて一本一本手作り
で仕上げています。
 住 所 / 東向島2-3-6  電 話 / 03-3611-0163
定休日 / 日・祭・第2~3土曜日
                営業時間 / 10:00~17:00





      






             






             







インタビューを受けられる大黒屋さん 
 
大きなお箸は横綱大関箸です! 





大黒屋さんが書かれました

                 






             






                 一 般 社 団 法 人
日本リ・ファッション協会

被災地支援活動を行っています。又 墨田区のすみ
ゆめでは柳橋の妙見様で着物ファッションショー
を開催しました!

事務局には着物やセレクト古着の販売コーナー、
カフェコーナー・フリースペースがあります。

住 所 / 東向島1-22-2   FAX / 050-3153-0830
営 業 日 / 木曜~日曜日     営業時間 / 13時~19時





            






            






               






            高 木 神 社

応仁2年(1468年)、室町時代の創祀と伝えられて
おり、旧寺島新田の鎮守として尊崇され、古くは
「第六天社(だいろくてんしゃ)」と呼ばれていま
した。昭和43年11月、鎮座五百年の式年大祭が行わ
ました。
住 所 / 押上2-37-9   電 話 / 03-3611-3459





            






            






        

墨田区登録文化財

山玉向島講社の碑

所在地 墨田区押上二丁目三十七番九号 高木神社

山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講(富士山を信仰する人々の団体)の一つです。講印から、江戸時代後期に成立した山玉深川元講から分かれた講と考えられます。講の参会には講印を配した祭祀具が用いられ、富士山登拝の際には富士吉田の御師「大番城」の屋敷に宿泊していました。沿革は不明ですが、明治七年(一八七四)と記された祭祀具が伝えられており、大正期には講員が一00名以上であったと推定されています。本碑は、その山玉向島講社の人々が明治三十一年(一八九八)九月に建立したものです。本碑には、正面に山玉向島講社の講印が彫刻され、その中に「廿三夜」と刻まれています。これは、山玉向島講社の人々が参会する日を示すと考えられます。また、裏面には建立にかかわった世話人十六名の名が居住地別に刻まれ、建立当時の講社に先達、講元などの役割があり、当時の中心メンバーが須崎、中之郷、寺島の住人で構成されていたことを示しています。十六名のうち、碑銘彫刻師として知られる三代目宮亀年(元宮為吉)が名を連ねており、碑刻者と推定されます。世話人の経歴を調べてみると、須崎の人々は墨堤常夜燈(墨田区登録有形文化財)の奉納、寺島の人々は寺島小学校の創立というように、地域をあげての事業に関わる有力者層でした。碑に刻まれた須崎、中之郷、寺島の三区域の範囲は、向島地域にあって大きい部分を占め、山玉向島講社がそれまでの社会生活上のつながりを超えた広がりをもっていたことが分かります。山玉向島講社は第二次大戦中に活動を停止したと考えられ、その具体的な活動を知ることは難しくなっています。この向島山玉講社の碑は、近代の墨田区における信仰と、地域の結びつきの広がりを理解するために欠くことのできない文化財といえます。
平成二十三年二月

                            墨田区教育委員会






         秋 葉 神 社

昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世
稲荷大明神がまつられていた。草創は正応2年
(1289)と伝えられ、広重の『名所江戸百景』
に紅葉の名所として描かれています。
住 所 / 向島4-9-13   電 話 / 03-3622-5502





            






           

秋葉神社御由緒

祭神 火産霊命(千栄秋葉大権現)
宇迦御魂命(千代世稲荷大明神)

昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応2年(1289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感を得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田与右衛門を通じ寺社奉行に願出で上州沼田城主本多正永の報賽にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保2年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と稱し別当満願寺を廃した。大正12年の震災に社殿倒壊し、昭和5年復興したが、昭和20年戦災にかかり昭和41年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した
※ 主な行事
歳旦祭 1月1日   祈念祭 3月3日       例祭 9月中旬 

鎮火大祭11月17日・11月18日  新嘗祭 11月23日      縁日 毎月3日18日
                               社 務 所
               昭和61年10月18日立






       

〈墨田区登録文化財〉
石 燈 籠
所在 墨田区向島4丁目9番13号 秋葉神社内

本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(1741)奉納したものです。吉里は将軍綱吉の寵臣柳沢吉保の子です。この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主酒井雅楽頭忠拳が宝永6年(1709)奉献したもので、その手前にある一対の 石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥が宝暦8年(1718)奉献しました。鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本田正永が宝永元年(1704)奉献したものです。なお、この一対は〈墨田区登録文化財〉に登録されています。当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれ、『江戸名所図絵』には「秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時游観の地なり」とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。

平成五年三月
                           墨田区






     
 請地秋葉の境内
絵師・初代歌川広重










       曳舟文化センター




             Reminders Project &
Reminders Photography Stronghold

90平方メートルの広さを誇るギャラリー、ワークショップ、
イベント、写真集展示室、写真プロジェクト助成、出版、
宿泊施設等、写真関連の多目的な活動を可能にしてくれる
場所です。心に響く写真に出合えます。
住 所 / 東向島2-38-5 





             






             




 
リマインダーズプロジェクトについて
リマインダーズ(思い起こさせる或いは気付かせる人・ 物・事の意)プロジェクトは2000年に発足したプロジェクトです。新聞を読んだり、テレビのニュースを見るだけでは、世界の出来事は他人事の様にしか映ってきません。何も解決していないのにみんなすぐ忘れてしまう。 或いは、気付かなければ、何もなかったこととして片づけられてしまいます。 このプロジェクトは、撮影する主題(被写体)を深く理解し、独自の視点を持って取材活動を続けるフリーランスフォトジャーナリストによって、「世界で何が起きているの か」を人々に伝える事を第一の目的としています。
『広く伝える』『様々な視点を求める』事を基本とし、発表の拠点やスタイル、写真家の国籍、キャリア等にこだわらず活動を続けています。時を経ても、このプロジェクトが伝えたいメッセージが引き継がれていく事が理想です。リマインダーズは被写体であり、写真家であり、それを見た人々でもあるのです。





