葛飾北斎案内板⑩(梅若の秋月) 葛飾北斎案内板⑪ (雪 月 花 ) 木 母 寺 隅 田 川 神 社 隅 田 宿 跡 墨田区立桜堤中学校 近代映画スタジオ発祥の地 (纏)モニュメント 東京都下水道局隅田ポンプ所 |
葛飾北斎案内板⑩ 梅若の秋月━風流隅田川八景━ Eight Views of the Elegant Sumida-gawa no Akizuki (Full moon of Umewaka) 「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露と きえぬと」の辞世の句で有名な木母寺に古 くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。 住 所 / 東京都墨田区堤通2-16 |
梅若の秋月 ━ 風 流 隅 田 川 八 景 ━ 「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」 の辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて 連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は 悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に 置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中で仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。 文化中期(1804~18年)頃の作品です。 One of the Eight Views of the Elegant Sumida-gawa series.The theme of this print is the Legend ofUmewaka handed down from ancient times by the famous Mokuboji Temple as a deathbed poem that goes, “Oh black-hooded gull, if my mother visits and asks,tell her that I have become one, with the dew that lies at the source of the Sumida River.” Fooled into being brought from Kyoto,Umewaka Maru became sick and died at the Sumida lnn at the tender age of just twelve years old. His mother, Hanagozen, was so stricken with grief that she went insane, and it is said that she roamed around searching for her lost son. The print shows the two who were unableto meet in life happily enjoying a boat ride as the Heian Period turns into the Edo Period.The print was created between 1804 and 1818. |
葛飾北斎案内板⑪ 雪 月 花 隅 田 Setsugetsuka(snow,moon and flowers) Sumida 雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、 花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。 住 所 / 東京都墨田区堤通2-17 |
雪 月 花 隅 田 雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。 画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、 厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い 藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる 作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の 人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初 (1830)年頃の作品です This print depicts the snow-covered banks of the Sumida River, and it isone of the three famous scenes selected alongside Tsuki-no-Yodogawa and Hana-no-Yoshino. The MokubojiTemple and the restaurant Uehan can be seen in the forest in the center of the print, and thick snow covers the Sumidagawa Shrine, which was known as the Water Shrine,in the forefr ont. This print is said to be the most famous of all