スカイ姫のつぶやき街角・北西部ルート3
(榎本武揚像入口バス停~シルバープラザ梅若バス停)

    〇葛飾北斎案内板・(〇隅田川関屋の里) 〇東京都の防災拠点である
汐入公園と東白鬚公園とをつなぐ連絡橋として建設された水神大橋
   鐘ヶ淵陸橋 
墨田区立梅若公園   〇北海道の函館五稜郭で新選組の土方歳三と共に官軍と戦った事で有名
な榎本武揚像 〇梅若丸の死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓であると伝えられる東京都
指定旧跡梅若塚
  〇葛飾北斎案内板・(〇梅若の秋月  〇雪月花)   〇能「隅田川」の梅若山王権現の舞台
であることから梅若寺と古称する木母寺

〇治承4年源頼朝挙兵の折に水神の霊験を感じて社殿を造営したと伝えられ隅田川神社
したと伝わる隅田宿跡
  〇東京都下水道局隅田ポンプ所  〇墨田区立桜堤中学校
日活向島映画撮影所があった近代映画スタジオ発祥の地  〇橋名が白鬚神社に因む白 鬚 橋
  〇古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていた鎌倉街道
下の道説明版

〇岩瀬忠震が所有した画巻の作者、魯岐雲(ろぎうん)の名にちなんで岐雲園(ぎうんえん)と
名づけられた跡  〇スポーツプラザ梅若
 

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葛 飾 北 斎
Thirty-six Views of Mount Fuji:
Sumida-gawa Sekiya no Sato
隅 田 川 関 屋 の 里 ━富 嶽 三 十 六 景 ━
住 所 / 堤通2-7
 





      





        


隅田川関屋の里 ━富嶽三十六景━

葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、
千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸
びる土手と存在感ある松、朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な
作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保2(1831)年頃の作品です。

A print from the representative Thirty- six Views of Mount Fuji series created by Katsushika Hokusai when he was
about 72 years old. This scene depicts the area around Senju Akebono-cho and Senju Sekiya-cho in Adachi-ku as seen
from the current 2-Chome Tsutsumi-dori, Sumida-ku. Apart from an official bulletin board, no houses can be seem
amid the grasslands and paddy fields, and the impressve pine tree on the bank stretching from the foreground into the
distance and the sight of Mt. Fuji bathed in the sunrise produce a very impressive piece of workoverflowing with three
horseback riders racing through the peaceful early morning scene. The samurai warriors, the horses and the harnesses
are all depicted in bright colors. This print wascreated around 1831






絵本江戸土産第8編 関 屋 の 里






       水 神 大 橋
東京都の防災拠点である汐入公園と東白鬚公園とをつなぐ
連絡橋として建設された橋で、当初は歩行者専用橋でした
が、平成8年(1996年)自動車道路共用となりました。
橋の名称は、東岸東白鬚公園の近くにある隅田川神社
(水神宮)にちなんでいます
西岸は荒川区南千住八丁目、東岸は墨田区堤通二丁目。
東京都道461号線が通る 






 防災団地のビルの下の先に水神大橋があります
 
         

真ん中が梅若橋、右側は梅若橋コミュニティーセンター 





         





         





         






           

 鐘 ヶ 淵 陸 橋
堤通2丁目 都道461号線
交差点を挟んで、一方に「鐘ヶ淵」の地名の
由来に関する図や「歌川広重」が「名所江戸
百景」で描いた「木母寺内川御前栽畑」の
レリーフがあります。





         





         







左側のレリーフは「鐘ヶ淵」の地名の由来に関する図で、右側は歌川広重が「江戸名所百景」
で描いた「木母寺内川御前畑」のレリーフです。
上部のレリーフ文面
これは広重の「木母寺内川御前栽畑」(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍
の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を船で出入りすること
ができました。
下側のレリーフ文面
鐘ヶ淵の由来には隅田川がこのあたりで直角に曲がり、それが工匠の使う曲尺(短尺)ににている
ところから、又、寺院の移転の際に梵鐘(ぼんしょう)が川に落ちたところからの二説が伝えられ
ています。
 






       

墨 田 区 立 梅 若 公 園
歴史にゆかりのある公園であり、榎本武揚像
や梅若塚跡があることから、平成28年度に歴
史文化公園整備事業により整備されました。
住 所 / 堤通2-6-10号  





         





         





               





         





