スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート11
法 泉 寺 入 口


                           いってみよう (お店関係)

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葛飾北斎案内板⑫(寺島法泉寺詣)   法泉寺の庭園  墨田区立堤通交通公園

白  鬚  橋    白 鬚 神 社    向島百花園児童公園 



    法 泉 寺 入 口



      葛飾北斎案内板 ⑫
寺島法泉寺詣
Terashima Hosenji Temple mode
(Pilgrimage to Hosenji Temple)

文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物(すりもの)です。葛飾
北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、
法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。

住 所 / 東京都墨田区東向島3-8(法泉寺門前)



        





        







寺 島 法 泉 寺 詣
文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために
絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多い
のが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の
法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻不動明王
寺嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、
墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定
有形文化財となっています。


A surimono print from between 1818 and 1830. Surimono prints are woodblock prints that were
commissioned for the private use of artists to distribute as gifts to comical tanka artists and
other such acquaintances, and because they were not for sale, many of these prints feature a level
of exaggerated gorgeousness that would not have been profitable under normal circumstances.
This print was created y katsushika Hokusai under the name of litsu when he was between 60 and
70 years old, and it portrays the many people who visit the Hosenji Temple in Higashi-Mukoujima,
Sumida-ku, to pray. On the right-hand column to the right of the gate is written Nitta
Yoshisada-Guardian-Acala-Hosenji.This is the only woodblock print related to the Hosen
Temple in the Edo Period currently in exstence, and no other ones heve been confirmed outside
of the Peter Morse collection that is stored in the Sumida-ku archives. It has been designated
as a Sumida-ku Tangible Cultural Asset.






    曹洞宗 晴 河 山 法 泉 寺
永平寺と總持寺を両大本山と仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とす
る曹洞宗のお寺です。今から約八百年前、源頼朝公の
重臣で奥州を支配した葛西三郎清重公がこの下総国大
沼に堤を築いて開墾し、父母追善供養の為に建立した
と伝えられております。
涅槃図があります!
住 所 / 東向島3-8-1   電 話 / 03-3614-5890
 





         





          





          





          





            





          











        





       

法 泉 寺 縁 起
法泉寺は永平寺と總持寺を両大本山と仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。今から
約八百年前、源頼朝公の重臣で奥州を支配した葛西三郎清重公がこの下総国大沼に堤を築いて
開墾し、父母追善供養の為に建立したと伝えられており、「寺島村」地名発祥の寺のひとつと
云われています。天文元年(一五三二)吉祥二世大州安充大和尚により伽藍が再興され、慶安元年
(一六四八)には江戸幕府より八石五斗の御朱印状を賜りました。寛文二年(一六六二)石造地蔵
菩薩立像、享保二年(一七一七)銅像地蔵菩薩立像が建立されたほか、東京大空襲による焼失を
免れた数々の文化財が継承されています。四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる三百
余基の石仏群が祀られ、粋でゆとり溢れる江戸文化が伝えられています。
                           清河山  法 泉 寺
 





       

不 許 葷 酒 入 山 門

葷酒山門(くんしゅさんもん)()るを(ゆる)さず
寛政三年(1791)二月二十一日

禅寺門前にある戒壇石。香りの強い(ねぎ)(にら)大蒜(にんにく)等の野菜や酒等
は心乱し修行を妨げるため、寺内への持ち込みとそれらを口にした者の立入りを
許さないという意。
 





      

 <墨田区登録有形文化財>
窪俊満(くぼしゅんまん)故郷(ふるさと)の」の歌碑(かひ)
 所 在  墨田区東向島三丁目八番一号  法泉寺
江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪俊満(一七五七~一八二〇)を偲び、彼の友人たちが
文政四年(一八二一)六月に建立しました。正面には俊満の作品で狂歌作品集にも掲載された
「故郷の おやの袖にも やとるかとおもへは月は ふたつなきもの」という和歌が刻まれています。
裏面には石川雅望による俊満の人物紹介と建碑の経緯を記した一文が刻まれています。
書は秋元廣丸(あきもとひろまる)、碑刻は窪世祥(くぼせしょう)が受け持ちました。
    平成二十七年九月
                     墨田区教区委員会





     

〈墨田区登録有形文化財〉
銅像地蔵菩薩立像(どうぞうじぞうぼさつりゅうぞう)


