つぶやき街角南部ルート
➀・押上 駅~両国駅西口 <回向院入口>

( スカイ姫のつぶやき19 )

                                                ト ッ プ ペ ー ジ ヘ
 
バ ス 停 ル ー ト 一 覧 表


                                         バス停にリンクします
      

      

      






       柳嶋妙見山法性寺入口




      柳嶋  妙見山  法 性 寺

葛飾北斎が信仰していた寺としても有名で、北斎は
法性寺の「妙見堂」を題材とした「柳嶋妙見堂」
「妙見宮」等の作品を数多く残しています。歌川
広重・豊国・中村仲蔵・市川左団次・六代目菊五郎・
六世桂文治など多くの名優や画伯などが吉運を開
いたとも伝えられています
住 所 / 業平5-7-7     電  話 / 03-3625-3838





            






             






            






            








「昔ばなし柳塚」

所在 墨田区業平五丁目七番法性寺内
 
この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(一八八四)三遊派・柳派に分裂して覇をいうようになりました同二二年(一八八九)には三游派の記念碑「三游塚」が区内の木母に建立されています。やがて大正六年(一九一七)になって、寄席が会社組織となり、三〇〇人余りの芸人が日給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する一五〇人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。

               平成一三年三月
                         墨田区教育委員会






            

墨田区登録有形文化財
初代歌川豊国筆塚 (断片)
   
所在地 墨田区業平五丁目七番七号 法性寺
 
初代歌川豊国(一七六九~一八二五)は、江戸時代後期に活躍し、歌川派を浮世絵界最大の一派に成長させる基盤を作った人物です。豊国は江戸芝神明前に生まれ、俗名は倉橋熊吉、父倉橋熊五郎は人形作りの職人でした。そのつながりから浮世絵の世界に入ったのが十四、五歳の頃と伝えられ、歌川豊春の門人となりました。雅号は一陽斎で、役者絵と美人画において新境地を拓き、門人には初代国貞(三代豊国)、国安、国芳をはじめ多数ありました。この石碑は、豊国の三回忌を経た文政十一年(一八二八)に初代豊国の門人達と地本屋仲間、団扇屋仲間により建てられました。碑にされる内容は、現在も豊国の伝記の基本資料として位置づけられるものです。碑文には、この碑が豊国の遺筆数百枝を埋めた上に建てられたことが記されています。碑の撰文は狂歌堂真顔(碑では狂歌堂四方真顔)、書と篆額は山東京山(山東庵樵者京山)、碑刻は窪世祥が受け持ちました。失われた原文は飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』などにより知ることができ、初代豊国の業績や、絵師と文人との交流を知る手がかりとしても貴重な内容を伝えてくれます。当初は境内の松の奥、墓城の側にありましたが関東大震災で複数に損壊した後失われ、現存するのはここで見られる断片のみです。
平成二十五年九月
              墨田区教育委員会 


Utagawa Toyokuni 1 Stone Monument
Utagawa Toyokuni 1 is a famous ukiyo-e artist in Edo period.He was member of the Utagawa school and Studied under Utagawa Toyoharu,the master of his school.There were many disciples under him, such as Kunisada 1 (Toyokuni ), Kuniyasu and KUniyoshi. Calligraphy by Santo Kyozan and carving by kubo Seisho was set up by his disciples and a group of fan warehousemen. In 1923 The Great Kanto Earthquake wrecked the stone, eventually leaving only pieces.






 
東都名所  柳島妙見堂
一寿斎芳員(歌川 芳員)
 
               
江戸高名会亭尽  柳嶋之図  
初代歌川 広重
 






 
  東都三十六景  
柳しま妙けん
二代 歌川 広重
                     
名所江戸百景 
 柳しま
初代歌川 広重 
 







本 所 絵 図









       




               本 所 防 災 館
東京消防庁により開設された防災学習施

 防災シアターを視聴できるほか、地震体験、
消火体験、煙体験、応急手当体験、
都市型水害体験などの防災体験ができる
住 所/横川4-6-6    電  話/03-3621-0119
     入館 料 / 無料      開館時間 /9:00~





             






             








       賛  育  会  病  院




              

 ア ト リ エ 創 藝 館

江戸文字
(扇子作り・提灯作り・表札他)体験ができる
すみだマイスターの職人工房ショップ
住 所/横川3-8-2     電  話/03-3622-2381
     休 館 日/不定休      開館時間 /10:00~18:00





            






             






             






弓 張 提 灯 い ろ い ろ

                        






             






             






             






                大 雲 寺 (役者寺)


住 所 / 業平三丁目
    





        大 雲 寺 跡
Site of the former Daiunji Temple
初代中村勘三郎や五代目尾上菊五郎など歌舞伎俳優の墓が数多くあることから「役者寺」と呼ばれた大雲寺の跡地です。関東大震災ですべての堂が焼失し、昭和6年 (1931) に現在の江戸川区西瑞江に再建されました。

This is the site where the Daiunji Temple was previously stood, which was also called “Yakusyaji Temple”(Kabuki-Actors’ Temple) because there are many graves of kabuki actors including First NAKAMURA Kanzaburo and Fifth ONOE kikugoro, All the buildings were burnt down in the Great Kanto Earthquake and this temple was rebuilt in current location of  Nishi-Mizue, Edogawa-ku in 1931.





             






           

大 雲 寺 ( 役者寺 ) 跡
   所在地  墨田区業平三丁目二番、一、三、四番の一部
 この地は「役者寺」とも「赤門寺」とも呼ばれた浄土宗知恩院末の寺院跡です。
本尊は運慶(うんけい)作の阿弥陀如来と伝えられています。元和六年 (一六二〇) に梵譽(ぼんよ)貞存が浅草森田町に創建しました。寛文八年 (一六六八) に類焼したため、本所押上村に新しい土地を幕府から拝領しました。江戸幕府による市街地の拡張の一環として行われた最初の本所・深川の開拓に伴う移転だったと考えられます。歌舞伎の初代中村 (猿若) 勘三郎以後十三代、初代市村羽左衛門(うざえもん)以後十六代、さらには四、五、六代松本幸四郎や初代、三、五、六代の尾上(おのえ)菊五郎ら多くの歌舞伎役者たちの菩提寺であることから「役者寺」とも呼ばれました。関東大震災を契機として、昭和六年 (一九三一) 、現在の江戸川区西瑞江二丁目に移転しました。平成十年、この大雲寺の範囲の一画であった墨田区職員住宅の建築に伴い、江戸時代の埋葬墓等の遺構が発見され、発掘調査が実施されました。
   平成二十年三月
            墨田区教育委員会









        法  恩  寺  入  口




        法 恩 寺

法恩寺は長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城
にあたり、丑寅の方角である江戸平河に場内鎮護の祈
願所を設けたことに始まるとされます。
開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公で資高の
代、本住院を法恩寺と改称しました
山号を平河山
と称するのは、当時この附近を平川村と称したことに
よるもので、秀吉、家康共に小憩されたところです

住所 / 太平1丁目26-16  電話 / 03-3622-8267





            






            






            






            






    

日蓮宗 平河山法恩寺

寺伝によれば、古来法恩寺は平河村(
後の江戸城平川口付近にあった村)にあった小さな草庵で、長禄元年(一四五七)に太田道灌の助成により一寺造栄を果たしました。当初は道灌が帰依した学徳兼備の住職、日住上人の院号をとって本住院と号しましたが大永四年(一五二四)に法恩寺に改めたと伝えられています。寺号は道灌の子資康の法号『法恩斉日恵』にちなんだもので、資康の子資高が父の追善供養のため堂塔を再建したのが改号の機縁になったとされています。そして、慶長十年(一六〇五)頃に神田柳原へ移転し、慶安二年(一六四九)頃には再び所在を変えて谷中の清水坂に落ち着きました。また、元禄二年(一六八九)閏正月二日には幕府の命により当地へ移転し、以後は寺内に二十もの塔頭を擁する寺院として榮えることになりました。天保七年(一八三六)に出版された『絵戸名所図会』にはそうした当時の景観が見え、往時の盛栄が偲ばれます。
     平成二十四年八月  墨田区教育委員会

               法恩寺 第五十六世 日元代






            








花  塚  の  記

花を愛する心は 人生をいつくしむおもいと同じである四季おりおりの花は 社会や時代を選ばず自然を美しくいろどっているが けがれたところに其の花は咲かない日本人は花にさまざまな思いを託してきた神を祭 仏に備えることから装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴するものである古人も花塚を築き 花供養を営んだが昭和三十七年九月中村理運氏の発願により花の道につながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして秋の彼岸には花供養祭が営まれている 敬虔な人々の心は また美しき古の花である
  昭和四十六年九月






            






鬼平犯科帳 「尻毛の長右衛門」の舞台

            






       

池波正太郎
鬼平犯科帳 「尻毛の長右衛門」の舞台
 引き込みのおすみは橋本屋の勝手口からぬけ出し、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。彼方に法恩寺の大屋根がのぞまれる。法恩寺は花落本圀寺の触頭で、江戸三箇寺の一であり、表門を入った両側には塔中が押しならび、境内の稲荷の小祠を中心にした庭園の桜花が、いまや咲きひらこうとしている。(略)いつものように、布目の半太郎は法恩寺橋の欄干にもたれて、おすみをまっていた。






