スカイ姫のつぶやき街角南部ルート1
柳嶋妙見山法性寺入口~すみだ北斎美術館前

墨田区内循環バス停 : 嶋妙見山法性寺入口→本所警察署・本所防災館入口→
すみだ保健子育て総合センター・横川コミュニティ会館前→賛育会病院→法恩寺入口→錦糸町駅北口
→すみだトリフォニーフォール入口→亀沢3丁目→すみだ北斎美術館前(津軽家上屋敷跡)


                        いってみよう (お店関係)

        柳嶋妙見山法性寺入口

柳嶋妙見山法性寺 

        本所警察署・ 本所防災館入口

  本 所 防 災 館        押上びりーぶレンタルスタジオ&ピアノサロン

すみだ清掃事務所     

       

すみだ保健子育て総合センター

        賛  育 会 病 院

アトリエ創藝館     鬼平情景・出村の桜屋敷

横川1丁目遺跡案内板旗本太田家抱屋敷跡)&大震災遭難者追悼碑 

        法 恩 寺 入 口

平 河 山・法 恩 寺        鬼平情景・法 恩 寺

鬼平情景・高杉銀平道場       鬼平犯科帳(「尻毛の長右衛門」の舞台)

        錦糸町駅北口

王貞治のふるさと墨田     五 徳 山・江 東 寺    廣 田 硝 子 (株)

 TOHOシネマズ 錦糸町楽天地    ひがしんアリーナ(墨田区総合体育館)

カッパ像(おいてけ堀)  伊藤左千夫牧舎兼住居跡  墨田区弓道場

        すみだトリフォニー ホール入口
勝海舟居住の地     史跡勝海舟揺籃の地     国産マッチ発祥の地

鬼平情景(相模の彦十の家)      菊 柳 橋      撞 木 橋(しゅもくばし)

芥川龍之介(大川の水)文学碑        すみだトリフォニーホール

        亀 沢 三 丁 目

公立本所小学校跡(尾張学校)      河竹黙阿弥終焉の地(狂言作者)  

        すみだ北斎美術館前 (津軽家上屋敷跡)

緑町公園&緑町公園の立札色々  すみだ北斎美術館    三遊亭圓朝住居跡(落語家)  

江川太郎左衛門邸跡案内板(反射炉を建設)      (布ぞうり)MERIKOTI(メリコティ)




     柳嶋妙見山法性寺入口



          柳嶋 妙見山 法性寺
葛飾北斎が信仰していた寺としても有名で、北斎は
法性寺の「妙見堂」を題材とした「柳嶋妙見堂」
「妙見宮」等の作品を数多く残しています。歌川
広重・豊国・中村仲蔵・市川左団次・六代目菊五郎・
六世桂文治など多くの名優や画伯などが吉運を開
いたとも伝えられています
住 所 / 業平5-7-7 電 話 / 03-3625-3838





         





         





         





         





 

「昔 ば な し 柳 塚」
所在 墨田区業平五丁目七番法性寺内
この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立
年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが社長・頭取・監査・会計等の役職名
が記されています。江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年
(一八八四)三遊派・柳派に分裂して覇をいうようになりました同二二年(一八八九)には
三游派の記念碑「三游塚」が区内の木母に建立されています。やがて大正六年
(一九一七)になって、寄席が会社組織となり、三〇〇人余りの芸人が日給制度の下
に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する一五〇人もの芸人が
睦会を結成して対峙しました。
               平成一三年三月
                         墨田区教育委員会





     

墨田区登録有形文化財
初 代 歌 川 豊 国 筆 塚 (断片)

所在地 墨田区業平五丁目七番七号 法性寺
初代歌川豊国(一七六九~一八二五)は、江戸時代後期に活躍し、歌川派を浮世絵界
最大の一派に成長させる基盤を作った人物です。豊国は江戸芝神明前に生まれ、俗名
は倉橋熊吉、父倉橋熊五郎は人形作りの職人でした。そのつながりから浮世絵の世界
に入ったのが十四、五歳の頃と伝えられ、歌川豊春の門人となりました。雅号は一陽斎
で、役者絵と美人画において新境地を拓き、門人には初代国貞(三代豊国)、国安、国芳
をはじめ多数ありました。この石碑は、豊国の三回忌を経た文政十一年(一八二八)に初代
豊国の門人達と地本屋仲間、団扇屋仲間により建てられました。碑にされる内容は、現在
も豊国の伝記の基本資料として位置づけられるものです。碑文には、この碑が豊国の遺筆
数百枝を埋めた上に建てられたことが記されています。碑の撰文は狂歌堂真顔(碑では
狂歌堂四方真顔)、書と篆額は山東京山(山東庵樵者京山)、碑刻は窪世祥が受け持ちました。
失われた原文は飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』などにより知ることができ、初代豊国
の業績や、絵師と文人との交流を知る手がかりとしても貴重な内容を伝えてくれます。
当初は境内の松の奥、墓城の側にありましたが関東大震災で複数に損壊した後失われ、
現存するのはここで見られる断片のみです。
平成二十五年九月
              墨田区教育委員会

Utagawa Toyokuni 1 Stone Monument
Utagawa Toyokuni 1 is a famous ukiyo-e artist in Edo period.He was member of
the Utagawa school and Studied under Utagawa Toyoharu,the master of his school.
There were many disciples under him, such as Kunisada 1 (Toyokuni Ⅲ), Kuniyasu
and KUniyoshi. Calligraphy by Santo Kyozan and carving by kubo Seisho was set up
by his disciples and a group of fan warehousemen. In 1923 The Great Kanto
Earthquake wrecked the stone, eventually leaving only pieces.