榎 本 武 揚
榎本武揚は江戸下谷御徒町の直参旗本の家に生まれる。北海道の函館五稜郭で新選組の
土方歳三と共に官軍と戦った事で有名。明治30年、農商務大臣を務めていた時、足尾銅山
鉱毒事件をめぐる責任を取って辞任。明治38年から73歳で亡くなるまでの3年間を向島の
別荘で暮らしました。隅田川沿いを馬で散歩する姿がたびたび見られたそうです。



         

墨田区登録有形文化財
 銅像榎本武揚像

     所在地 墨田区堤通二丁目六番十号
            墨田区立梅若公園内
 本像は、榎本武揚(えのもとたけあき)没後の大正二年(一九一三)五月に建立され
ました。銅製で、像高は約三メートルあり、南を向き、大礼服姿
で荘重な趣(おもむき)を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細
かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(一八三六~一九〇八)は、戊辰戦争
(ぼしんせんそう)終盤の箱館戦争(はこだてせんそう)
で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は
明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任し
ました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が
見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝
など政財界を代表する人物等が協力しました
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は、平成十二年十二月七日に墨田区登録文化財に登録
されました。
 平成二十九年三月
              墨田区教育委員会

The Bronze Statue of Enomoto Takeaki
This Statue was erected in May 1913 after the death of Enomoto Takeaki. The statue,made of
bronze with about 3 meters in height, is facing south and showing solemn appearance with full
dress uniform. The sculpturing is excellent in outline description with fine texture of clothing and
expression of his face.
Enomoto Takeaki (1836-1908) is prominent as one of the former retainers of shogunate, who
fought against Meiji New Govermment Army at the Hakodate War. Which was the last stage of the
Boshin War.
People representing political and business worlds, such as Okuma Shigenobu, Okura Kihachiro
Shibusawa Eiichi and Masuda Takashi, cooperated in Building the statue. The sculptors of original
mold are Fujita Bunzo and Tanaka Chikamitsu, and the caster is Hiratsuka Komajiro.





           

墨田区登録有形文化財
銅 像 榎 本 武 揚 像

「榎 本 武 揚」
榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌(しょう)平(へい)坂学問所 昌平黌
(しょうへいこう))で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オ
ランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国
しました。武揚帰国後の日本は「大政(たいせい)奉還(ほうかん)」「王政復古(おうせいふっこ)」と
いう体制変換を迎え、武揚は戊辰(ぼしん)戦争の最後の戦いとなった箱館(はこだて)戦争では、五
稜郭(ごりょうかく)を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。その後、武揚は
投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍
中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。明治18年(1885)伊
藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農
省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設した
ほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き
受けました。晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。
明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で
草花を愛でる姿が見られたそうです。

Sumida ward Registered Tangible Cultural Property.
Statue of Enomoto Takeaki
Enomoto Takeaki was born in 1836 to a retainer of the shougun.
In the Boshin Civil War (1868~1869), Enomoto led the forces of the former shogunate and
occupied the Goryokaku star fortress in Hakodat
e, Hokkaido. Al though imprisoned after losing
the Battle of Hakodate,his talents were recognized by the new Meiji government, who pardoned
him
and appointed him to a government post. In addition to negotiating the Treaty of Saint
Petersburg (1875) as a special envoy to Russia, Enomoto went on to serve as Minister of
Communications, Minister of Education, Foreign Minister And Minister of Agriculture and
Commerce at various times throughout his career. He was also given the rank of viscount.He died
on October 26, 1908, at the age of 73. According to historical accounts, he was often seen riding his
horse along the banks of the Sumida River and admiring the flowers of Mukojima- Hyakkaen garden


「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。建立は
大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点
建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。本像の原型作者は田中親光、
藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、
大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。原型作者のひとりである
藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光(むつむねみつ)銅像
(外務省)や井伊直弼(いいなおすけ)銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)狩野芳崖(かのうほうがい)
胸像(東京国立博物館)などが知られています。






梅  若  塚  跡
現在の塚は木母寺境内にあります梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で謡曲「隅田川」で知られます
住 所 / 堤通2-6-10号  (区立梅若公園内)


      


東 京 都 指 定 旧 跡
梅  若  塚
所在地  墨田区堤通二の六
         区立梅若公園
標 識  大正九年三月
指 定  昭和三〇年三月二八日

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房
の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとり
で死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は
忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰
を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています
平成二十四年三月 建設
東京都教育委員会

Historic Places
Umewakazuka (The Mound of Umwaka)
Landmarked in 1920, Designated in 1955

