つぶやき街角北西部ルート
②・法泉寺入口~鳩の街通り商店街入口

( スカイ姫のつぶやき19 )

                                          ト ッ プ ペ ー ジ ヘ

バ ス 停 ル ー ト 一 覧 表


 
                                   バス停にリンクします
            






        



                     葛  飾  北  斎
Terashima Hosenji Temple mode
(Pilgrimage to Hosenji Temple)

寺 島 法 泉 寺 詣 





            





             


寺 島 法 泉 寺 詣

文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻不動明王寺嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。

A surimono print from between 1818 and 1830. Surimono prints are woodblock prints that were commissioned for the private use of artists to distribute as gifts to comical tanka artists and other such acquaintances, and because they were not for sale, many of these prints feature a level of exaggerated gorgeousness that would not have been profitable under normal circumstances. This print was created y katsushika Hokusai under the name of litsu when he was between 60 and 70 years old, and it portrays the many people who visit the Hosenji Temple in Higashi-Mukoujima, Sumida-ku, to pray. On the right-hand column to the right of the gate is written Nitta Yoshisada-Guardian-Acala-Hosenji.This is the only woodblock print related to the Hosen Temple in the Edo Period currently in exstence, and no other ones heve been confirmed outside of the Peter Morse collection that is stored in the Sumida-ku archives. It has been designated as a Sumida-ku Tangible Cultural Asset.






       曹洞宗 晴 河 山 法 泉 寺

 住 所 / 東向島3-8-1   電 話 / 03-3614-5890
 





             






             








法 泉 寺 縁 起

法泉寺は永平寺と總持寺を両大本山と仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。今から約八百年前、源頼朝公の重臣で奥州を支配した葛西三郎清重公がこの下総国大沼に堤を築いて開墾し、父母追善供養の為に建立したと伝えられており、「寺島村」地名発祥の寺のひとつと云われています。天文元年(一五三二)吉祥二世大州安充大和尚により伽藍が再興され、慶安元年(一六四八)には江戸幕府より八石五斗の御朱印状を賜りました。寛文二年(一六六二)石造地蔵菩薩立像、享保二年(一七一七)銅像地蔵菩薩立像が建立されたほか、東京大空襲による焼失を免れた数々の文化財が継承されています。四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる三百余基の石仏群が祀られ、粋でゆとり溢れる江戸文化が伝えられています。
                           清河山  法泉寺






        

不 許 葷 酒 入 山 門

葷(くん)酒(しゅ)山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず
寛政三年(1791)二月二十一日

禅寺門前にある戒壇石。香りの強い葱(ねぎ)・韮(にら)・大蒜(にんにく)等の野菜や酒等は心乱し
修行を妨げるため、寺内への持ち込みとそれらを口にした者の立入りを
許さないという意。






             






      


 <墨田区登録有形文化財>
窪俊満(くぼしゅんまん)「故郷(ふるさと)の」の歌碑(かひ)
    所在  墨田区東向島三丁目八番一号  法泉寺

江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪俊満(一七五七~一八二〇)を偲び、彼の友人たちが文政四年(一八二一)六月に建立しました。正面には俊満の作品で狂歌作品集にも掲載された「故郷の おやの袖にも やとるかとおもへは月は ふたつなきもの」という和歌が刻まれています。裏面には石川雅望による俊満の人物紹介と建碑の経緯を記した一文が刻まれています。書は秋元廣丸(あきもとひろまる)、碑刻は窪(くぼ)世(せ)祥(しょう)が受け持ちました。
    平成二十七年九月
                     墨田区教区委員会






        


千鳥庵(ちどりあん)鳥奏(ちゅうそう)の歌碑(かひ)
   
寛政九年(一七九七)  短冊塚
散(さん)日(にち)からちるを盛(さか)や花の山
思ひきって飛姿(ひし)なりほとときす
我を山に捨て名月入に鳧(けり)
夕煙(ゆうけぶり)雪の野末(のぞ)に里ありや
       千鳥庵鳥奏
  裏面 寛政九丁巳(ひのとみ)秋九月
     三世千鳥建之






            









     地  蔵  坂




          葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks of
the Sumida River Third Volume
(Total of Three Volumes): Shirahige
no Kijimatsu Imado no Yu-Keburi
)
白髭の翟(きじ)松 今戸の夕烟 
━絵本隅田川両岸一覧━ 





            





             


白髭の翟(きじ)松 今戸の夕烟  ━絵本隅田川両岸一覧━

『絵本隅田川両岸一覧』は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる狂歌絵本シリ-ズで、この作品は下巻に収められています。秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川縁で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られていた白鬚明神社(現在の白鬚神社)の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が40~47~47歳頃の作品です。

The Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River is a series of comical tanka prints consisting of 25 prints in three volumes portraying a portion of both banks of the Sumida River from Takanawa to Yoshiwara, and this print comes from the third volume. The right-hand side of the print shows roof slates being fired under an autumn sunset in Imado(currently Imado,Taito-ku),as well as two people carring the slates while conversing and a boat loaded with slates. A copse of trees aroundthe Shirahige Myojin Shrine(currently the Shirahige Shrine),which is known for its scenic beauty, can be seen in the distance, and the movement of a white egret on the right-hand side provides an accent. Katsushika Hokusai created this print between the age of 40 and 47.