ス タ ッ フ
後藤由美 リマインダーズ・プロジェクト発起人/代表

アジアを拠点に活動するフリーランスのフォトコンサルタント。プロデュース、キュレーション、フォトエディッティング、リサーチなど、写真に関する総合的なコンサルティングに関わる。重点テーマは、紛争、現代社会問題、人権侵害、女性問題など。これまでNGO、人道支援・人権擁護団体などの写真を使ったキャンペーンや出版、また国際的な写真賞、フォトフェスティバル、イベントのノミネーション、キュレーション及びプロデュースに多数関わる。 もっと読む
写真を通して問題そのものと、その問題に取り組む写真家の存在を世界に紹介すること、また一個人として社会に貢献できることは何かを、写真を通した活動から見る側に問いかけることに力を入れている。
写真家の仕事の露出機会をサポートする団体、リマインダーズ・プロジェクト代表。リマインダーズ・プロジェクト・アジアの写真家助成創設者。写真ブログ「I WAS THERE」のキュレーター。2012年度Prix Pictetノミネーター、マグナム財団Emergency Fund2012年度ノミネーター、フォトシティさがみはらアジア賞ノミネーター、2011年度オーストラリアWALKLEY AWARDS審査員、インドネシアBINUS国際写真コンペティション審査員、KL PHOTO AWARDS審査員、2010年度タイ外国人記者クラブ主催フォトコンテスト審査員、第6回アンコールフォトフェスティバル(カンボジア)フォトコンサルタント、第3回フォトフォーラムベイルート(レバノン)キュレーター、講談社100周年記念写真集プロジェクト「THIS DAY 希望の一日」フォトエディタなどを務める。2005年度やよりジャーナリスト賞受賞。




後藤勝 Reminders Photography Stronghold 所長/写真家

1989年に渡米。中南米を放浪しながら独学で写真を学び、91年から南米コロンビアの人権擁護団体と共に活動、以後ニューヨークを拠点とする。97年からカンボジアに移り、内戦終結まで記録、その後もバンコクを拠点にしてエイズや児童売買などの社会問題を追う。日本での人権問題をテーマにプロジェクトも続け、2012年から東京を拠点、同年Reminders Photography Strongholdを設立する。

主な受賞歴: さがみはら写真賞(2005年), 上野彦馬賞(2004年), International Fund for Documentary Photography(IFDP)2002年..etc.







              力  石 ( 伍大力菩薩銘 )

住 所 / 東向島2-40-6 





             






        

墨田区登録文化財〉
力 石 ( 伍大力菩薩銘 ) 
                   所 在  墨田区東向島二丁目四十番六号

正 面 「 四拾三貫目 」 「 享保元歳 」
左側面 「 伍大力菩薩 」 「 寺島村 」

力石とは、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて、
力競(くら)べや曲芸を行った石のことです。古代には占いとしても使用されていましたが、
江戸時代頃には若者組の成年儀式として使われる一方、力自慢らによる競技化、娯楽化の傾向も強まりました。江戸時代の力競べは、深川 (現江東区) から全国に広がったといわれています。祭りの日に重い石を持ち上げ、優勝した者は神仏に感謝し、その石を神社や寺院に奉納したために、現在でも境内で見ることができます。この伍大力菩薩銘の力石は、もとは長浦神社(現東向島六丁目)の近くに置かれていたといわれ、隅田川沿岸では、二番目に古い享保元年 (一七一六) の年号が刻まれています。また、寺島村とも刻まれており、当時の村人たちが競技にうち興じていたことをうかがわせる貴重な力石です。なお四三貫目とは、約一六一キログラムにあたります。
平成十年三月
              墨田区教育委員会






             ユ ー ト リ ア
すみだ生涯学習センター

ユートリアという名前は一般公募作品で、心の
「ゆとり」を感じさせる施設であってほしいとの
思いが込められているそうです。
住 所 / 東向島2-38-7   電 話 / 03-5247-2001









 
 
墨田区役所東向島出張所
利用時間→月曜日から金曜日AM:8:30~PM5:00
定休日→土曜日・日曜日、祝日、年末年始
電話番号→03-3610-5250
 





            






                






            






                   曳舟文化センター

本格的な演劇や音楽会、軽運動や展示、各種集会
など文化的交流の場として幅広く利用できる施設。
曳舟文化センターバス停の前にあります。
住 所 / 京島一丁目38番11号   
電 話 / 03-3616-3951





             





             









      隅田稲荷神社入口




    

 
       隅 田 稲 荷 神 社

伊豆より逃れてこの地を開拓した堀越公方政知の
家臣江川善左衛門雅門が天文年間(1532-1553)
に創建、善左衛門村の鎮守であったといいます。
五代目江川善左衛門が、伊勢参詣の折り、種々の
厄災を八人の僧によって救われたことにより当社
を再建したことから、八僧稲荷とも称されていま
した。昭和五十年に復活した万燈神輿は、善左衛門
の徳を称えた里人によって、元治年間に始まったと
伝えられています。

住所    墨田4-38-13    電話    03-3611-7846





             






    


墨田区登録有形文化財
板絵墨絵 「神竜図」 鴨下晃湖
                     所在地 墨田区墨田4丁目38番13号
                   所有者 宗教法人隅田稲荷神社

板絵墨絵(いたえすみえ)「神竜図(しんりゅうず)」は、隅田稲荷神社の拝殿の天井絵です。いわゆる雲竜図で、17枚の檜板から成る画面に、雲間から半身を現す神竜(竜神)の姿が描かれています。筆者は、一時付近(現墨田3丁目37番)に住んだ鴨下晁湖(かもしたちょうこ)(1890~1967)です。晁湖は浅草出身の日本画家で、松本楓湖(まつもとふうこ)(1890~1923)に大和絵を学び、歴史画を得意としました。明治40年(1907)の第一回文部省美術展覧会で三等賞を受賞後、文展や帝展で入選を重ね、昭和7年(1932)に永久無鑑査の資格(無審査で出品できる資格)を得ました。戦後は、柴田錬三郎の『眠狂四郎無頼控(ねむりきょうしろうぶらいひかえ)』など、時代小説の挿絵(さしえ)に名作を残しました。「神竜図」の製作期間は未確定ですが、昭和18年(1943)に社殿の改築が行われており、その頃のものと考えられています。地元にゆかりのある画家の作品であることに加え、墨田区内では希少な天井絵であることから、平成12年(2000)12月7日に墨田区の登録文化財となりました。
平成30年3月
                                  墨田区教育委員会