          

法 恩 寺
鬼平犯科帳では、「本所・桜屋敷」で平蔵と
左馬之助が門前の茶店〔ひしや〕で湯豆腐と
熱燗で二十余年ぶりに旧交を暖める場面に登場
します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に寺裏
手の木立の中で布目の半太郎と引き込み役のお
すみが逢引きする様子が描かれています。





            






       

鬼 平 情 景
法 恩 寺


長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に場内鎮護の祈願所を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住上人です。大永四(一五二四)年、道灌の孫の資高が父資康追善のために堂塔を再建、資康の法名をもって本住院から法恩寺と改めました。家康入府後は、数回の移転を重ね、元禄元(一六八八)年に現在の地に定められました。鬼平犯科帳では、数作品に登場します。「本所・桜屋敷」には平蔵と左馬之助が門前の茶店〔ひしや〕で湯豆腐と熱燗で二十余年ぶりに旧交を暖める場面が登場します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に寺裏手の木立の中で布目の半太郎と引き込み役のおすみが逢引きする様子が描かれています。
                                      墨田区






           

高 杉 銀 平 道 場
十九才の折、横川沿いの出村町にあった道場の門
を叩き、入門後は休むこともなく猛烈な稽古に
打ち込みました。肉体だけでなく精神も鍛えられ、
その後の人格形成に大きな力となりました。

住 所 / 太平1丁目25-4   






進行方向左側に法恩寺があります。 
              








鬼 平 情 景 
高 杉 銀 平 道 場


 義母の苛めに反発、土地のごろつきと放蕩無頼の日々を送っていた平蔵ですが、十九才の折、ここから道を隔てた横川沿いの出村町にあった道場の門を叩きます。入門後は世間への欝憤を晴らすかのように休むこともなく猛烈な稽古に打ち込みました。当然、腕はめきめき上達、肉体だけでなく精神も鍛えられ、その後の人格形成に大きな力となりました。道場で技量が伯仲し、気も合ったのが岸井左馬之助です。高杉先生から同時に目録を授けられ、竜虎と呼ばれ、酒食の場にも肩を並べて出かける間柄になりました。平蔵一家が京都へ赴任して一時、疎遠になりましたが、再開後は、剣友の付き合いを復活、遊軍として火付盗賊改方を支えていきます。後に道場の食客であった小野田治平の娘、お静と夫婦になり、春慶寺から下谷の金杉下町へ移り住みます。
                                    墨田区









         錦 糸 町 駅 北 口





            墨 田 区 弓 道 場

経験者または有段者対象です。
詳細は墨田区弓道連盟 電話:03-3612-7887

住 所 / 墨田区江東橋4丁目1−3
電 話 / 03-3633-9463  営業時間 / 9:00~9:00 





             






             






             






            廣  田  硝  子  (株)
明治32年創業
硝子の美術館!
電 話 / 03-3623-4145
住 所 / 墨田区錦糸2-6-5 





             






             






             






            墨田区総合体育館

利用可能時間・・・9:00〜22:30
(営業時間 / 8:30〜23:00)
電 話 / 03-3623-7273
住 所 / 墨田区錦糸4-15-1 錦糸公園内 





             






             






             






             






            野菊の如(ごと)き君なりき

明治時代の歌人で小説家としても活躍した
伊藤左千夫の牧舎兼住居跡・歌碑
住 所 /江東橋3-13(錦糸町駅前) 





            









本所茅場町の牛舎
(左から3人目が左千夫)
岡 麓撮影 明治41年(1908)頃
上下2点とも資料提供山武市歴史民俗資料館 
 
伊藤佐千夫と牛(本所茅場町牧舎にて


 

伊藤左千夫牧舎兼住居跡
         所在地  墨田区江東橋三丁目十四番

この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤佐千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月
                       墨 田 区 教 育 委 員会






                    すみだトリフォニーホール

すみだの音楽の殿堂
住 所 /錦糸1-2-3  電 話 / 03-5608-5400
窓口受付 平日/9:00~19:00
             土・日/9:00~17:00  





            






                     河 童 像

親睦団体、河童連邦共和国「おいてけ堀
カッパ村」の人々によって1993年に河童の
像が設立されました。

住  所 / 江東橋4-17-1





             






                     戦災殉難者慰霊碑



住  所 / 江東橋3-6-5
五徳山 江東寺(通称:江東観世音)境内





             











        すみだトリフォーニーホール入口




        
       
 
    
     大 横 川親 水 公 園
所在地:吾妻橋三丁目、業平一丁目、
東駒形四丁目、横川一丁目、本所四丁目、
太平一丁目、石原四丁目、錦糸一丁目、
亀沢四丁目、江東橋一丁目、緑四丁目
面積:63,973.17平方メートル  
桜の本数:82本
 



 ➀業 平 橋~平 川 橋   ②平 川 橋~横 川 橋   ③横 川 橋~紅 葉 橋   ④紅 葉 橋~法 恩 寺橋

⑤法 恩 寺橋~清 平 橋
  ⑥清 平 橋~長 崎 橋   ⑦長 崎 橋~江 東 橋   ⑧江 東 橋~撞 木 橋





大 横 川 親 水 公 園
大横川を整備した総延長1,800mの親水公園です。錦糸町と押上、業平を結び、
橋などを境としてエリアごとに人口のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある
施設が設けられています。
Oyokogawa-shinsui-koen Park is a water park with theWell-maintained Oyokogawa
River of a total length of1,800meters.The park connects Kinshicho, Oshiage, and
Narihira. Within each area divided by a bridge or other borders, you will find unique
facilities such as an artificial brook, a fishing hole, and open space.
 




➀・業 平 橋~平 川 橋

             






             






             






             






             






平 川 橋 落 慶 記 念 碑

             






        


平川橋落慶記念碑

ここにあった平川橋は、長さ28.17メートル、幅13.37メートルの鋼橋 (鋼単純ワーレントラス橋)で、関東大震災の復興事業により昭和4年に架けられました。太平洋戦争時には、金属供出のため高欄が撤去されましたが、戦後の昭和27年には復旧されました。その後も定期的に補修を続けてきましたが、老朽化が進行したため架橋後82年が経過した平成23年にその役目を終えて撤去し、新たに道路として整備しました。永い間、親しまれた本橋の面影を慕い、橋名板とトラスの一部を遺してその歩みを記します。
 
                                            平成24年3月






②・平 川 橋 ~ 横 川 橋

             






            






             






             






③・横 川 橋 ~ 紅 葉 橋

             






             






             






             






藤 の 花 イ ッ パ イ の ビルの壁

             






             






  
出 村 の 桜 屋 敷
住 所 / 横川1-1

             








鬼 平 情 景
出 村 の 桜 屋 敷


平蔵と左馬之助が青春を刻んだ高杉道場の北側には、田坂直右衛門の広大な屋敷があり、七十過ぎの当主が奉公人と孫娘のおふさと暮らしていました。ここから道を隔てて斜向い辺りで、春には庭の山桜の花片が、門弟が稽古に汗を流している道場へ舞い込んできたものでした。時にそのおふさが、打ったばかりの蕎麦切と冷酒を下女に持たせ、祖父から申しつかったと道場に現れました。その初々しい乙女のような姿に、平蔵、左馬之助ならずともに顔を赤らめ、はにかみ、師匠に揶揄されたものです。おふさが日本橋の呉服問屋近江屋へ嫁ぐ日、横川を立派な嫁入り道具を載せた舟に囲まれ、白無垢姿でゆったりと行く様を道場の門外から両名が万感の思いで見送る場面は心に残ります。それから二十余年後の展開には愕然とさせられます。
                                   墨田区






横川一丁目遺跡

             








横川一丁目遺跡
             (旗本太田家抱屋敷(かかえやしき)・三田土護謨(みたつちごむ)会社跡)
                                所在  横川一丁目十五番

 このあたりを含む本所一帯は、江戸時代の明暦三年 (一六五七) の大火 (振袖火事) の後に、江戸市街を拡張するために開拓が進められ、元禄年間 (一六八八~一七〇三) 頃になると、周辺に武家屋敷や寺院などが建てられるようになりました。室町時代に江戸を拠点とした武将太田道灌の墓がある法恩寺も、元禄二年 (一六八九) に現在地 (太平一丁目) に移転してきました。
 横川一丁目遺跡の場所は、江戸時代の絵図によると、太田道灌の一族である太田家の抱屋敷があったとされています。また、明治時代には、ゴム製品材やエボナイト、赤Mで知られる軟式テニスボールなどを製造し、日本における近代ゴム工業の礎となった三田土護謨製造合名会社がありました。
平成九年、東京都住宅供給公社の都民住宅建設工事にともない、旗本太田家の抱屋敷に関わる遺跡が確認され、墨田区教育委員会の指導の下に、横川一丁目遺跡調査会が発掘調査を実施しました。
 調査の結果、本所開拓のときの盛土層や本所上水の水路とみられる大溝、大田家抱屋敷の庭園の池や建物、陶磁器や瓦、木製品などの江戸時代の遺構・遺物が発見されました。
 また、明治時代のものとして 「三田土」の墨書や焼印のある木札や板、ゴム製品が出土し、三田土護謨製造合名会社の存在を裏付けています。このように、横川一丁目遺跡は、この場所の歴史を物語る貴重な埋蔵文化財の包蔵地(ほうぞうち)となっています。
平成一一年二月
               三 田 土 会
                墨田区教育委員会