               書家 西川春洞・寧 住居跡

春洞は明治、大正にかけて活躍した大家でその門に
学ぶ者、2000名といわれた。今日の漢字書道界の
基礎をつくった中心的的存在であった。寧は書家、
中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者
住所 / 墨田区東向島3丁目4番5 





            





            

西川春洞・寧住居跡
    
所在 墨田区東向島丁目四番

 西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化四年(一八四七)日本橋の家で生まれました。幼い頃、書を中沢雪城に学び、初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。そして、この地(寺島村一二〇七番) に居を構え、多くの弟子を養成しました。春洞は、地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し、大正四年この地に没しました。春洞の息子寧は、明治三十五年ここに生まれ、寺島小学校 (現第一寺島小学校) に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和六十年に書家として初めて文化勲章を受章しました。平成元年五月目黒区中町で没しました。(なお、住居跡は階段下約三十メートル先の右側の辺りです)

平成十二年三月
                     墨田区教育委員






                    子 育 地 蔵 堂
東向島三丁目二番一号
文化年間(1804~1818)に行われた隅田川
の堤防修築工事の際に土中から発見された
と伝えられています
 





 
左に墨堤の道案内版が立っています。
 






                    旧  墨  堤  の  道
旧墨堤の道は、度重なる整備によって、
大きく変わってしまいましたが、その面影は
「白鬚神社」から「子育て地蔵」までの湾曲
した古道に残っています。
東向島3丁目・堤通1丁目境
 





          





            





     
明治時代の墨堤の茶店
 (緑図書館所蔵)
  
   
明治時代の白髭神社前の桜
(緑図書館所蔵)

(きゅう)(ぼく)(てい) の 道

                          所在地 墨田区東向島三丁目・堤通一丁目境

隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛(かん)文(ぶん)年間(一六六一~七三)。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通二丁目、都立東白髭公園辺り) から白髭神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には八代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島二丁目、言問通り) まで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。白髭神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残りです。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で、特ににぎわいました。関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島五丁目四番先)近くの湾曲部の二か所だけとなっています。
                                    平成二十一年三月
 
                                                       墨田区教育委員会






東都花歴  隅田堤之桜 
絵師:英泉
 
           
新撰江戸名所
隅田川堤白雨之図
絵師:一立斎広重

          
東都名所 江都名所
隅田川はな盛  
絵師:広重






 
名所三十六景 
東都隅田堤
絵師:広重
 
          
春色隅田堤の満花  絵師:香蝶楼豊国

           
江戸自慢三十六興
向嶋堤ノ花并ニさくら餅
絵師:広重 , 豊国






 隅田堤桜盛
絵師:渓斎英泉
 
             
隅田堤遠景之図
絵師:初代歌川豊国
  






               
向 島 艇 庫 村 跡

隅田川レガッタ(ボートレース)競技用の
ボートを収納するための艇庫が立ち並び、親
しみを込めて「艇庫村」と呼ばれていました。

所在地 / 墨田区堤通一丁目(区立堤通公園)





            







 
 
昭和15年(1940)の向島艇庫村
(「火保図」より作成)この説明版が立っている
場所もかつては水辺でした
 

向 島 艇 庫 村 跡

所在地 墨田区堤通一丁目(区立堤通公園)

明治から昭和にかけて、隅田川ではレガッタ(ボートレース)が盛んに行われました。この辺りには競技用のボートを収納するための艇庫が立ち並び、親しみを込めて「艇庫村」とも呼ばれていました。レガッタはイギリスで発達し、明治10年(1877)頃から日本の学生たちの間に広まり始めました。明治15年(1882)、日本人の主催による初のレガッタが隅田川で開催されました。これは海軍によるものでしたが、明治17年(1884)には東京帝国大学(現在の東京大学)によって初の学生レガッタも行われました。明治20年(1887)、ここから約700メートル南の川沿い、現在の向島五丁目に、日本で初めてとなる東京大学の艇庫が建設されました。その後、各校が向島に艇庫を建てるようになり、やがて堤通一丁目には独特の風景が形づくられました。レガッタと学生たちの練習風景は隅田川の風物詩となり、大会の開催時には多くの人々が応援や見物に集まりました。しかし昭和35年(1960)頃から、隅田川の水質悪化や高速道路建設などのため、多くの艇庫が他の地区へと移りました。最後まで残っていた一橋大学の艇庫も昭和42年(1967)に移転し、向島艇庫村の風景はなくなりました。その後、水質改善の努力が続けられた結果、昭和53年(1978)には早慶レガッタが復活しました。また昭和56年(1981)からは、「水の週間」を記念したウォーターフェア隅田川レガッタが開催されるようになり、現在も続けられています。
               平成22年3月 

                                             墨田区教育委員会






                  迷 い 子 の し る べ

住 所 東向島1-16-2
第一寺島小学校内





            







