スカイ姫のつぶやき街角・北西部ルート
鐘ヶ淵駅バス停~墨田区総合運動場バス停

鐘 ヶ 淵 駅    江戸時代中期に造られた、区内最古の建造物の木造萱葺切妻造の山門で有名な多聞寺 
 〇武蔵・下総を結んだ古代東海道案内板  〇赤門寺とも呼ばれている醍醐山円徳寺 
鐘ヶ淵紡績発祥の地  〇鐘ヶ潭丹鳥の池綾瀬橋  〇隅田水門周辺
  〇フクシ・エンタープライズ墨田フィールド  ◯梅若橋コミュニティー会館
   ◯東京都リハビリテーション病院   〇東京都立東白髭公園 

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     鐘 ヶ 淵 駅



     
多 聞 寺(たもんじ)
真言宗 智山派(ちさんは) 隅田山 吉祥院(きっしょういん)
墨田5-31-13  電 話:03-3616-6002
      



 すみだの史跡文化財めぐりより
天徳年間(957-960)には墨田千軒宿、今の隅田川神社付近にあって大鏡山明王院隅田寺と称え、
本尊は不動明王でした。降って天正年間(1573-1591)には41代鑁海上人がある夜、夢に毘沙門天
(多聞天)尊像を感得して以来、毘沙門天を本尊とし隅田山吉祥院多聞寺と改称したといいます。
なお、明治維新までは隅田川神社の別当寺でした。多門寺は区内の最北端にあり関東大震災、戦災
ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。明治45年には永信講と
して「地蔵尊密言流念仏」が発足しましたが、戦時中に中断したのち昭和26年に復活し毎月24日に
催されています。また、境内の狸塚の前には阿弥陀三尊の板碑(年紀不明)があり、他に弥陀一尊
花瓶)のものが保管されています。





 
         
 スカイツリー線が見えます!





      

不殺生(ふせっしょう)の修行(しゅぎょう)
日本国憲法(にほんこくけんぽう)
第二章
(だいにしょう) 戦争(せんそう)の放棄(ほうき)
戦争の放棄
(せんそうほうき) 戦力の不保持(せんりょくふほじ) 交戦権(こうせんけん)
否認
(ひにん)第九条(だいきゅうじょう) 日本国民(にほんこくみん)は、正義(せいぎ)と秩序
(ちつじょ)を基調(きちょう)とする国際平和(こくさいへいわ)を誠実(せいじつ)に希求(ききゅう)し、
国権
(こっけん)の発動(はつどう)たる戦争(せんそう)と、武力(ぶりょく)による威嚇(いかく)又は
武力
(ぶりょく)の行使(こうし)は国際紛争(こくさいふんそう)を解決(かいけつ)する手段(しゅだん)
としては、永久
(えいきゅう)にこれを放棄(ほうき)する。2、前項(ぜんこう)の目的(もくてき)
(た)するため、陸海空軍(りくかいくうぐん)その他(た)の戦力(せんりょく)は、これを保持(ほじ)
しない。国
(くに)の交戦権(こうせんけん)は、これを認(みと)めない。





多 聞 寺 参 道

         





         





寺 山 門

         







多 聞 寺 山 門
     所在地  墨田区墨田5-31-13
所有者  多聞寺
多聞寺山門(たもんじさんもん)は、木造切妻造の四脚門で、現在では珍しい茅葺屋根を持ちます。
幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石( 礎盤 )など
一部に禅宗様の技法が確認できます。寺伝によれば、多聞寺の山門は、慶安二(1649)の建立後、
享保三年(1718) 二月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和三年(1803) 二月の
火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また、専門家による調査の結果、
現存する山門の建立年代は十八世紀を降らない、との判断が得られています。これらのことから、
この山門は享保三年以降に再建され、享和三年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられて
います (ただし後年幾度か改修が行われています)。多門寺山門は、このように、建立年代が江戸時代
中期に遡る可能性が考えられる貴重な文化財です。平成十六年十月一日に墨田区指定有形
文化財に指定されました。
  平成二十九年九月
                              墨田区教育委員会 


      山号額「隅田山」(正法金対書)裏に 「明和九年三月吉日造営」、
「現住法印典慶代」、「願主 瀧澤逸平 規和」と刻まれています。
このため、現存する山門を明和9年(1772) の造営物と見る説もあります
 

Tamonji-Sanmon
Tamonji-Sanmon (Main Gate) is a wooden four-legged gate with a gabled thatched roof.
It is thought to have been built in around the middle of 18th century, and is a precious
cultural asset thatPreserves traditional Japanese architectural techniques to the present day.
 