 
 東都名所 柳島妙見堂
著 者:一寿斎芳員  出版者:本泉市
          
江戸高名会亭尽 柳嶋之図
絵 師:歌川広重







 名所江戸百景 柳しま絵師:広重
 出版者:魚栄 刊行年:安政4
 
                   
 江戸名所図会 柳嶋妙見:広重






東都三十六景 柳しま妙けん
絵 師:広重
            
絵本江戸土産 10編. [1] 柳嶋妙見の社 広重
著者:松亭金水 解説[他]
出版者:菊屋三郎[ほか]


 






江戸名所図会第4   著者:斎藤幸雄 [等著] (国会図書館蔵)
中央に妙見堂、その左側が「法性寺」 境内の左端に「影向松」がみえます。
右上に十間川(現在の北十間川)がみえます。下の川は現在の横十間川です。







本 所 絵 図









    



        す み だ 清 掃 事 務 所
主な業務概要→〇清掃車両管理 〇ごみ処理券事務
〇基本計画 〇ごみ収集・運搬作業計画
清掃事務所の先の森は柳島妙見山法性寺で、
青色の橋は柳島橋です。
  住 所 / 東京都墨田区業平5丁目6−2
            なりひらホーム
電 話 / 03--5608-6922 時 間 / 8:30~
 






進行方向1~2分のところに押上びりーぶレンタル
スタジオ&ピアノサロンがあり、その先前方右側
カフェチョコプリンがあります。
       







         






横十間川の神明橋を渡ると江東区
で、橋から1分ぐらいの所には萩寺
があり、見事に咲いています。
 
      


    


 






        押上びりーぶレンタルスタジオ&ピアノサロン
暖かい日の光が降り注ぐ明るい雰囲気のピアノサロンの
レンタルスペースが二つ用意されています。
洗練されたスペースはピアノコンサートだけでなく
パーティやイベントなど幅広く利用できます。
キッチンスタジオもあります。
    住 所 / 東京都墨田区業平5-2-5
電 話 / 090-1260-8067





       





           





          





        





澄んだ声と素敵な音程に驚きました!

           





         






       
本 所 防 災 館
東京消防庁により開設された防災学習施設。防災シ
アターを視聴できるほか、地震等の模擬災害の体験
を通じて防災知識及び行動力を高める体験学習開催

  住 所 / 横川4-6-6  電 話 / 03-3621-0119
入 館 料 / 無料   開館時間 / 9:00~
 





         





         









    すみだ保健子育て総合センター 横川コミュニティ会館前



       すみだ保健子育て総合センター
墨田区の保健所・子育て・教育の関連部署が集約する
複合施設で、墨田区保健所、墨田区子育て支援総合センター、
墨田区教育センターが設置されています。
  住 所 / 東京都墨田区横川五丁目7番4号 
電 話 / 03-5608-1587
 





      





        





            





        





        





        





      





        











       フロアガイド・       開館時間 
 1階   総合案内、区民ラウンジ、健診・相談エリア(保健所)     
2階 保健所    保健計画課、生活衛生課、保健予防課、健康推進課
(旧向島・本所保健センター含む)
 
  月曜日から金曜日までの平日 午前8時30分から午後5時まで
(土曜日・日曜日・祝日・年末年始は除く)
 
 3階    教育センター    月曜日から金曜日までの平日 午前9時から午後5時まで
(土曜日・日曜日・祝日・年末年始は除く)
※教育相談室は、土曜日・日曜日も開館しています。
※いじめに関する電話相談(教育相談室)は24時間365日
受け付けています。
 
4階    子育て支援総合センター    月曜日から金曜日までの平日 午前9時から午後6時まで
(土曜日・日曜日・祝日・年末年始は除く)
 









     賛  育 会 病 院



          鬼  平  情  景
    
出 村 の 桜 屋 敷
田坂直右衛門の孫娘・おふさに想いを寄せていた
平蔵と左馬之助が、横川を行くおふさの嫁入り舟を
万感の思いで見送る場面で登場します。
住 所 / 横川1-1






         







鬼 平 情 景
出 村 の 桜 屋 敷

平蔵と左馬之助が青春を刻んだ高杉道場の北側には、田坂直右衛門の広大な屋敷があり、
七十過ぎの当主が奉公人と孫娘のおふさと暮らしていました。ここから道を隔てて斜
向い辺りで、春には庭の山桜の花片が、門弟が稽古に汗を流している道場へ舞い込ん
できたものでした。時にそのおふさが、打ったばかりの蕎麦切と冷酒を下女に持たせ、
祖父から申しつかったと道場に現れました。その初々しい乙女のような姿に、平蔵、
左馬之助ならずともに顔を赤らめ、はにかみ、師匠に揶揄されたものです。おふさ
が日本橋の呉服問屋近江屋へ嫁ぐ日、横川を立派な嫁入り道具を載せた舟に囲まれ、
白無垢姿でゆったりと行く様を道場の門外から両名が万感の思いで見送る場面は心
に残ります。それから二十余年後の展開に
は愕然とさせられます。
                                   墨 田 区
 






        
横 川 一 丁 目 遺 跡 案 内 板 (右側)
(旗本太田家抱屋敷跡)

大 震 災 遭 難 者 追 悼 碑
(左側)
住 所 / 横川1丁目15






左側は横川橋、中央は大震災遭難者追悼碑。 
          
 







横 川 一 丁 目 遺 跡
             (旗本太田家抱屋敷(かかえやしき)三田土護謨(みたつちごむ)会社跡)
                                所 在  横川一丁目十五番

 このあたりを含む本所一帯は、江戸時代の明暦三年 (一六五七) の大火 (振袖火事)
の後に、江戸市街を拡張するために開拓が進められ、元禄年間 (一六八八~一七〇三)
頃になると、周辺に武家屋敷や寺院などが建てられるようになりました。室町時代に
江戸を拠点とした武将太田道灌の墓がある法恩寺も、元禄二年 (一六八九) に現在地
(太平一丁目) に移転してきました。横川一丁目遺跡の場所は、江戸時代の絵図による
と、太田道灌の一族である太田家の抱屋敷があったとされています。また、明治時代
には、ゴム製品材やエボナイト、赤Mで知られる軟式テニスボールなどを製造し、日本
における近代ゴム工業の礎となった三田土護謨製造合名会社がありました。平成九年、
東京都住宅供給公社の都民住宅建設工事にともない、旗本太田家の抱屋敷に関わる
遺跡が確認され、墨田区教育委員会の指導の下に、横川一丁目遺跡調査会が発掘調査
を実施しました。調査の結果、本所開拓のときの盛土層や本所上水の水路とみられる
大溝、大田家抱屋敷の庭園の池や建物、陶磁器や瓦、木製品などの江戸時代の遺構・
遺物が発見されました。また、明治時代のものとして 「三田土」の墨書や焼印のある
木札や板、ゴム製品が出土し、三田土護謨製造合名会社の存在を裏付けています。
このように、横川一丁目遺跡は、この場所の歴史を物語る貴重な埋蔵文化財の
包蔵地(ほうぞうち)
となっています。
平成一一年二月
               三 田 土 会
                墨田区教育委員会





      