迷い子のしるべについて

現在のように新聞やラジオ・テレビなどや警察がなかった江戸時代には、迷い子・家出人・行き倒れなど江戸市中で人をさがすことは想像以上の困難があったと思われる。特に子どもが迷ったが最後 それが一生の別れとなり、その日を忌日としていた。親たちは子どもに人さらいが来るからといって、家の近くか町内で遊ばせるようにし、日暮れと共に家に入るよう厳しく躾(しつけ)ていた。しかし祭の時など家人とはぐれる時もあり そのための迷い子のしるべ石が江戸下町の方々にいくつかあったらしい。高さ二メートル位の石柱で北側に「たつぬるかた」南側に「をしふるかた」と彫ってあり 一種の伝言板である。迷い子・たずね人をさがしている人は「たつぬるかた」に、たずね人の名前・人相・特徴を書いて貼っておく。それを見て知っている人は「をしふるかた」に、その旨を紙に書いて貼って教えてくれる。このようにして毎日迷い子の知るしるべ石へきて情報を待つという方法で 江戸っ子が生んだ当時の生活の知恵の見本のようなものである。
現在都内に同じようなものが、他四カ所あるので特記する。
 中央区八重洲  一石橋西河岸
 台東区浅草   浅草公園内
 台東区寿町   永見寺境内
 文京区湯島   湯島天神内
                 (藤川淳郎記)






               公立寺島学校発祥の地
発祥の地碑は以前寺島図書館の敷地内にたって
いました。明治12年に「寺島村立村立寺島小学校」
が創立され, その後「寺島尋常小学校」
「第一寺島尋常高等小学校」などの名称を経て,
現在の「墨田区立第一寺島小学校」 となりました。

住所 / 墨田区東向島3丁目 





              






              幸田露伴作詩の校歌

大正14年4月、府立七中(現在の墨田川高校)に校歌
が制定されました。作曲は童謡作家の弘田
龍太郎です。

住 所 / 東向島1-7-12      電 話 / 03-3611-2125 





            







墨 田 川 高 校 校 歌
   作詞 幸 田 露 伴
    作曲 弘田龍太郎


1、隅田の川は吾が師なり
   日夜をせかずおこたらず
 流れてやまぬ何十里
  注々として海に入る 
           
2、 弥生のつつみ朝ゆけば
    くれないにじむ花の露
       こぼれて清くいさぎよき
      桜にそまる我がこ丶ろ
 






           蓮   花   寺

真言宗智山派の寺院で、鎌倉時代の創建と伝えられ
ている。江戸時代には、霊験あらたかな厄除け寺島
大師として有名で、川崎大師平間寺、西新井大師
総持寺とともに江戸三大師に数えられていました。
本尊は空海自筆と言われる弘法大師画像。
住 所 / 東向島3-23-17





            





            





 

〈墨田区登録文化財〉
  
道 標 ・二基
  
所在地 墨田区東向島三丁目二三番一七号 蓮花寺内

「女人済度御自筆 弘法大師」の道標
 左右側面に「大しみち(大師道)とあり、もと地蔵坂を登った墨堤にあったものです。片方は蓮花寺で、もう片方の「大しみち」は西新井大師を指したと考えられます。文化15年(1818)の建立です。台石に「と組」と記されているので、江戸火消しが建てたのでしょう。「厄除弘法大師」の道標右側面に「西 白ひげ はしはみち(白鬚 橋場道)」とあります。文面から、門前に建てられていたものと考えられます。文政5年の建立です。ともに蓮花寺とはゆかり深い道標です。文化文政のころには「寺島の大師」として、川崎、西新井の大師と並んで江戸三大師の一つとして栄えていました。厄除けの護符をいただきにくる大師参りの人々のために建てられた道標に違いありません。
  平成8年3月
           墨田区教育委員会






     白 鬚 神 社

今から千年余の昔(天暦五年・西暦九五一年)、
近江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖
湖畔に鎮座する白鬚神社の御分霊としてお祀り
したことが、白鬚神社の始まりだそうです。
住所 / 東向島3-5-2
 電 話 / 03-3611-2750
 





             

白  鬚 神  社 
Shirahige-jinja Shrine
(Sumidagawa -shichifukujin)
 
旧寺島村総鎮守社。主祭神・猿田彦大神様は、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。また、隅田川七福神の寿老神が祀られています

Shirahige-jinja Shrine is the head shrine of what used to be Terashima Village.According to the Kojiki (“Record of Ancient Matters”) and Nihonshoki (“Chronicles of Japan”) which chronicle Japan's ancient history,the shrine's presiding deity, Sarutahiko Okami, was instrumental in opening up the country's territories by indicating the proper geographical orientation for various endeavors.The shrine is also dedicated to Jurojin (the god oflongevity), one ofthe seven gods of
fortune associated withthe Sumida-gawa River
  





        

白 鬚 神 社
   祭神  猿田彦大神  天照大御神  高皇産霊神  神皇産霊神
大宮能売神  豊田気大神  健御名方神

由 緒
 天暦五年 (西暦九五一年) に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(一五九二年) には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 
隅 田 川 七 福 神
当社に寿老人を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機知を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老人と神の字を用いる所以である。