        鐘  ヶ  淵




      

         円 徳 寺

1613年(慶長18年)、離北良重によって
開山された曹洞宗の寺


所在地 / 墨田区墨田5丁目42-17





             






               






      

         武蔵・下総を結んだ古代東海道

東武スカイツリーライン線鐘ヶ淵駅の付近
には、武蔵国と下総国を結ぶ古代東海道と
呼ばれる古代の官道がありました。

所在地 / 墨田区墨田二丁目~四丁目





             






          

武蔵・下総を結んだ古代東海道
                 所在地  墨田区墨田二丁目~四丁目


東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。官道に定められた年代は、九~十世紀と想定されます。『大日本地名辞書』に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(1880)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。鐘ヶ淵駅から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした承和二年(835)の太政官符で渡船の数を二艘か四艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが『伊勢物語』東下りの場面です。在平業平が

「名にしほは、いざ事とはむ宮こ鳥     わがおもふ人はありやなしやと」
と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。


平成二十三年三月
                         墨田区教育委員会









        墨 田 区 総 合 運 動 場




 
左側に多聞寺さんの屋根が見えます!
  多 聞 寺

木造萱葺切妻造の山門は江戸時代中期に造られた
区内最古の建造物といわれています・

関東大震災、戦災での消失を免れました。
妖怪狸伝説とともに狸塚が今も残っており
たぬき寺とも呼ばれ親しまれています。

住 所 / 墨田5-31-13  電 話 / 03-3616-6002





             









不殺生(ふせっしょう)の修行(しゅぎょう)
日本国憲法(
にほんこくけんぽう)
第二章(
だいにしょう) 戦争(せんそう)の放棄(ほうき)
戦争の放棄(
せんそうほうき) 戦力の不保持(せんりょくふほじ) 交戦権(こうせんけん)の否認(ひにん)
第九条(
だいきゅうじょう) 日本国民(にほんこくみん)は、正義(せいぎ)と秩序(ちつじょ)を基調(きちょう)とする国際平和(こくさいへいわ)を誠実(せいじつ)に希求(ききゅう)し、国権(こっけん)の発動(はつどう)たる戦争(せんそう)と、武力(ぶりょく)による威嚇(いかく)又は武力(ぶりょく)の行使(こうし)は国際紛争(こくさいふんそう)を解決(かいけつ)する手段(しゅだん)としては、永久(えいきゅう)にこれを放棄(ほうき)する。
2、前項(
ぜんこう)の目的(もくてき)を達()するため、陸海空軍(りくかいくうぐん)その他()の戦力(せんりょく)は、これを保持(ほじ)しない。国(くに)の交戦権(こうせんけん)は、これを認(みと)めない。








多 聞 寺

Tamonji Temple
(Sumidagawa shichifukujin)

区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったため、昔日の面影を残す数少ない寺院。木造萱葺切妻造の山門は、区内最古の建造物と考えられます。また、隅田川七福神の毘沙門天が祀られています。

Located at the northernmost edge of the ward, Tamonji Temple is one of only a few temples in Tokyo where visitors can still enjoy vestiges of a long-gone era as a result of its not having suffered significant damage in either the Great Kanto Earthquake or World War Ⅱ.
The temple's Sammon Gate, built of wood and featuring a rare thatched gable roof, is considered to be the oldest structure in Sumida Ward. The temple also enshrines Bishamonten (thegod of war and warriors),one of the sevne gods of fortune associated with the Sumida Rive  






             






江戸期木造建築の茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとる山門

             








多 聞 寺 山 門

     所在地  墨田区墨田5-31-13
所有者  多門寺

多門寺山門(たもんじさんもん)は、木造切妻造の四脚門で、現在では珍しい茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石( 礎盤 )など一部に禅宗様の技法が確認できます。寺伝によれば、多聞寺の山門は、慶安二(1649)の建立後、享保三年(1718) 二月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和三年(1803) 二月の火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また、専門家による調査の結果、現存する山門の建立年代は十八世紀を降らない、との判断が得られています。これらのことから、この山門は享保三年以降に再建され、享和三年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられています (ただし後年幾度か改修が行われています)。多門寺山門は、このように、建立年代が江戸時代中期に遡る可能性が考えられる貴重な文化財です。平成十六年十月一日に墨田区指定有形文化財に指定されました。
  平成二十九年九月
                              墨田区教育委員会
 


             山号額 「隅田山」 (正法金対書)裏に 
「明和九年三月吉日造営」、「現住法印典慶代」、
「願主 瀧澤逸平 規和」と刻まれています。
このため、現存する山門を明和9年(1772) の造営物
と見る説もあります

Tamonji-Sanmon
Tamonji-Sanmon (Main Gate) is a wooden four-legged gate with a gabled thatched roof.
It is thought to have been built in around the middle of 18th century, and is a precious
cultural asset thatPreserves traditional Japanese architectural techniques to the present day.