Umewakazuka is said to be a grave of Umewakamaru,who is known for a Noh song“Sumida
River”concerns to his legend.According to this legend,Umewakamaru was an orphan of yoshida
Shosho KorefusaStudying in Mount Hiei、he was kidnapped by a slave-dealer Shinobuno Tota.
On the way Tota took him to Oshu (present Tohoku region ), Umewakamaru got sick and died
On the bank of Sumida River.A high monk of Tendai Sect, Chuen, felt a pity for his Death and
buried him in a mound. This is said to be the mound of Umewaka. Mokuboji Temple is originated
from Sumidain Umewakadera Temple which wasbuilt beside the mound made by Chuen. Mokuboji
Temple and the mound had beenlocated around here, but were both moved to the current place due
to the constructionof the disaster prevention facilities.
                          Tokyo Metropolitan Board of Education
 





        

梅 若 塚
梅若塚は謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると
伝えられます。梅若丸は京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃国野上の長者の、一人娘「花御せん」
の子で、父の死後7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸
という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人「人買い」信夫の藤太にかどわかされて
しまいます。奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を
隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく
「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露ときえぬと」という辞世の
句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ
出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが
梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。

Umewakazuka
(The Mound of umewaka)
Umewakazuka is said to be the grave of Umewakamaru, a legendary figure known from the Noh
song “Sumidagawa” (Sumida River).Acording to legend, Umewakamaru was the child of Yoshida
Shosho Korefusa of Kitashirakawa in Kyoto. While training at Mount Hiei, he was kidnapped by
a slaver named, Shinobuno Tota,who tried to take him to Oshu (in modern Iwate Prefecture in
northern Japan).Along the way, Umewakamaru became very ill and died on the banks of the
Sumida River. Saddened by this death, high monk Chune of the Tendai school of Buddhism built
this grave, Umewakazuka.


梅若塚と木母寺」
木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。
その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。木母寺は当該地周辺にありましたが、
白鬚東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。

「梅若塚と妙亀塚」
妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た
母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は
底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近)
にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場)内にあります。

「梅若権現御縁起」
「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起」附漆箱二匣(墨田区指定有形文化財)
があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が
所蔵する寺社縁起巻物です。原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土文化資料館で複製を所蔵
しており、展示されています。

「隅田川物」
謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若
伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで
さまざまな作品が生まれました。
 





        

明治期の木母寺境内
江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり
神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を
失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年
(1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興
されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。「木母寺境内
之図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面
の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心と
した木母寺境内が描かれた一枚です


Mokuboj Temple Grounds in the Meiji Period
The Umewaka-do is a shrine to Umewakamaru that is today located at Mokuboji, a Buddhist
temple, Mokubojiwas originally shut down in the Meiji period due to the anti-Buddhist movement
associated with the Meiji government’s official separation of Buddhism and Shintoism In 1889,
Mokuboji Templewas restored and the Umewaka-do was built within it. Miraculously, these
buildings avoided destruction by air raids in the Second world war. The painting “Mokuboji
Temple Grounds” is a precious work of art that depicts Mokuboji Temple in the meiji Period
when the Umewaka-do was constructed there. Umewaka-do is placed in the center of the picuture,
with the main Mokuboji temple building to the right and a traditional Japanese restaurant
(ryotei) to the left. Although this is a picuture of the Mokuboji temple grounds, what is located in
the cnter is not the main temple building but Umewaka-do. From this, it is well understood that.
Umewaka-do truly makes Mokuboji what it is.








     



      
葛 飾 北 斎
Eight Views of the Elegant Sumida-gawa
no Akizuki
(Full moon of Umewaka)
梅 若 の 秋 月 ━風流隅田川八景━ 
住 所 / 堤通2-16




      





         

梅若の秋月 ━ 風 流 隅 田 川 八 景 ━

「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」の辞世の句
で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病
に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨った
と伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中で仲睦まじく舟遊びを
している姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。 

One of the Eight Views of the Elegant Sumida-gawa series.The theme of this print is the Legend ofUmewaka handed
down from ancient times by the famous Mokuboji Temple as a deathbed poem that goes, “Oh black-hooded gull, if my
mother visits and asks,tell her that Ihave become one, with the dew that lies at the source of the Sumida River.” Fooled
into being brought from Kyoto,Umewaka Maru became sick and died at the Sumida lnn at the tender age of just twelve
years old. His mother, Hanagozen, was so stricken with grief that she went insane, and it is said that she roamed around
searching for her lost son. The print shows the two who were unableto meet in life happily enjoying a boat ride as the
Heian Period turns into the Edo Period.The print was created between 1804 and 1818.