大 震 災 遭 難 者 追 悼 碑

             






          


建 碑 趣 旨 碑 文
顧レバ大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如トシテ関東一體ニ亙ル未曾有ノ激震ハ我ガ帝都五百年ノ文化ヲ一朝ニシテ烏有ニ帰セシメ三拾六萬六千戸ノ家屋ヲ焼失シ五萬八千餘人ノ市民ヲ犠牲トシ損害実ニ三拾七億円ヲ算セリ以テ其ノ惨害ノ激甚ナルヲ知ルベシ當横川橋畔ハ本區に於ケル第二ノ被服廠トシテ橋脚・隧道ニ橋下ノ船中ニ老幼相扶ケ父子相擁シテ殃死セルモノ實ニ三千六百有餘人ニ及ヒ其ノ惨状言語ニ絶ス爾来星霜ヲ閲スルコト拾餘年官民一致復興ニ努力ヲ傾ケ今ヤ帝都ハ全丗界第二ノ都市トシテ中外ニ誇称スルニ至ル是レ全ク災害犠牲者ノ賜ト謂ヲ可ナリ爰ニ於テ当地附近有志相謀リ特ニ総理大臣齋藤閣下ノ題字ヲ乞ヒ先ノ事蹟ヲ記念シ永ク殃死者ノ追悼ト市民ノ警醒ニ資センコトヲ希ヒ石ニ刻シ以テ後昆ニ伝フ矣
       昭和九年九月一日
                            法恩精舎 日肇識






すみだむかしばなし本所七不思議

             






        本所七不思議
     置いてけ堀
夕方になって釣り人が帰ろうとすると 堀の中から
「おいてけ!」という声が聞こえてきます。
周囲に人影はなく、空耳と思って立ち去ろうと
すると、途中で必ず足がすくみ、釣った魚は
いつのまにかいなくなってしまう。 






    本所七不思議
       あかりなしそば
寒い冬の夜道に、毎晩そば屋が店をはって
いた。おかしなことにいつも灯はついていない。
客が火を付けてやるのだが、ふっと消えてしまう。
何度付けても消える。こうして帰った人の家
には必ず凶事があるという。 







 
      本所七不思議
        送りちょうちん
夜ふけて道を歩いていると、ちょうちんの
あかりが見えるので これに向って進んで行くと
ちょうちんのあかりはパッと消えてしまう。
しばらくたつとまた、前方に現れ、いつまで
たっても追いつくことができない。






         本所七不思議
     送り拍子木
人影もとだえ、しのつく雨のなか、割下水
を夜回りが「火の用心」カチカチと拍子木を打つ。
すると打ち終えたはずの拍子木なのに後から
同じように繰り返してカチカチと無気味な音が
人を送るように聞こえるという。
 






      本所七不思議
      足洗い屋敷
本所三笠町に住む旗本屋敷に、夜ごと家鳴りがし、
天井からひどくよごれた大足がニョッキリ出る。
足を洗ってやるとおとなしく引込める。たまり
かねた主人は同僚と屋敷を交換したところ、
足は現れなくなったという。






            本所七不思議
     片葉のあし
本所藤代町の南側から両国橋の広小路に渡る駒留橋の下を流れる隅田川の入堀にはえていた「あし」は、双方に葉がでずに 片側だけしか葉がでていないので「片葉のあし」と呼ばれ、不思議がられたという。
 






 
      
本所七不思議
      狸ばやし
稲穂がなびくころ夜ごと、どこからともなく聞こえて
くる太鼓の音。ついフラフラとつり出され、
歩き疲れて家に帰り寝てしまう
夜が明けてみると自分の家だと思ったのが野原で、
たぬきにばかされたという訳です。







 
         
梅 若 丸 






 
四谷怪談意外誌・在原業平
         
杉山検校・与兵衛ずし







駒   留   石
         
 
雨乞いの句碑







 狸 塚
         
塩 原 太 助 






            

モザイクパネルの説明
 墨田区の地域が本格的に開け始めたのは、江戸時代初期の本所開拓(かいたく)からです。
それ以前は、南部は湿地帯(しっちたい)、北部は農村地帯でした。徳川幕府(とくがわばくふ)は、
万治二年 (一六五九年) 本所開拓のために、多くの掘割(ほりわり) (水路) 開削(かいさく)して、
その土で低湿地(ていしっち)を埋め立てました。そうした中で、当時の開拓にまつわる様々な話が、
今もなお伝説や史跡となって数多く残されています。このモザイクパネルの絵は、昔ばなしに
ちなむ、水にすむ動物をひろいあつめて図案化したものです。「昔は、掘割にたくさんのかっぱがすんでいました。それだけに争いも多くなって、その中でも、源森(げんもり)川の源兵衛(げんべい)
かっぱと、仙台堀(せんだいぼり)川の仙台かっぱの争いがはげしくなりかけたため、船手頭
(ふねてがしら)の向井将監(むかいしょうげん) (墨田川の船の通行を取り締まる人) も困りはてて、
大横川の錦糸堀かっぱの長老にたのんで、争いをやめさせているところです。」この付近の昔話は、
この 「かっぱ争い」のほかに、「鯉(こい)の心中」 「古池の大がめ」「たにしさま」 などがあります。
                                     墨田区 






④・紅 葉 橋 ~ 法 恩 寺 橋

             






            






             






             






             






⑤・法  恩  寺  橋 ~ 清  平  橋

             






             






             






             






⑥・清 平 橋~長   崎   橋

             






             






             






       


             


清 平 橋 の 由 来
 
大横川親水公園をまたぐ清平橋は、関東大震災の復興事業により昭和4年に架けられました。かつては川の西側が清水町、東側が太平町と呼ばれていたことから、両町名から一文字ずつ取って清平橋と名づけられました。架橋時は長さ38.97mの鋼橋(3径間ゲルバー橋)でしたが、老朽化が進行したため、架橋から82年が経過した平成23年に、長さ10.00mのコンクリート橋(プレテンション方式PC単純床版橋)に架け替えました。架け替えを記念して、旧橋の橋名板と鋼材の一部を遺してその歩みを記します。
 平成24年3月






⑦・長 崎 橋~江   東   橋

             






           

長 崎 橋 の 由 来
ここにあった長崎橋は 元禄10年 (1697) 当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋久五郎、
両名によって、墨田区亀沢四丁目より同錦糸一丁目に架けられました。
 最初は長さ10間 (18.0m)、幅2間半 (4.5m) の木橋でしたが、その後何回となく
架け替えられ、昭和4年6月には、鋼橋 (トラス) になりました。
 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。
なお、橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名付られ、
永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。
                                    平成3年6月






             






             






             






             






             






             






⑧・江 東 橋 ~ 撞  木  橋

             






             






             






撞 木 橋

北辻端西側の大横川川岸に「本所時の鐘」の鐘撞堂があったことから、
これらの橋は俗称として「撞木橋」(しゅもくばし)と呼ばれていました。


             






     

時  の   鐘  跡
 住所 墨田区緑四丁目二十二番

大横川の左岸には時の鐘を撞(つ)く鐘楼(しょうろう)がありました。江戸時代、時を知らせる手段は鐘を撞くこと以外にはありませんでした。そのため、江戸城で打ち出された太鼓の音(のちに日本橋本石町(ほんごくちょう)の鐘楼の鐘)を、周辺の鐘楼が鐘の音に換えて打ち出し、順次この鐘の音を引き継いで江戸の隅々へと時を知らせていきました。従って、江戸城と周辺の町内とでは、少し時間にずれが生じるのが普通でした。また、当時は不定時法を採用していたことから、季節に応じて時間の長さが変化しました。従って夜明けは常に明け六ツ(六時)、日没は常に暮れ六ツ(六時)だったのです。日本橋本石町の鐘の音は、ここ本所の鐘楼に伝えられました。鐘楼の近くには時鐘屋敷(緑四丁目十番・二十一番の境)があり、町会で選ばれた撞き番の人が待機していたそうです。
平成十九年三月
                              墨田区教育委員






      芥 川 龍 之 介 の 文 学 碑
(大川の水)は大正3年(1914年)4月1日発行
の雑誌『心の花』第18巻第4号に柳川隆之介
の署名で掲載された。
住 所 / 江東橋1-7-14
(東京都立両国高等学校附属中学校内)
電 話 / 03-3631-1878
 






             






             






        


「大川の水」(抜粋) 

 もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。






      国産マッチ発祥の地

日本で初めてマッチを生産した新燧社が、
ありました。1986年に建立されました。

住 所 / 江東橋1-7-14





            






            









       亀  沢  三  丁  目





        

相 模 の 彦 十 の 家

彦十が密偵となる前から住んでいた家

住 所 / 亀沢4-14-6
 






            






       