           

多(た) 聞(もん) 寺(じ) の 山(やま) 門(もん)

山門中央
(ちゅうおう)の「隅田山(すみださん)」と記(き)された山号(さんごう)(がく)の裏(うら)に「明和(めいわ)九年(きゅうねん)」(一七七二年) と彫(ほ)られており、現存(げんぞん)する墨田(すみだ)区内(くない)最古(さいこ)の建造物(けんぞうぶつ)として区(く)登録(とうろく)有形(ゆうけい)文化(ぶんか)(ざい)とされています。屋根(やね)を支(ささ)える本柱(ほんばしら)の前後(ぜんご)に二本ずつの控柱(ひかえばしら)をもつところから四足門(しそくもん)または四(し)脚門(きゃくもん)と呼(よ)ばれる形式(けいしき)の門です。一部(いちぶ)には朱(しゅ)と思(おも)われる痕跡(こんせき)があり、建立(こんりゅう)当初(とうしょ)は朱塗(しゅぬ)り瓦(かわら)(ぶ)きであったことが察せられます。その後(のち)、享和(きょうわ)三年 (一八〇三年) の火災、安政(あんせい)二年 (一八五五年) の大地震(だいじしん)などの被害(ひがい)を受(う)け、後(のち)に萱葺(かやぶき)にされたものと思(おも)われます。その後もこの門は、拝仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)、関東(かんとう)大震災(だいしんさい)、十五年戦争(せんそう)などの天災(てんさい)と人災(じんさい)の歴史(れきし)をくぐり抜(ぬ)け、 娑婆 (しゃば) (人間自身が作り出した苦しみの世界) の人々(ひとびと)の営 (いとな) みを見据 (みす) えてきました。これからも、安楽 (あんらく) を願(ねが)う人々(ひとびと)を見守 (みまも) ってくれるでしょう。
              隅田山 多門寺






榎本武揚の書による 隅田川七福神の碑

 この碑は元幕府の海軍奉行を勤め、戊辰の役には五稜郭で戦った榎本武揚の書を自然石に刻したものです。
 生粋の江戸っ子の榎本武揚は、隅田川辺りの散策をことのほか好み、当寺を訪れたおり、筆をとったといわれます。
 碑面には隅田川七福神之内 毘沙門天 正二位子爵榎本武揚」と記されています。


             






狸  塚

             








狸塚のいわれ
むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海(ばんかい)和尚と村人たちは、人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。ある晩のことでした、和尚さんの夢の中に、天までとどくような大入道があらわれて、「おい、ここはわしのものじゃ。さっさと出て行け、 さもないと、村人を食ってしまうぞ。」と、おどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。「おまえの悪行は、いつかおまえをほろぼすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか『狸塚』と呼ばれるようになりました
.。








東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)で被災(ひさい)した 
浅草国際劇場
(あさくさこくさいげきじょう)の鉄骨(てっこつ)

1945 (昭和(しょうわ)20) 年3月10日未明(みめい)、アメリカ軍(ぐん)B29爆撃機(ばくげきき)330機による無差別絨毯爆撃(むさべつじゅうたんばくげき)を受(う)け、下町一帯(したまちいったい)は ”炎(ほのお)の夜(よる)” と化(か)した。この東京大空襲により下町は壊滅状態(かいめつじょうたい)に陥(おちい)り、死者10万人(まんにん)、重傷者(じゅうしょうしゃ)11万人、 100万人が家(いえ)を失(うしな)った。 (犠牲者(ぎせいしゃ)の氏名(しめい)、正確(せいかく)な人数(にんずう)は現在(げんざい)も不明(ふめい))
この元(もと)浅草国際劇場の鉄骨 (1998年現在、大部分(だいぶぶん)は江戸(えど)・東京博物館(はくぶつかん)に展示中(てんじちゅう)) は、東京大空襲を語(かた)り継(つ)ぐ、数少(かずすく)ない歴史的(れきしてき) “証人(しょうにん)” である。風船爆弾(ふうせんばくだん)の工場(こうじょう)となっていた浅草国際劇場も直撃弾(ちょくげきだん)を受(う)け、屋根(やね)を支(ささ)えていた鉄骨は曲(ま)がり、ちぎれ、天井(てんじょう)の大部分(だいぶぶん)が抜(ぬ)け落(お)ち、たくさんの人々(ひとびと)が焼死(しょうし)した。目(め)の前(まえ)の痛(いた)ましくひきちぎられた鉄骨に向(む)かって目を閉(と)じてみると、炎(ほのお)の夜(よる)の恐怖(きょうふ)がよみがえる。
戦争(せんそう)の実相(じっそう)を伝(つた)える “証人たち” に静(しず)かに心(こころ)を傾(かたむ)け、
不殺生(ふせっしょう)の誓(ちか)いを新(あら)たにしましょう。

隅田山(すみださん)  多門寺(たもんじ)



戦災の証言者
 
パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号
(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。

1992年10月18日 戦災の木を保存する会


Monument of Word War Ⅱ

The monument, the burnt tree was discovered in 1-2-7 Nishinippori, Arakawa-ku ( former address 4-3420, 3421 Mikawashima ) where the construction of a new building had started, on August 12, 1991, a half century from the battle of pearl Harbor, the 46th year from the end of World War Ⅱ.
There were 71 raids from April 18, 1942 to August 15, 1945. Now the tree that is displayed in this place is the one that was burnt in the air raids from 11 p.m. April 13, 1945 to 2:22 am. April
14, 1945. The bombs dropped were high quality bombs, 81.9t and incendiaries 2037.7t. The damaged area spread 139 places containing Nishinippori. This tree that was burnt in the war makes
an appeal for precious life. Now we should try to build a peaceful country forever under the peaceful constitution.


October 18, 1992
Sensai no ki wo hozonsuru kai
(The society to preserve the tree burnt in World War Ⅱ)






             






すみだマイスター大石智弘さん作の江戸文字提灯です!

               






多聞寺さん前の広場に移動スーパー!

