つぶやき街角北西部ルート④
森鴎外住居跡~とうきょうスカイツリー駅
( スカイ姫のつぶやき19 )

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森 鴎 外 住 居 跡  
もりおうがいじゅうきょあと
      すみだ女性センター  
すみだじょせいせんたー
       とうきょうスカイツリー駅
とうきょうすかいつりーえき 






        森 鴎 外 住 居 跡




     牛 嶋 学 校 跡
堀辰雄・佐多稲子ら多くの著名人を輩出しました。
また榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額
(墨田区登録文化財) が戦災をまぬかれ、現在、
すみだ郷土文化資料館に保存されています。
住 所 / 向島3-30-30(本所高等学校内)





          





          

牛 嶋 学 校 跡
   所在 墨田区向島三丁目三0番二0号
          (都立本所高等学校内)

明治五年 (一八七二) 学制が発布され、近代的教育制度が始まったわずか六カ月後の
同六年 (一八七三) 三月二二日、須崎村 (現在の向島二丁目) に公立小学校が設立されました。それが牛嶋学校です。明治十四年 (一八八一) 九月に現在地に移転しました。牛嶋学校は、周辺の人々の教育に対する関心の高さから、公立小学校としては本区で最も早く設立されました。当時、牛嶋学校への寄付者は、須崎村にとどまらず、中ノ郷・小梅村など、現在の向島全域にも及びました。昭和十六年 (一九四一) 、牛島国民学校となりましたが同二〇年 (一九四五) 三月一〇日の大空襲によって全焼しました。戦後廃校が決まり同二一年 (一九四六) 、七三年間の歴史を閉じましたが、この間に堀辰雄・佐多稲子ら多くの著名人を輩出しました。また榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額 (墨田区登録文化財) が戦災をまぬかれ、現在、すみだ郷土文化資料館に保存されています。そして、昭和二一年四月、廃校となった牛島国民学校跡に東京都立本所高等女学校が転入開校し、二三年四月に新制本所高等学校となりました。
平成一二年三月
                墨田区教育委員会






     
森 鴎 外 住 居 跡
森鴎外の少年期の屋敷跡
日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医
(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)・医学博士・
文学博士・本名は森 林太郎(もり りんたろう)
住 所 / 向島3-37-25






          





        


森 鴎 外 住 居 跡
所在地 向島3丁目37番・38番
文久2年(1862)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治5年(1872)10歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村87番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族と共に3年後には小梅村237番にあった300坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺の家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は萱松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治12ねんまで暮らしました。父の意志で学業に専念する道をつけられた鷗外は、上京2か月後には西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治9年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通り家には毎週帰り、時おり向島の依田学海邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鷗外の代表作『渋江抽斎』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。 また、明治10年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鷗外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。
                     平成26年2月
                           墨田区教育委員会

The Site of the Former Residence of Mori Ogai

Mori Ogai (born as Mori Rintaro) was one of modern japan's preeminent novelists who also served as a medical officer in the Imperial japaneseArmy. Born un 1862 in the town currently known as Tsuwano in Shimane Prefecture. Ogai accompanied his father Shizuo to Tokyo when he was 10years old. Up until relocating to Senju in 1879 . the Mori Family resided here, when it was still called Koume-Mura. After changing residences twice inKoume-Mura.they finally purchased and settled in a thatched -roof house with a spacious garden. his garden. said to have been the ocject of sketchesby Ogai. was a highly sentimental, sophisticated construction containing the likes of well-trained pine trees, japanese apricots, and maple trees. Thisresidence in Mukojima was called “the house on Hikifune-dori” by the Mori Family. In accordance with the will of his father, Ogai was placed on a path of academic learning. Two months after coming to Tokyo.he boarded at the home of renowned philosopher Nishi Amame to receive tutoring in German in a“Shinbungakusha”, and subsequently enrolled in what is now the Faculty of Medicien at the Univesity of Tokyo. Through he went on to live a boarding student life in this fashion, he would return to “the house onHikifune-Dori”every week, and would occasionally undergo instruction in the Chinese classics at the home of Sinology scholar Yoda Gakkai in Mukojima. In one of his leading works “Shibue Chusai,” Ogai left detailed passages egarding the people and world that surrounder him, writing, “when I was little, I Ilived in Mukojima's Koume-Mura .” Of additional note is that the penname “Hikifune Koji”that Ogai used during the second decade of the Meiji Period comes from “Hikifunegawa (now Hikifunegawa-dori), the river that flowed close to his home. While the time in his life that hespent around Mukojima's Koume-Mura was short, one can see just how deeply that place resonated in his memory.
 