   
所在  墨田区東向島三丁目八番一号  法泉寺
享保二年 (一七一七) 九月に十方万霊供養と施主浅草御堂前阿部主水の祖先及び二親の
一家霊魂菩提のために建立されました。延命地蔵として今日まで親しまれてきました。
右手に錫杖、左手に宝珠を持つのは地蔵菩薩の典型です。円光背があり、方形の台石と
銅像蓮台の上に地蔵菩薩が立っています。蓮台敷茄子には「奉造納 東海道武蔵國葛飾郡
西葛飾領寺島村佛頂山法泉寺」と陽鋳され、地蔵菩薩の衣には結衆者の名前と戒名が陰刻
されています。作者は鋳物師の宇田川善兵衛藤原重勝です。重勝は『大武鑑』にその名が
載り、小伝馬町三丁目(現中央区日本橋小伝馬町) に住んでいたことが分かります。常泉寺
(墨田区向島) の鐘 (享保四年) 等も製作しました。(現存しません)
  平成二十七年九月
             墨田区教育委員会





   

〈墨田区登録有形民俗文化財〉
石造地蔵菩薩立像 (せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう)


 所 在  墨田区東向島三丁目八番一号  法泉寺

 寛文二年 (一六六二) に祀られた舟形光背をもつ浮彫地蔵菩薩立像で、三人の導師と
二十一名の建立者の名前が刻まれています。建立者の中には玉という女性の名前も
認できます。右手は欠損していますが、裳裾の状態から錫杖を持っていたと考えられます。
総じて眉目秀麗な造りです。光背には紀年銘とともに「願以此功徳 普及於一切我等与衆生
 皆共成佛道(願わくは此の功徳を以て、(あまね)く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、
仏道を成ぜんことを)」という有名な回向文が刻まれています。
         平成二十七年九月
                    墨田区教育委員会





       

千 鳥 庵 鳥 奏(ちどりあんちょうそう)歌碑(かひ)
   
寛政九年(一七九七)  短冊塚
散(さん)日(にち)からちるを盛(さか)や花の山
思ひきって飛姿(ひし)なりほとときす
我を山に捨て名月入に鳧(けり)
夕煙(ゆうけぶり)雪の野末(のぞ)に里ありや
       千鳥庵鳥奏
  裏面 寛政九丁巳(ひのとみ)秋九月
     三世千鳥建之
 





法 泉 寺 寺 宝 展

        






       白 鬚 橋
隅田川に初めて橋が架けられた場所で、橋の名は、墨田区側
たもとにある白鬚神社に由来しています。
橋場の渡しと白鬚の渡しという渡船場があった場所で、
橋場の渡しは江戸時代隅田川を渡る中心地であった。伊勢物語
で主人公が有名な「言問」の歌を詠んだのはこの渡しとされる。

住 所 / 東京都墨田区堤通2丁目





          





          





        





橋 場 の 渡 し
白鬚の渡しとも呼ばれ、現在の白鬚橋付近にありました。記録に残る隅田川の渡しとしては最も古く、
橋場の渡しの辺りは、明治の中頃までは鬱蒼とした樹木が茂る、閑静で長閑な田園地帯であったそうです。
橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な
料亭も多く、明治期には明治の政府高官三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にありました。
橋場の渡しは、奥州街道と水戸街道が隅田川を渡る位置にありましたので、江戸と東北地方を結ぶ重要な渡河
地点でした。東北へ往来する必要から徳川幕府は千住に大橋を架けますと、橋場の渡しは、街道の渡し場として
の役割は終わりましたが、大正時代に白髭橋が架けられる迄ありました。





 
橋 場 雪 中
著者:豊国,広重
出版者:平のや
出版年月日:元治1
収載資料名:江戸自慢三十六興
         
名所江戸百景
墨田河橋場の渡かわら竈
絵師:広重
出版者:魚栄
刊行年:安政4
収載資料名:江戸百景
       
隅田川八景橋場暮雪
絵師:広重
出版者:平の屋
刊行年:文久1


 












江戸高名会亭尽
隅田川橋場渡之図
絵師:広重



         
東京十二題 雪の白ひげ
所蔵館→江戸東京博物館   種別→近代木版
作者(文書は差出人)→川瀬巴水/画
発行所(文書は宛先)→渡邊庄三郎/版
年代→大正期 大正9年冬 1920 20世紀






      白 鬚 神 社 

天暦五年 (西暦九五一年) に慈恵大師が関東に下った
時に、近江国比良山に鎮座する白鬚大明神の御分霊
をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。