             






             






             






             






毎月第一土曜日に行われます。

            





社 務 所

             






2階の大広間は結婚式の披露宴会場として使われていました。

             






             






             






                 






             






        

ア  マ  ビ  エ

弘化三年 ( 一八四六 ) 、肥後国 (熊本県) の海中に毎度のように
光るものがあり、役人が確かめに行ったところ、 海中に住む 
「アマビエ」 と名乗る怪物が現れ、当年より六年の間は豊作が続くが、
という。この故事により 「アマビエ」 を絵馬にしましたので、
悪疫退散を御祈念ください。                  
 白鬚神社社務所






 お 正 月 風 景

         





         





         






         

江戸・東京の農業  寺 島 ナ ス
   
かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688~1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡誌」には、「寺島茄子西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行50周年記念事業


THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Terajima Nasu (Egg plant)
Terajima village around this Shrrahige was paddy rice areas in the years 1688-1704. Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the egg plant which was popular as ‘Terajima Nasu’.Farmers shipped their products by boats to the markets of Senjyu, Honjyo-Yotsume andKanda, etc.






      

岩瀬鴎所(おうしょ)の墓碑
 
所在 墨田区東向島3丁目五番二号 白鬚神社内

 江戸時代末期の外交家。文政元年 (一八一八) 江戸に生まれました。名は忠震(ただなり)で、鴎所(おうしょ)の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭(かちがしら)設楽貞丈の第三子で天保十一年 (一八四〇) 、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年 (一八四九) 老中阿部正弘から目付に抜てきされました。鴎所は昌平坂学問所で漢字を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鴎所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講式所と藩所調所(はんしょしらべしょ)を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政六年八月に官位を奪われ、蟄居(ちっきょ)を命ぜられました。その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年 (一八六一) 七月十六日、四十四歳で没しました。

平成十六年三月
             墨田区教育委員会






       

〈 墨田区登録文化財 〉
山 玉 向 島 講 社 の 碑

所在地  墨田区東向島三丁目五番二号  白鬚神社

山玉向島講社
(やまたまむこうじまこうしゃ)は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講(もとこう)の枝講(えだこう)だったと考えられています。明治八年( 一八七五 )七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中之郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝(とうはい)していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正十一年(一九二二)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行(ぎょくざんじょうぎょう)、講元松本萬次郎、そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、四代目先達玉山丈行は、本名を重城丈吉といい、白髭神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師「大番城(だいばんじょう)」の屋敷に記念碑を建立していました。左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており講社の沿革を知るうえで貴重な情報を提供しています。
                平成二十四年一月
                  墨田区教育委員会






        

墨田区登録文化財〉

 
「墨多三絶(すみたさんぜつ)」 の碑
 
     所在 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社内
  隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶 (? は絶の古字)」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は文政五年 (一八二二) のことです。なお、絶とは五字または七字の四句で、一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。この碑 (草書) は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書) の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
維舟渡口歩汀沙来飲祠前売酒家
道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
欲管繁華事閑唾落花流水中
断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
鴎邊柳処元陳遼付与詩人吟至今
上毛淡斎佐羽芳詩壬午冬日書詩仏老人大窪行

平成十八年十月
             墨田区








鷲 津 毅 堂 碑

  所在 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社内

 鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政八年(一八二五)尾張に生まれました。通称を毅堂または蘇州と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。三十歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も師弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳田康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年朝廷より権弁事を任ぜられ同二年大学少承に転じます。そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治十五年司法権大書記官となりますが、同年 (一八八二) 十月五日、五十八歳で没しました。なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美、撰文は、三島毅、書は巌谷一六による碑です。
       平成十八年三月
                墨田区教育委員会





そ の 他 の 碑

            





            









     




                      昭和2年築の元薬局を改装したカフェ
店内の作り付けの棚は昔のままの薬棚。薬の
引き出しや柱時計、ミシン、タイプライター
なども、 この家に古くからあったものです!
【古 民 家カフェ こ ぐ ま】
住 所 / 東向島1-23-14  電 話 / 03-3610-0675
時 間 / 10:30~18:30
  定休日/火・水





             





             





             






          民家の蔵から葵の御紋の長持ち!
すみだ郷土文化資料館で調査中です


住 所 / 東向島1-23





             





             






             






             






             






           大 倉 別 邸「蔵 春 閣」跡

田沼意次の黒幕といわれた中野碩翁の屋敷を移築したと
いわれ、豊臣秀吉の桃山御殿の襖、杉戸を用い、狩野探幽
の屏風や谷文晁の龍などを張り付けてある豪華な建造物で
蔵春閣と呼ばれました。賓客の接待用として日露戦争後の
1912年に明治・大正の実業家大倉喜八郎が、隅田川に面し
て建てました。解体後は大倉文化財団が管理しています。
墨田区に復建できる日を楽しみにしていましたがこの度
大倉喜八郎さんの出身地新潟県新発田市に寄贈されました。
住所 / 墨田区堤通1-1