鬼 平 情 景

相 模 の 彦 十 の 家


密偵となる前から住んでいた家で、一時、大滝の五郎蔵も同居していました。後に引き払い、本所・二ツ目橋の軍鶏なべ屋〔五鉄〕の二階へ寄宿します。「本所・桜屋敷」で平蔵が二十余年ぶりに南割下水で偶然出会うシーンが出てきます。平蔵が若かりし頃、本所は松井町の岡場所に巣食う香具師上りの無頼者で、取り巻きの一人でした。〔小川や梅吉〕の探索を頼まれ、密偵に転じます。その後の働きは枚挙に遑(いとま)のないほどです。昔馴染みだけに、長官の平蔵を「銕つぁん」「親分」などと気安く呼び、周りを唖然とさせますが、平蔵も「悪い友だちを持ったものよ」とあまり意に介さず、ちょいと頭の上がらないところがあります。
                                    墨田区






              公 立 本 所 小 学 校 跡

住 所 / 亀沢4-11-15






             






 




公立本所小学校跡
   所在地  墨田区亀沢四丁目11番15号  墨田区立堅川中学校

当地にほど近い亀沢三丁目13番地には、久保尊保 (田安徳川家旧臣) が明治4年(1871) に開いた私塾、松川堂(しょうせんどう)がありました。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となり、明治8年11月、当地に校舎が新築されました。校舎は日本で本格的な洋風建築が普及(ふきゅう)する前に建てられた擬洋風建築(ぎようふうけんちく)の建物で、バルコニーに唐破風(とうはふ)を付けた二階建ての洋風建物を中央に配し、その両側にガラス戸をはめ込んだ平屋の和風建物が接続していました。本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の寄附を受けました。(このため尾張学校とも呼ばれました)。徳川家の資料の中には校舎を撮影した写真が残され、文明開化の息吹を伝える建物が本所地域の子供たちの新しい教育の場になったことをよく伝えています。児童256名、教員5名から始まった本所小学校は、明治44年 (1911) には児童2094名、教員30名を数えるまでになり、廃校となる昭和21年 (1946) までの間に8,000名を超える卒業生を送り出しました。
平成30年11月10日
                  墨田区教育委員会






               河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地

河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」
と呼ばれた狂言作者です。

住所 / 亀沢2-11-11






            






          

河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地
        
                         所在地 亀沢二丁目十一番
河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。黙阿弥の本名は吉村芳三郎。江戸日本橋の商家に生まれるも遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以(さいきこうい)らと交流を深めました。歌舞伎をはじめ、狂歌や茶番などにも興じ、ニ十歳で五代目鶴屋南北に入門、勝(かつ)諺蔵(げんぞう)を名乗りました。後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永七年 (一八五四) に江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)(忍ぶの惣太)」が四代目市川小団次との提携で大当たりを取り、「小袖曽我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい) (十六夜(いざよい)清心(せいしん)) 」、「三人吉三(さんにんきちさん)廓(くるわの)初買(はつがい)」など、現在も上演される作品を次々と世に送り出してゆきました。七五調の美しい台詞を巧みに活かして幕末の人々を生き生きと描き出し、三六〇編に及ぶ作品を残しました。明治の新時代にも活躍、明治十四年 (一八八一) に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、その後も劇作の筆を置くことはありませんでした。明治二十年三月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南双葉町三十一番地(現亀沢二丁目十一番)に自宅を新築し、転居しました。周囲に塀をめぐらせた広い新宅は南割下水(現北斎通り)のほど近くにあり、庭には潮入の池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られていました。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で六年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。黙阿弥の人柄は彼の作品とは対照的で、穏やかでもの静かであったとされています。自らの死も予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理、友人への挨拶まわりなどなすべきことを終えて、明治二十六年一月二十二日に七十七年の生涯を閉じました。
 平成二十七年一月
                     墨田区教育委員会

Final Resting place of Kawatake Mokuami
A legendary writer of Kabuki plays, Kawatake Mokuami was called“the great warehouse of Edo drama”by famed author Tsubouchi Shoy. Originally born as Yoshimura Yoshisaburo to a merchant family in the Nihonbashi district of Edo, Mokuami was disowned by his family for Indulging in worldly pleasures, At the age of 20, he became an apprentice of Kabuki playwright Tsuruya Namboku V, later taking the name of Kawasaki Shnshichi 11. In 1854, the Mokuami-penned “Miyakodori Nagare No Shiranami” (commonly called“Shinobu No Sota”)was performed on stage. It was in this play, which he produced in collaboration with Ichikawa Kodanji 1V、that Mokuami found his breakthrough work. Numerous leading plays by Mokuami including “Kosode Soga Azami No Ironui”(commonly called“Izayoi Seishin”)and “Sannin Kichisa Kuruwa No Hatsugai”continue to be performed today. In total, he penned over 360 works. In March 1887 , Mokuami relinquished his abobe in Asakusa to Kawatake Shinshichi Ⅲ and built a new residence here in what is now Kamezawa 2-chome 11-ban, to which he then relocated. Surrounded by a canal, this home hosts a pond as well as a two-story storehouse and an annex that Mokuami used as a study. He spent six years being called “the master of Honjo (an Edo suburb),”during which he penned the likes of “Momijigari”for ichikawa Danjuro Ⅸ and “Modoribashi” for Onoe Kikugoro V. Mokuami was said to have a gentle personality, and Spent his last days organizing his library, paying visits to his friends, and otherwise taking care of what he had left to do. The final chapter In his life of 77 years closed on January 22. 1893
.









       すみだ北斎美術館前





                す み だ 北 斎 美 術 館
The Sumida Hokusai Museum


住 所 / 亀沢2-7-2      
電 話 / 03-6658-8936
    開館時間 / 9:30~17:30  
休 館 日 / 月曜日





                    






             






             






             






             






 
  すみだ北斎美術館
The Sumida Hokusai Museum

すみだで生まれ、その生涯のほとんどをすみだで過ごした、世界的に有名な
浮世絵師・葛飾北斎 (1760-1849) 。北斎を区民の誇りとして、永く顕彰
するとともに、新たな文化創造の拠点として、平成28年 (2016) 11月に
開館した美術館です。

Katsushika Hokusai (1760-1859) is a world-renowned ukiyo-e artist who
was born in November 2016, the Sumida Hokusai Museum is a museum
dedicated to the artist, and one which is intended tpermanently celebrate
him as honored citizen of Sumida City as well as to function as a new
focal point for the creation and nurturing of culture.
  






             






           北斎ラーメン

     






             






             






             






             






葛 飾 北 斎 案 内 板

隅田川関屋の里 ━富嶽三十六景━
( 榎 本 武 揚 像 入 口 )
 
               梅若の秋月 ━ 風 流 隅 田 川 八 景 ━
( 隅 田 川 神 社 ・ 木 母 寺 入 口 )
 






雪 月 花  隅  田
( 隅 田 川 神 社 ・ 木 母 寺 入 口 )

            寺 島 法 泉 寺 詣
( 法 泉 寺 入 口 )

 






白髭の翟(きじ)松 今戸の夕烟 
━絵本隅田川両岸一覧━

( 地  蔵  坂 )
 
            須佐之男命厄神退治之図

( 見番通り入口・桜橋東詰 )



  






新板浮絵 三囲牛御前両社之図
( 見番通り入口・桜橋東詰 )
 
            大川橋の月 小梅の泊松 ( 船 )
( 見番通り入口・桜橋東詰 )






御厩川岸より両国橋夕陽見 
 ━富嶽三十六景━

( 刀剣博物館(旧安田庭園・同愛記念病院 )
 
            首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉  
━絵本隅田川両岸一覧━

( 刀剣博物館(旧安田庭園・同愛記念病院)  
 






 駒 止 石 ━馬尽━
( 国技館・水上バス乗り場 )
          新柳橋の白雨御竹蔵の虹
ー絵本隅田川両岸一覧━

( 国技館・水上バス乗り場 )
 






両国納涼一の橋弁天 
━絵本隅田川両岸一覧━

( 両 国 駅 西 口 )
 
           宮 戸 川 長 縄 ━ 千 絵 の 海 ━

( 江 島 杉 山 神 社)
 






新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目
( 勝海舟生誕の地・吉良邸跡入口 )
            本所立川  ━富嶽三十六景━
( 勝海舟生誕の地・吉良邸跡入口 )






            






                緑 町 公 園
住 所 / 亀沢2 -7 -7     






             






            






           

江 戸 の 町
江川太郎左衛門屋敷跡前 9

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門は江川家の代々の当主の通称です。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(一八〇一~五五)です。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防衛のため、江戸湾内に数ヵ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。
                                    墨田区






          

両 国 物 語
津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡 8

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。なぜ、この屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのか誰も知らず、不思議なこととされていました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、伝説などの伝わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。

                                             墨 田区






           

江 戸 の 町
南  割  下  水

明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、堅川、大横川、北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。幅は一間(約一・八メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。
                                                          墨田区






          

絵 画 と 文 学
Birthplace of Ukiyo-e artist,Hokusai

葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦十(一七六0)年九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。代表作『富嶽三十六景』は、天保二(一八三一)年から天保四(一八三三)年にかけて製作。とても七十歳を過ぎてからの作品とは思えません。八十歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永二(一八四九)年、「あと一〇年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。

                                                     墨田区









        都  営  両  国  駅





              都 立 横 網 町 公 園

電  話 / 03-3622-1208 
 住  所 /  横網2-3-25   
  





             






             














  横網町公園  Yokoamicho Park
関東大震災(大正12年、1923年)や、東京空襲(昭和19年
~20年、1944~45年)による悲劇を、記憶・伝承し、
その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。
This park is dedicated to the remembrance of the many
victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the
Tokyo Air Raid (1944~1945)、to commemorate and
preserve the memory of these tragedies.