住 所 / 墨田区東向島3-5-2






 

 
寿老人(じゅろうじん)

    
      白 鬚 神 社
Shirahige-jinjya Shrine
(Sumidagawa-shichifukujin)

旧寺島村総鎮守社。主祭神・猿田彦大神様は、古事記や
日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓
の神として記されています。また、隅田川七福神の
寿老人が祀られています。

Shirahige-jinja Shrine is the had shring of what used
to be Terashima Village. According to the Kojiki
(“Record of Ancient Matters”) and Nihonshoki
(“Chronicies of Japan”)、which chronicle Japan’s
ancient history, the shrine’s presiding deity Sarutahiko
Okami, was instrumental in opening up the
country’s territories by indicating the proper
geographical orientation for various endeavors.The
shrine is also dedicated to Jurojin
(the god of longevity), one of the seven gods of
fortuneassociated with the Sumida-gawa River





はるこま七福神めぐり
2025年1月3日(金)少雨・雷決行


        


第一部    隅田川七福神めぐり(10:00~12:00予定、以下同様)
多聞寺(10:00)➡白鬚神社 (10:30)➡向島百花園 (10:45)➡百花珈琲 (11:00)じまん草餅 (11:05)➡
言問団子 (11:20)➡長命寺桜餅 (11:30)長命寺(11:45)➡
弘福寺(12:00)
第二部     三囲神社 (12;45)~まちまわり (13:00~14:30予定)
向島二丁目を中心として 
第三部    祝福芸能 (14:30~15:15予定) 会場・弘福寺境内 
初春のお祝い芸 (万歳唄、紙芝居、玉すだれ、など)と福引
開運の「干支福飾り」の頒布を行います。





         





         





         





白 鬚 神 社 由 緒

  

白  鬚  神  社
   
祭神  猿田彦大神  天照大御神  高皇産霊神  神皇産霊神  大宮能売神 
 豊田気大神  健御名方神

由  緒
 
天暦五年 (西暦九五一年) に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山に鎮座する
白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年
(一五九二年) には、時の将軍家より神領二石を寄進された。

 
隅 田 川 七 福 神
当社に寿老人を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、
どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の
老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機知を働かせて、
この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、
寿老人と神の字を用いる所以である。
 





            





               





              





            





         





ぼ ん で ん 祭
令和6年5月5日(2024年)

白鬚神社氏子内の歴史を伝える貴重な伝統行事で、稲の花(穂)が
風の害に遭わぬようにとも祈念したことから、鎮花祭とも呼ばれており、
町内の世話人が神社に集まり、御幣を作り神前に供えた後、隅田川川岸にて
水の害(洪水・渇水)が起こらないように祭典を行います。


         





お詣りにいらしてた方が引かれたおみくじです!

              





            





お 正 月 風 景

         





         





         





         





         





白鬚神社大神の碑

             





山 玉 向 島 講 社(やまたまむこうじまこうしゃ) の 碑

            





      

〈 墨田区登録文化財 〉
山 玉 向 島 講 社 の 碑
所在地  墨田区東向島三丁目五番二号  白鬚神社
山玉向島講社(やまたまむこうじまこうしゃ)は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、
山玉深川元講(もとこう)枝講(えだこう)だったと考えられています。明治八年( 一八七五 )
七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中之郷・須崎の三地区に居住していました。
専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝
(とうはい)していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大
正十一年(一九二二)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 
大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行(ぎょくざんじょうぎょう)、講元松本萬次郎、
そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二
名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々
が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者
は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高い
ことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、
四代目先達玉山丈行は、本名を重城丈吉といい、白髭神社の氏子総代の一人でした。遅くとも
大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果た
して富士吉田の御師「大番城(だいばんじょう)」の屋敷に記念碑を建立していました。左に
立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており講社の沿革を
知るうえで貴重な情報を提供しています。
                平成二十四年一月
                  墨田区教育委員会
 





岩 瀬 鴎 所(おうしょ)の墓碑

           