             






               フクシ・エンタープライズ
墨田フィールド

(墨田区総合運動場)

住 所 / 墨田区堤通二丁目11番1号
TEL. 03-3611-9070 / FAX. 03-3611-9073

 





             






             






             






               鐘ヶ淵紡績発祥の地

住 所 / 墨田5丁目19番他

 





            








鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)発祥の地
                   所在 墨田区墨田五丁目十九番ほか
明治十九年(一八八六)に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の五軒が集まり、三越得右衛門を頭取として東京綿商店が設立されました。翌年、資本金十倍に増加させ、隅田川河畔鐘ヶ淵の広大な土地に紡績工場を建設して、明治二二年(一八八九)に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と変更しました。これが、現在のカネボウ株式会社です。
鐘淵紡績は、設立当初こそ経営難に見舞われたものの、他社を吸収合併する中に、日清戦争を機に大発展を遂げ、世界有数の紡績会社となりました。
平成十三年三月
                       墨田区教育委員会






                鐘ヶ淵紡績発祥碑由来記
(カネボウ物流公園内)
住 所 / 墨田5丁目19番他

 





             








発 祥 碑 由 来 記
此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下命しましたが成功せず鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます 周辺の風光明媚を賞でて徳川氏はここを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と称しました。
明治20年近代工業の先覚としてこの地に東京錦商社が設立せられ、紡績機械二万九千錘を英国より輸入して東洋第一の紡績工場を建設明治二十二年社名を鐘淵紡績株式会社と改稱しました。爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品はカネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。この間にあって産業立国の一翼を担った人々少なからず、また過ぐる関東大震災、東京大空襲当時その耺に殉じて斃れた者は五十余柱に及びました。いまこゝに時代の進展と共に工場の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し八十余年に亘ってうけたこの地域社会の御かげを感謝すると共に老人の人と児童の憩いの場を設けて記念庭園とし永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
                                                        昭和四十四年十月二十日
                   鐘ヶ淵紡績株式会社
                              社中






        都 立 東 白 鬚 公 園
隅田川に沿うような南北に細長い公園で、➀葛飾北斎隅田川関屋の里
②葛飾北斎梅若の秋月、③葛飾北斎雪月、都立リハビリテーション病院
梅若橋コミュニティー会館、榎本武揚像、梅 若 塚 跡、
④隅田川神社
④隅田宿跡、木母寺、⑤近代映画スタジオ発祥の地等が点在しています
住 所 / 堤通2-2-1   電 話/ 03-3614-4467
 












都立東白髭公園南と北入り口

             







 
右側は墨田区総合運動場です。 






             













防災拠点の緑の広場
 墨田区の北端、隅田川に沿うように南北に細長い東白髭公園は、緑とレクレーションの場です。公園の東側には、13階建の高層住宅が並んでいます。公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、この区域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点。もし大地震や火災がおきた時には、公園は避難広場となります。
    開園年月日    昭和61年6月1日
開 園 面 積   103,127.60㎡
             所 在   地   東京都墨田区堤通2丁目
                                     主 な 植 物   シイ、シラカシ、マテバシイ、ケヤキ、
                                            クロガネモチ、ヤブツバキ
                               施  設     小野球場兼用競技場、テニスコート



Down town green plaza as disaster shelter
This is a long, narrow Higashi-Shirahige Park in the northern tip of Sumida Riverlying along the river from north to south and is recreational area with new greenery.
High-rise 13-storied residential buildings are lined up on the Eastern side of the park. This entire area with the park and the housing and a specialized rehabilitation hospital is planned as a base for disaster prevention in the Koto Delta Region. The park is to be an open shelter in case of strong earthquake or big fire.






北  池

             






             






             






梅 若 橋

             






             






               







 
             
木母寺の屋根が見えます!






             






都立リハビリテーション病院

             






梅若橋コミュニティー会館

             







水琴窟がありました!
 
まといのシンボルタワー 






東京都下水道局 隅田ポンプ所

             






 東白髭公園防災樹

             








この公園は、江東再開発基本構想に基づき災害時における避難広場の確保と生活環境の整備を目的としてつくられたものです。
 樹木には、火災による火の粉や熱風から人を守る働きがあります。このため公園の樹木も防災力の大きい、常緑広葉樹を中心に枝葉の密なシイノキ、シラカシ、タブノキ、マテバシイ、ツバキ類などを用いました。この公園は避難した人々を火から守り、火災の延焼を防ぐようつくられたものです。また、ふだんは緑とレクレーションの広場として広く利用されています。






南   池

             






桜 堤 中 学 校

             









        榎 本 武 揚 像 入 口




             葛 飾 北 斎 
Thirty-six Views of Mount Fuji:
Sumida-gawa Sekiya no Sato


隅田川関屋の里 ━富嶽三十六景━ 





             






             


隅田川関屋の里 ━富嶽三十六景━

葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松、朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。
天保2(1831)年頃の作品です。
 

A print from the representative Thirty- six Views of Mount Fuji series created by Katsushika Hokusai when he was about 72 years old. This scene depicts the area around Senju Akebono-cho and Senju Sekiya-cho in Adachi-ku as seen from the current 2-Chome Tsutsumi-dori, Sumida-ku. Apart from an official bulletin board, no houses can be seem amid the grasslands and paddy fields, and the impressve pine tree on the bank stretching from the foreground into the distance and the sight of Mt. Fuji bathed in the sunrise produce a very impressive piece of workoverflowing with three horseback riders racing through the peaceful early morning scene. The samurai warriors, the horses and the harnesses are all depicted in bright colors. This print wascreated around 1831






       鐘 ヶ 淵 陸 橋

堤通2丁目 都道461号線
交差点を挟んで、一方に「鐘ヶ淵」の地名の
由来に関する図や「歌川広重」が「名所江戸
百景」で描いた「木母寺内川御前栽畑」の
レリーフがあります。





             






             






 
「鐘ヶ淵」の地名の由来に関する図
                  
歌川広重が「名所江戸百景」で描いた
「木母寺内川御前栽畑」のレリーフ







       
これは広重の「木母寺内川御前栽
畑」(名所江戸百景)をレリーフに
したものです。徳川将軍の食膳に
供する野菜を栽培する畑を御前栽
畑といい、ここの内川(入江)を船
で出入りすることができました。
 
     
鐘ヶ淵の由来には隅田川がこのあ
たりで直角に曲がり、それが工匠
の使う曲尺(矩尺)ににているとこ
ろから、又、寺院の移転の際に梵
鐘(ぼんしょう)が川に落ちたとこ
ろからの二説が伝えられています。






      墨田区立梅若公園

榎本武揚像・梅若塚があります。
住 所 / 堤通2-6-10号  





             






榎 本 武 揚 像

榎本武揚は江戸下谷御徒町の直参旗本の家に生まれる。北海道の函館五稜郭で新選組の土方
歳三と共に官軍と戦った事で有名。この向島の地は晩年の明治38年から明治41年まで住んで
いました