東京都慰霊堂 Tokyo Metropolitan Memorial Hall
関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の
御霊を慰霊する施設です。昭和5年 (1930年) に建て
られました。堂内には絵画等の展示もあります。
どなたでも入堂できます。入堂無料、
9時~16時30分、何末年始は閉堂
Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000
lives lost during the Great Kanto Earthquake and the
Tokyo Air Raid Paintings and other archives are on display
in the hall, and it is open to the public. Free admission,
open 9:00 am to 4;30 pm. Closed for the New year’sholiday

復興記念館 Great Kanto Earthquake Memorial Museum
関東大震災からの復興事業を記念するために昭和6年 (1931年) に建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関
する資料を展示しています。
入館無料、9時~16時30分 (入館) 、毎週月曜日
(祝日の場合は翌日) および何末年始は休館
This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction projectfollowing the Great Kanto Earthquake, Documents and other materials related to the damage caused by the earthquake and the Tokyo Air Raid, as to the ensuing reconstruction are on display.
Free admission, open 9:00am to the 4:30pm (entry).Closed on Mondays
(if a national holiday closed the following da
y)
and for the New Year’s holiday.





 


幽 冥 鐘 の 由 来
この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、
中国仏教徒から寄贈されたものです。
 震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及
び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在
留の同胞に対しても参拝を促しました。
 また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造し
て、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声
の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
 その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正
14 (1925) 年11月1日、記念堂建設地 (横網町公園)に運
ばれました。
この鐘を安置する鐘楼は、昭和5 (1930) 年8月31日に現
在地に完成し、同年10月1日 「梵鐘始撞式」 を行いました。
なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏
の特段のご尽力がありました。
                     
東 京 都





 


震災遭難児童弔魂像
大正12 (1923) 年9月1日の関東大震災により東京市(当時)
の小学校児童約5千人が亡くなりました。
 この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立
を計画し、寄付を募りました。その寄付金により、彫刻家小倉
右一郎氏に製作を依頼、昭和6 (1931) 年5月16日に除幕式
が行われました。
 その後、像部分は、 昭和19 (1944) 年、金属回収のため撤
去されましたが、昭和36 (1961) 年、都は、小倉右一郎氏の
高弟である、津上昌平、山畑阿利一氏に製作を依頼し、往時
の群像を模して再建されました。


                  台座の裏面には次の言葉が記されています。
大正十二年九月一日の大震火災の為に我が東京市小学校児
童の死亡せし者無慮五千人其の惨状言語に絶せり学校長等
深く之を哀み之を悼み相議りて当時幸に難を逃れ生を全う
せる都下の学童をして此の不遇の霊を慰め不幸の魂を弔は
しめむことを企画し第五回の忌辰に際して之を発表するや 
忽ちにして学童の共鳴する者十八萬二千二十七名に及び其 
の醵金一萬四千六十六圓四十七銭に達せり乃ち小倉右一郎
氏に託して震災記念堂の傍に此の群像を建設し保存資金を
添えて之を財団法人東京震災記念事業協会に寄附し永く当
時を追憶し其の冥福を祈らむとす
     昭和五年九月一日







               江 戸 東 京 博 物 館
Edo-Tokyo Museum


電 話 / 03-3626-9974  住 所 / 横網1-4-1    
   定 休 日 / 月曜
開館時間 / 9:30~17:30    土曜日~19:30





             






             






             






             






             






             





 


江戸東京博物館
Edo-Tokyo Museum
失われつつある江戸・東京の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史
と文化を振り返ることによって、未来の東京を考えるために設立
された博物館。江戸から昭和にかけての町並みが再現されており、
日本橋も復元されています。
This museum was built to preserve and exhibit the historical heritage of
the city of Tokyo. An understanding of Tokyo’s origins and history as
Edoserves as a basis for considering the future of the metropolis.
Displays re-create various aspects of city life, from Edo’sfounding in
1603 through the 20th century. A huge reconstructionof the bridge,
Nihombashi, isincluded in the exhibits. 








                 
置 い て け 堀
本所を舞台とした本所七 不思議と呼ばれる
奇談・怪談の一つ
住所 / 横網1-5-2 






            






       

両 国 物 語
Oiteke-bori & Site of  Otake -gura
置いてけ堀・御竹蔵跡

この辺りには、幕府の資材置き場だった御竹蔵があり、その周りには掘割がありました。ある日、町人がこのあたりの堀で釣りをしたところ、たくさん魚が獲れたので、気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いてけ!」という怪しい声がしました。逃げるように家に帰って、恐る恐る魚籠をのぞくと、釣れた魚が一匹も入っていませんでした。これが、本所七不思議の一つ、「置いてけ堀」の話です。話の内容や場所には諸説があり、置いてけ堀は「錦糸堀」との説もあります。作られたのは寛政年間(一七八九~一八〇一)といわれ、七つ以上の話が伝えられています。






                 
本 所 御 蔵 跡 (横網1丁目遺跡)

JR両国駅から横網町公園にかけての範囲には、
かつて幕府の管轄する4万4千坪の広さの本所
御蔵という米倉がありました。両国中学校グラ
ンドフェンス脇に説明板が立っています
所在地 / 墨田区横網1丁目~2丁目 






             















本 所 御 蔵 跡 (横網1丁目遺跡)
                        所在地 墨田区横網1丁目~2丁目

JR両国駅から横網町公園にかけての範囲には、江戸時代、本所御蔵という幕府の御米蔵がありました。現在の江戸東京博物館、墨田区立両国中学校、日本大学第一中学・高等学校、国技館の一部も御蔵の敷地内に含まれています。享保十九年(一七三四)、四万四千坪(約十四万五千㎡)の広大な敷地に、十二棟八十八戸前の倉庫群が造られ、御米蔵として使われ始めます。安政五年(一八五八)までには三十七棟二百四十六戸前にもなる増築がなされました。絵図を見ると、蔵の建物の間には隅田川から導かれた舟入の堀が設けられていたことがわかります。本所御蔵は、俗に「御竹蔵」とも呼ばれました。 平成十三年(二〇〇一)、現在NTTドコモビル建設工事の際、事前に発掘調査が行われました。その結果、御蔵の一部と考えられる掘割や護岸の跡が見つかり、徳川家の家紋である三葉葵紋の瓦も出土しています。また、近代の建物跡と、「陸軍被服廠」と書かれた木製の荷札がまとまって見つかりました。本所御蔵は明治五年(一八七二)に廃止され、跡地には陸軍被服廠(衣料品を取り扱う施設)が置かれましたが、こうした荷札群の出土は珍しく、当時の物資輸送事情を物語る貴重な資料と考えられています。 本所御蔵があった範囲内では、他の地点でも杭柵護岸や、近代の石組護岸や橋脚などが確認されています。両国中学校と横綱町公園の敷地の一部からは、江戸時代の陶磁器などが出土しました。
平成二十一年三月
                                墨田区教育委員会






                  徳 川 家 康 公 銅 像

鷹匠の勇姿で江戸城を望んでいる家康公像

 所在地 / 墨田区横網1-4-1  






                  





          

徳川家康公銅像建立由来

鷹狩の勇姿で江戸城を望んでいる徳川家康公が始めて、草深い江戸の地に天正十八年(1590年)に、豊臣秀吉の命により国替えとなった。そして、関ヶ原の戦い後慶長八年(1603年)征夷大将軍となり江戸に幕府を開き天下普請を大名に命じ、本格的な都市づくりの大事業を行い、政治の中心地として明治に至るまでの永き亘って現在の東京の基礎となったことは周知の事実である。
社団法人 江戸消防記念会では、このような、江戸開府の大事業を成し遂げた徳川家康公の偉業を称え、顕彰すべく銅像建立の計画を練っていたところ、平成五年三月、江戸東京博物館が両国の地に落成の運びとなるや、徳川家康公銅像建立気運が一気に盛り上がり記念会創立以来の名誉ある事業であることから、これを積極的に推進し、東京都をはじめ関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、江戸消防記念会が主体となって平成六年四月銅像を建立、東京都に寄贈したものである。





寄 贈
この徳川家康公の銅像は江戸町火消の伝統を現在に
受け継ぐ江戸文化保存伝承団体である当会が、都民
文化貢献の一環として、支援団体及び全会員の協力により
建立し東京都に寄贈したものであ。平成六年四月吉日
社団法人 
江戸消防記念会 






                  言問橋の欄干と縁石

東京大空襲の時に言問橋の辺りで沢山の人達が、
逃げまどって亡くなられたそうです。

 所在地 / 墨田区横網1丁目  






             






       

言問橋の欄干と縁石
Parapet and curb stone of the Kototoi Bridge

言問橋は、1928年 ( 昭和3 ) に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年 ( 昭和20 ) 3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。1992年 ( 平成4 ) の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。









        刀剣博物館(旧安田庭園・同愛記念病院)




           葛 飾 北 斎

Thirty-six Views of Mount Fuji: Onmayakashi
Yori Ryogoku Bashi Sekiyo wo miru
(Sunset across the Ryogoku Bridge from the
bank of the Sumida River at Onmayakashi)
 