建 碑 趣 旨 碑 文
顧レバ大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如トシテ関東一體ニ亙ル未曾有ノ激震ハ
我ガ帝都五百年ノ文化ヲ一朝ニシテ烏有ニ帰セシメ三拾六萬六千戸ノ家屋ヲ焼失シ五萬八千
餘人ノ市民ヲ犠牲トシ損害実ニ三拾七億円ヲ算セリ以テ其ノ惨害ノ激甚ナルヲ知ルベシ
當横川橋畔ハ本區に於ケル第二ノ被服廠トシテ橋脚・隧道ニ橋下ノ船中ニ老幼相扶ケ
父子相擁シテ殃死セルモノ實ニ三千六百有餘人ニ及ヒ其ノ惨状言語ニ絶ス爾来星霜ヲ閲
スルコト拾餘年官民一致復興ニ努力ヲ傾ケ今ヤ帝都ハ全丗界第二ノ都市トシテ中外ニ
誇称スルニ至ル是レ全ク災害犠牲者ノ賜ト謂ヲ可ナリ爰ニ於テ当地附近有志相謀リ特ニ
総理大臣齋藤閣下ノ題字ヲ乞ヒ先ノ事蹟ヲ記念シ永ク殃死者ノ追悼ト市民ノ警醒
ニ資センコトヲ希ヒ石ニ刻シ以テ後昆ニ伝フ矣
       昭和九年九月一日
                            法恩精舎 日肇識






       江戸文字提灯 アトリエ 創藝館
江戸庶民の反骨精神から生まれた「江戸文字」を使い、
提灯の他、看板、表札、木札等を制作しています。
江戸文字(扇子作り・提灯作り・表札他)体験が
できるすみだマイスターの職人工房ショップ
住 所 / 横川3-8-2  電 話 / 03-3622-2381
営業 / 不定休  開館時間 / 10:00~18:00 
 





         





                    





         





         





         





世界デザイン会議 東京2023
2023年10月27日(金)~10月29日(日)


             





大石智弘先生作品集

        





        





         





         





         





         









      法 恩 寺 入 口



        平 河 山 法 恩 寺
長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城に
あたり、丑寅の方角である江戸平河に場内鎮護の祈願所
を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住
上人、開基は太田道灌公で資高の代、本住院を法恩寺と
改称しました。山号を平河山と称するのは、当時この
附近を平川村と称したことによるもので、豊臣秀吉、
徳川家康共に小憩されたところです
住所 / 太平1丁目26-16  電話 / 03-3622-8267





         





           





         






突き当りに東武ホテルが見えます。 
         
本堂の後ろにスカイツリー!
        






上野の寛永寺から来た灯篭だそうです? (法恩寺と彫られた部分に謂れがあるとの事)

                  





              





    

日蓮宗 平河山法恩寺
寺伝によれば、古来法恩寺は平河村(後の江戸城平川口付近にあった村)にあった小さな
草庵で、長禄元年(一四五七)に太田道灌の助成により一寺造栄を果たしました。当初は
道灌が帰依した学徳兼備の住職、日住上人の院号をとって本住院と号しましたが大永四年
(一五二四)に法恩寺に改めたと伝えられています。寺号は道灌の子資康の法号『法恩斉日恵』
にちなんだもので、資康の子資高が父の追善供養のため堂塔を再建したのが改号の機縁
になったとされています。そして、慶長十年(一六〇五)頃に神田柳原へ移転し、慶安二年
(一六四九)頃には再び所在を変えて谷中の清水坂に落ち着きました。また、元禄二年
(一六八九)閏正月二日には幕府の命により当地へ移転し、以後は寺内に二十もの塔頭を
擁する寺院として榮えることになりました。天保七年(一八三六)に出版された
『絵戸名所図会』にはそうした当時の景観が見え、往時の盛栄が偲ばれます。
     平成二十四年八月  墨田区教育委員会
               法恩寺 第五十六世 日元代





江戸名所図会 押上 法恩寺 霊山寺

江戸名所図会 7巻. [18]  国会図書館  著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836] 






            





道 灌 公 記 念 碑

           





            





            





 鬼平犯科帳 「尻毛の長右衛門」の舞台


            





            







池 波 正 太 郎
鬼平犯科帳 「尻毛の長右衛門」の舞台

 引き込みのおすみは橋本屋の勝手口からぬけ出し、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。
彼方に法恩寺の大屋根がのぞまれる。法恩寺は花落本圀寺の触頭で、江戸三箇寺の一であり、
表門を入った両側には塔中が押しならび、境内の稲荷の小祠を中心にした庭園の桜花が、
いまや咲きひらこうとしている。(略)いつものように、布目の半太郎は法恩寺橋の欄干
にもたれて、おすみをまっていた。





花 塚

         







花  塚  の  記
花を愛する心は 人生をいつくしむおもいと同じである四季おりおりの花は
社会や時代を選ばず自然を美しくいろどっているが けがれたところに其の花は
咲かない日本人は花にさまざまな思いを託してきた神を祭仏に備えることから
装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴するものである古人
も花塚を築き花供養を営んだが昭和三十七年九月中村理運氏の発願により花
の道につながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして秋の彼岸
には花供養祭が営まれている敬虔な人々の心は また美しき古の花である。
  昭和四十六年九月





三 重 塔
            





                         





         






         鬼 平 情 景・
    法 恩 寺

鬼平犯科帳では、「本所・桜屋敷」で平蔵と
左馬之助が門前の茶店〔ひしや〕で湯豆腐と熱燗で
二十余年ぶりに旧交を暖める場面に登場します。
 





             





              





        

鬼 平 情 景
法 恩 寺

長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河
に場内鎮護の祈願所を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住上人です。
大永四(一五二四)年、道灌の孫の資高が父資康追善のために堂塔を再建、資康の法名
をもって本住院から法恩寺と改めました。家康入府後は、数回の移転を重ね、元禄元
(一六八八)年に現在の地に定められました。鬼平犯科帳では、数作品に登場します。
「本所・桜屋敷」には平蔵と左馬之助が門前の茶店〔ひしや〕で湯豆腐と熱燗で二十
余年ぶりに旧交を暖める場面が登場します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に寺裏手
の木立の中で布目の半太郎と引き込み役のおすみが逢引きする様子が描かれています。
                                      墨 田 区






