葛飾北斎案内板⑨(隅田川関屋の里) 梅若橋コミュニティー会館 水 神 大 橋 東京都リハビリテーション病院 墨田区立梅若公園 鐘 ヶ 淵 陸 橋 碑 |
葛飾北斎⑨ 隅田川関屋の里 ━富嶽三十六景 ━ Thirty-six Views of Mount Fuji: Sumida-gawa Sekiya no Sato 現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、 千住関谷町のあたりが描かれています。 住 所 / 東京都墨田区堤通2-7(墨堤通り沿い) |
隅田川関屋の里 ━富嶽三十六景━ 葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目 から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原 と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松、朝焼けの富士山が見える穏 やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、 馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保2(1831)年頃の作品です。 A print from the representative Thirty- six Views of Mount Fuji series created by Katsushika Hokusai when he was about 72 years old. This scene depicts the area around Senju Akebono-cho and Senju Sekiya-cho in Adachi-ku as seen from the current 2-Chome Tsutsumi-dori, Sumida-ku. Apart from an official bulletin board, no houses can be seem amid the grasslands and paddy fields, and the impressve pine tree on the bank stretching from the foreground into the distance and the sight of Mt. Fuji bathed in the sunrise produce a very impressive piece of workoverflowing with three horseback riders racing through the peaceful early morning scene. The samurai warriors, the horses and the harnessesare all depicted in bright colors. This print wascreated around 1831 |
絵本江戸土産第8編 関 屋 の 里 |
名所江戸百景 著者:広重 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図 出版者:魚栄 出版年月日 安政4 |
鐘 ヶ 淵 陸 橋 碑 堤通2丁目 都道461号線 交差点を挟んで、一方に「鐘ヶ淵」の地名の 由来に関する図や「歌川広重」が「名所江戸 百景」で描いた「木母寺内川御前栽畑」の レリーフがあります。 |
左側のレリーフは「鐘ヶ淵」の地名の由来に関する図で、右側は歌川広重が「江戸名所百景」 で描いた「木母寺内川御前畑」のレリーフです。 上部のレリーフ文面 これは広重の「木母寺内川御前栽畑」(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍 の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を船で出入りすること ができました。 下側のレリーフ文面 鐘ヶ淵の由来には隅田川がこのあたりで直角に曲がり、それが工匠の使う曲尺(短尺)ににている ところから、又、寺院の移転の際に梵鐘(ぼんしょう)が川に落ちたところからの二説が伝えられ ています。 |
水 神 大 橋 東京都の防災拠点である汐入公園と東白鬚公園とを つなぐ連絡橋として建設された橋で、当初は歩行者 専用橋でしたが、平成8年(1996年)自動車道路共用 となりました。橋の名称は、東岸東白鬚公園の近く にある隅田川神社(水神宮)にちなんでいます。西岸は 荒川区南千住八丁目、東岸は墨田区堤通二丁目。 東京都道461号線が通る |
防災団地のビルの下の先に水神大橋があります |
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真ん中が梅若橋、右側は梅若橋コミュニティーセンター |
梅若橋コミュニティ会館 区民の方の教養・文化向上を図るための図書室や、 町会活動・サークル活動の場としての地域集会所、 幼児と保護者向き事業や児童の遊び場所としての 児童室が設置されている複合施設です。 所在地: 墨田区堤通2丁目9−1 電 話: 03-3616-1101 営業時間: 9:00~ |
東京都リハビリテーション病院 リハビリ専門病院として医療の提供のほか、医療 関係者の教育・研修や臨床研究も実施しています。 住 所:墨田区堤通2-14-1 電 話:03-3616-8600(代表) |
墨田区立梅若公園 (歴史文化公園) 歴史にゆかりのある公園であり、榎本武揚像 や梅若塚跡があることから、平成28年度に歴 史文化公園整備事業により整備されました。 文化財:墨田区登録有形文化財「銅像榎本武揚像」、 東京都指定旧跡「梅若塚」 住 所 / 堤通2丁目-6-10号 |
墨田区登録有形文化財 銅像榎本武揚像 所在地 墨田区堤通二丁目六番十号 墨田区立梅若公園内 本像は、榎本武揚没後の大正二年(一九一三)五月に建立され ました。銅製で、像高は約三メートルあり、南を向き、大礼服姿 で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細 かく表現され外形描写に優れています。 榎本武揚(一八三六~一九〇八)は、戊辰戦争終盤の 箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な 人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は 明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。 晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝 など政財界を代表する人物等が協力しました。 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。 この銅像は、平成十二年十二月七日に墨田区登録文化財に登録 されました。 平成二十九年三月 墨田区教育委員会 The Bronze Statue of Enomoto Takeaki This Statue was erected in May 1913 after the death of Enomoto Takeaki. The statue,made of bronze with about 3 meters in height, is facing south and showing solemn appearance with full dress uniform. The sculpturing is excellent in outline description with fine texture of clothing and expression of his face. Enomoto Takeaki (1836-1908) is prominent as one of the former retainers of shogunate, who fought against Meiji New Govermment Army at the Hakodate War . Which was the last stage of the Boshin War. People representing political and business worlds, such as Okuma Shigenobu, Okura Kihachiro Shibusawa Eiichi and Masuda Takashi, cooperated in Building the statue. The sculptors of original mold are Fujita Bunzo and Tanaka Chikamitsu, and the caster is Hiratsuka Komajiro. |
墨田区登録有形文化財 銅 像 榎 本 武 揚 像 「榎 本 武 揚」 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所 昌平黌で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。 その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸 を回送し帰国しました。武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」 という体制変換を迎え、武揚は戊辰(ぼしん)戦争の最後の戦いとなった箱館 戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。 明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に 尽力しました。明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら 逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学 の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、 日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。晩年は成島柳北邸(現言問小学校) の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなり ましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。 Sumida ward Registered Tangible Cultural Property. Statue of Enomoto Takeaki Enomoto Takeaki was born in 1836 to a retainer of the shougun. In the Boshin Civil War (1868~1869), Enomoto led the forces of the former shogunate and occupied the Goryokaku star fortress in Hakodate, Hokkaido. Al though imprisoned after losing the Battle of Hakodate,his talents were recognized by the new Meiji government, who pardoned him and appointed him to a government post. In addition to negotiating the Treaty of Saint Petersburg (1875) as a special envoy to Russia, Enomoto went on to serve as Minister of Communications, Minister of Education, Foreign Minister And Minister of Agriculture and Commerce at various times throughout his career. He was also given the rank of viscount.He died on October 26, 1908, at the age of 73. According to historical accounts, he was often seen riding his horse along the banks of the Sumida River and admiring the flowers of Mukojima- Hyakkaen garden 「銅像について」 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。 建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区 防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。本像の原型作者 は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、 建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に 陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争 で供出)狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。 |