             
明治5年上京した頃の鷗外(写真中央)

森 鷗 外 旧 居 跡
森鴎外「文久2(1862)年~大正11(1922)年]  
本名、森 林太郎
陸軍軍医、小説家、評論家、翻訳家。代表作に『舞姫』、『阿部一族』、高瀬舟』など。森家は津和野藩主亀井家の御典医を務めていました。明治5(1872)年、鴎外は亀井家に請われた父に従い上京、向島の同家屋敷に入った後、すぐ小梅村に転居します。同年8月には、勉学のため神田にあった親戚筋の西周邸に寓し、明治7(1874)年に東京医学学校予科に入学、同9(1876)年に同校の寄宿舎に移りました。向島での生活は短いものでしたが、深い愛着があったようで、「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた。」(『渋江抽斎』)と幼時の記憶を綴っており、妹の喜美子は、ペンネームを森鴎外の他にも「牽舟居士」を使用していたと述懐しています。道を挟んだ向かいの本所高校前には「森鴎外住居跡」史跡説明文が設置されています。






        越後長岡藩抱屋敷(かかえやしき)跡
森鴎外住居跡のちかくにあります。
藩が農地などを買い上げて個人の調度品を保管に使っ
たり下屋敷にしました。幕府から拝領した土地では
ないから広大な領地を持つことができたそうです。
住 所 / 向島3丁目 





          








 
隅田川向嶋絵図(安政3年尾張屋板)
上の牧野家抱屋敷(赤枠表示)
          
現代図上の抱屋敷跡

【越後長岡藩】
元和4(1618)年、牧野忠成が立藩、以来13代続いた譜代大名です。石高は7.4万石ですが、常に幕閣の中核を担い、幕末には9代忠精(ただきよ)、10代忠雅、11代忠恭(ただゆき)が続けて老中を務めました。その抱屋敷が小梅村(本所高校西側一帯)にあり、敷地は6,670坪という広大なものでした。しかし、戊申(北越)戦争では忠恭に仕えた家老・河井継之助の奮闘空しく敗れ2.4万石に減封、廃藩置県の前年、明治3(1870)年藩が廃藩されました。

【抱 屋 敷】
江戸時代、全国300諸侯は参勤のため幕府より使途に応じた屋敷を拝領していました。藩主の住む上屋敷、隠居・世継用の中屋敷、物資の保管や保養先の下屋敷などです。これらに対し抱屋敷は藩自らが農地などを購入して設けたもので、大半は郊外にあり、個人の調度品などを保管したり、時には下屋敷としての用途にも充てられていました。






          


すみだゆかりの地名 小 梅
森鴎外旧居跡のちかくにあります。
住所 / 向島3丁

 





          










隅田川向島嶋図
(安政3年尾張屋版) 


 
名所江戸百景「小梅堤」 
   
江戸高名会亭尽
「本所小梅 小倉庵」
写真提供:国立国会図書館



【名 の 由 来】
江戸時代、このあたりから北十間川にいたる一帯は小梅村と呼ばれていました。三囲神社の縁起によると、弘法大師が投じた一粒の梅がこの付近に落ち、梅香村と呼ばれるようになったというのが巷間に伝わる名の由来です。江戸時代後期に鍬形蕙斎が描いた「江戸名所之絵」には「コムメ」とあり「こんめ」と呼んでいたことがわかります。