御厩川岸より両国橋夕陽見
 ━富嶽三十六景━
 





            






             


御厩川岸より両国橋夕陽見  ━富嶽三十六景━

富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。夕陽に浮かぶ富士山を中心に、船の往来でにぎわう両国橋や、様々な客でひしめきあう御厩川岸の渡し船の様子が描かれています。構図上の特徴は、船頭の頭を中心点として、橋の曲線と船の弧が点対称になっている点です。また、活き活きとした彼の描写には、北斎らしさが表れていると言えるでしょう。御厩川岸(おんまやかし)の名は、江戸時代、西岸の浅草に幕府の馬小屋である御厩があったことに由来します。現在の墨田区本所1丁目あたりから台東区蔵前2丁目あたりを結んでいた渡し場がありました。
  

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt Fuji. This scene depicts Ryogoku Bridge surrounded by river traffic and a boat traversing the reiver at Onmayakashi crowded with various types of passengers, while Mt.Fuji rises in the center of the background amid the sunset. The main features, of the composition are the prow of the boat taking the center location, and the asymmetry attained with the curving bridge and arc of the boat. The depiction of the lively waves may also be considered to be typical of Hokusai. The name Onmayakashi originates from the fact that the Shogun' s stable, named Onmaya,was located at Asakusa on the west bank of the reiver during the Edo Era. A ferry landing point linking 1-chome Honjo, Sumida city, with 2- chome Kuramae, Taito  city, is currently situated at this location






           葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks of the
Sumida River: Shubinomatsu no Tsuribune
Shiinoki no Yuuzemi (Fishing Boat by the
Shubinomatsu Pine Tree Evening Cicada in
theShinokiForest)

首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉
━絵本隅田川両岸一覧━
 





             






             


首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉  ━絵本隅田川両岸一覧━

隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の対岸から描かれています。釣り舟の向こう、左手に描かれているが首尾の松です。首尾の松は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん中あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺は釣りの名所でした。釣り糸の向こう、右手の森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」があったことから、椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。

One of the prints from the second of the three- volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River, depicting a full year along the Sumida River. This print has been drawn from the opposite bank of the Sumida River. The Shubinomatsu pine tree is located over the far side of the fishing boat on the Left-hand side. This tree was located in the center of a long of lineof trees that flourished in Kuramae and made a perfect landmark for a famous fishing spot located nearby. The forest shown beyond the fishing lines to the right is the Tokyo residence of the Matsuura daimyo family of the Hirada Shinden fuedal clan from Hizen Province. This mansion became known as the Shinoki Mansion owing to the “Leafles






         旧 安 田 庭 園

旧安田庭園は、元禄4年(1691)、下野足利藩主
本庄氏の下屋敷として作られたのが始まりです。
安政年間に大規模な改修が施され 隅田川の
水を引いた汐入回遊庭園として整備されました。
徳川時代における大名庭園の典型をなす名園で、
明治22年(1889)、安田財閥の所有に移り、
大正11年(1922)東京市に寄贈されました。 
現在は墨田区が管理しています。
開園時間 1月~5月、9月~12月)9:00~16:30
(6月~8月)9:00~18:00
 住  所 / 横網1-12-1  












           

旧 安 田 庭 園 の 沿 革
元禄年間 (1688~1703) に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)の実弟で、後の常陸笠間(ひたちかさま)藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資(ほんじょういなばのかみむねすけ)が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉回遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政(あきまさ)侯爵邸となり、明治24年(1891)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年( 1922 ) に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正12年 (1923) 9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組を基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠 して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年(1927) 民間篤志家(とくしか)の寄附による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和42年 (1967) 、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年 (1971) に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成8年(1996)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU=YASUDA GARDENS
In the Genroku Era ( 1688-1703),a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a youger blood brother of the biological mother (keishoin ) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence and is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese character “kokoro”(heart) at its center and uses a system ston formationsknown as shioiri by which the pond is
fed from the Sumida River so the water level in the pond rises and falls with the ebb and flow of the river’s tide. After the Meiji Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the Yasuda Financial Group. After Zenjiro’s death,as specified in his will, the garden and house were donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the following year (1923)、the grounds were almost completely destroyed by the Great Kanto Earthquake. The City began re-construction work on the garden, using as a base the ishigumi ston formations, which fortunately remained, and then named the gardens after the donor- -“Kyu-Yasuda Gardens” In 1927, it was opened to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person. Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971. It was completely restored to the original condition of former times when it was called a “distinguished garden ”. in 1996, this garden was designated a Metropolitan place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.






             






             






             






             






             






             






             






          

水  門  跡

江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。潮入の池は、都内ではほかに浜離宮公園や旧芝離宮公園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入を再現しました。本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。
                    墨 田 区





             






             






             






             





          

駒 止 石
三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年 (一六三一) に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせようとしました。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗りいれました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒留稲荷を祀りました。

                               墨 田 区





             






              







         







           刀 剣 博 物 館
The Japanese Sword Museum

2018年1月19日(金)旧両国公会堂跡地に開館
公益 財団法人日本美術刀剣保存協会運営の、
美術刀剣類の保存、展示をする博物館です。
住 所 /横網1-12-9  電話 /03-6284-1000
開館時間 9:30~17:00
 





             






             






          






             






             







左側に防炎防火の防災観光風呂敷が見えます。
              






                      






          No.316 アパホテル&リゾート
〈両国駅タワー〉
(全室禁煙)2020年8月7日開業 

住 所 / 墨田区横網1丁目11-10
TEL / 0570-021-111  FAX / 03-5619-6712
チェックIN/OUT 15:00 / 11:00






             







31Fのプールサイドからの眺望
             
墨田区観光インフォーメーション(2F) 






             






             






2020年8月7日(金)~8月16日(日)に開催されたアパホテル&リゾート〈両国駅タワー〉
フォトコンテストで最優秀賞を頂きました。

https://www.apahotel.com/news/category/event/


 


   
最優秀賞 (東京都 SKY PRINCESS 様)
作品タイトル:「いにしえの時の流れに立つアパ!」






             






           小 林 清 親 の 旧 居 地

最後の浮世絵師、明治の広重と評された

住 所 / 横網1丁目





             








絵 画 と 文 学
Site of former residence of Kobayashi Kiyochika
小林清親旧居地

明治の浮世絵版画家で、最後の浮世絵師とも言われる小林清親は、江戸本所のお蔵屋敷で生まれ、この辺りで暮らしていました。七人兄弟の末子で、明治維新の際は大阪や静岡などを転々としますが、その後、帰京し洋風木版画の『東京名所図』を出版しました。その西洋風の画風が「光線画」として人気となり、浮世絵版画に文明開化をもたらしたといわれています。明治十四年(一八八一)の両国の大火後は、光線画から遠ざかり、「清親ポンチ」というポンチ絵を描くようになり、その後、錦絵の衰退により肉筆画を多く描くようになっています。近世から近代への絵画の変遷を体現した画家といえるでしょう






小 林 清 親 日 本 名 勝 図 会 (国会図書館より)

 
東京五大橋之一両国真景
            
猿 橋
            
松 島






 
隅 田 川
            
吉 野 山
          
親 不 知
小林清親ギャラリーヘ






          本所七不思議 椎の木屋敷跡

同愛病院並びに立っています。
反対側に安田庭園があります。
住 所 / 横網2-1 
 





             





          
     
両 国 物 語
Former Mansion with the Chinkapin Tree of Unfallen Leaves

椎の木屋敷跡   2
本所七不思議の一つ、「落ち葉なしの椎」があった松浦家という大名屋敷は、この辺りにありました。庭には立派な椎の木がありましたが、この木から葉が落ちるのを誰も見たことがありませんでした。その噂はたちまち江戸中に知れ渡り、松浦家は「椎の木屋敷」と呼ばれるようになりました。もともと椎の木というのは常緑樹で落ち葉は少ないものですが、それでも一枚も落ち葉がないということが不思議です。大名屋敷という庶民からすれば特別の場所であったために、このような伝説が広まったと考えられます。
                               墨田区






       NTTドコモ歴史展示スクエア

自動車・船舶・衛星・携帯電話、ポケットベル、
携帯情報端末(PDA)、PHSといった、電電公社
NTT、NTTドコモ、NTTパーソナルを中心とし
た、300点以上の実機、移動体通信の過去から
未来への歴史を見ることができます。
住 所 / 横網1-9-2  電話 / 03-6658-3535
開館時間 / 10:00~17:00

休 館 日 / 日曜・月曜、祝祭日、年末年始  





            






             






           大 東 流 合 気 柔 術 両国道場

稽古日/毎週火・金・日曜日
住 所 / 横網1-12-31 
電 話 / 090-3318-8793





             






               









        国技館・水上バス乗り場




             葛 飾 北 斎
 Uma-Zukushi: Komadome-ishi
(Horse Series: Hitching Stone)

駒止石 ━馬尽━ 





            






             


駒 止 石 ━馬尽━ 

文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの1枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永8(1631)年の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は安田庭園内で見ることができます。 

One of the Horse Series that were printed to hang during the New Year period in the Bunsei Era (1818-1830). A stone for hitching horses is located at the front,and the snow-covered Mt. Fuji appears in the background. The Sumida River overflowed owing to a violent rainstorm in early summer 1631, and the third Shogun, lemitsu, ordered a survey to be carried out to assess damage inflicted on the Honjo district when the entire area was flooded, and it is said that only Tadaaki Abe. a direct retainer of the Shogun,displayed his loyalty to the Shogun by skillfully crossing the turbid waters alone on horseback to carry out this order.The hitching stone shown in this print is said to be the stone to which he tied his horse during this. This bank of the Sumia River waslocated in front of the Shiinoki Mansion at that time, and the former Yasuda Garden can be seen from this point today.






             葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks or the
Sumida River: Shinyanagi Bashi no 
Hakuu/Otakegura no Niji (Sudden Rain at
the New Yanagi Bridge /
Rainbow Above Bamboo Warehouses)

新柳橋の白雨御竹蔵の虹

ー絵本隅田川両岸一覧━
  





             






             


新柳橋の白雨御竹蔵の虹 ー絵本隅田川両岸一覧━

狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。 

One of the prints from the second of thethree-volume comic tanka picture books. Panoramic
Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a second of people with umbrellas crossing the New Yanagi Bridge during a light shower, and it is drawn from the opposite side of the Sumida River. The term “sudden rain” refers to an unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans theentrance to the Otakegura bambo warehouses,where the Shogun's timber was stored. The area behind the Otakegura warehouses was used to stor building materials at that time, but it became a rice warehouse when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo Rice Warehouse. This enormous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, he Edo Tokyo Museum and other facilities.






        HYLIC RYOGOKU RIVER CENTER

〇・THE GATE HOTEL RYOGOKU by HURIC
〇・水上バス待合所
〇・両国子育てひろば

〇・御蔵橋跡案内板

 住 所 / 横網1-2-13 






左側がTHE GATE HOTEL HULICで
右側が水上バス待合所です 
         








THE GATE HOTEL レストランより 
        
水上バス待合所より 






水上バス待合所








             






             






THE GATE HOTEL RYOGOKU by HURIC

             






御 蔵 橋 跡

             






        

江  戸   の  町
Site of Okurabashi Bridge

御  蔵  橋  跡
御蔵橋は、隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架った橋で、この辺りにありました。
堀の突き当たりは、御竹蔵(または御蔵地)という幕府の材木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材
や竹の荷を、この堀から引き入れて、御蔵地へと収納するようにできていたのです。後に米蔵として
使用され、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています。御蔵橋は、池波正太郎の
「鬼平犯科帳特別長編雲竜剣流れ星」にも登場していて、「左側は、まんまんたる水をたたえた
大川が黒く横たわり、ここへ来ると、まったく人影もなかった。… …幅一間半、長さ五間の橋である。」
と書かれています。






           両 国 国 技 館
Ryogoku Kokugikan (Sumo Hall)

大相撲の殿堂


 住 所 / 横網1-3-28
      電 話 / 03-3623-5111  






  両 国 国 技 館
Ryogoku Kokugikan (Sumo Hall)

大相撲の殿堂。昭和60年 (1985)、新国技館として蔵前か両国に復帰。1月、5月、9月に本場所を開催。相撲博物館が併設されており、相撲の歴史を体験できる (場所中以外は無料) 。雨水は地下のタンクに貯められ、飲料以外の用途に使用されています。
Sumo tournaments are held every January, May, and September at this arena. The new Kokugikan was built in 1985 to return the tournaments to the historic Ryogoku location after a time in Kuramae. The stadium house the Grand Sumo Hall of Fame and Museum(free admittance, except when tournaments in session). The rainwater is collected in a tank placed at the basement to
 use in the facility. 





             






             






             






             






            








国 歌
君が代に詠まれているさざれ石


此石は学名を石灰質角礫岩と云う石灰質の石が雨水に溶解し其石灰分をふくんだ水が時には
粘着力の強い乳状体となり地下にて小石を終結して次第に大きくなる。やがてその石が地上に出て国歌に詠まれている如く千代八千代年をへてさざれ石が巌となりて苔のむすという景観実に目出度い石である。全国至る処石灰質の山に産ずる石であるが特にこの石は国歌発祥の地と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので其終結過程の状態が此石を一見してよく知ることが出来る。繁栄と団結、平和と長寿の象徴を讃歌しためでたい石であります。






            






         

1955年に戦後初めて相撲観戦した思いをしたためた和歌
昭和天皇の「御製」の歌碑


 《ひさしくも 見ざりしすまひ(相撲) 
人びとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ》


昭和三十年五月 天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸はじめて國民と共に本場所を観覧あらせられた陛下は終戦時國民を想い「五内為ニ裂ク」と仰せられた 又日常國民の上に御念の安まる間とてもない 然るにご観覧中は椅子を進められ拍手を送られ大衆も之に和するという光景を現出したのであった 天皇が一般國民と一つになって我国の国技たる相撲を御覧になった和やかな情景は戦前には見られないことであった陛下がかくもお喜びなったことが新聞ラジオテレビジョンによって傳えられるや國民全体はまた心の底から喜んだのであるこれは其時の御製であって翌年正月初めて発表せられたものである我國相撲道の發展興隆期して待つべく大日本相撲協會の光榮まことに大なりと言うべきである
  昭和三十一年五月十九日 大麻唯男






             






           忠 臣 蔵
Site of Tawaraboshi Gemba's stable
俵 星 玄 蕃 の 道 場 跡

講談における創作上の人物で忠臣蔵に宝蔵院
流の槍の名手として登場する。

住 所 / 横網1-3-28    電 話 /  03-3623-5111  





            






        

忠 臣 蔵
Site of Tawaraboshi gemba's stable


俵 星 玄 蕃 の 道 場 跡  11

宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十兵次の前で、「のうそば屋、お前には用のない事じゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。






                両 国 さ か さ か さ

傘を逆さにしたような三角屋根の“逆さ傘”
に由来する名称です。
国技館の前に設置されています。
所在地  横網1-2-16





             






         


天からの恵みを集めて活かす

「両国さかさかさ」天水収穫装置(てんすいしゅうかくそうち)

雨を「よける」のではなく「集めよう」。都会ではとかくやっかいもの扱いされがちな雨。しかし、雨なしには草花も育ちません。雨はありとあらゆる生命の源です。大地を潤し、緑を育み、地下水となります。豊かな地下水は湧水となり、川に豊かな流れをもたらします。コンクリートやアスファルトが目立つ東京のまちも、実は空と大地の間を循環する雨によって支えられているのです。雨は、天水。天からの恵みの水。この装置は、天水をもっと大切に、もっと有効に活かすシンボルとして、大地から空に向けて広がる「逆さ傘(さかさかさ)」をコンセプトに作られました。下部は、この逆三角屋根に降った雨を貯める容量約600ℓのタンクになっています。貯めた雨水は、付近の花壇への水やりや打ち水などに活用します。「歩道の緑地」という都会の公共空間で、天からの恵みを集水・貯蓄・活用し、大地に戻す━。市民と企業と行政との協調による、天水を活かしたまちづくりへの実践です。
             2010 年6月 墨田区・恵みプロジェクト






                 舟  橋  聖  一 生 誕 の 地

昭和初期の作家、国文学者である。

住 所 / 横網1丁目11-1
(北越製紙の一角) 






 右側のビルの角にあります。
                   

 






      

舟橋聖一生誕記念碑
作家舟橋聖一は明治37年 (1904) 12月25日に、本所区横網町二丁目二番地に生る。作家、國分学者として盛名高く、数々の名作を遺すも、その七十二年の生涯は権威に屈せず市井の文人、文学者として独自の風格を以て貫かれている。代表作の一つ、花の生涯は井伊大老の生涯を綴った醇乎たる絶品であるが、文学、文化人として、前人未路の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と呼ぶにふさわしいものである。  
                              井 上 靖

代表作:「木石」「川音」「悉皆屋康吉」「ある女の遠景」「好きな女の胸飾り」等
略歴 東大卒・明大教授・日本文芸家協会理事長・国語審議会委員・横綱審議委員長・等 日本芸術院会員・文化功労者






                百  本  杭  跡
隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増
して川岸が浸食されました。杭の抵抗で流れを
和らげるために夥しい数の杭が水中に打ち込
まれ、それがやがて百本杭と呼ばれるように
なったそうです。

住 所 / 横網1丁目(パールホテル並び) 





            






     

江 戸 の 町
Site of hyappon-gi


百 本 杭 跡  12
百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、明治中期までは鯉の釣り場として有名で、釣り好き幸田露伴もよく出かけたといわれています。また、歌舞伎の『色街模様薊色縫』の「稲瀬川百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて心中する場所とされています。その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の浮世絵師といわれる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭暁之図」として、浮世絵に描いています。
 
                                                 墨 田 区









        両 国 駅 西 口




            葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks of the
Sumida River: Ryogoku Noryo Ichinohashi
Benten(The Cool of the Ryogoku Evening at
Ichi-no-Hashi Benten)  
両国納涼一の橋弁天 
━絵本隅田川両岸一覧━





            






             


両国納涼一の橋弁天 ━絵本隅田川両岸一覧━

狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の堅川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, panoramic
Views on Both Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people enjoying the evening coolness on Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the Ryogoku Main Street, a prominent amusement area during the Edo Era, and makeshift theaters and tea houses, etc... can be seen side by side. The main feature of this print is probably its size, which is wider thanit is high as is typical with picture books. The small bridge that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the present-day Tatekawa River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area aroud the forest is 1chinohashi Benten,which is currently the Ejima Sugiyama Shirne. The triangular building on the right is the Shogun's boathouse.