岩 瀬 鴎 所(おうしょ)の墓碑
所在 墨田区東向島3丁目五番二号 白鬚神社内
 江戸時代末期の外交家。文政元年 (一八一八) 江戸に生まれました。名は忠震(ただなり)で、
鴎所(おうしょ)の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭(かちがしら)設楽貞丈
の第三子で天保十一年(一八四〇) 、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年 (一八四九)
老中阿部正弘から目付に抜てきされました。鴎所は昌平坂学問所で漢字を学ぶにとどまらず
蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鴎所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を
非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講式所と藩所調所(はんしょしらべしょ)を設け海軍伝習
を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と
対立したため、安政六年八月に官位を奪われ、蟄居(ちっきょ)を命ぜられました。その後向島に
隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年 (一八六一)
七月十六日、四十四歳で没しました。
平成十六年三月
             墨田区教育委員会
 





江戸・東京の農業 寺 島 ナ ス 案 内 板

              







江戸・東京の農業  寺 島 ナ ス
   
かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688~1704)によれば、
この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた
肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれて
いました。享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡誌」には、寺島茄子西葛西の内也。
中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」また、文政11年
(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」
として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記
されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店
(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯
であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行50周年記念事業


THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Terajima Nasu (Egg plant)
Terajima village around this Shrrahige was paddy rice areas in the years 1688-1704.
Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the
egg plant which was popular as ‘Terajima Nasu’. Farmers shipped their products by
boats to the markets of Senjyu, Honjyo-Yotsume andKanda, etc.
 





参道脇の石碑集

天広丸(あめのひろまる)の狂歌碑
          

刻銘「くむ酒は 是 風流の眼なり 月を見るにも花を見るにも」
天広丸は本名を磯崎広吉、号は酔亀亭。宝暦6年(1756)鎌倉市今泉に生まれ、
文政11年(1828)に没しています。青石の自然石上部には酒を表すとみられる図が描かれています。
建碑は鎌倉市今泉の白山神社参道入り口にある自筆の狂歌碑(文化元年)<1804>銘)と
全く同じ筆勢から文化初年を下らないようです。彼は狂歌を唐衣橘洲に学び、
生涯、酒好きで、その著「狂歌酒百首」の巻頭にこの歌が書かれています。





墨 多 三 絶(すみださんぜつ)」 の詩碑
墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩を巻菱湖がてん額し、大窪詩仏が筆をとりました。
文政五年(一八二二)建立。


         

墨田区登録文化財〉
 
墨 多 三 絶(すみださんぜつ)」 の碑
 
     
所在 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社内
  隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶
 (? は絶の古字)」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は文政五年 (一八
二二) のことです。なお、絶とは五字または七字の四句で、一体をなす漢詩のことで、三詩
からなるので三絶と呼びます。この碑 (草書) は
三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書) の両碑を加えて、
大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
維舟渡口歩汀沙来飲祠前売酒家
道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
欲管繁華事閑唾落花流水中
断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
鴎邊柳処元陳遼付与詩人吟至今
上毛淡斎佐羽芳詩壬午冬日書詩仏老人大窪行

平成十八年十月
             墨田区





鷲 津 毅 堂(わしずきどう)
三条実美てん額、厳谷一六書による毅堂の伝記碑である。毅堂は名を宣光といい、
幕末・明治初期に活躍した漢学者で、明治政府の官職を歴任し、明治十五年
(1882)に司法権大書記官となったが、同年秋に五八歳で没した。
毅堂はまた、小説家永井荷風の母方の外祖父でもある。明治十六年建立。


           

鷲津毅堂之碑
  
所在地 墨田区東向島三丁目5番2号 白鬚神社
 この石碑は、幕末から明治にかけて活躍した官僚、鷲津毅堂(わしづきどう)(1825-1882)の
事績を(たた)えるために建立されました。太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)によって書かれた
立派な篆額(てんがく)を掲げています。明治16年(1883)10月の紀年銘(きねんめい)によれば、碑文
は当時東京大学教授であった三島中洲(みしまちゅうしゅう)が執筆し、修史館監事(しゅうしかんかんじ)巌谷一六(いわやいちろく)
浄書(じょうしょ)しました。碑文彫刻は、井亀泉(せいきせん)こと酒井八右衛門(さかいはちうえもん)によるものです。
碑文によれば、綺堂は尾張国丹羽郡丹羽村(おわりのくににわぐんにわむら)(現愛知県一宮市)出身の郷士(ごうし)で、
ニ十歳(はたち)の頃に父親を亡くしたことから、家の再興を熱願した母親の希望に沿い、
伊勢の著名な儒学者であった猪飼敬所(いかいけいしょ)に学びました。そして、後に江戸へ出て
幕府の学問所(昌平黌)に学び、嘉永6年(1853)に久留里(くるり)藩(現千葉県君津市)に
出仕(しゅっし)しました。また、その後は尾張藩に仕官し、藩学明倫堂(めいりんどう)督学(とくがく)(学事監督)を
務めたほか、藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)(そば)近くに(つか)えて激動の時期の藩政を支えました。
そして、維新(いしん)に際して藩より推薦を受けて新政府に出仕し、その後は文部省や
司法省などに勤めました。永井荷風(ながいかふう)外祖父(がいそふ)として知られています。
令和4年9月
         墨田区教育委員会