snow scenes from that period. The faint azure color at the top and bottom of the print leave the impression that the scene is depicting early morning. just as the dawn is breaking, and it portraysa silent and faintly nostalgic scene. It also includes fishermen casting, their net and two people walking through the snow in the silence of the winter morning, and a bird that appears to be a black-hooded gull adds an accent to the bottom left-hand corner of the print. It was created around 1830. |
(梅 柳 山 隅田院) 木 母 寺 976年(貞元元年)の開山という古刹。謡曲、浄瑠璃、 長唄などでうたわれた梅若伝説発祥の地。現在の 木母寺は芸道上達の寺としても知られています。 毎年4月15日には梅若忌大念仏法要 謡曲「隅田川」 住 所 / 東京都墨田区堤通2-16-1 電 話 / 03-3612-5880 |
木 母 寺 由 緒 沿 革 宗旨 天台宗 山号梅柳山 本尊 慈恵大師(別名 元三大師) 総本山 比叡山延暦寺 当寺は平安時代中期の貞元元年(九七六)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建 てた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。 文治五年(一一八九)鎌倉時代、源頼朝が奥州遠征の途中に参拝し、長禄三年(一四五九)室町 時代、太田道灌が訪れ、梅若塚を改修したと伝えられています。 天正十八年(一五九〇)安土桃山時代、徳川家康が参拝し、梅若丸と塚に植えられた柳に ちなみ「梅柳山」の山号が与えられます。 慶長一二年(一六〇七)江戸時代に前関白・近衛信尹が訪れ、柳の枝を筆代わりに「梅」の 異字体「梅」を「木」と「母」とに分け書して以来、木母寺と改名されました。 寛永年間、三代将軍・徳川家光の時代には境内に「隅田川御殿」が建てられ代々の将軍が 鷹狩りや隅田川遊覧の休息所として利用され、さらに将軍家に献上するための御前栽畑が 作られました。明治元年(一八六八)神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け梅若神社となり ましたが、明治二十二年(一八八九)に寺院への復帰を果たします。昭和二十年(一九四五)に 米軍の空襲を受けて本堂を焼失し、戦後に復興をとげますが、昭和五十一年(一九七六)都市 再開発法に基づく東京防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転します。 梅 若 塚 境内にある梅若塚は能・歌舞伎・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。当寺に 現存する寺宝絵巻物「梅若権現御縁起」(上中下の三巻から成り、高崎城主・安藤対馬守重治が 延宝七年(一六七九)に寄進。墨田区登録文化財)には梅若塚の由来が描かれています。 梅 若 権 現 御 縁 起 平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という 夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって 梅若丸という男の子を授かることができたのです梅若丸が五歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸 は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と称賛を受けるほど 賢い子供でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸と、どちらが賢い かと稚児くらべにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよったのち、 大津の浜へと逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へと向かいます。旅の途中、 病にかかってしまった梅若丸は貞元元年の三月十五日、隅田川の湖畔で 尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田河原の 露と消へぬと と句を残し十二歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りかかった天台宗の僧である 忠円阿闍梨は里人と塚を築き柳を植え弔いました。梅若丸が亡くなったあくる年、母は失踪した 息子を探し狂女となって東国へと向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り渡し守 より梅若丸の死を 聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが梅若丸の姿はすぐに消えて しまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり、 鏡ゲ池に身をなげてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かびあがりました。 忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて母を妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ 変わったとのことです。 隅 田 川 物 謡曲「隅田川」は世阿弥の息子、観世十郎元雅によって作曲されました。梅若丸と狂女となった 母親の悲話として伝わる梅若丸物語は室町時代より「隅田川物」として能楽をはじめ浄瑠璃、 歌舞伎、舞踊、謡曲などの演目として盛んに上演されてきました。 この「隅田川物」を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の 芸道の上達を祈念して「木母寺詣り」を行なったことから、芸道上達の祈願寺として大衆の 信仰を集めています。 |
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梅 若 堂 この仏堂は明治の廃仏で一時、梅若神社とされた梅若塚が再び 仏式に復帰した年、すなわち明治二十二年の建立になります。 当寺一帯が全焼した昭和二十年四月の戦災にも焼失を免れた 唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡が 所々にみられます。 防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内 に納められることになりました。 覆堂→(ふくどう、おおいどう、さやどう)は、貴重な文化財や史跡等を風雨 から保護するため、それらを覆うように建設された簡易な建築物。鞘堂 |
梅 若 塚 「たづね来て 問はばこたえよ 都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」 の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的 旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信 されました。 |
天 下 之 糸 平 の 碑 幕末から明治にかけて活躍した実業家、田中平八の石碑です。平八は 横浜で生糸売込と洋銀売買で巨利を得て、「天下の糸平」と呼ばれました。 表面の文字を揮毫した伊藤博文は平八と親交があり、わが国初代の総理 大臣です。碑の裏面には平八の生涯と平八と交友があった渋沢栄一など 明治の政財界の知名人の名が列ねてあります。これらの人々は木母寺の 明治再興(明治二十二年)に協力され、その縁で二年後に建碑されました。 高さ5.2メートル、幅3メートル、重量80トンある都内第一の石碑です。 |
境 内 の 諸 碑 所 在 墨田区堤通二丁目十六番一号 木母寺内 「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など、三0墓の石碑があり、著名なもの |
華笠文京翁碑 幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、 弟子の仮名垣魯文が建てました。 |
かつての料理屋「植半」の碑 (大正八年一月) |
三 遊 塚 三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑で、 題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書です。 |
墨 田 堤 桜 花 の 詩 碑 (文政十二年建立) 銘文は九歳の少年清水孝の書で,亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、 訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。 |
東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑 四世川柳の建立 |
華渓先生禿筆之蔵并序 文政3(1820)年建碑 |
浄瑠璃塚 文政4(1821)年建碑 |
大正震火災横死者追悼之碑 大正12年の関東大震災の被災者を弔う碑 |
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日露戦役従軍紀念碑 明治39年10月の建立 東郷平八郎の揮毫です |
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江戸名所図会 7巻. [19] 著者:松濤軒斎藤長秋 著[他] 出版者:須原屋茂兵衛[ほか 出版年月日:天保5-7 [1834-1836] |
木母寺梅若の由来 著者/広重 出版者/若狭屋 収載資料名/東都旧跡尽 |
絵本江戸土産10編 木母寺 梅若塚 |
木母寺 著者:豊国,国久 出版者:湊小 出版年月日:安政4 収載資料名:江戸名所百人美女 |
〔江戸高名会亭尽〕 木母寺雪見 収載資料名:広重画帖 3代将軍徳川家光の頃に木母寺境内で参拝客を相手に 掛茶屋を開いたのが始まり。植半とも呼ばれる。 |
絵本江戸土産 10編 著者→松亭金水 解説[他] 出版者→菊屋三郎[ほか] |
木母寺 真崎の神燈 |
天 下 の 糸 平 |
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隅 田 川 神 社 (水神社) 治承の頃、源頼朝が関東下向の折、暴風雨に遭い、当社に祈願した と伝えられています.水神社とも呼ばれ、亀に乗った水神が浮州に上陸 し隅田川総鎮守の神となっ たとされています。 左右に亀が鎮座しています。水神社は小高い土地に建って いた為に、隅田川の水が増水しても沈むことがなかったところから、 「浮島」とも呼ばれていました。水神の森の通称があります。 住 所 / 墨田区堤通2-17-1 電 話 / 03-3611-3089 例祭日 / 6月15日 |