            






大倉別邸跡地に立つ共栄倉庫
(エスケーロジ株式会社)
  

             






    大 倉 喜 八 郎 別 邸 跡

この一角は田沼意次にとりいり養女を大奥に入れて権勢を
ほしいままにした中野碩翁の別邸跡で、隅田川に面して贅
をこらしていた。そこを明治の政商大倉喜八郎が受け継ぎ、
大蔵別邸としていた。邸内の川に面して建てられていた、
「蔵春閣」は船橋の『ららぽーと』に移築されている。
            共栄倉庫株式会社
  





蔵春閣解体前の大倉別邸

蔵春閣解体の前に大成建設から依頼を受けて、
写真を撮影された建築写真家岩崎和雄氏の頁にリンクします


            






大倉別邸 「蔵春閣」 講演会
平成31年4月20日(土)


                    






            







言問団子さんに展示されています。 
 
 墨田区伝統工芸 江戸文字提灯 大石智博氏作






大倉別邸跡地の淋しい現在(令和2年3月)
案内板が倒れる前も淋しい風景でした。


入り口は黄色と黒色の綱がかかっています。
              






 
案内板が倒れています。
            






             






 
                   
     幸 田 露 伴 旧 居 跡
(露 伴 児 童 公 園)
第一回文化勲章(1937年2月)を受賞されています。
文豪幸田露伴の区内3番目の家があった所です。
雨宮酒店横の別棟を「蝸牛庵(かぎゅうあん)」
と名づけて間借りをしていました。明治41年
(1908)には自分で家を設計し「蝸牛庵」と名づけ
て住んでいましたが、関東大震災の影響で井戸の
水に油が浮くようになった為、大正13年小石川へ
転居しました。
住 所 / 東向島1-7-12 





             






             






             






    幸 田 露 伴 と 向 島

幸田露伴(慶応3年(1867))~昭和22年(1947)は、明治・大正・昭和の三代にわたって小説をはじめ評論や随筆、詩歌、考証研究などに幅広く活躍し、大きな足跡(そくせき)を残した文学者です。若き日の明治20年代から、「風流仏(ふうりゅうぶつ)」や「五重塔」などの名作を次々に発表し、尾崎(おざき)紅葉(こうよう)とともに「紅(こう)露(ろ)時代」と並び称されました。向島にはじめて住んだは明治二十六年のことで、現在の白(しら)髭(ひげ)橋(ばし)近くにいた父母や兄が、隅田川対岸の橋場(はしば)へと転居したのにともない、そのあとに入ったのです。岐(ぎ)雲(うん)園(えん)と称されるこの家は、もと幕末の外国奉行だった岩瀬(いわせ)忠震(ただなり)が建てたもので、汐入(しおいり)の池や梨(なし)畑(ばたけ)のある広い庭を持っていました。
 






    向 島 蝸 牛 庵

露伴が岐雲園に住んだのはわずか1年ほどでしたが、数年後の明治三十年にはふたたび向島へと戻り、当地よりほど近い、雨宮酒店の隠居所を借りて居を定めました。現在、博物館明治村に移築されているこの家では、のちに作家になる娘の幸田文(あや)が生まれています。「蝸牛(かぎゅう)庵(あん)」とは露伴の家のことで、若いころから転居続きだった自分を、殻を背負って歩くかたつむり(蝸牛)に譬(たと)えたのが由来です。生涯にわたって用いられた庵号で、特定の建物を指すわけではありませんので、区別のためにしばしば地名を冠して呼ばれます
 






    当 地 に つ い て
 
明治41年(1908)、露伴はみずからの設計で家を新築し、当地に移り住みました。短期間の居住におわった岐雲園をのぞけば、ここが第二の向島蝸牛庵にあたります。隣には割烹(かっぽう)料亭「雲水(うんすい)」の庭が広がるすぐれた環境で、中国明(みん)代の靖難(せいなん)の変(へん)を題材にした歴史小説「運命」をはじめ、「幽(ゆう)情記(じょうき)」や「望樹帰(ぼうじゅき)」といった代表作がいくつも執筆されました。この家で少女時代をすごした幸田文は、当時の様子を「みそっかす」や「糞土(ふんど)の墻(かき)」に美しく描いています。しかし、関東大震災によって井戸水が濁ってしまったことなどから、大正13年、一家は16年あまりをすごしたこの地を離れ、小石川に移転していったのです。
 











 
   Modern Author Koda Rohan and his“Snail Cottage”

Koda Rohan (1867-1947) was a famous writer active throughout Japan’s modern period

By the middle of the Meiji Period, when modern Japanese literature arose under the Influence of Western culture, Rohan had already received recognition as first-classwriter through novels such as Furyubutsu (The lcon of Liberty)and Gojunoto (The Five-Storied Pagoda ). He continued to publish pieces including novels, bookreviews, essays, and poetry for nearly sixty years until after World War 11.