【村 の 様 子】
三井家(越後屋)が江戸進出時にその名にあやかって守護神とした三囲神社、天英院(徳川6代将軍家宣正室)が帰依した常泉寺、水戸徳川家の下屋敷の他、桜の名所の墨堤も近くにあり、浮世絵にも描かれた有名料亭も周辺に数多くありました。文人墨客たちが集い、
俳人の小林一茶は「水鳥の住こなしたり小梅筋」 「鍬のえに鶯鳴くや小梅村」と詠み、
浮世絵師の歌川広重は「名所江戸百景」や「江戸高名会亭尽」で、当時の情景を巧みに
描いています。









        すみだ女性センター



      堀 辰 雄 住 居 跡
スタジオジブリ作、風立ちぬの原作者
明治39年、母・志気とともに向島に移り住み、
翌年志氣が向島須崎町の彫金師・上条松吉に
嫁いでから、明治43年夏の大洪水で被害を受ける
までの間ここで暮らしたそうです。
住 所 /  向島3-36 





          





            
堀辰雄(右)と上條松吉(左)
大正四年撮影写真の台紙には
『浅草公園鴨下』の印刷 
(鴨下写真館は、現在も台東区浅草にて営業)
堀辰文学記念館」所蔵


堀 辰 雄 住 居 跡
所在地 墨田区向島三丁目三十六番

 堀辰雄は明治三十七年 ( 1904 ) 、麹町平河町(現在の千代田区平河町) に生まれました。二歳のとき、母に連れられ向島小梅町 (現在の向島三丁目) に住む叔母の家に移りました。明治
四十一年には母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷三十二番地 (現在のすみだ福祉保健センター所在地) で暮らしはじめます。新居は 「曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果の木や日あたりのいい縁側などがあったと 『幼年時代』に記しています。明治四十三年の大水で新小梅町二ノ四 (現在の向島一丁目十六番)に移るまで、この地で過ごしました。牛嶋尋常小学校を経て、府立第三中学校 (現在の都立両国高校) を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。関東大震災で九死に一生を得ますが母を亡くしました。大正十三年 (1924) 四月に父松吉が隅田公園裏の新小梅町八番地 (現在の向島一丁目七番 )に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年 (一九三八)まで父と共にそこで暮らしていました。辰雄は松吉を慕い、同年十二月に松吉が亡くなるまで、彼を実父と信じていたようです。人生の過半を向島で過ごした辰雄は、 「暮畔の家」 や 『幼年時代』 などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた 『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』 など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。
  平成二十三年二月
        墨 田 区 教 育 委 員 会






       

饗 庭 篁 村 (あえばこうそん)旧居跡
明治時代の小説家で演劇評論家・
江戸文学 の継承者
住 所 / 向島3-11 





             







A famous novelist and theater critic of the Meiji period
Residence of Aeba Koson
饗 庭 篁 村 旧 居 跡

安政2(1855)年、下谷龍泉寺町に生まれた篁村は、「安政の大地震」で母を失う。父は無事だったが、乳飲み子を育てるのは難しい、それを助けたのが、近くに住む「竹村氏」で、その恩を忘れないため、後に「篁村」「竹の屋」の号を用いることにしたという。11歳で日本橋の質屋に奉公に出たが、主人に可愛がられ、観劇のお供や貸本読み放題の高待遇を受けたため、劇、俳諧、花柳界などに関する知識を身につけた。19歳になった篁村は、読売新聞を発行していた日就社に校正担当として入社。2年後に読売新聞の記者となって活躍する。31歳の時、読売新聞に『当世商人気質』を連載して大好評を博し、篁村の名を不動のものにした。その後、東京朝日新聞社に移ってからも、劇評や小説を執筆。特に演劇批評は、「竹の屋劇評」として評判が高かった。向島小梅町や寺島の地に居住し、依田學海といっしょに酒を飲み明かしたエピソードなどを東京朝日新聞に連載した『隅田の春』に書いている。

Aeba Koson(1855~1922) is best known for his novel Tose Akiudo Katagi which he wrote serially in the Yomiuri Shimbun newspaper at the age of 31. He later moved to the Tokyo Asahi Shimbun newspaper, and continued to publish his own novels. He was also a renowned theater critic,writing under another pen name of Takenoya.