           鬼 平 情 景
    高杉銀平道場

十九才の折、平蔵は横川沿いの出村町にあった道場
の門を叩き、入門後は休むこともなく猛烈な稽古に
打ち込みました。肉体だけでなく精神も鍛えられ、
その後の人格形成に大きな力となりました。ここで
生涯の友・岸井左馬之助に出会います。
住 所 / 太平1丁目25-4 






進行方向左側に法恩寺があります。 
            





                    







鬼 平 情 景
高 杉 銀 平 道 場

 義母の苛めに反発、土地のごろつきと放蕩無頼の日々を送っていた平蔵ですが、
十九才の折、ここから道を隔てた横川沿いの出村町にあった道場の門を叩きます。
入門後は世間への欝憤を晴らすかのように休むこともなく猛烈な稽古に打ち込みました。
当然、腕はめきめき上達、肉体だけでなく精神も鍛えられ、その後の人格形成に大きな
力となりました。道場で技量が伯仲し、気も合ったのが岸井左馬之助です。高杉先生から
同時に目録を授けられ、竜虎と呼ばれ、酒食の場にも肩を並べて出かける間柄になりました。
平蔵一家が京都へ赴任して一時、疎遠になりましたが、再開後は、剣友の付き合いを復活
、遊軍として火付盗賊改方を支えていきます。後に道場の食客であった小野田治平の娘、
お静と夫婦になり、春慶寺から下谷の金杉下町へ移り住みます。
                                    墨田区









     錦糸町駅北口



        王貞治のふるさと墨田
世界のホームラン王と云われている王選手!
総合受付のカウンターの手前,名誉区民顕彰
ー ナ ー
に展示室。
電 話 / 03-3623-7273
住 所 / 墨田区錦糸4-15-1 錦糸公園内
営業時間 / 1000~1800  休業日 / 第3月曜日
 





         





         





         





  王貞治選手ゆかりの場所
〇墨田区役所展示コーナー(名誉区民顕彰コーナー)     〇隅田公園少年野球場 (王選手)
〇王貞治氏「野球人生の原点」記念銘板(業平公園内)   〇墨田区立業平小学校ー王貞治選手の母校
〇世界のホームラン王の碑ー王選手自筆の「気力」の文字ー (本所中学校内)

〇墨田区役所展示コーナー
名誉区民顕彰コーナー
福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長

(スカイ姫のつぶやき19南部ルート7へ)

           



〇王貞治氏「野球人生の原点」記念銘板
(業平公園内)
住 所 / 業平2丁目3-2

スカイ姫のつぶやき19南部ルート7へ

     


〇墨田区立業平小学校
王貞治選手の母校
入口の左側に王選手の手形があります!
住 所 / 業平2丁目4番8号

スカイ姫のつぶやき19南部ルート7へ

         


〇世界のホームラン王の碑
王選手自筆の「気力」の文字
住 所 / 東駒形3-1-10 (本所中学校内)

(スカイ姫のつぶやき19南部ルート6へ)

      


〇隅 田 公 園 少 年 野 球 場 (王選手)
世界の ホームラン王、巨人軍王貞治氏も
この 野球場から育ちました。
住 所 / 向島5丁目5
(スカイ姫のつぶやき19北西部ルート6へ)


          






        ひがしんアリーナ(墨田区総合体育館)
子共から高齢者まで幅広い世代がスポーツを楽しめる施設です。
墨田区在住の高齢者(65歳以上)の方は、事前登録にて半額
で都度利用が可能。
子育て支援のために3階には授乳室を設けています。
利用可能時間 / 9:00〜22:30
住 所 / 東京都墨田区錦糸4-15-1
  電 話 / 03-3623-7273





         





        





         






         廣  田  硝  子  (株)
明治32(1899年)創業。東京で最も歴史のある
硝子メーカーの一つです。創業より伝わる貴重な
デザイン資料を元に、江戸切子や吹き硝子など
脈々と受け継がれる手仕事による伝統的製造を
継承し、 現代のインテリアに調和するプロ
ダクトを作り続けています。
電 話 / 03-3623-4145  住 所 / 墨田区錦糸2-6-5  
 





         





         





         






       伊藤左千夫牧舎兼住居跡
明治時代の歌人で小説家としても活躍した
伊藤左千夫の牧舎と住居がありました

住 所 / 東京都墨田区江東橋3-13(錦糸町駅前)  
 





         伊藤左千夫牧舎兼住居跡
Ito Sachio’smonument and ex dwelling and cattle stall
「野菊の墓」で知られる伊藤左千夫が26歳のとき、
牧場と牧舎、住居を建て牛乳搾取業をはじめたのが、
いまのJR錦糸町駅前広場の一角。牛乳搾取業を
営んだことを記念して歌碑が立っています。
Poet and writer ITO Sachio (1864-1913),known for his
sentimental love story ‘Nogiku no haka’, as a young
man had his residence and dairy farm here at what
is now the square of JR Kinshicho station.





         









本所茅場町の牛舎 (左から3人目が左千夫)
岡 麓撮影 明治41年(1908)頃
 上下2点とも資料提供山武市歴史民俗資料館
          
伊藤佐千夫と牛(本所茅場町牧舎にて) 

 

伊藤左千夫牧舎兼住居跡
         所在地  墨田区江東橋三丁目十四番
この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居が
ありました。左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡
殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川
の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区
茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し四畳半一間と土間のついた仮小屋
を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました随想『家庭小言』には
開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家
という評を得たことなどが書かれています。左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年
ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳
の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。
また、子規没後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌
『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、
島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』
が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み
継がれています。この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文
『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった
当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の
江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を
残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。
隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤佐千夫記念会」が
建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」
に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる
左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月
        墨 田 区 教 育 委 員 会






           TOHOシネマズ 錦糸町(楽天地・オリナス)
山田洋次監督こんにちは、母さん上映館

住 所 / 江東橋4-27-14 楽天地ビル
電話番号. 03-5637-1040 (24時間自動音声案内)
 





            






        カッパ像(おいてけ堀)
‘Kappa’ (from the Story of Oitke-bori)
本所七不思議の一つ

住 所 / 江東橋4-17-1





       カッパ像(おいてけ堀)
‘Kappa’ (from the Story of Oitke-bori)

本所七不思議のひとつ「おいてけ堀」。魚を釣って帰ろうと
した釣り人が堀の中から「おいてけ~」という声に驚き、
魚を放り出して逃げたという話で、舞台とされる今の
錦糸堀公園に、声の主といわれるカッパ像があります。
Once a local who was returning home with his catch
taken from the hori (moat) was startled by a voice saying
“leave’em” (oiteke). Tossing back the fish the man ran
for his life .The voice was none other than a legendary
kappa whose statue now marks the spot in Kinshibori-
koen
Park where the incident took place. One of the
Seven strange encounters’ of the Honjyo area.
 