      

葛 飾 北 斎
Setsugetsuka(snow,moon and flowers)
Sumida
雪 月 花 隅 田  

住 所 / 堤通2-17




      





      

雪 月 花 隅 田

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺
と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の
名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁
を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の
都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です

This print depicts the snow-covered banks of the Sumida River, and it isone of the three famous scenes selected
alongside Tsuki-no-Yodogawa and Hana-no-Yoshino. The MokubojiTemple and the restaurant Uehan can be seen
in the forest in the center of the print, and thick snow covers the Sumidagawa Shrine, which was known as the Water
Shrine,in the forefront. This print is said to be the most famous of all snow scenes from that period. The faint
azure color at the top and bottom of the print leave the impression that the scene is depicting early morning. just
as the dawn is breaking, and it portraysa silent and faintly nostalgic scene. It also includes fishermen casting, their
net and two people walking through the snow in the silence of the winter morning, and a bird that appears to be a
black-hooded gull adds an accent to the bottom left-hand corner of the print. It was created around 1830.






       梅 柳 山 隅田院  木 母 寺
976年(貞元元年)の開山という古刹。謡曲、浄瑠璃、
長唄などでうたわれた梅若伝説発祥の地。現在の
木母寺は芸道上達の寺としても知られています。
毎年415日には梅若忌大念仏法要 謡曲「隅田川」

住 所 / 堤通2-16-1   電 話 / 03-3612-5880





         





         





         





         





         





 

境 内 の 諸 碑

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など、30墓の石碑があり、著名なものとしては
次の諸碑があります。
♦華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。
♦天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八
(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。
♦三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です
♦題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り
迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年清水孝の書です。文政十二年建立。」
                 (平成8年3月 墨田区教育委員会。
 





         





          




        

天 下 之 糸 平 の 碑
幕末から明治にかけて活躍した実業家、田中平八の石碑です。平八は
横浜で生糸売込と洋銀売買で巨利を得て、「天下の糸平」と呼ばれました。
 表面の文字を揮毫した伊藤博文は平八と親交があり、わが国初代の総理
大臣です。碑の裏面には平八の生涯と平八と交友があった渋沢栄一など
明治の政財界の知名人の名が列ねてあります。これらの人々は木母寺の
明治再興(明治二十二年)に協力され、その縁で二年後に建碑されました。
 高さ5.2メートル、幅3メートル、重量80トンある都内第一の石碑です。





 

木 母 寺 由 緒 沿 革
宗旨 天台宗  山号梅柳山  本尊 慈恵大師(別名 元三大師) 総本山 比叡山延暦寺
 当寺は平安時代中期の貞元元年(九七六)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建
てた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
 文治五年(一一八九)鎌倉時代、源頼朝が奥州遠征の途中に参拝し、長禄三年(一四五九)室町
時代、太田道灌が訪れ、梅若塚を改修したと伝えられています。
 天正十八年(一五九〇)安土桃山時代、徳川家康が参拝し、梅若丸と塚に植えられた柳に
ちなみ「梅柳山」の山号が与えられます。
 慶長一二年(一六〇七)江戸時代に前関白・近衛信尹が訪れ、柳の枝を筆代わりに「梅」の
異字体「梅」を「木」と「母」とに分け書して以来、木母寺と改名されました。
 寛永年間、三代将軍・徳川家光の時代には境内に「隅田川御殿」が建てられ代々の将軍が
鷹狩りや隅田川遊覧の休息所として利用され、さらに将軍家に献上するための御前栽畑が
作られました。明治元年(一八六八)神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け梅若神社となり
ましたが、明治二十二年(一八八九)に寺院への復帰を果たします。昭和二十年(一九四五)に
米軍の空襲を受けて本堂を焼失し、戦後に復興をとげますが、昭和五十一年(一九七六)都市
再開発法に基づく東京防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転します。

梅 若 塚
 境内にある梅若塚は能・歌舞伎・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。
当寺
現存する寺宝絵巻物「梅若権現御縁起」(上中下の三巻から成り、高崎城主・安藤対馬守重治が
延宝七年(一六七九)に寄進。墨田区登録文化財)には梅若塚の由来が描かれています。

梅 若 権 現 御 縁 起
 平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という
夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって
梅若丸という男の子を授かることができたのです梅若丸が五歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸
は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と称賛を受けるほど
賢い子供でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸と、どちらが賢い
かと稚児くらべにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよったのち、
大津の浜へと逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へと向かいます。旅の途中、
病にかかってしまった梅若丸は貞元元年の三月十五日、隅田川の湖畔で
   尋ね来て 問はば応へよ 都鳥
         隅田河原の 露と消へぬと
と句を残し十二歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りかかった天台宗の僧である
忠円阿闍梨は里人と塚を築き柳を植え弔いました。梅若丸が亡くなったあくる年、母は失踪した
息子を探し狂女となって東国へと向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り渡し守
より梅若丸の死を
聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが梅若丸の姿はすぐに消えて
しまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり、
鏡ゲ池に身をなげてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かびあがりました。
忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて母を妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ
変わったとのことです。