◆明治43年に大洪水に見舞
われた向島小梅町付近
        
直筆の葉書
        
竹屋の渡し(明治30年頃)


      
本名:饗庭興三郎
安政2(1855)年8月15日~大正11(1922)年6月20日・明治時代の
小説家で演劇評論家。新聞社の編集記者として、劇評や小説を
執筆した。特に劇評は、竹の屋劇評として評判が高かった






       

常 泉 寺
慶長元(1596)年に創建された日蓮正宗の寺院。
鬼平犯科帳の番外編「正月四日の客」で前砂の
甚七が寺男になりすましていた寺で、江戸の
儒学者・朝川善庵の墓があります。 





          





          

鬼 平 情 景
常  泉  寺

慶長元(一五九六)年の開基で、徳川六代将軍家宣(在職一七〇九~十二)の御台所・天英院が帰依してから繁栄しました。寛永七(一六三0)年の記録には、寺地は三千四百坪とあり、この辺り一帯は寺域内でした。現在は区画整理で寺地も大幅に狭まり、西側は高札から一本道を隔てたところまで退いており、当地は寺域外となっています。鬼平犯科帳の番外編とされる「にっぽん怪盗伝」収録の「正月四日の客」には、御用聞きの清蔵が常泉寺に寺男になりすましていた前砂の甚七を捕縛したと寺名が登場します。その帰りに清蔵が〔さなだや〕の亭主・庄兵衛を訪ねます。話がその親分の大泥棒・亀の小五郎の彫ものに及び、押し込みに両親を撲殺された幼時のおぞましい記憶が蘇って一気に話は進みます。
               墨田区






      
お み ね ら た ん
伝統工芸の籐製スカイツリー!
天然素材の籐で椅子、ベッド、枕等作成。
住 所 / 押上2-10-15 電 話 / 03-3623-0433
定休日 / 日・祝祭日  時 間 / 10~18時
 





          





          









        とうきょうスカイツリー駅



          すみだ小さな博物館
 片 岡 屛 風 店
東京で唯一の屏風専門店
住 所 向島1-31-6  定 休 日/ 日・祝祭日  
電 話 / 03-3622-4470  営業時間 / AM10:00~PM5:00





             





            




       屏風は元々中国からの伝来品として、古くは
奈良時代からの歴史があるそうで、当時は風を
防ぐものとして、枕元に置かれる「枕屏風」や、
空間の間仕切りとして生活の中になくてはなら
ない調度品だったそうです。又、絵を保存する
ためにも使われていたそうです。
 





        鳴 門  部  屋
鳴戸親方はブルガリア出身の元大関琴欧州です。
向島1丁目22-16 





          





          





          曳 舟 川 の 由 来
舟に人を乗せ て曳いた事に由来する。
江戸幕府が明暦3年(1657年)の大火の後に
開発に着手した本所・深川方面への、飲料水を供給
する目的で開削された水路です
 





             





         

曳 舟 川 の 由 来
 曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(一六五九年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曽根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。その後、享保七年(一七二二年)上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のうな舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(八十アールの梅林)から来ているとの説もあります。昭和二十九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三十年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。
        平成五年三月  墨田区





        荻 野 吟 子 旧 居 跡
嘉永4年、埼玉の名所の五女として生まれ、幼いころから聡明で、
勉強好きであった。16歳で結婚するが、夫からうつされた性
病(淋病)にかかり、大学東校(後の東京大学医学部)の付属
病院に入院した際、生死をさまようほどの病状だったことを通
して女医の必要性を痛感し、自分自身が女医となる決意をする。
さまざまな困難を乗り越え明治18年(1885)、34歳の時、医術
開業試験に合格女性として初めて医籍に登録された
住 所 / 向島1-8  





          





          