Rohan lived in the Mukojima area three times, each time in a different house. He first stayed in a large estate in the northern part of Mukojima near Shirahige-bashi Bridge in 1893, but only for a year ①. Rohan lived in the area for the second time in 1897, renting a wing of Amemiya’s liquor shop which was located near this site ②.
Aya Koda, his daughter who would later become a popular writer in her own right, was born there. Starting in 1908, Rohan lived here inMukojima for the third time ③. It is said that the house located here was designed by Rohan himself. Here he wrote many well-known masterpieces including Unmei (Destiny), but the Great Kanto Earthquake of 1923 made the wellwater cloudy, so he moved out the following year.

Rohan often called his house Kagyuan, or “Snail Cottage”The writer had moved often since his youth, and through this moniker he compares himself humorously to the snail, which carries its shell as it travels. Combining this name which that of the area, the house once located on this site is called Mukojima Kagyuan
 






             

幸田露伴 文学碑

世おのづから數
(すう)というもの有りや。
有りといへば有るが如く、
無しと為せば無きにも似たり。
洪水天に滔
(はびこ)るも、禹(う)の功これを治め、
大旱地を焦せども、湯
(たう)の徳これを済(すく)えば、
數有るが如くにして、而も数無きが如し。
                        「運命」より/碑文






      




堀 辰 雄 
    
森 鴎 外 
      
吉川 英治
    
正岡 子規 
      
谷崎 潤一郎


 
饗庭 篁村
         
淡島 寒月
         
佐多 稲子



富田 木浦
    
依田 学海
    
成島 柳北
    
幸田 露伴
    
村上 浪六

向 島 文 学 散 歩
Map of Literary Sites in the Mukoujima Area

向島地域には、明治時代以降、魅力ある土地柄に惹かれた多くの作家が住まいを構えました。彼らは、向島での暮らしを作品に残し、かつての向島の様子を伝えてくれます。

Starting the 19th century, especially after the Meiji Restoration in 1868,the pastoral atmosphere of the Mukoujima area brought many novelists to make their homes here.The writings they left of a Mukoujima long past. and record the lives of its inhabitant








露伴児童遊園のこと

ここは文豪幸田露伴が明治41年から大正13年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治26年冬この寺島町かいわいに来往しそれから約30年最も力の溢れた時期をこの地にすごし数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に劍道、弓道、相撲、などしてよく庭で遊んだそうです。このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。
 昭和39年3月建立   墨田区                    
                                   琇全書 
 






           榎 本 武 揚 旧 居 跡

箱館戦争で官軍と戦い敗北し降伏、東京・辰の口
の牢獄に2年半投獄された。その後明治政府で
活躍し、明治38年から亡くなる明治41年まで
の晩年をこの地で過ごし、墨堤通りを馬で毎日
散歩していたそうです。
向 島 5 丁 目 1 2 





            









 
榎 本 武 揚 像 
梅若公園にある銅像
            
墨堤植桜之碑
上部の篆額を武揚が書いた。



武揚が揮毫した牛島小学校の篆額 


  天保7 (1836) 年8月25日~明治41 (1908)年10月26日、箱館戦争で官軍と戦ったが、3年間の投獄後は新政府で文部大臣、外務大臣などを歴任した。下町情緒を好み、門づけの三味線弾きを家に呼び込んだり、ひいきの力士に相撲の型をとらせて楽しんだという。また墨堤植桜之碑や牛島小学校の篆額に揮毫している。 

A vassal of the Shogun who became a Meiji leader
Residence of Enomoto Takeaki

榎 本 武 揚 旧 居 跡

父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から 学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭学、中濱萬次郎から英語をそれぞれ学び恵まれた環境で洋楽の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3 (1856) 年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術等を身につけた。文久2 (1862)年 に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3 (1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国。翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した、黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7 (1874) 年に駐露特命全権公使となり、樺太、千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。明治38(1905) 年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。
Enomoto Takeaki (1836~1908) was gaoled for supporting the defeated Shogun’s forces
during the Meiji restoration, but later he was enlisted to serve the new government in several ministerial posts. He was known for his love of the spirit of downtown Tokyo.






          吉 川 英 治 旧 居 跡

「鳴門秘帖」「宮本武蔵」「三国 志」「新・平家物語」
など、膨大な小説を執筆、国民 文学作家と親しまれ、
昭和 35年に文化勲章受章。明治3(1892)年、横浜生まれ。
父は旧 小田原藩士。県庁勤務の後、牧場経営に失敗し、
家運が傾いたため小学校を中退。職を転々と しながら、
朝から晩まで働き通した。 多磨霊園にて永眠。 





            










 ◆ 「古川柳隅田川考」
隅田川の古川柳に関
する研究。
吉川雉子郎の
ペンネームで、
       
直筆の葉書







    
本名:吉川英次 
明治25(1892)年8月11日~昭和
37(1962)年9月7日。
「鳴門秘帖」「宮本武蔵」

「三国志」
「新・平家物語」
など長編約80編、短編約
180編という膨大な小説を
執筆、国民文学作家と
親しまれ、昭和35年に文化
勲章受章
 

A popular novelist and recipient of the Order of Cultural Merit
Residence of Yoshikawa Eiji