隅 田 川 物 
 謡曲「隅田川」は世阿弥の息子、観世十郎元雅によって作曲されました。梅若丸と狂女となった
母親の悲話として伝わる梅若丸物語は室町時代より「隅田川物」として能楽をはじめ浄瑠璃、
歌舞伎、舞踊、謡曲などの演目として盛んに上演されてきました。
 この「隅田川物」を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の
芸道の上達を祈念して「木母寺詣り」を行なったことから、芸道上達の祈願寺として大衆の
信仰を集めています。
 





 






   ━━ 木 母 寺 の 変 遷 ━━
江戸時代、当寺では梅若忌(梅若丸を供養する大念仏の行事)や開帳がおこなわれ、多くの参拝者を集めていました。また、幕府から寺領二十五石を与えられ歴代将軍・将軍世子・公家・大名・文人など当代の貴顕とともに、一般庶民も多く訪れる隅田川遊覧の代表的な名所でした。時代が江戸時代から明治時代にかわると、廃仏毀釈により明治元年(1868)に廃寺し、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創建されました。徳川家の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、多くの地域住民と政財界の有力者および文化人たちの支援を受け、明治二十二年(1889) に寺院への復帰を果たします。神社を再び仏寺にすることは、当寺としては非常に困難な事業であり当寺では、これを明治中興と称しています。その後も、昭和二十年(1945)四月十三日に米軍の空襲を受けて本堂・庫裏を焼失、さらに同月十五日に爆撃を受
け、梅若堂や境内の石碑が大きな被害を被りました。昭和二十五年(1950)に仮本堂を建立し、二十七年(1952)に梅若忌が再開され今日に至ります。

木母寺境内之図 『新撰東京名所図会・隅田堤』
   山本松谷画  木母寺蔵
木母寺境内之図は明治三十一年(1898)、梅若塚の再興から二十年を経た風景です。春昼、俄か雨の中、傘をすぼめて足早に行く婦人を近景として絵の中央に梅若堂、右手に本堂、左奥に料亭、植半が描かれています。この絵の中の世界は昭和二十年四月の戦災をもって過去のものとなりました。そして、両中御堂(梅若堂)だけが、身に多くの爆弾弾片の傷跡を残しながら、時の証人として生き続けています。





木 母 寺 の 絵 葉 書より

     
    



    







藤太、病の梅若丸うぃ捨てるの図 
(「梅若権現御縁起」 中・第2図 ) 
     
塚前の村人供養の図 
(「梅若権現御縁起」 中・第2図 )  
     
悲母渡河の図 
(「梅若権現御縁起」 下・第2図 )
 





塚前対面の図
(「梅若権現御縁起」下・第3図 )
 
     
物狂いの図  
(「梅若権現御縁起」 下・第1図
 
     
 妙亀塚由来の図
(「梅若権現御縁起」 下・第四巻)





「梅若丸は、山王権現とあらはれさせし給ふ、本地七社の御内、
王子宮は文殊菩薩にておはしましけるか、かりに此世に出生
し給ひて、衆生を利益し給ふそ、かへすかへすもありかたき」
(「梅若権現御縁起」下の詞書)
           
下絵のある美しい料紙に能筆で書かれた詩書 
(「梅若権現御縁起」)





東名所墨田川梅若之古事
著者:大蘇芳年  出版者:秋山武右衛門  収載資料名:[武者无類外ニ三枚続キ画帖]

                         






江戸名所図会 7巻. [19]  著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか
  出版年月日:天保5-7 [1834-1836]
 
           
木母寺梅若の由来 著者/広重
出版者/若狭屋  収載資料名/東都旧跡尽





 
絵本江戸土産10編 木母寺 梅若塚

          
木母寺  著者:豊国,国久
出版者:湊小  出版年月日:安政4
収載資料名:江戸名所百人美女
 






〔江戸高名会亭尽〕 木母寺雪見 収載資料名:広重画帖
3代将軍徳川家光の頃に木母寺境内で参拝客を相手に
掛茶屋を開いたのが始まり。植半とも呼ばれる。

           
絵本江戸土産 10編
著者→松亭金水 解説[他]  出版者→菊屋三郎[ほか]