荻野医院跡━━日本女医第1号 荻野吟子開業の地━━
所在地  墨田区向島1丁目8番
荻野吟子は、嘉永4年(1851)3月3日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治12年(1879)、私立医学校「好受院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同18年3月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子35歳。早くもその年の5月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す14歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治27年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別して間もない明治41年12月、58歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正2年(1913)6月23日、62歳で亡くなりました。






隅 田 公 園
小梅邸と明治天皇行幸

“Koume Residence and Emperor Meiji’s Visit”


          





小梅邸と明治天皇行幸
“Koume Residence and Emperor Meiji’s Visit”
                      隅田公園の歴史解説
                            Sumda Park History Description

 


「徳川邸行幸」明治8年(1875)4月4日
木村武山 昭和5年 (1930) 12月
(聖徳記念絵画館所蔵)



小梅邸西洋館 明治33年(1900)
(松戸市戸定歴史館所蔵)”



小梅邸庭園 明治38年 (1905)
徳川昭武撮影
(松戸市戸定歴史館所蔵)

       江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸
(その外庭が小石川後楽園)が明治時代初めに砲兵工〇となったため、
この小梅邸が本邸 (当主・徳川昭武:15代将軍慶喜の弟)となりました。
小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、
水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。
江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年 (1875 )
4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻ま
れています。これは徳川関係屋敷への最明治29年 (1896) には
洋館が造られました。

In the Edo period, this used to be the daimyo’s city
storehouse of the Mito-Tokugawa family. Since their
main residence, the Koishikawa Residence (The outer
court is Koishikawa Korakuen), became an artillery
arsenal in the early Meiji period, the Koume
Residence became their main residence. (The head of
the 15th shogun, Yoshinobu Tokugawa).The Koume
Residence as well as being a key point for water
transportation from the Kitajukken River to the
Sumida River, because of its location along
Mitokaido, which connects Mito and the Koishikawa
Residence, also served as a key point for the highway.

On April 4, 1875, when the cherry blossoms of
Sumida Tsutsumi (embankment of the Sumida River),
a famous place for cherry blossoms since the Edo
Period were in full bloom, Emperor Meiji made an
imperial visit to the Koume Residence. The poem
written by the Emperor upon his visit is engraved on
the ston monument. It was the first visit made to the
Tokugawa-related residence. It is also where the Meiji
government and Tokugawa reconciled. Five more
visits were made since then and in 1896, a
Western-style house was also built.








 
 

 






          





震災、戦災そして再整備
“Earthquake, War Damage, and Redevelopment”
                 隅田公園の歴史解説
                        Sumida Park History Descnption





 
   大正12年 (1923) 9月1日の関東大震災で水戸徳川家の小梅邸は崩壊・焼失し、昭和5年 (1930)、跡地は震災復興局によって隅田公園として整備されました。隅田公園は、隅田川の両岸 (本所側・浅草側) に展開し、本所側には三列の桜並木をもつ公園道路と旧小梅邸の園池を取り囲む園路と広場等が整備されました。震災復興を代表する隅田公園も第二次世界大戦の東京大空襲によって焼け野原になり、大勢の方がこの地に仮埋葬されました。
昭和33~36年 (1958~1961)、には公園道路上に首都高速道路が造られました。昭和52,3年 (1977, 1978)、東京都から移管を受けた墨田区は区制30周年記念事業として公園改修をし、さらに今回 (平成30年~令和2年) (2018~2020) は小梅邸や震災復興公園の遺構を保存・活用しながら、浅草と東京スカイツリーを繋ぐ回廊の拠点として再整備されました。

The Koume Residence of the Mito-Tokugawa family collapsed and was destroyed by the Great Kanto Earthquake on September 1, 1923. In 1930, the site was developed as Sumida Park by the Earthquake
Reconstruction Bureau.