         





         







榎本武揚の書による 隅田川七福神の碑
この碑は元幕府の海軍奉行を勤め、戊辰の役には五稜郭で戦った榎本武揚の書を自然石に
刻したのです。生粋の江戸っ子の榎本武揚は、隅田川辺りの散策をことのほか好み、当寺
を訪れたおり、筆をとったといわれます。碑面には隅田川七福神之内 毘沙門天 正二位子爵
榎本武揚」と記されています。 

七 福 神 の 創 始
 昔から七福とは、人の本質でもっとも尊い宝とされていました。寿命・裕福・人望・清廉・
愛嬌・威光・大量を神仏聖人を当てはめて室町時代後半に七福神として瑞祥の象徴となりました。
後の江戸時代後半より、一年の幸福祈願に七福神を巡拝する慣わしが町人文化に根付き、盛んに
なったと言われています。

毘 沙 門 天 (威光)
 インドの神様で右手に矛、左手に多宝塔をかかげる、武装分怒の守護神四天王随一の
多聞天であるが、毘沙門天と呼ばれている
 





         





 

(た) (もん) (じ) の 山(やま) (もん)
山門中央
(ちゅうおう)の「隅田山(すみださん)」と記(き)された山号(さんごう)(がく)の裏(うら)
「明和
(めいわ)九年(きゅうねん)」(一七七二年) と彫(ほ)られており、現存(げんぞん)する墨田(すみだ)区内
(くない)最古(さいこ)の建造物(けんぞうぶつ)として区(く)登録(とうろく)有形(ゆうけい)文化(ぶんか)
(ざい)とされています。屋根(やね)を支(ささ)える本柱(ほんばしら)の前後(ぜんご)に二本ずつの控柱
(ひかえばしら)をもつところから四足門(しそくもん)または四(し)脚門(きゃくもん)と呼(よ)ばれる形式
(けいしき)の門です。一部(いちぶ)には朱(しゅ)と思(おも)われる痕跡(こんせき)があり、建立(こんりゅう)
当初
(とうしょ)は朱塗(しゅぬ)り瓦(かわら)(ぶ)きであったことが察せられます。
その後
(のち)、享和(きょうわ)三年 (一八〇三年) の火災、安政(あんせい)二年 (一八五五年の大地震
(だいじしん)などの被害(ひがい)を受(う)け、後(のち)に萱葺(かやぶき)にされたものと思(おも)
われます。その後もこの門は、拝仏
(はいぶつ)毀釈(きしゃく)、関東(かんとう)大震災(だいしんさい)
十五年戦争
(せんそう)などの天災(てんさい)と人災(じんさい)の歴史(れきし)をくぐり抜(ぬ)け、
娑婆
(しゃば) (人間自身が作り出した苦しみの世界) の人々(ひとびと)の営 (いとな) みを見据 (みすえ)
てきました。これからも、安楽 (あんらく) を願(ねが)う人々(ひとびと)を見守 (みまも) ってくれるでしょう。
              
隅田山 多聞寺





         







左 側
ヒロシマでの原爆被害を表徴する花 夾竹桃
2000年3月9日
広島県原爆被害者団体協議会

            右 側
長 崎 爆 心 地 の 木   楠
2000年3月9日
長崎原爆被害者協会

 





狸   塚

         





         





         








狸 塚 の い わ れ
むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂る
とても寂しいところでした。大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も
寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえる
ほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつき人々をたぶら
かしていたのです。そこで、鑁海(ばんかい)和尚と村人たちは、人も寄りつくことができないような
恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。まず、「牛松」を切り
倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が
降ってきたり、「おい、ここはわしのものじゃ。さっさと出て行け、 さもないと、村人を食って
しまうぞ。」と、おどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。
やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。「おまえの悪行は、いつかおまえ
をほろぼすことになるぞ。」次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚
さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしま
った池への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか『狸塚』と呼ばれるように
なりました。