水神の森跡 荒川下流のこの付近には、かつて浮島状の小さな森がありました。この森は、川を下ってきた人々 にとっては隅田川の入口を知らせる森として、一方、川を遡上する人々にとっては鐘ヶ淵の難所が 近いことを知らせる森として格好の目印となっていました。また、この森の中には水神を祀る小社 が古くからあり、特に舟運業にかかわる人々の信仰を集めていました。その水神が、現在ここに鎮座 する隅田川神社の前身です。 社伝によれば、神社の草創事情は不明ですが、治承4年(1180)11月に源頼朝が暴風雨のなか隅田川を 渡ろうとした時に安全祈願し、風波を鎮めたという伝説があります。また、嘉元年間(1303~06) 圓満院宮が隅田川を遊覧した際に立ち寄り、水神の梵字を書いて奉納したとか、戦国時代前期の江戸 城主太田道灌が社伝を修造したなどという伝説もあります。 江戸時代には、延宝年間(1673~81)に浅草山之宿・花川戸付近の人々が講を結んで水神祭を執行 するようになり、これが元禄元年(1688)を境に数艘の舟渡御を伴う例大祭へ発展したとされています。 また、宝暦9年(1759)には神輿を造営し、この時以来、6月の例大祭で神輿を供奉する舟が数艘 くり出すようになったとも伝えられています。 なお、水神社は、寛政9年(1797)3月に造立された 石造りの小さな祠を本社としていましたが、文化年間(1804~18)を越えた頃には、今日見るような立派 な木造の複合社殿が建てられるようになりました。(現存する社殿は、安政江戸地震の頃の再建です。) |
水神社は元来神職無住の小社でしたが、明治元年(1868)11月に備中国小田郡八掛村(現岡山県矢掛町) 出身の矢掛弓雄(実名は朝倉次郎)が来住し、神事を司るようになりました。そして同6年6月に隅田川神社 を正式の社号とし、興隆が図られました。こうしたことから、隅田川神社には、かつて矢掛弓雄によって 管理されていた多数の什物が伝来しました。それらの中には矢掛弓雄が嘉永元年(1848)2月以降の京都 遊学中に制作した各種絵巻物の写しなどがあります。また、矢掛自身が誂えた絵馬をはじめ、三種の神器 や楽器、あるいは神社経営に関する帳簿や隅田川神社ほか周辺諸社の略縁起などもあります。さらに矢掛 の文化活動の一端を示す資料もあり、中でも彼の手元に集められた当地の伝説に関係する遺物などは、 草創期の郷土史研究のありようを彷彿させ、注目されます・なお、矢掛弓雄には、幕府の禁裏附(幕府が 朝廷監視のために設置した役職)の下僚として勤務した時期がありました。また、京都御所を警護中に 禁門の変(1864)の勃発に接し、それ以降、あるいは水戸天狗党の鎮圧に向かう幕府軍に加わって 敦賀(源福井県)へ赴いたり、あるいは鳥羽・伏見の戦いに出陣するなど、幕末・維新期の激動を間近に 目撃するような体験がありました。このため、什物の中には、そうした激変期の記憶を共有したと推定 される福羽美静、鈴木重嶺、本居豊穎、小杉榲邨、小中村清矩など、当時活躍した人々との交流を示す 資料も散見します。これら隅田川神社の什物は「隅田川神社資料」763点として、平成31年3月8日 付で墨田区登録文化財に登録されました。 |
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梅堂安径「雨雲の下に」の句碑 表面➡雨雲の下に 梅堂安径 あかるき さくらかな 裏面➡明治十六年十月 八百松建(隅田川神社の傍に開業した料亭八百松) |
真道 「言問ひし」の歌碑 頂部に擬宝珠(葱台)を彫りだした歌碑である。真道によって詠じられた和歌が刻まれている。 言問ひしことはの花はすミた川 なかれても世に匂いけるかな 真道 (解説文)此浮島は在原中将都鳥詠歌の旧跡にて言問の岡と言。 水神道は昔奥州街道にて道の西通り頼朝橋の旧跡也。 |
狂歌堂真顔「よけてふけ」の狂歌碑 江戸時代後期の著名な狂歌師狂歌堂(北川真顔、鹿津部真顔)の狂歌を刻んだ歌碑である。 表面➡よけてふけ花のあすたの河原風 かはらぬ色をあすたにもみむ 裏面➡木挽町 舩待中と刻まれている。 |
「隅田邨總鎮守水神宮」道標 碑面には、上から順に「建久年間垂跡」「隅田邨総鎮守」「水神宮」「是より西二町余」とあり、左端に 「山東庵京山建井書」という署名がある。裏面には「文政二年春三月」という紀年名も確認できる。 山東庵京山とは戯作者三東京伝の弟である岩瀬百樹のことである。 |
「吟香岸田翁碑」 岸田吟香の知友が、岸田生前の功績を称えるべく建立した。題字は楊守敬、撰文は三島毅、 書は日下東作が担当している |
「元の木阿弥(けふよりも)の狂歌碑」 元の木阿弥は江戸時代の狂歌師で、剃髪した頃に詠んだ歌の石碑 (表面)天明はしめの歳卯月十日まり四日の日年頃の 本意遂て角田河のほとり水神の森にて かしらおろし侍りてよめる俳諧 木阿弥 けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりに世をわたらはや (右面) 文化三季丙寅歳八月 門人建 |
「永代月次獻饌祈禱資金五拾圓」の碑 明治三十二年(一八九九)七月、「向島花屋鋪隣入金亭」の女将入山きんが隅田川神社に祈祷料を奉納した時の記念碑 (正面) 永代月次獻饌祈禱資 向島花屋鋪隣 金五拾圓 明治丗二年七月奉納 |
「永代月次獻饌料資金五拾圓」の碑 かつて隅田村の住人は図子と呼ばれる地域的な集団を作り日常生活を営んでいたて、隅田川神社の氏子集団も 村内小集団が寄り集まって構成されていた。その中の「上図子」の人々が献饌料五十円を寄付した際に作成された碑 (表面) 永代月次獻饌料資 金五拾圓 當村上図子 大正二年七月寄付 |