木母寺 真崎の神燈 
          
天 下 の 糸 平 






名所江戸百景 第92景 
木母寺内川御前栽畑
(もくぼじうちかわおんせんざいばたけ)
内川と呼ばれる水路で隅田川と
つながっていた。  
  
        木母寺から御前栽畑(おんせんざいばたけ)を望んだ絵
です。当時の木母寺周辺は内川(入江)になっていて、
浅草寺を参詣した後に舟に乗って隅田川を遡り、梅若塚
を訪ねるのが人気のコースだったそうです。
木母寺は、3代・家光(いえみつ)の時代に境内に
鷹狩りの宿泊所となる「隅田川御殿」が建つていました。
5代・綱吉(つなよし)の時代に「生類憐みの令」で鷹狩
が禁止になり、御殿は無くなりましたが、8代・吉宗に
なると鷹狩りが復活した為、この付近で休憩することも
あったそうです。 奥の橋は幕府の御前栽(野菜)畑に
通じていました。御前栽畑では将軍家台所用の野菜類を
作り、桜・桃・松・つつじ等の草木も沢山植わっていて、
狩りとは別に将軍が立ち寄られ、その際向島百花園にも
足をのばされていたようです。
 






         隅 田 川 神 社 (水神社)
水神社とも呼ばれ、亀に乗った水神が浮州に上陸し隅田川
総鎮守の神となっ たとされています。左右に亀が鎮座して
います。水神社は小高い土地に建っていた為に、隅田川の
水が増水しても沈むことがなかったところから、「浮島」
とも呼ばれていた。水神の森の通称を持つ。
住 所 / 堤通2-17-1  電 話/03-3611-3089  
例祭日/6月15日  






 墨堤通りに面して一之鳥居が建っています。
           





         





          





              





              





 
3の鳥居が見えます。
             





         





            





         





 
名所江戸百景 隅田川水神の森真崎
絵 師:広 重

出版者→魚栄 出版年月日→安政3
             
名所江戸百景  著者:広重
真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図
 出版者:魚栄  出版年月日 安政4






東都名所図会 隅田川渡しの図    著者:広重   出版者:佐野喜
 隅田川西岸には真崎稲荷、石浜神明宮、橋が描かれています。
 隅田川東岸には水神、御前栽畑、丹頂の池、梅若塚、木母寺、墨田堤が描かれています。


上図を拡大しました。

丹頂池が描かれています。ここはかつて幕府の命により丹頂鶴を放し飼いに
していましたが池が次第に浅くなり明治21年に埋め立てられたそうです。






江戸名所図会 7巻. [19]  木母寺 梅若塚 水神宮 若宮八幡[其一](挿絵)
手前が水神様 真中が木母寺
   出版年月日:天保5-7 [1834-1836]
著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]  出版者:須原屋茂兵衛[ほか]





東都名所 隅田川全図雪中景  絵師:一立斎広重  出版者:蔦屋吉蔵
収載資料名:広重東都名所   (右下に木母寺と書かれています)







江戸名所図会 7巻. [17]   著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836] 
 
        
絵本江戸土産 10編 水神の森 真崎の社
. 著者:松亭金水 解説[他]  出版者:菊屋三郎ほか






      
隅  田  宿  跡
平安時代末期より、 古東海道の渡河地であり
旅人が利用する宿として栄えましたが、
江戸時代に姿を消した宿場町でした。
1180年に源頼朝 が布陣した宿としても伝わって
います。 





         





         





 

(すみ) 田(だ) 宿(しゅく) 跡
       現在地 墨田区堤通二丁目二番 都立東白鬚公園
 
当地は古東海道の渡河(とか)地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
隅田宿は、治承(じしょう)四年(一一八〇)に源頼朝が布陣したと伝わる宿(しゅく)で(『吾妻(あづま)
鏡(かがみ)』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南
北朝時代までには人と物が集まる都市的な場所が形成されたようで歌人藤原光(ふじわらみつ)俊(とし)
が詠んだという一三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています
(『夫(ふ)木(ぼく)和歌抄(わかしょう)』)。また、室町時代成立の『義経記(ぎけいき)』には「墨田の
渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であたらしいこともうかがえます。
対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについ
ては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によ
れば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお人買いにさらわれた梅(うめ)若(わか)丸
(まる)とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業(ざいごう)深い老母と娘の悲劇を伝えた石(いし)
枕(まくら)の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に
成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
平成二五年三月
   墨田区教育委員会






       東京都下水道局 隅田ポンプ所

住 所 / 墨田区堤通2丁目18−1





         






隅田川神社が見えます。 
            





         