狂歌碑黒人(くろひと)
浜辺黒人(はまべのくろひと)という江戸時代中期の狂歌師の石碑。
右面に「うつせみのうつつにしばしすみた川 渡りそはつるゆめのうきはし」と刻まれています。
もう一方には寛政十二年(1800)と彫られた横に「玄二号黒人」の文字、本名を北島玄二といい、
玄の字が黒に通じることから黒人と号したと言われている。

                  





 中原耕張「つくづくし」の句碑(「筆塚」)
 高さ123cmの四角柱正面に「筆塚 中原耕張」として
「つくつくし つめよ硯の すみ田川」の句を添えています。
 筆塚は退筆塚とも言われて、使いふるした筆を地に埋めて塚としたものです。


             





江戸名所図会 7巻. [19]  著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836]

白鬚明神社  (しらひげみょうじんやしろ)







        墨田区立堤通交通公園
子供が自転車に乗れる偽の道路網を備えた公園で、
すべり台や水遊びができる噴水プールもあります。
住 所:堤通一丁目8番ー1






         





         





         






右側はテニスコート場です。
          
 





         






        向 島 百 花 園 児 童 公 園
 上品な公園で隣の向島百花園の癒しの雰囲気を
大切にして下さっている感じがしました!
住 所 / 東向島3-18





             





         





            





            





防 犯 訓 練 (2024年4月)

         





盆 踊 り (2024年7月26日)

         

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つぶやきいってみよう(店・工場関係)

    法 泉 寺 入 口

 焼き芋・向島芋笑  パスタアンドピザ サンティーニ  百 花 珈 琲  大 貫 自 動 車



       PASTA&PIZZASANTINI
パスタアンドピザ サンティーニ
目の前は百花園です!
住 所 / 東向島3-29-10   定 休 日 / 月 曜 日
電 話 / 03-3610-1323  営業時間 / 火~金:11:30〜14:00
                  17:30〜21:00
             土・日・祝 11:30〜21:00
 





         





         






       壷焼き芋・向島芋笑
お芋の水分がシッカリとあり、お味もよく
水なしで食べられます。御芋を購入して
百花園の緑をみながらのランチ、癒されます。
住 所 / 東向島3-24-2  定 休 日 / 不定休





             





                    






        百 花 珈 琲 (ヒャッカ コーヒー)
自家焙煎店
向島百花園に徒歩2分の近さです。
珈琲豆の厳選に力を入れておられます!
住 所 / 東向島3-15-24 
   電 話 / 090-4173-3605  
    





         





             





はるこま七福神めぐり
2025年1月3日(金)少雨・雷決行


        


第一部    隅田川七福神めぐり(10:00~12:00予定、以下同様)
多聞寺(10:00)➡白鬚神社 (10:30)➡向島百花園 (10:45)➡百花珈琲 (11:00)じまん草餅 (11:05)➡
言問団子 (11:20)➡長命寺桜餅 (11:30)長命寺(11:45)➡弘福寺(12:00)
第二部     三囲神社 (12;45)~まちまわり (13:00~14:30予定)
向島二丁目を中心として 
第三部    祝福芸能 (14:30~15:15予定) 会場・弘福寺境内 
初春のお祝い芸 (万歳唄、紙芝居、玉すだれ、など)と福引
開運の「干支福飾り」の頒布を行います。





                    





         






       大 貫 自 動 車 ㈱
向島百花園の門の前にあり、地元密着の創業66年を
誇る老舗の民間車検工場です。癒しの向島百花園を
考慮して建てて下さった感じの建築物という
印象を受けました。自動販売機の設置の仕方と
自転車の勢揃いがユニークで可愛いです。
住 所 / 東向島1丁目7−8
電 話 / 03-3619-0456   営業時間/ 月 9:00~18:00 





         





         





           





         





               




墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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