東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
戦 災 の 証 言 者

         





         





 

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)で被災(ひさい)した 
浅草国際劇場
(あさくさこくさいげきじょう)の鉄骨(てっこつ)

1945 (昭和
(しょうわ)20) 年3月10日未明(みめい)、アメリカ軍(ぐん)B29爆撃機(ばくげきき)330機による
無差別絨毯爆撃
(むさべつじゅうたんばくげき)を受(う)け、下町一帯(したまちいったい)は ”炎(ほのお)の夜
(よる)” と化(か)した。この東京大空襲により下町は壊滅状態(かいめつじょうたい)に陥(おちい)り、死者
10万人
(まんにん)、重傷者(じゅうしょうしゃ)11万人、 100万人が家(いえ)を失(うしな)った。 (犠牲者
(ぎせいしゃ)の氏名(しめい)、正確(せいかく)な人数(にんずう)は現在(げんざい)も不明(ふめい)) この元(もと)
浅草国際劇場の鉄骨 (1998年現在、大部分
(だいぶぶん)は江戸(えど)・東京博物館(はくぶつかん)に展示中
(てんじちゅう)) は、東京大空襲を語(かた)り継(つ)ぐ、数少(かずすく)ない歴史的(れきしてき) “証人(しょう
にん)
” である。風船爆弾(ふうせんばくだん)の工場(こうじょう)となっていた浅草国際劇場も直撃弾(ちょく
げきだん)
を受(う)け、屋根(やね)を支(ささ)えていた鉄骨は曲(ま)がり、ちぎれ、天井(てんじょう)の大部分
(だいぶぶん)が抜(ぬ)け落(お)ち、たくさんの人々(ひとびと)が焼死(しょうし)した。目(め)の前(まえ)の痛
(いた)ましくひきちぎられた鉄骨に向(む)かって目を閉(と)じてみると、炎(ほのお)の夜(よる)の恐怖
(きょうふ)がよみがえる。戦争(せんそう)の実相(じっそう)を伝(つた)える “証人たち” に静(しず)かに心
(こころ)を傾(かたむ)け、不殺生(ふせっしょう)の誓(ちか)いを新(あら)たにしましょう。
隅田山
(すみださん)  多聞寺(たもんじ)


戦 災 の 証 言 者
 
パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目
2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見され
ました。東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありま
した。ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけて
ので焼かれた木です。当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里
を含め139ヶ所に及びました。戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、
平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。

1992年10月18日 戦災の木を保存する会

Monument of Word War Ⅱ

The monument, the burnt tree was discovered in 1-2-7 Nishinippori, Arakawa-ku
( former address 4-3420, 3421 Mikawashima ) where the construction of a new building
had started, on August 12, 1991, a half century from the battle of pearl Harbor, the 46th year
from the end of World War Ⅱ. There were 71 raids from April 18, 1942 to August 15, 1945.
Now the tree that is displayed in this place is the one that was burnt in the air raids from
11 p.m. April 13, 1945 to 2:22 am. April14, 1945. The bombs dropped were high quality bombs,
81.9t and incendiaries 2037.7t. The damaged area spread 139 places containing Nishinippori.
This tree that was burnt in the war makes an appeal for precious life. Now we should try to
build a peaceful country forever under the peaceful constitution.

October 18, 1992
Sensai no ki wo hozonsuru kai
(The society to preserve the tree burnt in World War Ⅱ)







 平和を愛し民主主義を支えた映画人の墓碑
 「映画を愛し、平和と民主主義を支え、人間の尊厳を守った人々、ここに眠る」と刻まれ
ています。薄田研二、今井正、山本薩夫らとともに榎本健一(エノケン)の名前もあります。
 戦前否応もなく映画・演劇界にも戦争の影響が色濃く反映し、戦意高揚に積極的に協力
させられ戦争物一色になっていった中に、「榎本健一一座」(座長榎本健一)の上演演目は
「助六」、「勧進帳」などの歌舞伎狂言に加えて「鼠小僧」、「森の石松」など、戦時色とは
無縁で戦争とは一定の距離をおいたものだったそうです
題字は新藤兼人