Sumida Park was developed on both banks of the Sumida
River (Honjo side and Asakusa side ). On the Honjo saide,
a park road with three rows of cherry blossom trees, as
well as a garden path and open space surrounding the
garden and a pond of the former Koume Residence were
constructed. Although Sumida Park was the epitome of
reconstruction from the earthquake disaster, it was
burnt down by the Great Tokyo Air Raids during World
War 11, and many people were temporarily buried here

From 1958 to 1961, the park was restored and repaired by the Tokyo Metropolitan Government. In 1971, the Shuto Expressway was constructed above the Sumidaembankment.

In 1977 and 1978, Sumida City, which was entrusted with the development of Sumida Park from the Tokyo Metropolitan Government, renovated the park as a commemorative project for the 30th anniversary of the city. Furthermore, currently, from 2018 to 2020, by preserving and utilizing the remains of the koume Residence and Sumida Park that had been restored after the earthquake disaster, it is undergoing redevelopment to serve as a base for a promenade that connects Asakusa and Tokyo Sky Tree


                 





          





          





          





大きな鳥がとまっています。

          





          





明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊阯の石碑

          





               





 
[碑 陽 西 向]
明治天皇御製
花くはし櫻もあれと此やと(宿)の』
世々のこゝろを我はと(問)ひけり』
           
[碑  陰]
明治八年四月四日 明治天皇先臣昭武の邸に臨
ませ』られ畏くも宸筆の御製を賜ふ此地は當年
の邸』趾にして大正十二年の大震火灾後帝都の
復興に』際し隅田公園となれり圀順此光榮ある
て茲に此碑を建つ』
 昭和五年三月        公爵 徳川圀順 





               
隅田公園水戸邸跡由来記 

隅田公園水戸邸跡由来記

 コノ地ハ江戸時代 水戸徳川家ノ下屋敷 小梅別邸ガ置カレタトコロデアル徳川御三家ノ一ッデアル
水戸家ガオ浜屋敷 中央区 ニ替エテコノ地ヲ賜ッタノハ元禄六年 一六九三年   三代綱條公ノ時デアル
 屋敷ハ 西ハ隅田川ニ面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪  南北二百
メートル余 東西約三百メートルニワタリ南ニ広ガル梯形ノ地デ 現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ 墨田区
南部ニ置カレタ大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタコノ屋敷ハ 現在後楽園ノ名ガ残
ル小石川本邸 駒込別邸イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ
マタ西側ニ接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ  弘化元年 一八四
四年烈公トシテ知ラレル九代斉昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際、
改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一班ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ
屋敷内ノ長屋デアッタ ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩制度ハ解消 一時政府ノ管理
スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 明治天皇 同二十五年ニハ
 昭憲皇太后ノゴ訪問ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニヨリ烏有ニ帰シ 二百三十年
ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハココデ閉ジタノデアル昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 
水戸邸ノ旧跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガヲソノ一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッ
テイタ  シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモニ環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ 
ソノ面影モオオカタ失ワレタ昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施行
三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手シ コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ 
カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレタコトヲ機会トシテ一碑ヲ建テ イササカコノ地ノ由来ヲ記シ
後世ニ伝エルモノデアル
    昭和五十四年四月 





堀辰雄旧居跡&書家高林二峯先生の碑

          





          





      堀 辰 雄 旧 居 跡
「風立ちぬ」「美しい村」などの作品で有名な小説家で明治43年
(1910年)5歳の時にこの地に引っ越してきたそうです
Novelist Tatsuo Hori, known for works such as The Wind
Has Risen and The Hori Family, lived here fromhis days as
an elementary school until he entered college. A historic marker
in Sumida-kone Parkdescribes this chapter of the artist's life.
住 所 / 向 島1-3





             

堀 辰 雄 ゆ か り の 地
             現在地 墨田区向島一丁目三番

 堀辰雄は明治三十七年 (一九〇四)、 麹町平河町 (現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母志気(しげ)に連れられ向島小梅町 (現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中之郷町三十二番地(左図➀) で暮らしはじめます。更にその二年後には大水の影響で新小梅町二ノ四 (同②) に移り、ここから牛島尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校 (現在の都立両国高校) を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(一九二四) 四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地 (左図③ ) に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年 (一九三八)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花 」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関―辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「寺社の境内の奥まったところに、赤い涎(よだれ)かけをかけた石の牛が一ぴき臥(ね)てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(『幼年時代』)とあるのは牛嶋神社境内の撫牛のことです。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(一九五三)に没しました。
           平成二十三年八月
                      墨田区教育委員会