       墨田区立桜 堤 中 学 校
旧「向島中学校」と旧「鐘淵中学校」が平成25年4月1日
に統合し、新校として開校しました。「東白鬚公園」に隣接し、
区内で最も広い土のグラウンドを有し、防災や環境に配慮した
耐震設計の優れた施設となっています。
住 所 : 墨田区堤通2丁目19-1   電 話 : 03-3616-5630





         





         






       近 代 映 画 ス タ ジ オ 発 祥 の 地
スタジオでは、大正初期のヒット作品「カチューシャ」
をはじめ、760本にも及ぶ映画が制作され、「向島作品」
として一世を風靡(ふうび)しました。幻想文学作家・
夢野久作(ゆめのきゅうさく)の父である杉山茂丸
(すぎやま しげまる)氏の別荘だった所だそうです。
住 所 / 堤通2-19-1  





         





        




近代映画スタジオ発祥の地

明治34年(1901年)フランスからシネマトグラフが輸入され、日本で映画の興行や製作が始まりました。
ところが外国映画の質の高さに刺激され、本格的な劇映画の発展を目指そうと、明治44年(1911年)に
エム・パテー商会、梅屋庄吉の提案で、吉沢商店 河浦謙一、横田商会 横田永之介、福宝堂 田畑
健造など4社の合同で日本活動写真フィルム株式会社(日活)が設立され、大正2年(1913年)10月ここ隅田
川畔の杉山茂丸氏の別荘地7500֥㎡に、向島撮影所が開設されました。川岸に広さ約900㎡の、天候に
左右されずに撮影ができる、東洋一のグラスステージが建てられて、日本映画の質を飛躍的に向上
させることができました。初期の作品であるカチューシャは大ヒットし「向島作品」の名を高めました。
当時は女性の役は女形によって演じられ、カチューシャを演じた立花貞二郎や、後に監督になった
衣笠貞之助も女形でした。やがて女優が採用され、酒井米子が向島撮影所最初の女優となりました。
ここは本格的な日本劇映画の発祥の地です。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、惜しくも
向島撮影所は閉鎖されました。この間、およそ760本の作品が作られました。

設立  日本映画建碑委員会
      1998年11月
協賛  墨田区教育委員会
             社団法人  日本映画テレビ技術協会
    日本大学芸術学部
  日活株式会社
             株式会社 フジワラプロダクションズ






     
白 鬚 橋
隅田川に初めて橋が架けられた場所で、橋の名は、
墨田区側たもとにある白鬚神社に由来しています。
住 所 / 墨田区堤通2丁目





         





         





         





         





橋 場 の 渡 し
白鬚の渡しとも呼ばれ、現在の白鬚橋付近にありました。記録に残る隅田川の渡しとしては最も古く、
橋場の渡しの辺りは、明治の中頃までは鬱蒼とした樹木が茂る、閑静で長閑な田園地帯であったそうです。
橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な
料亭も多く、明治期には明治の政府高官三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にありました。
橋場の渡しは、奥州街道と水戸街道が隅田川を渡る位置にありましたので、江戸と東北地方を結ぶ重要な渡河
地点でした。東北へ往来する必要から徳川幕府は千住に大橋を架けますと、橋場の渡しは、街道の渡し場として
の役割は終わりましたが、大正時代に白髭橋が架けられる迄ありました。





 
橋場雪中 
著者:豊国,広重
出版者:平のや
出版年月日:元治1
収載資料名:江戸自慢三十六興
         
名所江戸百景
墨田河橋場の渡かわら竈
絵師:広重
出版者:魚栄
刊行年:安政4
収載資料名:江戸百景
       
隅田川八景橋場暮雪
絵師:広重
出版者:平の屋
刊行年:文久1


 













江戸高名会亭尽
隅田川橋場渡之図
絵師:広重



         
東京十二題 雪の白ひげ
所蔵館→江戸東京博物館   種別→近代木版
作者(文書は差出人)→川瀬巴水/画
発行所(文書は宛先)→渡邊庄三郎/版
年代→大正期 大正9年冬 1920 20世紀







      



     

鎌倉街道下の道説明版

鎌倉時代(1185-1333年)、幕府があった鎌倉と各地方を
結ぶ道を「鎌倉街道」といい、すみだを通っていた鎌倉と
下総を結ぶのは「鎌倉街道下ノ道」といわれ、源頼朝が常陸
国の佐竹氏討伐や奥州征伐に使用したといわれています。





         





         





         





 

下 の 道

承和2年(835) の太政官符に「武蔵国下総両国堺、住田河四艘・・」の記載がみられます。住田渡し
(隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、大正3年(1914)の架橋頃まで、永々と続く隅田渡がありました。
古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。この墨堤堤
を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。源頼朝が
敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐にも使用された道とも考えられます (吾妻鏡)。さらに
時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも
貴重な道すじです。
   平成12年3月
                       監修  墨田区教育委員会
                        施主  東京都住宅供給公社