故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の
民主的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立てて
ほしいとの申し出があり、映画を愛する人々と団体によって、この墓碑が建立されまし
た。

事務局:東京都渋谷区渋谷2-5-12青山アジアマンション505号   電 話: 03(6427)4425 
会の年中行事
4月29日 全合葬者・合同追悼会   11月23日 墨東めぐり・墓参会
1月3日(自由参加)隅田川七福神めぐり






平 和 観 音 像
 真言宗の開祖弘法大師ご入定1150年の1984年にご遠忌を記念して、
東京大空襲の犠牲者を追悼する為に建立されました。
人間が人間を殺す為に作り出した武器・軍備を、人間である私たちが廃絶し、
戦争のない世界を実現するための証のお姿だそうです。

         





六 地 蔵 尊
 「坐姿六態地蔵」と呼ばれる都内でも珍しいお地蔵様です。仏教においては、地獄・餓鬼・畜生・修羅・
人間・天上の六道のどこにいても救いの手をさしのべてくれるといわれています


         





 

<墨田区登録文化財>
六 地 蔵 座 像
墨田区墨田五丁目三十一番十三号 多聞寺内
この六地蔵像は総高約一五〇センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、
二段目の石は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ六十センチの丸彫り地蔵坐像が
のっている。像容は向かって右から持ち物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋
を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。欠損や修復の跡が見られ
ますが、僧覚誉理慶(利慶)が願主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を
願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。隅田村地蔵講中の数年にわたる作業行為
を知り得る、貴重な資料といえます六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(一七一三)二月吉祥日、
同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、
同二年八月吉祥日、享保元年(一七一六)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています
平成四年三月
                         墨田区
 





         





         





         





         





 
         
すみだマイスター大石智弘さん作の江戸文字提灯です! 






多聞寺さん前の広場に移動スーパー!

         






      
武蔵・下総を結んだ古代東海道
東武スカイツリーライン線鐘ヶ淵駅の付近
には、武蔵国と下総国を結ぶ古代東海道と
呼ばれる古代の官道がありました。
所在地 / 墨田区墨田二丁目~四丁目 





          





         

武蔵・下総を結んだ古代東海道
                 所在地  墨田区墨田二丁目~四丁目
東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と
呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路
として多くの人々に利用されたと考えられます。官道に定められた年代は、九~十世紀と想定
されます。『大日本地名辞書』に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府達する
一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(1880)
の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には
大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区
小岩(大道下)に確認できます。また葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられて
いる立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。鐘ヶ淵駅から
西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段
でした承和二年(835)の太政官符で渡船の数を二艘か四艘にしたことは、隅田川を往来する
人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが『伊勢物語』東下りの場面です。
在平業平が

「名にしほは、いざ事とはむ宮こ鳥     わがおもふ人はありやなしやと」
と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。
  






         
 真ん中の白いビルの前が古代東海道です。荒川の土手に出ます。






真ん中の道が古代東海道で下の道と交叉しています。 
         
墨堤通りに出ます。 






       醍 醐 山 円 徳 寺
曹洞宗駒込吉祥寺の末寺で、慶長十八年(1613)に
離北良重和尚が創建したと伝られている。
本尊は薬師如来である。
境内には、寛文十二年(1672)銘の庚申供養塔がある。

所在地 / 墨田区墨田5丁目42-17
 





         





         





         







<墨田区登録文化財>
 庚 申 塔 (寛文十二年十一月一日銘)
  所 在 墨田区墨田五丁目四十二番十七号  圓通寺内
 十干十二支で庚申は六十日に一度めぐってくる。この日の夕に斎戒沐浴して供養し、
一夜を寝ずに明かす行事を「庚申待(こうしんまち)」という。人の身中に潜む三尸(さんし)
という虫がこの夜の眠っている間に抜け出し、人界での諸悪を点天帝に告げるため、人は
寿命を縮めるとされている。近隣の者たちが供物(馳走)を持ち寄り、庚申の掛物を礼拝し、
日ごろの話題に談笑したりして夜明けを待つ。また、この夜は村人にとっては数少ない楽しみ
のひとつでもあった。この庚申塔は区内でもかなり大きなものであり、舟型 光背・蓮華座に
阿弥陀尊像を配し、台座にも三猿を彫出していて、優品に属する。銘を「寛文十二壬子歳十一
月一日 奉造立庚申待供養現当二世安楽所 敬白」とし、主尊の両側には旧隅田村の有力者名
が二十七名も彫られており、多数の村人たちが結集(けっしゅう)し、信心の証しとして造
立したことがわかる。
               墨 田 区
 