         





         





         





        おいてけ堀「河童」の由来
(本所七不思議の一つ)
その昔、本所周辺には淋しい堀が沢山ありました。そこでは、
たくさんの魚が釣れました。ある日の夕方釣人が、魚を釣って
帰ろうとすると、身体中が、ゾクゾクと、寒けがしました。
すると、堀の中から「おいてけ〃」「おいてけ〃」の声が
したので、釣人は、びっくり仰天魚を置いて、一目散に、
逃げ出しました。何人もが、このような経験をしたために、
何時とは無く、この堀を、おいてけ堀(錦糸堀)と、呼ぶように
なりました。この声の主こそ(河童)と、伝えられています。
    平成七年十月七日建立
    江東橋四丁目町会
おいてけ堀「かっぱ祭」実行委員会







       墨 田 区 弓 道 場
経験者または有段者対象です。
詳細は墨田区弓道連盟 電話 / 03-3612-7887
住 所 / 墨田区江東橋4丁目1−3
電 話 / 03-3633-9463  営業時間 / 9:00~9:00





         





         





         






           五徳山 江東寺(通称:江東観世音)

阪急電鉄や東宝の創始者である小林一三が、街の
発展を願い昭和15年(1940)に群馬県伊香保にある
水沢観音の別院として創建しました。

 
住 所 / 江東橋3-6-5





       江 東 寺 
Kotoji Temple
阪急電鉄や東宝の創始者である小林一三が、街の発展を願い昭和15年
(1940)に群馬県伊香保にある水沢観音の別院として創建しました。
東京大空襲で被災した後、観音堂が再建され、今日に至っています。
Ichizo Kobayashi the founder of Hankyu Railway and Toho, w
ho was wishing for the development of the town,built Koto-ji
Temple in 1940 as a branch temple of Mizusawakannon Temple
located in ikaho, Gumma. Its Kannon-do Hall was reconstrucated
after being damaged by the Great Tokyo Air Raids






         





         









     すみだトリフォニー ホール入口



         すみだトリフォニーホール

住 所 / 錦糸1-2-3  電 話 / 03-5608-5400






       すみだトリフォニーホール
Sumida Triphony Hall
 音楽都市すみだの拠点となる本格的コンサートホール。アコース
ティックな音楽を聴くのに最適な大ホールと、アーティスト体験
の場として幅広く利用できる小ホールがあります。新日本フィル
ハーモニー交響楽団の活動拠点でもあります。

This well-designed concert facility is the home base for the
New Japan Philharmonic orchestra and hosts many other
musical events that promote Sumida’s reputation as a city
of music and culture. It houses two halls. The larger hall with
fine acoustics is dedicated to musical performances including
occasional pop concerts. The smaller one,besides various musical
recitals, also hosts lectures and workshops.





         





         






         撞 木 橋(しゅもくばし)
堅川と横川の合流付近に、本所・深川のまちまち
に時を告げる「時の鐘」がありました。鐘を打ち
鳴らす撞木 (しゅもく) から近くにあった北辻橋、
南辻橋、新辻橋の3つの橋を「撞木橋」と名づけ
られたが、昭和63年(1988)に撤去されました。

住 所 / 緑4-22
   





         撞木橋 (時の鐘) 跡碑
This Marks the Site of the Shumoku Bridges (and Bell)

堅川と横川の合流付近に、本所・深川のまちまちに時を告げる
「時の鐘」がありました。鐘を打ち鳴らす撞木 (しゅもく) から
近くにあった北辻橋、南辻橋、新辻橋の3つの橋を「撞木橋」
と名づけられたが、昭和63年(1988)に撤去されました。
Near the former junction of the Tatekawa and Yokokawa
rivesr in mid 17th century stood a bell regularly rung to
announce the hours for the Honjo and Fukagawa
neighborhoods, Three nearby bridges: Kitatsuji,
Minamitsuji, and Shintsuji were called the Shumoku
bridges after the wooden hammer (shumoku) used to
strike the bell. They were dismantled in 1988






         





         





         

撞 木 橋 の 由 来
ここに架かっていた撞木橋は万治2年(1659)当時の本所奉行徳山五兵衛、山﨑四郎左衛門
両名によって墨田区江東橋一丁目より、同緑四丁目の大横川に架けられました。
最初は長さ10間、幅2間の木橋でしたが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年
7月には、鋼橋(トラス)になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業により、
この役目を終えて昭和62年10月に撤去されました。
なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」
の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。
その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。





         







時 の 鐘 跡
 住 所  墨田区緑四丁目二十二番
大横川の左岸には時の鐘を撞(つ)く鐘楼(しょうろう)がありました。江戸時代、
時を知らせる手段は鐘を撞くこと以外にはありませんでした。そのため、江戸城
で打ち出された太鼓の音(のちに日本橋本石町(ほんごくちょう)の鐘楼の鐘)を、周辺の
鐘楼が鐘の音に換えて打ち出し、順次この鐘の音を引き継いで江戸の隅々へと時を知
らせていきました。従って、江戸城と周辺の町内とでは、少し時間にずれが生じるのが
普通でした。また、当時は不定時法を採用していたことから、季節に応じて時間の長さ
が変化しました。従って夜明けは常に明け六ツ(六時)、日没は常に暮れ六ツ(六時)
だったのです。日本橋本石町の鐘の音は、ここ本所の鐘楼に伝えられました。鐘楼の
近くには時鐘屋敷(緑四丁目十番・二十一番の境)があり、町会で選ばれた撞き番の人
が待機していたそうです。
平成十九年三月
                              墨田区教育委員会






菊 柳 橋 ( 大横川下流 )
川の両サイドが桜並木


         






        芥 川 龍 之 介 の 文 学 碑
(大川の水)は大正3年(1914年)4月1日発行
の雑誌『心の花』第18巻第4号に柳川隆之介
の署名で掲載されました。
住 所 / 江東橋1-7-14
(東京都立両国高等学校附属中学校内)





         





         





     

「大川の水」(抜粋)
 もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと
答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、
大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は
大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。