             






            

墨田区登録有形文化財

銅造榎本武揚像

        所在地  墨田区堤通2丁目6番10号
               墨田区立梅若公園内

本像は、榎本武揚没後の大正2年(1913)5月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。この銅像は、平成12年12月7日に墨田区登録文化財に登録されました。
平成29年3月
                            墨田区教育委員会

 
The Bronze Statue of Enomoto Takeaki

This statue was erected in May 1913 after the death of Enomoto Takeaki. The statue,made of bronze with about 3 meters in height, is facing south and showing solemn appearance with full-dress uniform. The sculpturing is excellent in outline description with fine texture of clothing and expression of his face. Enomoto Tateaki (1836-1908) is prominent as one of the former retainers of shogunate, who fought against Meiji New Government Army at the Hakodate War, which was the last stage of the Boshin War. people representing political and business worlds, such as Okuma Shigenobu, Okura Kihachiro,Shibusawa Eiichi and Masuda Takashi, cooperated in building the statue. The sculptors of original mold are Fujita Bunzo
 and Tanaka Chikamitsu, and the caster is Hiratsuka Komajiro






            

墨田区登録有形文化財
銅 像 榎 本 武 揚 像

「榎本武揚」
榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌(しょう)平(へい)坂学問所 昌平黌(しょうへいこう))で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。武揚帰国後の日本は「大政(たいせい)奉還(ほうかん)」「王政復古(おうせいふっこ)」という体制変換を迎え、武揚は戊辰(ぼしん)戦争の最後の戦いとなった箱館(はこだて)戦争では、五稜郭(ごりょうかく)を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

Sumida ward Registered Tangible Cultural Property. Statue of Enomoto Takeaki ,Enomoto Takeaki was born in 1836 to a retainer of the shougun. In the Boshin Civil War (1868~1869), Enomoto led the forces of the former shogunate and occupied the Goryokaku star fortress in Hakodate, Hokkaido. Al though imprisoned after losing the Battle of Hakodate,his talents were recognized by the new Meiji government, who pardoned him and appointed him to a government post. In addition to negotiating the Treaty of Saint Petersburg (1875) as a special envoy to Russia, Enomoto went on to serve as Minister of Communications, Minister of Education, Foreign Minister And Minister of Agriculture and Commerce at various times throughout his career. He was also given the rank of viscount. He died on October 26, 1908, at the age of 73. According to historical accounts, he wasoften seen riding his horse along the banks of the Sumida River and admiring the flowers of Mukojima- Hyakkaen garden

「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光(むつむねみつ)銅像(外務省)や井伊直弼(いいなおすけ)銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)狩野芳崖(かのうほうがい)胸像(東京国立博物館)などが知られています。








1868年1月、大政奉還後の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)への処遇に不満の旧幕府軍が新政府軍と京都で衝突。「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)に始まる戊辰戦争(ぼしんせんそう)は1年半に及んだ。 旧幕府軍の最高指揮官、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大阪城を抜け、軍艦で江戸に向かったことで、旧幕府軍は総崩れとなった。






梅 若 塚 跡
現在の塚は木母寺境内にあります梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、
謡曲「隅田川」で知られます



             






               

東 京 都 指 定 旧 跡

梅   若   塚

所在地  墨田区堤通二の六
   
         区立梅若公園
標 識  大正九年三月
指 定  昭和三〇年三月二八日

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています

平成二十四年三月 建設

東京都教育委員会


Historic Places

Umewakazuka (The Mound of Umwaka)
Landmarked in 1920, Designated in 1955

Umewakazuka is said to be a grave of Umewakamaru,who is known for a Noh songSumida Riverconcerns to his legend.According to this legend,Umewakamaru was an orphan of yoshida Shosho KorefusaStudying in Mount Hieihe was kidnapped by a slave-dealer Shinobuno Tota.On theway Tota took him to Oshu (present Tohoku region ), Umewakamaru got sick and diedOn the bank of Sumida River.A high monk of Tendai Sect, Chuen, felt a pity for hisDeath and buried him in a mound. This is said to be the mound of Umewaka. Mokuboji Temple is originated from Sumidain Umewakadera Temple which wasbuilt beside the mound made by Chuen. Mokuboji Temple and the mound had beenlocated around here, but were both moved to the current place due to the constructionof the disaster prevention facilities.
                          Tokyo Metropolitan Board of Education







           

梅 若 塚

梅若塚は謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。梅若丸は京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃国野上の長者の、一人娘「花御せん」の子で、父の死後7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人「人買い」信夫の藤太にかどわかされてしまいます。奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。


Umewakazuka

(The Mound of umewaka)

 Umewakazuka is said to be the grave of Umewakamaru, a legendary figure known from the Noh song Sumida-gawa(Sumida River).Acording to legend, Umewakamaru was the child of Yoshida Shosho Korefusa of Kitashirakawa in Kyoto. While training at Mount Hiei, he was kidnapped by a slaver named, Shinobuno Tota,who tried to take him to Oshu (in modern Iwate Prefecture in northern Japan).Along the way, Umewakamaru became very ill and died on the banks of the Sumida River.Saddened by this death, high monk Chune of the Tendai school of Buddhism built this grave, Umewakazuka.


梅若塚と木母寺」
木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。

「梅若塚と妙亀塚」
妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場)内にあります。

「梅若権現御縁起」
「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起」附漆箱二匣(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起巻物です。原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土文化資料館で複製を所蔵しており、展示されています。

「隅田川物」
謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などでさまざまな作品が生まれました。







          

明治期の木母寺境内
 
江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。「木母寺境内之図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内が描かれた一枚です


Mokuboj Temple Grounds in the Meiji Period

The Umewaka-do is a shrine to Umewakamaru that is today located at Mokuboji, a Buddhist temple, Mokuboji was originally shut down in the Meiji period due to the anti-Buddhist movement associated with the Meiji government’s official separation of Buddhism and Shintoism In 1889, Mokuboji Templewas restored and the Umewaka-do was built within it. Miraculously, these buildings avoided destruction by air raids in the Second world war. The painting “Mokuboji Temple Grounds” is a precious work of art that depicts Mokuboji Temple in the meiji Period when the Umewaka-do was constructed there. Umewaka-do is placed in the center of the picuture, with the main Mokuboji temple building to the right and a traditional Japanese restaurant (ryotei) to the left. Although this is a picuture of the Mokuboji temple grounds, what is located in the cnter is not the main temple building but Umewaka-do. From this, it is well understood that. Umewaka-do truly makes Mokuboji what it is.