    
            鎌倉街道ルート

上道 (かみつみち)
高崎→山名→奈良梨→笛吹峠→入間→
所沢→府中→本町田→瀬谷→化粧坂→鎌倉

中道 (なかつみち)
古河→栗橋→岩槻→鳩ヶ谷→板橋→
世田谷→荏田→鶴ヶ峰→上永谷→鎌倉

下道 (しもつみち)
松戸→堀切→浅草→大手町→丸子→
綱島→菊名→帷子→金沢→六浦→
朝比奈→鎌倉






       
岐 雲 園 跡
岐雲園の名前の由来は江戸時代後期の幕臣岩瀬忠震
(ただなり)が、自分の所有する画巻の筆者、
明の魯岐雲にちなんで名付けたそうです。
所在 / 墨田区墨田1丁目4番





         





         





          
岩瀬忠震筆 絹本着色 「藤に芍薬」
  (設楽原歴史資料館所蔵)
岩瀬が岐雲園で描いたと伝わります。 

岐 雲 園 跡  岩瀬忠震居住の地
      所在地 墨田区墨田一丁目4番
 この付近には、幕末の幕臣、岩瀬(いわせ)忠震(ただのり)(1818~1861)の別邸がありました。
その別邸は、忠震が所有した画巻の作者、魯岐雲(ろぎうん)の名にちなんで岐雲園(ぎうんえん)と
呼ばれました。広さ約500坪の敷地の中に、河水を引いた汐(しお)入式の庭園があったようです。
 忠震は、旗本設楽(したら)貞(さだ)丈(とも)の三男で、37歳のとき旗本岩瀬忠正の娘(むすめ)婿
(むこ)となり、同家の家督を継ぎました。昌(しょう)平坂(へいざか)学問所(がくもんじょ)の教授を
務め、その俊才ぶりが老中阿(あ)部(べ)正弘(まさひろ)の目にとまり、登用されて外国(がいこく)
奉行(ぶぎょう)にまで出世しました。全権(ぜんけん)の一人としてロシアやアメリカとの条約締結
にかかわったことで有名です。岩瀬と交渉したアメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスは、
「岩瀬の諸全権(しょぜんけん)は綿密に逐条(ちくじょう)の是非を論究して余(よ)を閉口せしめる
ことありき」と回想しています。しかし、忠震は将軍継嗣(けいし)問題で対立した大老井伊(いい)
直(なお)弼(すけ)から蟄居(ちっきょ)を命じられ、その後は岐雲園で書画にふける生活を送り、文久
元年 (1861) 7月に43年の生涯を閉じました。
 なお、東向島の白鬚神社には、友人の永井尚志(ながいなおゆき)が撰文した「岩瀬鴎書君之
(いわせおうしょくんの)墓碑(ぼひ)」 があります。(鴎書は忠震の号)。岐雲園には後にこの
永井が暮らし、忠震を偲びました。また、永井の後には幸田露伴(作家)や、露伴の兄成常
(相模紡績社長)も居住しました。
   令和3年3月    墨田区教育委員会






      ス ポ ー ツ プ ラ ザ 梅 若
●開館時間/
 月〜土 9:00〜22:00 日・祝 9:00〜21:00
●休場日/第3火曜日・12/29〜1/3
 ・機械点検日等
 ※休日に当たる場合は直後の平日
住 所 / 墨田1-4-4 電 話 / 03-5630-8880
 





         





         

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つぶやきいってみよう

      〇尾  張  屋  〇バー トラットリア Tomtom   〇ヴァチナーラ (VACCINERA)
〇トムトムベーカリー



        



      
Tontom Bakery (トムトムベーカリー)東向島店
住 所:東向島5-3-7(11F)  電 話:03-3610-1651
定 休 日:なし  時 間 / 8:00~20:00  





         





         





         






      
バー トラットリア Tomtom

イタリアンレストラン。ランチはいつも満員です!
ランチやカフェタイム、ディナーと一日を通して
利用可能です。最大50名まで収容可能だそうです。
住 所:東向島5-3-7(2F)  電 話:03-3610-0430
定 休 日:不 定 休  





              






        


 おそば 尾  張  屋
親子三代のおそば屋さん
ボリュウムに驚きました! いつも千客万来です。
住 所:東向島5-3-8  定 休 日:木曜日
電 話:03-3619-2055  営業時間:11:30~15:00
                 17:30~21:00





         





         





           

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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