        鐘 ヶ 淵 紡 績 発 祥 の 地

住 所 / 墨田5丁目19番他


鐘淵紡績発祥の地
 明治19年(1886)に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の 5軒が集り三越
得右衛門を頭取として 東京綿商店が設立されました。翌年、隅田川河畔鐘ヶ淵の
宏大な土地に、資本金を10倍に増加させて,紡績工場を建設し、 明治22年(1889)に
操業を開始,名称も有限責任鐘淵紡績会社と変更しました。



         





         





         





 

発 祥 碑 由 来 記
此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下命しましたが
成功せず鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます 周辺の風光明媚を賞でて徳川氏は
ここを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と
しました。明治20年近代工業の先覚としてこの地に東京錦商社
が設立せられ、紡績機械二万九千錘を英国より輸入して東洋第一の紡績工場を建設明治二十二年社名を
鐘淵紡績株式会社と改稱しました。爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々
に結実し製品はカネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。この間にあって産業立国の一翼を
担った人々少なからず、また過ぐる関東大震災、東京大空襲当時その耺に殉じて斃れた者は五十余柱に
及びました。いまこゝに時代の進運と共に工場の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像
を奉安し八十余年に亘ってうけたこの地域社会の御かげを感謝すると共に老人の人と児童の憩いの場を
設けて記念庭園とし永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
                                                        昭和四十四年十月二十日
                            鐘ヶ淵紡績株式会社   社中 
  





         





         







鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)発祥の地
                   所在 墨田区墨田五丁目十九番ほか
明治十九年(一八八六)に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の五軒が集まり、三越得右衛門を頭取
として東京綿商店が設立されました。翌年、資本金十倍に増加させ、隅田川河畔鐘ヶ淵の広大な土地に紡績
工場を建設して、明治二二年(一八八九)に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と変更しました。
これが、現在のカネボウ株式会社です。鐘淵紡績は、設立当初こそ経営難に見舞われたものの、他社を吸収
合併する中に、日清戦争を機に大発展を遂げ、世界有数の紡績会社となりました。
平成十三年三月
                       墨田区教育委員会
  






      
綾  瀬  橋
綾瀬川は隅田川が千住大橋を過ぎた辺りで、東から南に
大きく流れを変えますが、そのあたりから隅田川に合流
しています。東京都が管理する墨堤通りに架かる橋で
堤通二丁目12番から千住曙町38番までの長さ61.26m
幅20.5mの長さの橋です、昭和36年に架設されました。
住 所 / 墨田5丁目19



綾 瀬 川について
綾瀬川は総延長47.6kmの一級河川で、 埼玉県桶川市に端を発し、伊奈町、
さいたま市、越谷市、草加市を経て東京都葛飾区で中川に合流した後、海に注いでいます。
この川の周辺は、昭和の中頃から都市化が進み15年連続水質汚濁最下位というレッテルが
はられました。綾瀬川は昭和5年の荒川放水路完成にともない、墨田区と葛飾区に分断され、
葛飾区側は放水路に沿って中川と合流し、墨田区側は隅田川にそそいでいた450mの部分を
残すのみとなり、旧綾瀬川と呼ばれるようになりました。



墨堤通りの終点です
           
橋の右側が旧綾瀬川です。





 

         
 自転車で走る楽しい坂道(右側は旧綾瀬川土手です)





         





         





         