        隅田川神社・木母寺入口




         葛 飾 北 斎
Eight Views of the Elegant
Sumida-gawa no Akizuki
(Full moon of Umewaka)
梅若の秋月 ━風流隅田川八景━





            






             


梅若の秋月 ━ 風 流 隅 田 川 八 景 ━

「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」の辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中で仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。 

One of the Eight Views of the Elegant Sumida-gawa series.The theme of this print is the Legend ofUmewaka handed down from ancient times by the famous Mokuboji Temple as a deathbed poem that goes, “Oh black-hooded gull, if my mother visits and asks,tell her that Ihave become one, with the dew that lies at the source of the Sumida River.” Fooled into being brought from Kyoto,Umewaka Maru became sick and died at the Sumida lnn at the tender age of just twelve years old. His mother, Hanagozen, was so stricken with grief that she went insane, and it is said that she roamed around searching for her lost son. The print shows the two who were unableto meet in life happily enjoying a boat ride as the Heian Period turns into the Edo Period.The print was created between 1804 and 1818.






         葛 飾 北 斎
Setsugetsuka(snow,moon and flowers)
Sum

雪月花 隅 田





            






             


雪月花 隅 田

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です

This print depicts the snow-covered banks of the Sumida River, and it isone of the three famous scenes selected alongside Tsuki-no-Yodogawa and Hana-no-Yoshino. The MokubojiTemple and the restaurant Uehan can be seen in the forest in the center of the print, and thick snow covers the Sumidagawa Shrine, which was known as the Water Shrine,in the forefront. This print is said to be the most famous of all snow scenes from that period. The faint azure color at the top and bottom of the print leave the impression that the scene is depicting early morning. just as the dawn is breaking, and it portraysa silent and faintly nostalgic scene. It also includes fishermen casting, their net and two people walking through the snow in the silence of the winter morning, and a bird that appears to be a black-hooded gull adds an accent to the bottom left-hand corner of the print. It was created around 1830.






       梅 柳 山 隅田院  木 母 寺
976年(貞元元年)の開山という古刹。謡曲、浄瑠璃、
長唄などでうたわれた梅若伝説発祥の地。現在の
木母寺は芸道上達の寺としても知られています。
        住 所 / 堤通2-16-1      電 話 / 03-3612-5880      
 





             






            

境 内 の 諸 碑

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など、30墓の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。
♦華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。
♦天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。
♦三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です
♦題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年清水孝の書です。文政十二年建立。」
                 (平成8年3月 墨田区教育委員会。







木母寺境内え図(明治32年) 
 
江 戸 名 所 図 会
かって、木母寺境内に『将軍ご休憩所』
隅田御殿があったと隅田町誌に書かれている
 













名所江戸百景 第92景 
木母寺内川御前栽畑
(もくぼじうちかわおんせんざいばたけ)
内川と呼ばれる水路で隅田川と
つながっていた。
  
  木母寺から御前栽畑(おんせんざいばたけ)を望んだ絵
です。当時の木母寺周辺は内川(入江)になっていて、
浅草寺を参詣した後に舟に乗って隅田川を遡り、梅若塚
を訪ねるのが人気のコースだったそうです。
木母寺は、3代・家光(いえみつ)の時代に境内に
鷹狩りの宿泊所となる「隅田川御殿」が建つていました。
5代・綱吉(つなよし)の時代に「生類憐みの令」で鷹狩
が禁止になり、御殿は無くなりましたが、8代・吉宗に
なると鷹狩りが復活した為、この付近で休憩することも
あったそうです。 奥の橋は幕府の御前栽(野菜)畑に
通じていました。御前栽畑では将軍家台所用の野菜類を
作り、桜・桃・松・つつじ等の草木も沢山植わっていて、
狩りとは別に将軍が立ち寄られ、その際向島百花園にも
足をのばされていたようです。
 






               隅 田 川 神 社 (水神社)

水神社とも呼ばれ、亀に乗った水神が浮州に上陸
し隅田川総鎮守の神となっ たとされています。
左右に亀が鎮座しています。水神社は小高い土地
に建っていた為に、隅田川の水が増水しても沈む
ことがなかったところから、「浮島」とも呼ばれ
ていた。水神の森の通称を持つ。
住所/堤通2-17-1     電 話/03-3611-3089  
例祭日/6月15日
 





            






             






             






             






            








水 神 の 森 跡 

住所 墨田区堤通二丁目十七番 隅田川神社

荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口 (終点) で、かつて鬱蒼(うっそう)とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮州(うきす)の森とも呼ばれて親しまれていました。昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。水神の森は、「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社 (隅田川神社) の鎮守の森でした。
川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。
 平成十九年三月
            墨田区教育委員会







隅田川水神の森真崎
名所江戸百景  絵師:初代歌川広重
向島から隅田川の対岸の真崎 と水神の森を望んだ風景です。この水神は、水難、火難除けの神であり、船頭たち ばかりでなく庶民の間でも厚い信仰を得ていました。真崎は、品川の御殿山や王子の 飛鳥山と並ぶ桜の名所となっていました。全体に柔らかな色合いで、奥には筑波山も 見えます。手前には里桜が美しく咲き乱れ、春爛漫の景色です。 
       
真崎辺より水神の森
内川関屋の里を見る図
名所江戸百景
絵師:初代歌川広重





 







江戸名所図会 7巻. 著者松濤軒斎藤長秋 著[他]
木母寺・梅若塚・水神社 






            隅  田 宿  跡
平安時代末期より、 古東海道の渡河地であり
旅人が利用する宿として栄えましたが、
江戸時代に姿を消した宿場町でした。
1180年に源頼朝 が布陣した宿としても伝わって
います。