       国産マッチ発祥の地
日本で初めてマッチを生産した清水誠の新燧社(しんすいしゃ)
所在地を記念するもので、1986年に建立されました。
清水誠は加賀藩士の子で、1870年にフランスの
理工系学校の名門エコール・サントラル・パリに
留学した際に学んだ知識がマッチ開発の際に役立
ったと言われています。

住 所 / 江東橋1-7-14 





         





         






      

史 跡 勝 海 舟 揺 籃 の 地
(五柱稲荷神社内)
住 所 / 緑 4-11-6 





         





             






       
勝海舟居住の地━旗本岡野氏屋敷跡
 父母とともに本所の旗本屋敷を転々としましたが、
天保二年(一八三一)頃ここにあった岡野氏の
屋敷に落ち着き、十代後半までの多感な時期を過
ごしたといわれています。

住 所 / 緑 4-35-6





         





       

勝 海 舟 居 住 の 地━━旗本岡野氏屋敷跡━━
           所在地 墨田区緑四丁目三十五番六号

勝海舟(麟太郎(りんたろう))は、文政六年(一八二三)に両国にあった父勝惟寅(これとら)
の実家、男谷(おたに)氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。その後、父母とともに
本所の旗本屋敷を転々としましたが、天保二年(一八三一)頃ここにあった岡野氏の屋敷に
落ち着き、十代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。麟太郎は後に幕臣として
出世を果たし、激動の時代に活躍の場を広げてゆきます。麟太郎が世話になった岡野氏は後
北条氏の旧臣板部岡江雪(いたべおかこうせつ)を祖とする旗本で、文政九年十二月の屋敷替え
を経て、同十年三月ごろに当地に移住していました。家の経営費を捻出する為の屋敷替で
あったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わり
に旧居の半分ほどしかない屋敷に移住していたようです。幕府創業期より続く由緒ある武家
とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫(ひっぱく)していたようです。このため、幕末維新の
時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。
正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした
武家凋落の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。
 平成二十五年一月
             墨田区教育委員会 






       鬼 平 情 景
    相 模 の 彦 十 の 家

彦十が密偵となる前から住んでいた家です。
彦十は本所松井町の「岡場所」に巣食う香具師
あがりの無類者で、若かりし平蔵が放蕩無類の
暮らしを送っていた頃からの取り巻きの1人
です。密偵に転じるとその働きには目を見張る
ものがありました。
住 所 / 亀沢4-14-6





         





      

鬼 平 情 景
相 模 の 彦 十 の 家

密偵となる前から住んでいた家で、一時、大滝の五郎蔵も同居していました。後に
引き払い、本所・二ツ目橋の軍鶏なべ屋〔五鉄〕の二階へ寄宿します。「本所・桜屋敷」
で平蔵が二十余年ぶりに南割下水で偶然出会うシーンが出てきます。平蔵が若かりし頃、
本所は松井町の岡場所に巣食う香具師上りの無頼者で、取り巻きの一人でした。〔小川や梅吉〕
の探索を頼まれ、密偵に転じます。その後の働きは枚挙に遑(いとま)のないほどです。昔
馴染みだけに、長官の平蔵を「銕つぁん」「親分」などと気安く呼び、周りを唖然とさせ
ますが、平蔵も「悪い友だちを持ったものよ」とあまり意に介さず、ちょいと頭の
上がらないところがあります。
                                    墨 田 区









     亀 沢 三 丁 目



       公 立 本 所 小 学 校 跡
久保尊保 (田安徳川家旧臣) が明治4年(1871)に開いた
私塾松川堂が明治7年5月に公立本所小学校となりました。
明治8年11月に新築された校舎は、日本で本格的な洋風
建築が普及する前に建てられた擬洋風建築の建物です。
開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の
寄附を受けたため尾張学校とも呼ばれました。

住 所 / 亀沢4-11-15
 





         












公 立 本 所 小 学 校 跡
   所在地  墨田区亀沢四丁目11番15号  墨田区立堅川中学校
当地にほど近い亀沢三丁目13番地には、久保尊保 (田安徳川家旧臣) が明治4年(1871)
に開いた私塾、松川堂しょうせんどうがありました。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校
となり、明治8年11月、当地に校舎が新築されました。校舎は日本で本格的な洋風建築が普及(ふきゅう)
する前に建てられた擬洋風建築(ぎようふうけんちく)の建物で、バルコニーに唐破風(からはふ)
を付けた二階建ての洋風建物を中央に配し、その両側にガラス戸をはめ込んだ平屋の
和風建物が接続していました。本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家
より多額の寄附を受けました。(このため尾張学校とも呼ばれました)。徳川家の資料の中
には校舎を撮影した写真が残され、文明開化の息吹を伝える建物が本所地域の子供たちの
新しい教育の場になったことをよく伝えています。児童256名、教員5名から始まった
本所小学校は、明治44年 (1911) には児童2094名、教員30名を数えるまでになり、廃校
となる昭和21年 (1946) までの間に8,000名を超える卒業生を送り出しました。
平成30年11月10日
                  墨田区教育委員会






      河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地
“日本のシェイクスピア”と呼ばれた歌舞伎の作者
河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼
ばれた狂言作者です。 江戸日本橋の商家に生まれ
ましたが、遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活
を送る中で細木(さいき)香以らと交流を深めました。
歌舞伎を始め、狂歌や茶番などに通じ、二十歳で五代目
鶴屋南北に弟子入りをし、勝諺蔵と名乗りました。
幕末の人びとを生き生きと描き出した三六〇編に
及ぶ作品を残しました。
住 所 / 亀沢2-11-11 





         





           

河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地
                         所在地 亀沢二丁目十一番
河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。黙阿弥の
本名は吉村芳三郎。江戸
日本橋の商家に生まれるも遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以(さいきこうい)らと
交流を深めました。歌舞伎をはじめ、狂歌や茶番などにも興じ、ニ十歳で五代目鶴屋南北に入門、
勝諺蔵(かつげんぞう)を名乗りました。後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永七年 (一八五四) に
江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)(忍ぶの惣太)」が四代目
市川小団次との提携で大当たりを取り、「小袖曽我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)
(十六夜清心(いざよいせいしん)) 」、「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)
など、現在も上演される作品を次々と世に送り出してゆきました。七五調の美しい台詞を
巧みに活かして幕末の人々を生き生きと描き出し、三六〇編に及ぶ作品を残しました。
明治の新時代にも活躍、明治十四年 (一八八一) に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、
その後も劇作の筆を置くことはありませんでした。明治二十年三月、黙阿弥は浅草の自宅
を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南双葉町三十一番地(現亀沢二丁目十一番)に
自宅を新築し、転居しました。周囲に塀をめぐらせた広い新宅は南割下水(現北斎通り)の
ほど近くにあり、庭には潮入の池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られて
いました。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で六年間を過ごし、九代目市川團十郎
のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。黙阿弥
の人柄は彼の作品とは対照的で、穏やかでもの静かであったとされています。自らの死も
予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理、友人への挨拶まわりなど
なすべきことを終えて、明治二十六年一月二十二日に七十七年の生涯を閉じました。
 平成二十七年一月
                     墨田区教育委員会