絵本江戸土産10編 綾瀬川 

          
鐘ヶ潭 丹鳥の池 綾瀬川 (江戸名所図会より)
右に(鐘ヶ渕)と(すみだ川)、右上に(丹頂池)左に
(千住川)、中央に(あやせ川)とあります。





 
名所江戸百景 綾瀬川鐘か淵
著者→安藤広重(1代目)
出版年月日→安政4(1857)
対岸(鐘ヶ淵)中程の橋が綾瀬橋で手前
は南千住です。合歓の木が描かれています。

            
  東都名所図会隅田川渡しの図  
著者:広重   出版者:佐野喜











     

隅 田 水 門 周 辺

墨田区墨田5-23
 





 
国 土 交 通 省 荒川下流河川事務所隅田水門管理棟
          






         






東京スカイツリーライン堀切の駅が見えます。  
         
向こうの方に綾瀬橋が見えます。 











         








      



      フクシ・エンタープライズ
墨田フィールド

(墨田区総合運動場)

住 所:墨田区堤通二丁目11番1号
TEL:03-3611-9070 / FAX:03-3611-9073
 





         





         





         





         





         





         





         






      梅若橋コミュニティ会館
区民の方の教養・文化向上を図るための図書室や、
町会活動・サークル活動の場としての地域集会所、
幼児と保護者向き事業や児童の遊び場所としての
児童室が設置されている複合施設です。
所在地: 墨田区堤通2丁目9−1
営業時間: 9:00~
電 話: 03-3616-1101





         





         





         





         






      東京都リハビリテーション病院
リハビリ専門病院として医療の提供のほか、
医療関係者の教育・研修や臨床研究も実施
しています。 
住 所:墨田区堤通2-14-1
  電 話:03-3616-8600(代表)





         





        





         





         






            
東 京 都 管 理 地(ヘリコプター発着予定地)






        東 京 都 立 東 白 鬚 公 園
墨田区の北端、隅田川に沿う南北に細長い公園で、
明治通り沿いと墨堤通り沿いの2カ所に入口の案内がでています。
 
東白髭公園北ゲート(墨堤通り沿い) 東白鬚公園南ゲート(明治通り沿い)
東白鬚公園サービスセンター  電 話/03-3614-4467

住 所 / 墨田区堤通2-2-1



 東白髭公園は江東デルタ地区 防災拠点の指定を受けている白髭東地区内に位置し、災害時用の各種設備が
設置されている 。もし大地震や火災が起きた時には、公園が避難広場となります。
公園は団地と隅田川とに囲まれていて、住宅地の大規模火災時に火の手から守られるように想定されています。
問合せ先:東白鬚公園サービスセンター
   住 所:墨田区堤通2-2-1  電話:03-3614-4467   開所時間 : AM8:30 ~PM5:30
開園年月日:昭和61年6月1日  テニスコート : 全天候型4面   小野球場 : 2面
〇公園のシンボル纏 〇東白髭公園防災樹 〇北 池 〇南 池 等があります
6月に犬のしつけ教室 2月には梅の剪定教室がありました。





     
都 立 東 白 髭 公 園 (北ゲート)

墨堤通り沿いです 
  
  

 





         





 
北ゲート付近




防災拠点の緑の広場
 墨田区の北端、隅田川に沿うように南北に細長い
東白髭公園は、緑とレクリエーションの場です。
 公園の東側には、13階建の高層住宅が並んでいます。
公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、
この区域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点。
もし大地震や火災がおきた時には、公園は避難広場
となります。
開園年月日  昭和61年6月1日
開 園面 積 103,127.60㎡
所 在 地  東京都墨田区堤通2丁目
主 な植 物  シイ、シラカシ、マテバシイ、ケヤキ
       クロガネモチ、ヤブツバキ
施   設  小野野球場兼競技場、テニスコート

 
         Down town green plaza as
disaster shelter

This is a long, narrow Higashi-Shirahige
Park in the northern tip of Sumida River
lying along the river from north to south
and is recreational area with new greenery
High-rise 13-storied residential buildings
are lined up on the Eastern side of the
park. This entire area with the park and
the housing and a specialized rehabilitation
hospital is planned as a base for disaster
prevention in the Koto Delta Region.The
park is to be an open shelter in case of
strong earthquake or big fire.