             









       


隅(すみ) 田(だ) 宿(しゅく) 跡
       現在地 墨田区堤通二丁目二番 都立東白鬚公園
 
当地は古東海道の渡河(とか)地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、治承(じしょう)四年(一一八〇)に源頼朝が布陣したと伝わる宿(しゅく)で(『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場所が形成されたようで歌人藤原光(ふじわらみつ)俊(とし)が詠んだという一三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫(ふ)木(ぼく)和歌抄(わかしょう)』)。また、室町時代成立の『義経記(ぎけいき)』には「墨田の渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお人買いにさらわれた梅(うめ)若(わか)丸(まる)とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業(ざいごう)深い老母と娘の悲劇を伝えた石(いし)枕(まくら)の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
平成二五年三月
                                            墨田区教育委員会






        近 代 映 画 ス タ ジ オ 発 祥 の 地

スタジオでは、大正初期のヒット作品「カチュー
シャ」をはじめ、760本にも及ぶ映画が制作され、
「向島作品」として一世を風靡(ふうび)しました。
幻想文学作家・夢野久作
(ゆめのきゅうさく)
父である杉山茂丸(
すぎやま しげまる)氏の別荘
だった所だそうです。
住 所 / 堤通2-19-1 





            






         


近代映画スタジオ発祥の地

明治34年(1901年)フランスからシネマトグラフが輸入され、日本で映画の興行や製作が始まりました。ところが外国映画の質の高さに刺激され、本格的な劇映画の発展を目指そうと、明治44年(1911年)にエム・パテー商会、梅屋庄吉の提案で、吉沢商店 河浦謙一、横田商会 横田永之介、福宝堂 田畑健造など4社の合同で日本活動写真フィルム株式会社(日活)が設立され、大正2年(1913年)10月ここ隅田川畔の杉山茂丸氏の別荘地7500֥㎡に、向島撮影所が開設されました。川岸に広さ約900㎡の、天候に左右されずに撮影ができる、東洋一のグラスステージが建てられて、日本映画の質を飛躍的に向上させることができました。初期の作品であるカチューシャは大ヒットし「向島作品」の名を高めました。当時は女性の役は女形によって演じられ、カチューシャを演じた立花貞二郎や、後に監督になった衣笠貞之助も女形でした。やがて女優が採用され、酒井米子が向島撮影所最初の女優となりました。ここは本格的な日本劇映画の発祥の地です。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、惜しくも向島撮影所は閉鎖されました。この間、およそ760本の作品が作られました。

設立  日本映画建碑委員会
      1998年11月
協賛  墨田区教育委員会
             社団法人  日本映画テレビ技術協会
    日本大学芸術学部
  日活株式会社
             株式会社 フジワラプロダクションズ









        シルバープラザ梅若




         鎌倉街道下の道説明版

鎌倉と下総・上総を結ぶ道は古くから「鎌倉街道
下ノ道」と呼ばれていました。
郷土の歴史を知る上では欠かせない道すじで、
源頼朝が常陸国の佐竹氏討伐や奥州 征伐に
使用したといわれています






            








下 の 道

承和2年(835) の太政官符に「武蔵国下総両国堺、住田河四艘・・」の記載がみられます。住田渡し(隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、大正3年(1914)の架橋頃まで、永々と続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。この墨堤堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐にも使用された道とも考えられます (吾妻鏡)。さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。
   平成12年3月

監修  墨田区教育委員会
                        施主  東京都住宅供給公社






                                       鎌倉街道ルート

上道 (かみつみち)
高崎→山名→奈良梨→笛吹峠→入間→
所沢→府中→本町田→瀬谷→化粧坂→鎌倉

中道 (なかつみち)
古河→栗橋→岩槻→鳩ヶ谷→板橋→
世田谷→荏田→鶴ヶ峰→上永谷→鎌倉

下道 (しもつみち)
松戸→堀切→浅草→大手町→丸子→
綱島→菊名→帷子→金沢→六浦→
朝比奈→鎌倉






          岐 雲 園 跡
岐雲園の名前の由来は江戸時代後期の幕臣岩瀬忠震

ただなり)が、自分の所有する画巻の筆者、
明の魯岐雲にちなんで名付けたそうです。

所在 / 墨田区墨田1丁目4番   





             






              

岐 雲 園 跡
(きうんえんあと)

所在 墨田区墨田1丁目4番

岐雲園は、広さ約500坪(1650㎡)、河水を引いた汐入りの池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震(ただなり)が、自分の所有する画巻の筆者、明の魯岐雲にちなんで名付けました。忠震は、目付・外国奉行として幕末の外交に尽くした人で、海外事情に精通して早くから開国政策を唱え、各国との交渉に多くの業績を挙げましたが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼と意見を異にして職を免ぜられました。憂憤の彼は、ここ岐雲園で退隠生活を送り、再び世に出ることもなく、風雅な生活を楽しみました。忠震の号である「鴎所」は隅田川に翔ぶ都鳥にちなんでつけたといい、文久元年(1861)44年の生涯を閉じました。近くの白鬚神社には彼の顕彰碑「岩瀬鴎所君之墓碑」が永井介堂の碑文で建てられています。この介堂は、永井尚志といい忠震とともに幕政、外交に力を尽くした人で、晩年を岐雲園で送り、この地で没しています。幸田露伴の長兄、成常も岐雲園に住み、露伴自身が居住した時期もあります。また、北千島開拓で有名な海軍大尉郡司成忠は露伴の次兄で、千島に出発の前夜である明治26年3月19日の夜、別離の宴を催したのもここでした。
平成15年3月
                       墨田区教育委員会






                スポーツプラザ梅若

●開館時間/
 月〜土 9:00〜22:00 日・祝 9:00〜21:00
●休場日/第3火曜日・12/29〜1/3
 ・機械点検日等
 ※休日に当たる場合は直後の平日
住 所 / 墨田1-4-4           電 話 / 03-5630-8880  





            






            





墨田区内循環バス時刻表 
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)



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