吉 川 英 治 旧 居 跡

明治25(1892)年、横浜生まれ。父は旧小田原藩士。県庁勤務の後、牧場経営に失敗し、家運が傾いたため、小学校を中退。職を転々としながら、朝から晩まで働き通した。18歳の時、上京。本所菊川町(立川4丁目)のラセン釘工場に住み込み、夜は、本所林町(菊川1丁目)の府立夜間職工学校で、工芸図案を学ぶ。その後浅草三筋町にある輸出用金属象嵌の下絵
描きの徒弟となった。

貧しさも あまりの果ては 笑ひ合ひ
(吉川雉子郎の名で発表した川柳)

大正6(1917)年、25歳の時、下谷の花街で知り合った赤沢やすの寺島村1820(東向島1丁目)のこの辺りの家で同棲を始め、母たちを近くの寺島村1120(東向島3丁目)の借家に呼んだといわれている。本格的な作家活動は、30歳で『親鸞記』を初めて新聞連載した時に始まる。以後、創刊された「キング」に『剣難女難』、大阪毎日新聞に『鳴門秘帖』を連載し、国民文学作家としての地位を不動のものにした。

Yoshikawa Eiji (1892~1962)was a prolific author responsible for around 80 full-length novels including The Secret Record of Naruto,Miyamoto Musashi, Romance of the Three Kingdoms,and The New Tale of Heike, as around 180 shorter works.In 1960 this popular author was awarded the Order of Cultural Merit






  .                 依 田 學 海 旧 居 跡
天保4(1833)年1.3日生まれ。漢学者、文芸評論家、
小説家、劇作家。森鴎外の師、幸田露伴を文壇に
送り出した人として知られている


成 島 柳 北 旧 居 跡
天保8(1837)・2・16生まれ。 漢詩人、随筆家。
父は幕府奥儒者。安政3(1856)奥儒者に任命
され、徳川家定・家茂に経学を講じる。
所 在 / 向島5丁目4番





            






            











   
(明治末頃)
學海真筆の漢詩文



   
本名:依田百川
天保4(1833)年1月3日~明治42
(1909)年12月27日。漢学者、
文芸評論家、小説家、劇作家。
森鴎外の師、幸田露伴を文壇
に送り出した人として知られ
ている 





 

The menter of Mori Ogai and aficionado of
mukoujima-Hyakkaen Gardens
Residence of Yoda Gakkai

依 田 学 海 旧 居 跡

佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携わっている。53才で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。森鴎外の師としても知られ、『キタ・セクスアリス』の中では文淵先生として登場・向島の隅田川の土手を臨む須崎村142(向島5丁目・言問い小学校あたり)に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている、(実際は妾宅で、漢文の直しを乞いに訪ねた若い鴎外は気づかなかった。鴎外が15才の頃の出会いだが、その後も二人の交流は続き、鴎外のドイツ留学に際しては、『送森軍医游 伯林序』という送別の漢詩をおくっている。向島百花園にもよく足を運び、明治15年に発行された『墨水24景記』には永井荷風著「墨東綺譚」の主人公が持って歩いていたことでも知られている。また、50年以上に亘って書き続けた日記『學海目録』 には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にもなっている。


Yoda Gakkai (1833-1909) was a scholar of Chinese classics, art critic, novelist and playwright, He mentored. the writer Mori Ogai, and Koda Rohan was also his protege.Yoda remained close to Mori for many years,and he even penned a farewell Chinese poem whenMori departed to study in Germany.








成(なる)島(しま)柳(りゅう)北(ほく) の 住 居 跡
  
所在  墨田区向島五丁目四十番 言問小学校

 成島柳北(一八三七~一八八四)は、幕府の儒者の家に生まれ、奥儒者として将軍徳川家定・家茂に仕えました。後に、騎兵奉行・外国奉行などを歴任しました。明治維新後は新政府の招きを固辞し、
「朝野新聞」の主筆として、新聞条例や讒謗率(ざんぼうりつ)を批判したことで知られました。明治十七年(一八八四)一一月、海棠園と呼ばれたこの場所で四八年の生涯を閉じました。初め、横川にある本法寺に葬られましたが明治二年(一九〇九)に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬されました。明治一八年、長命寺の境内に柳北の記念碑が建てられました。
平成一三年三月 

                  墨田区教育委員会






                 向じま 有 馬 温 泉

有馬温泉の後にお風呂屋さんができ、
そして解体され現在のマンションに
なりました。

住所 / 東向島5-38





            