       書家高林二峯先生の碑
 高林二峯先生は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家です。
この碑は明治30年(1897)8月16日に高林二峯が没した翌年の3月に
押上二丁目の円通寺に建碑され、のちに現在地に移設されました。
二峯の生涯を称える内容が刻まれています。二峯は、文政2年(1819)
9月3日に上野国後閑村(群馬県安中市)に誕生。生誕地より望む
妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。
所在地 墨田区向島一丁目三番 隅田公園内





 

二 峯 先 生 之 碑
        所在地 墨田区向島1丁目3番 隅田公園内
二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治30年(1897) 8月16に二峯が没した翌年の3月、円通寺 (押上2) に建碑され、のちに現在地に移設されました。二峯は、文政2年 (1819) 9月3日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保14年 (1843) には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのふつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎさらに中国の書に近世の諸流を学び、独自の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校 (現在の東京芸術大学) 創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は61才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。
平成22年12月
          墨田区教育委員会






東 京 ミ ズ マ チ






すみだリバーウオーク開通
東京スカイツリー・浅草連絡歩道橋
2020年6月18日(木)7:00~に開通


          





          





           





東京ミズマチウエストゾーン

               





          





          





北十間川プレス紹介ブース

          





          





          





東京ミズマチイーストゾーン
WISE OWL HOSTELS RIVER TOKYO

世界中の旅人達と地域の賑わいを創出するコミュニティ型ホステル
向島1-23-3 東京ミズマチイーストゾーン(E01)
Tel:03-5608-2960 Fax:03-5608-2961


          





          





          






す  み  ず  み
向島一丁目23番9号
東京ミズマチイーストゾーンE03


          





          





          





          





          





          





          





          











       
枕  橋

隅田公園が水戸家の下屋敷だった頃、新小梅橋と
そのそばの源森橋が並ぶ様子が、夫婦が枕を並べ
たように見えたことから、「枕橋」という名がつけ
られました。後に新小梅橋は撤去され、元の源森橋
だけが単独で枕橋と呼ばれてるいるそうです。
住 所 / 吾妻橋1丁目 





          





          







枕 橋 の 由 来
寛文2年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷 (現在の吾妻橋) から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川 (隅田川) から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治8年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。現在の枕橋は昭和3年に架け替えられたものである。昭和63年、本橋は東京都著名橋に指定された。
                                平成4年3月






       
源 森 川 水 門
隅田川と北十間川の接続点に設置された幅11メー
トル、門扉高さは7.5mのローラーゲート式水門
で、江東デルタ地帯を守る防潮水門です。通常は
開放されていますが高潮や津波の恐れがある
場合は直ちに閉鎖されるそうです。
住所 / 吾妻橋1丁目 





          





          





       


源 森 橋
スカイツリーの撮影ポイントとして
有名です。
住 所 / 向島1丁目 





          





 

源 森 橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋 (本橋から約200メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋 (旧源森橋) が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区) から新小梅町 (現在の向島地区) に通ずる源森側 (北十間川) に架けられた。また枕橋 (旧源森橋) 北側にあった水戸屋敷内に大川 (隅田川) から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになったその後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和3年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約80年経過し、老朽化したため、平成19年3月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。
                                        平成19年3月











            二階建てバスと水陸両用車
スカイホップバスは乗り降り自由です。
住 所 /業平1-17-6
電 話 / 03-3215-0008
定 休 日 /カイバス/原則ナシ
スカイダック/土日祝日のみ
営業時間 / 9:30~18:00  





          





          






         



Street Kart Tour
日本全国の公道カート体験・ツアー
隅田公園がスタートです






           





          





墨田区内循環バス時刻表 
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)