Final Resting place of Kawatake Mokuami
A legendary writer of Kabuki plays, Kawatake Mokuami was called“the great warehouse
of Edo drama”by famed author Tsubouchi Shoy. Originally born as Yoshimura Yoshisaburo
to a merchant family in the Nihonbashi district of Edo, Mokuami was disowned by his
family for Indulging in worldly pleasures, At the age of 20, he became an apprentice of
Kabuki playwright Tsuruya Namboku V, later taking the name of Kawasaki Shnshichi
11. In 1854, the Mokuami-penned “Miyakodori Nagare No Shiranami” (commonly called
“Shinobu No Sota”)was performed on stage. It was in this play, which he produced in
collaboration with Ichikawa Kodanji 1V、that Mokuami found his breakthrough work.
Numerous leading plays by Mokuami including “Kosode Soga Azami No Ironui”(commonly
called“Izayoi Seishin”)and “Sannin Kichisa Kuruwa No Hatsugai”continue to be performed
today. In total, he penned over 360 works. In March 1887 , Mokuami relinquished his
abobe in Asakusa to Kawatake Shinshichi Ⅲ and built a new residence here in what
is now Kamezawa 2-chome 11-ban, to which he then relocated. Surrounded by a canal,
this home hosts a pond as wellas a two-story storehouse and an annex that Mokuami
used as a study. He spent six years being called “the master of Honjo (an Edo suburb),”
during which he penned the likes of “Momijigari”for ichikawa Danjuro Ⅸ and
“Modoribashi” for Onoe Kikugoro V. Mokuami was said to have a gentle personality,
and Spent his last days organizing his library, paying visits to his friends, and otherwise
taking care of what he had left to do. The final chapter In his life of 77 years closed
on January 22. 1893.









     すみだ北斎美術館前 (津軽家上屋敷跡)


       三 遊 亭 圓 朝 住 居 跡
三遊亭圓朝(一八三九~一九〇〇)は、江戸時代
後期から明治時代にかけて活躍した落語家です
※三遊亭円朝旧居跡が新宿区新宿1丁目21、
新宿区立花園公園内にあります。
住 所 / 亀沢2-13-7 (亀沢第一児童遊園内)





         





              

三 遊 亭 圓 朝 住 居 跡
           所在地 墨田区亀沢二丁目十三番七号
 三遊亭圓朝(一八三九~一九〇〇)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍
した落語家です。本名は出渕(いずぶち)次郎吉。父は二代目三遊亭圓生の門人橘家
圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。初舞台は弘化二年(一八四五)
三月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から
離れました。池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と
同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。
 その後、再び圓生門に戻り十七歳で圓朝を称します。元治元年(一八六四)に
二十六歳で両国垢離場(こりば)の昼席の真打となります。人情噺、怪談噺、落し噺
などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に
押し上げました。圓朝は明治九年(一八七六)十月に浜町から本所南二葉町二十三番地
(この公園の南側、現在の亀沢二丁目十二番)に移り、同二十八年に牛込に転居
するまでの十九年間をこの地で過ごしました。この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助
をモデルにした名作『塩原多助一代記』を生み、明治二十二年四月には三遊派の隆盛
を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。代表作に「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)
「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結(ぶんしちっもとい)」など
多数あります。
                      平成二十五年三月
                      墨田区教育委員会」






         すみだ北斎美術館

葛飾北斎を区民の誇りとして、永く顕彰すると
ともに、新たな文化創造の拠点として、平成28年
(2016) 11月に開館した美術館です


住 所 / 亀沢2-7-2   
 電 話 / 03-6658-8936





       すみだ北斎美術館
The Sumida Hokusai Museum

すみだで生まれ、その生涯のほとんどをすみだで過ごした、
世界的に有名な浮世絵師・葛飾北斎 (1760-1849) 。北斎を区民
の誇りとして、永く顕彰するとともに、新たな文化創造の拠点
として、平成28年 (2016) 11月に開館した美術館です。

Katsushika Hokusai (1760-1859) is a world-renowned ukiyo-e
artist who was born in November 2016, the Sumida Hokusai
Museum is a museumdedicated to the artist, and one which is
intended to permanently celebrate him as honored citizen of
Sumida City as well as to function as a new focal point for
the creation and nurturing of culture. 





         





         





         





            
北斎ラーメン  





         





         





         





          






       緑 町 公 園
昭和5年3月31日開で、ロープで作られたジャングルジム
のザイルクライミングが魅力の一つです。


&緑町公園の立札色々
(江戸の町江川太郎左衛門屋敷跡前 両国物語津軽の太鼓
津軽家上屋敷跡 江戸の町南割下水)

住 所 / 墨田区亀沢2 -7 -
7





         





         





           

江 戸 の 町
江川太郎左衛門屋敷跡前 9
江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門は江川家の代々の当主の通称です。
なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(一八〇一~五五)です。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な
沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防衛のため、江戸湾内
に数ヵ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。
この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年
振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。
                                    墨 田 区





        

両 国 物 語
津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡 8

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を
知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知
らせていました。なぜ、この屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのか誰も知らず、不思議なこととされて
いました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、伝説などの伝
わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。この「津軽の太鼓」には
「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。
                                             墨 田 区





         

江 戸 の 町
南 割 下 水

明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、堅川、大横川、
北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を
集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。幅は
一間(約一・八メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の
「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。昭和初期に埋め立てられ
ましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。
また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。
                        墨 田 区





        

絵 画 と 文 学
Birthplace of Ukiyo-e artist,Hokusai
葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦十(一七六0)年九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を
出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立
させて、多くの名作を遺しました。代表作『富嶽三十六景』は、天保二(一八三一)年から天保四(一八三三)
年にかけて製作。とても七十歳を過ぎてからの作品とは思えません。八十歳を過ぎても創作意欲は衰えず、
死の床に就いた嘉永二(一八四九)年、「あと一〇年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の
画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい
臨終の言葉でした。
墨 田 区