向嶋有馬温泉縁起

向島は江戸時代より多くの別荘が営まれ、春には花の名所として賑わっていました。明治十七年、兵庫有馬の湯花をこの付近に遷し、向島有馬温泉が開業しました。この由来を語り継ぐものとして次のような文献が残っています。客間 萱葺(かやぶき)二階建て一棟何の風情も無けれど、遠く墨堤(すみづつみ)の桜を望み、小田の蛙に耳を澄し、秋は稲葉の風に戦(そよ)ぐも、態(さま)変わりてをかし、栽籠繁茂(うえこみしげ)く枝を交し、瓦葺(かわらぶき)の三階造は小丘(しょうきゅう)を抱きて立てるをもて背面より登れば直ちに二階に達すべく、正面より登れば初階より通るを得べし、其さま恰(あたか)も浅草奥山鳳凰(ほうおう)閣の如く、南に二階家の離れて建てられたるは旅館なり、梅林(ばいりん)鬱(うつ)として藤樹蔭(とうじゅかげ)を成し松籟(しょうらい)微(かす)かに眠を催して、三伏(さんぷく)涼を納るゝに適す。泉水 池あり水青く、中島に茶室あり、渚に捨小舟(すてこぶね)、それすら風雅なるに、蓮の浮葉に鯉の跳(は)ねて、客あり、釣竿を望む時は、随意に貸与して、釣る所の魚を調理す、鮮鱗溌溂(せんりんはつらつ)膳に上るも快。混堂 池畔(ちはん)に在り、湯槽(ゆぶね)は好心地(ここち)よく洗われて、男室女室に区画(わか)たる。料理 普通一式の料理、花中(かちゅう)又弁当を調進す。美人なし、別嬪(べっぴん)は他よりお連れ下されとは情けなくも、前歯のぼっくり欠損(かけ)たる婆様(ばあさま)が愛嬌。梅干 梅林数十株、毎歳(まいさい)梅干と為す、有馬産の梅干は名代(なだい)なり、春は籬根(かきね)の残雪未だ全く消えやらぬ間に、南枝蕾(なんしつぼみ)を破って暗香(あんこう) 浮動(ふどう)、梅見にと筇(つえ)を曳(ひ)く雅客(がかく)、つヾいて向島桜狩りの崩れ客(くずれきゃく)、庭の藤の花池の面(ち)にゆかりの色を映(えい)せば、五月ともなりて実梅の影夏座敷(なつざしき)に落ちて、水無月(みなづき)文月(ふつき)三伏(さんぷく)ともなれば、夏を余所(よそ)なる納涼(すずみ)がてらの客、美姫(びき)を携え酒肴満盞(しゅこうまんせん)、緑蔭華胥(りょくいんかしょ)に遊ぶもよからむ。          『新撰東京名所図会』第十四編 より一部引用 
上の絵は山本松谷、右は山下重民の文により明治三十一年発行の『風俗画報』に掲載されました。江戸の面影と明治の息吹を伝える雑誌に「有馬温泉」は「行楽の場」として描かれています。その後この地に「有馬温泉」の名に因んだ銭湯が誕生し、地域の人たちの「憩いと語らいの場」としてともに生きてきました。向島の歴史と文化を伝えたくこの碑文を設けます。                              二〇〇四年十二月






    
                                       西山抱月二代目 
  すみだ小さな博物館

羽 子 板 の 抱月
【無形文化財】 押絵羽子板製作(面相・押絵)
12月に浅草寺で開かれる「羽子板市」は
年中行事のメインイベントです。
住 所 / 向島5-43-25
      電 話 / 03-3623-1305
時間 /10時~18時   定休日 / 祝祭日・日
(資料館は2月1日~10月31日の木・金・土開館

           (11月上旬~翌1月下旬休館)





            






 
明治から大正にかけての羽子板だそうです。
                          







                          この「押絵」と「羽子板」がいつ頃その別々の歩みの中で融合した
のか。時は江戸中期文化文政の頃(1800)江戸では大平の世の中、
庶民の娯楽の第一が「歌舞伎」でした。そこで名優、人気役者の舞
台姿を「押絵」の技法で作り、おめでたいとされていた「羽子板」
に入れ販売したところ江戸庶民に人気を得て、その後明治、大正、
昭和、平成の現在に至る。押絵羽子板作りは歌舞伎の所作事を多く
主題とし荒事、和事、舞踊など芝居の筋、演じる役者の心を読み取
って作り上げる。
              
  「羽子板」、これはいつの時代からあった物だろうか詳しい事はわ
からないが、室町時代の書物に初めて見える。永享4年(1433)正月
「御所において宮様公卿女官達が紅白に分かれて羽根突に興ぜられた」
と記録がある。宮中ではお正月に必ず羽根突きをしてその年の健康を祝
いました。現在でも女の子の誕生の初めてのお正月には羽子板を贈る
風習が全国各地に残っています。「押絵」とは後世の押絵細工ではなく
表具の貼絵の技法で、宮中の公卿女官達の趣味として衣類の残り布を材
料として屏風、香箱等に装飾として使われ当時の上流社会において流行、
江戸時代には庶民の間に普及した。 






                       向 じ ま  墨  堤

寄せ等が開催されます。

住 所 / 東向島1-10-20
電 話 / 080-1327-5615





 
突き当たりは地蔵坂通りで百花園に行きます。
   
左は雨宮商店で、右側は達ずしです。






             






               鳩の街通りの近くの街角

2017年頃の写真です。
現在は残念ながら見ることが出来ません!
 





        






        






墨田区内循環バス時刻表 
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)



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