        都 立 東 白 髭 公 園 (南ゲート)
明治通り沿いです 






         





 
南ゲート付近






東 白 髭 公 園 散 歩 道

         





北  池

         





         





         






梅  若  橋

         





         





         






前方に水神大橋がみえます。 
 

         







         





             





             





         






中央に木母寺が見えます。 
            






         






東白髭公園管理事務所
住 所 / 堤通2-2-1   電 話/ 03-3614-4467 


         





         





             











公 園 の シ ン ボ ル 纏

          











         





         





         





         





 東 白 髭 公 園 防 災 樹

         





 

この公園は、江東再開発基本構想に基づき災害時における避難広場の確保と生活環境の整備を目的として
つくられたものです。樹木には、火災による火の粉や熱風から人を守る働きがあります。このため公園の
樹木も防災力の大きい、常緑広葉樹を中心に枝葉の密なシイノキ、シラカシ、タブノキ、マテバシイ、ツバキ類
などを用いました。この公園は避難した人々を火から守り、火災の延焼を防ぐようつくられたものです。
また、ふだんは緑とレクレーションの広場として広く利用されています。





南   池

         





         





         






梅 若 ま つ り

         





         





         





         

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つぶやきいってみよう

鐘 ヶ 淵 駅  〇 CAFE ぷろーすと   〇つりがね最中 墨田園   〇たい焼き浪花屋
フィボナッチ紳士洋品店

 〇東京スカイツリーのテープカットに使われるなど鋏職人が作る裁ち鋏ハサミ
石宏製作所 



        鐘 ヶ 淵 駅



         P r o s t (乾杯)
CAFE ぷろーすと
食材が30種類以上使われているのには
驚きでした。人々に歓びをというホテルのシェフを
してらしたオーナーの心意気が感じられます。
二期会所属の方のライブが定期的にあります!
住 所:墨田5-44-10  電 話:03-3616-3906
定休日:月・火    時 間:11:30~





         





         





         





            





            






          墨  田  園
つ り が ね 最 中
創業は明治7年。鐘ヶ淵の地名の由来とされる
釣鐘の形をした最中が有名!
創業当初の味を守っておられるそうです!
冷凍最中も結構いけました!
住 所:墨田4-9-17  定 休 日:火曜日
電 話:03-3611-3386  営業時間:9:00~20:00





         





         







         
一個購入して味見をさせて頂きました。
 癒しの一時を頂きました。





         






         
浪 花 屋
創業70年のたい焼き屋 自家製餡一丁焼
おにぎり、いなり寿司、のり巻き 夏場はかき氷があります
たい焼きは9時からです
住 所 : 墨田5-45-101  定 休 日 :月曜日
電 話: 03-3612-5445  営業時間 :6:30~17:00





         






       
石 宏 製 作 所
1970年に先代が創業、医療用のはさみを作成「すみだ
モダン」2011に認証され、2012年スカイツリーオープ
ニングセレモニーのテープカットで使用されました。
見学OKです!
住 所:墨田5-48-10   電 話:03-3614-3292
時 間:8時~20時  営 業:月~土(祝祭日:不定休)





         





         





         





          
 ミズマチのすみずみに展示されています






     
フィボナッチ紳士洋品店
オーセンティックな紳士用品を誂えることが
できるお店です。
住 所:墨田5-4-7  定 休 日:不定休
電 話:03-6874-3505  営業時間:12:00~20:00 





         







フィボナッチ紳士洋品店は、オーセンティックな紳士洋品を誂えることができるお店です。
革靴をはじめ、スーツ・シャツ・ネクタイなどを、お客様と対話しながらトータルでコーディネート
致します。残念なことに、大量生産の安価なモノを使い捨てにする時代です。当店では、修理しながら
永く愛用したくなるモノを提供することを通し、お客様の生活が豊かになるお手伝いをさせて
いただきます。ファッション上級者の方、トラディショナルな装いに興味がある方、体に合った
モノを身に付けたい方など、様々なお客様とお会いできることを楽しみにしております。昭和の
雰囲気が残る下町・鐘ヶ淵で皆様のご来店をお待ちしております。
店主 郷 間 裕

                                                ペ ー ジ ト ッ プ へ






墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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