東 京 都 指 定 旧 跡 梅 若 塚 所在地 墨田区堤通二の六 区立梅若公園 標 識 大正九年三月 指 定 昭和三〇年三月二八日 梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川 の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、 奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築 いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた 墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺 は当該地周辺にありましたが、白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています 平成二十四年三月 建設 東京都教育委員会 Historic Places Umewakazuka (The Mound of Umwaka) Landmarked in 1920, Designated in 1955 Umewakazuka is said to be a grave of Umewakamaru,who is known for a Noh song“Sumida River”concerns to his legend.According to this legend,Umewakamaru was an orphan of yoshida Shosho KorefusaStudying in Mount Hiei、he was kidnapped by a slave-dealer Shinobuno Tota. On the way Tota took him to Oshu (present Tohoku region ), Umewakamaru got sick and died On the bank of Sumida River.A high monk of Tendai Sect, Chuen, felt a pity for his Death and buried him in a mound. This is said to be the mound of Umewaka. Mokuboji Temple is originated from Sumidain Umewakadera Temple which wasbuilt beside the mound made by Chuen. Mokuboji Temple and the mound had beenlocated around here, but were both moved to the current place due to the constructionof the disaster prevention facilities. Tokyo Metropolitan Board of Education |
梅 若 塚 梅若塚は謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸 の墓であると伝えられます。梅若丸は京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃国野上 の長者の、一人娘「花御せん」の子で、父の死後7歳で比叡山に入り修行に励みます。 梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、 みちのくの人商人「人買い」信夫の藤太にかどわかされてしまいます。奥州に連れて 行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川の ほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく 「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露ときえぬと」 という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。 その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の 柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰 の対象となっています。 Umewakazuka (The Mound of umewaka) Umewakazuka is said to be the grave of Umewakamaru, a legendary figure known from the Noh song “Sumidagawa” (Sumida River).Acording to legend, Umewakamaru was the child of Yoshida Shosho Korefusa of Kitashirakawa in Kyoto. While training at Mount Hiei, he was kidnapped by a slaver named, Shinobuno Tota,who tried to take him to Oshu (in modern Iwate Prefecture in northern Japan).Along the way, Umewakamaru became very ill and died on the banks of the Sumida River. Saddened by this death, high monk Chune of the Tendai school of Buddhism built this grave, Umewakazuka. 梅若塚と木母寺」 木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。 その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。木母寺は当該地周辺にありましたが、 白鬚東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。 「梅若塚と妙亀塚」 妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た 母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は 底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近) にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場)内にあります。 「梅若権現御縁起」 「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起」附漆箱二匣(墨田区指定有形文化財) があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が 所蔵する寺社縁起巻物です。原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土文化資料館で複製を所蔵 しており、展示されています。 「隅田川物」 謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若 伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで さまざまな作品が生まれました。 |
明治期の木母寺境内 江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり 神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を 失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年 (1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興 されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。「木母寺境内 之図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面 の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心と した木母寺境内が描かれた一枚です Mokuboj Temple Grounds in the Meiji Period The Umewaka-do is a shrine to Umewakamaru that is today located at Mokuboji, a Buddhist temple, Mokubojiwas originally shut down in the Meiji period due to the anti-Buddhist movement associated with the Meiji government’s official separation of Buddhism and Shintoism In 1889, Mokuboji Templewas restored and the Umewaka-do was built within it. Miraculously, these buildings avoided destruction by air raids in the Second world war. The painting “Mokuboji Temple Grounds” is a precious work of art that depicts Mokuboji Temple in the meiji Period when the Umewaka-do was constructed there. Umewaka-do is placed in the center of the picuture, with the main Mokuboji temple building to the right and a traditional Japanese restaurant (ryotei) to the left. Although this is a picuture of the Mokuboji temple grounds, what is located in the cnter is not the main temple building but Umewaka-do. From this, it is well understood that. Umewaka-do truly makes Mokuboji what it is. |
手打ちそば・生 粉 亭(きこてい) |
手打ちそば・生 粉 亭 脱サラで始めたお店だそうです。麺は繊細だから麺にスト レスを与えない打ち方をしていて三色そばの食べ比べがで きます。北海道産そばを石臼で挽いた十割の生粉打、茨城の 生産農家より直接仕入れたそばを打つ太目の田舎、二八そばが セットになった三色そば等を味わうことができます。 生粉とは。小麦粉などの混ざりもののない、純粋なそば粉。 住 所 / 東京都墨田区墨田5丁目5−3 電 話: 03-3610-1935 営業時間 / 11:30~15:00、17:00~20:00 定休日 / 水曜、第3火曜 |