       江川太郎左衛門邸跡
韮山に鉄製大砲を製造するための
反射炉を建設したことでも知られています。

この地で五十五歳の生涯を閉じ、韮山の本立寺
に葬られました

住 所 / 墨田区亀沢1-3-12
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江川太郎左衛門屋敷跡
 所在地 墨田区亀沢一丁目三番
 幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍は、享和元年(一八○一)現在の静岡県伊豆の国市韮山に生まれました。
天保六年(一八三五)三十五歳の時、韮山代官に就任し、伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐の五か国の天領
(幕府の直轄地)を管理していました。代官の役所は韮山と江戸の二か所にあり、韮山役所で伊豆国・
駿河国駿東郡の支配にあたり、残りは江戸屋敷で管理していました。嘉永七年(一八五四)の頃には、
最も多くの家来を召し抱えており、江戸屋敷には手付三人、手代十四人がいたようです。
 韮山代官となった英龍は、領民のために誠実な仕事を行ったので、郡内地方では、端午の節句に
世直江川大明神」と書かれた紙のぼりを立てていたようです。その後、海防の視点から、西洋文化
の知識を積極的に摂取し、品川台場の建設などに尽力しました。韮山に鉄製大砲を製造するための
反射炉を建設したことでも知られています。また、外国からの攻撃に備え、保存性、携帯性にも優
れていた乾パン(兵糧パン)を日本で初めて考案し焼かせたことでも有名です。
 安政二年(一八五五)一月十六日、この地で五十五歳の生涯を閉じ、韮山の本立寺に葬られました。
  平成二十八年二月  墨田区教育委員会」

The Site of Homestead for Egawa Tarozaemon
Egawa Tarozaemon (1801-1855) was a servant of the Tokugawa Shogun, who actively learned military
knowledge from Western countries and was dedicated to the defense of Edo Bay (the current Tokyo Bay)
in the first half of the 19th century .He is also famous for the construction of reverberator in Nirayama
in the Izunokuni City of Shizuoka prefecture which naw is aunthorized as a World Heritage.
This is the homestead Site for Egawa.





 
幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだ
その子英敏が完成させました。韮山反射炉は、実際に
稼働した反射炉として国内で唯一現存するものです。
         
重要文化財 江川家住宅 
江川邸
〒410-2143
静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地
TEL: 055-940-2200






        【MERIKOTI(メリコティ)】
布 ぞ う り

“メリヤス”の「MERI」と北欧の言葉で“ふるさと”
をあらわす「KOTI」・「メリヤスのふるさと」
に由来しています。
住 所 / 亀沢1-12-10  電 話/070-6986-0708
営業時間 / 10:00 - 18:00  月曜定休





         





         





         





         

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つぶやきいってみよう(お店・工場関係)

     柳嶋妙見山法性寺入口

カフェチョコプリン  パドルクエスト(カヤック・カヌー・SUNの専門店


      法 恩 寺 入 口

 ね こ ず き(厚焼きホットケーキのお店) 


      錦糸町駅北口

東武ホテルレバント東京

     すみだトリフォニー ホール入口

大 心 堂 お こ し《古 代》 

     亀 沢 三 丁 目

CAFE BONFINO本店(YKKブラジルコーヒー農場直送の豆) 

   すみだ北斎美術館前 (津軽家上屋敷跡)

東あられ両国本店  元祖 浪花屋本店(たい焼き)  東京両国・江戸蕎麦・ほそ川  




     柳嶋妙見山法性寺入口




        カフェチョコプリン
シフォンケーキが量り売りで美味しくて嬉しいお値段です。
以前、名古屋の駅ビルのお店で初めて出合い、あまりの
美味しさに驚きました。幟を見て、思わず入りましたが、
リピートしてしまいました。)
住 所 / 業平4-5-18 電 話 / 03-5619-8831
定休日 / 火・水    時 間 / 12時から
 





         





         





         





小さなプチケーキ
美味しくて可愛くて、おとぎ話から飛び出た感じがしました!


                  






         パドルクエスト
PADDLE QUEST
都心唯一のカヤック・カヌー・SUNの専門店
住 所 / 業平4-6-11 電 話 / 03-6456-1712
休業日 / 火曜日・水曜日
営業時間 / 月、木、金:15:00~19:00
     土、日、祝:12:00~19:00





         





         





         





         





         





         





       法 恩 寺 入 口



       ね こ づ き
厚焼きホットケーキのお店
住 所 / 太平3-14-2 電 話 / 03-6456-1392
定休日 / 月火曜





         




    
     錦糸町駅北口



      
東武ホテルレバント東京
東京スカイツリーを望む絶景!
住 所 / 錦糸1-2-2  電 話 / 03-5611-5511





         





                    





            





      すみだトリフォニー ホール入口



      
大 心 堂 雷 お こ し《古代》
(工場店舗)

美味しいと有名です!
住 所 / 亀沢4-23-11 電 話 / 03-3624-8961
定休日/毎週日曜&祝祭日

時間:9:00~6:00
  





         





     亀 沢 三 丁 目



      
CAFE BONFINO 
カフェ・ボンフィーノ 本店

YKKブラジルコーヒー農場直送の豆です!
住  所 / 亀沢3-22-1(YKK 60ビル別館)
電 話 / 03-5610-8183 営業時間 / 10:00~17:30
休業日 土、日、祝日 





         






     すみだ北斎美術館前 (津軽家上屋敷跡)


       
東 あ ら れ 両 国 本 店
明治43年創業
住 所 / 亀沢2-15-10 電 話 / 03-3624-9733
営業時間 / 9:00 - 19:00  定休日 / 年中無休
            (1/1~1/3除く) 





         





         






       

東京両国 江戸蕎麦 ほそ川
 住 所 : 亀沢1丁目6-5  電 話 : 03-3626-1125 
定休日 : 毎週月曜日、第1、第3火曜日
営業時間 : 11:45~14:30 17:30~21:00 





         






      
元祖 浪 花 家 本 店
麻布十番たい焼き浪花屋の暖簾分け店
住 所 / 亀沢1-24-2 電 話 / 03-3623-2667
定休日 / 毎月第2第4月・日曜日
時 間 / 10:00~18:00 (月~金)
   10:00~16時(土) 





         





         

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