「御大典記念」の碑 昭和三年十一月十日の昭和天皇の即位併せて隅田川神社の氏子中で建てられた碑 裏面に「惣代」・「世話人」等の名が刻まれている。 |
名所江戸百景 隅田川水神の森真崎 絵 師:広 重 出版者→魚栄 出版年月日→安政3 |
絵本江戸土産 10編 水神の森 真崎の社 . 著者:松亭金水 解説[他] 出版者:菊屋三郎ほか |
隅 田 宿 跡 現葛飾区立石・江戸川区小岩・千葉県市川市へと通じる 古代の官道上に位置し、平安時代末期より、 古東海道 の渡河地であり旅人が利用する宿として栄えましたが、 江戸時代に姿を消した宿場町でした。1180年に源頼朝 が布陣した宿としても伝わっています。 住 所: 東京都墨田区堤通2丁目 |
隅 田 宿 跡 現在地 墨田区堤通二丁目二番 都立東白鬚公園 当地は古東海道の渡河(とか)地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。 隅田宿は、治承(じしょう)四年(一一八〇)に源頼朝が布陣したと伝わる宿(しゅく)で(『吾妻(あづま) 鏡(かがみ)』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南 北朝時代までには人と物が集まる都市的な場所が形成されたようで歌人藤原光(ふじわらみつ)俊(とし) が詠んだという一三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています (『夫(ふ)木(ぼく)和歌抄(わかしょう)』)。また、室町時代成立の『義経記(ぎけいき)』には「墨田の 渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であたらしいこともうかがえます。 対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについ ては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によ れば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお人買いにさらわれた梅(うめ)若(わか)丸 (まる)とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業(ざいごう)深い老母と娘の悲劇を伝えた石(いし) 枕(まくら)の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に 成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。 平成二五年三月 墨田区教育委員会 |
都立 東白髭公園・(纏)モニュメント シンボルタ ワーの纏は、江戸時代の火消人足組が 高 く掲げた「まとい」をイメージしたもので、都民 の安全を表すシンボルと して、建造しま した。 住 所 / 堤通2-2 |
東京都下水道局 隅田ポンプ所 住 所 / 墨田区堤通2丁目18−1 |
墨田区立桜 堤 中 学 校 旧「向島中学校」と旧「鐘淵中学校」が平成25年4月1日 に統合し、新校として開校しました。「東白鬚公園」に 隣接し、区内で最も広い土のグラウンドを有し、防災や 環境に配慮した耐震設計の優れた施設となっています。 住 所 : 墨田区堤通2丁目19-1 電 話 : 03-3616-5630 |
近 代 映 画 ス タ ジ オ 発 祥 の 地 スタジオでは、大正初期のヒット作品「カチューシャ」 をはじめ、760本にも及ぶ映画が制作され、「向島作品」 として一世を風靡(ふうび)しました。幻想文学作家・ 夢野久作(ゆめのきゅうさく)の父である杉山茂丸 (すぎやま しげまる)氏の別荘だった所だそうです。 住 所 / 墨田区堤通2-19-1 |
近代映画スタジオ発祥の地 明治34年(1901年)フランスからシネマトグラフが輸入され、日本で映画の興行や製作が始まりました。 ところが外国映画の質の高さに刺激され、本格的な劇映画の発展を目指そうと、明治44年(1911年)に エム・パテー商会、梅屋庄吉の提案で、吉沢商店 河浦謙一、横田商会 横田永之介、福宝堂 田畑 健造など4社の合同で日本活動写真フィルム株式会社(日活)が設立され、大正2年(1913年)10月ここ隅田 川畔の杉山茂丸氏の別荘地7500֥㎡に、向島撮影所が開設されました。川岸に広さ約900㎡の、天候に 左右されずに撮影ができる、東洋一のグラスステージが建てられて、日本映画の質を飛躍的に向上 させることができました。初期の作品であるカチューシャは大ヒットし「向島作品」の名を高めました。 当時は女性の役は女形によって演じられ、カチューシャを演じた立花貞二郎や、後に監督になった 衣笠貞之助も女形でした。やがて女優が採用され、酒井米子が向島撮影所最初の女優となりました。 ここは本格的な日本劇映画の発祥の地です。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、惜しくも 向島撮影所は閉鎖されました。この間、およそ760本の作品が作られました。 設立 日本映画建碑委員会 1998年11月 協賛 墨田区教育委員会 社団法人 日本映画テレビ技術協会 日本大学芸術学部 日活株式会社 株式会社 フジワラプロダクションズ |
レストラン リヨン |
レストラン リヨン 一瞬フランスのレストランにいる感覚を覚えます! オーナーは一流ホテルのシェフでした! 住 所 / 墨田区墨田2-2-1 電 話 / 3613-0239 定 休 日/火曜日 営 業 / 11:00~14:30 17:30~22:3 |