               両 国 花 火 資 料館
花火の造り方を説明するビデオを鑑賞
することができます。

住 所 / 両国2-10-8
(住友不動産両国ビル1F)

料金 / 無料
営業時間 / 12:00~16:00





             






             





             






               赤穂浪士史跡吉良邸趾
 本所松坂町公園

        
住 所 / 両国2-





             






                          






               旧 国 技 館 跡
Site of former Kokugikan Arena
 

        
住 所 / 両国2-8





             






       


大 相 撲
Site of former Kokugikan Arena
旧 国 技 館 跡    16

旧国技館は、天保四年 (一八三三) から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年 (一九〇九) に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円 (現在の価値では七十五億円程度) です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年 (一九八三) に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。       
                                 墨 田区






            









国技館 ( 大鉄傘(だいてつさん) ) 跡
                 所在地 墨田区両国二丁目八・九番

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年 (一八三三) から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の境内に明治四十二年 (一九〇九) に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。二本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかしメモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八 (一九八三) に解体されました。そして同六十年 (一九八五) 、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
  平成二十年三月
                          墨田区教育委員会






               回 向 院

旧両国国技館の大相撲の前身の勧進相撲が
境内で行われていました。

住所 / 両国2-8-10     電話 / 03-3634-7776
 





    回 向 院
Ekoin Temple

明暦3年 (1657) に開かれた浄土宗の寺院。振袖火事で知られる明暦の大火の犠牲者10万人以上の無縁仏供養や、鼠小僧の墓があります。また、明和5年 (1768) に境内で初めて勧進相撲が行われました。

This old temple of the Pure Land School of Japanese Buddhism
(Jodo-shu) is the site of a memorial to more than 100,000 victims
of a great fire in the seventeenth century as well as the grave of
Edo-period folk hero Nezumi Kozo





            






           






        

明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。






     

相撲関係石碑軍(力塚)
    所在  墨田区両国二丁目八番 回向院
 
墨田区と相撲の関わりは、明和5年 (一七六八) 九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保四年 (一八三三) 一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治一七年 (一八八四) に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四二年 (一九〇九) に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年 (一九一六) に建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔(ほうかいばんれいとう)もこの中に移動しました。現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
 平成一一年三月
                     墨田区教育委員会






               回 向 院 正 門 跡

回向院の伽藍は東京大空襲で焼失し,
戦後、再建され、正門は現在の京葉
道路沿い国技館通りに移されました
住 所 / 両国2-8-10 





             







回向院開帳参(挿絵)  絵師/松濤軒斎藤長秋






       

江 戸 の 町
Site of former main gate of Eko-in Temple

回 向 院 正 門 跡

回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものといえます。両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。






        斎藤緑雨居住の地

森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」
では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り
出しました。
住所 / 両国2-19
  





            






      

斎藤緑雨(さいとうりょくう)居住の地
  墨田区両国二丁目十九番

 明治時代の作家斎藤緑雨は慶応三年 (一八六七) に伊勢国神戸(かんべ) (三重県鈴鹿市) に父斎藤利光、母のぶの長男(本名は賢(まさる))として生まれました。明治九年 (一八七六) 一家で上京し、深川、本所千歳町に居住の後、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師となったことから、本所緑町 (現緑二丁目) の藤堂家邸内に移り住みました。上京後の緑雨は、土屋小学校 (現千歳に旧在) や江東小学校 (両国小学校の前身) などで学びました。緑雨は「日記帳」の中で「読書と数学はいつも高点」、「習字と画学は、いつも落第点にちかかり」と回想しています。十二、三歳頃から上田萬年らと回覧雑誌を始め、十四歳頃からは詩文を新聞に投稿するようになりました。明治十七年、十七歳の時には父とともに俳句を師事した其角堂永機の紹介で仮名垣魯文(かながきろぶん)の門に入り、その縁で「今日(こんにち)新聞」の校正や記事収集の手伝いを始めました。この頃、社主に伴われて出かけた柳橋や新橋での見聞が江戸通人趣味につながったといわれています。翌年には坪内逍遥(つぼうちしょうよう)との親交が始まり、居住地の緑町にちなんだ緑雨のペンネームを使用するようになります。処女作は江東みどりのペンネームで明治十九年に発表した「善悪押絵羽子板」で、五年後には柳橋を舞台とした「油地獄」と「かくれんぼ」で小説家としての地位を確立しました。また、文芸批評でも旺盛な執筆活動を展開し、森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り出しました。晩年には「眼前口頭」などの新聞連載で緑雨特有のアフォリズム(警句)を表現しました。居住地を転々とした緑雨は、病気がちとなり明治三十六年十月、本所横網町一丁目十七番地(現横網一丁目・両国二丁目の一部)の金沢タケ方に寄寓することになりました。緑雨はその家の奥の六畳で臥しがちだったようです。翌年、親友馬場狐蝶に樋口家から預かっていた一葉の遺稿と日記を託し、四月十三日に三十七歳の生涯を閉じました。親友幸田露伴は緑雨の生涯に思いを馳せ、「春暁院緑雨醒客」と戒名をつけました。
平成二十七年三月
                               墨田区教育委員会


Residence of Saito Ryokuu

Saito Ryokuu (1867-1904) was an author who lived during the Meiji period.After moving to Tokyo with in 1876 and living in Fukagawa and Honjo,he resided on the precincts of the Todo family’s property Midoricho (now Midori 2-chome), as his father had become the court physician of the Todo family. His first book was “Futaomote-Oshiehagoita,”published in 1886, and his masterpieces are “Aburajigoku” and “Kakurenbo” the stories of which were set in Yanagibashi. He actively gave literary criticism as well , and the joint review column “Sanninjogo,”which he produced together with Mori Ogai and Koda Rohan, helped give Higuchi Ichiyo’ s “Takekurabe”to the public. In his later years, his characteristic aphorisms were seen in “Ganzenkoto”, serial artcles in newspaper. He moved to 1-17 Honjo Yokokawacho in October 1904 and atayed there for about half a year until he ended his short
life at the age of 37, April 13 the following year.






                芥川龍之介成育の地

京葉道路に面して2ヵ所案内板が
立っています。
住所 / 両国3-21-4
  





            






       


芥川龍之介成育の地
 所在地  両国三丁目二十二番十一号

大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地にあった母の実家芥川道章の家で、一歳に満たない頃から十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。三歳の頃、自宅が改築された様子や、新しい家の庭に榧(かや)や木斛(もっこく)、五葉の松などが植えられていたことを記憶し、特に蝋梅(ろうばい)を愛したと述べています(「追憶」)。龍之介はこの家で、幼い頃から読書や文字の練習、昔話を聞くなどの教育を受け、大切に育てられました。近くの回向院の敷地には、龍之介が通った幼稚園と小学校(現在の両国小学校)があり、境内で遊んだことも「本所両国」や「追憶」から知ることができます。小学校では友人たちと回覧雑誌を編集し、龍之介は数多くの文章を執筆、挿絵なども描きました 。また、小学校最後の夏休みの日記には、「今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀にちかい)ふりまわしながら大川端を散歩しました。緑の糸をたるヽ柳やまっくろな木立や活々した川の流れや蟹(かに)の甲らをならべたよーな石崖(いしがき)などがのどかな朝日に照らされて一齊(せい)によろこびの聲(こえ)を上げて之(これ)をむかえるよーにかゞやき渡っています。」(原文通り)と自然の残る隅田川の美しい情景を記しました。また、隅田川での水泳に夢中になっていたことも多く書いており、普通の少年らしい一面もうかがえます。作家芥川龍之介の原点は、ここ両国の地で刻まれていたのです。
平成二十六年七月
                 墨田区教育委員会


Akutagawa Ryunosuke is one of the best writers in the Taisyo Period. He was in March 1892 in Tsukiji.Ryunosuke lived here in Ryogoku with his mother’s family, from not yet one year old to the age of eighteen, When he Moved to Shinjuku, The premises of Ekoin Temple,  which were ocated near the Akutagawa’s house, were quite large, at the time, and housed the kindergarten and elementary school which Ryunosuke attended. When he was an elementary school student, he enjoyed editing the kairan zasshi (magazines children circulated amongst themselves). Ryunosuke himself wrote many stories and drew illustrations for the magazines. Ryunosuke also wrote in his summer vacation diary that hewas absorbed in swimming in the Sumidagawa River, showing a more childlike side. We can read his remembrances in Ryogoku through such as “Honjyo Ryogoku ”and “Tsuioku (reiminiscences)” The orizin of Akutagawa Ryunosuke were kept here in Ryogoku.






            






          


芥川龍之介成育の地 両国三丁目二十一番四号

芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後七か月で、当時本所区小泉町十五番地(両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道草に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。芥川家は江戸時代からの旧家で、道草は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、教養伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。明治四十三年(一九一○)十九歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しま大学在学中、同人雑誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、随筆にも優れました。昭和二年(一九二七)に三十五歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。

芥川龍之介賞
通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えられる文学賞。昭和一○年(一九三五)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。






               榛(はんのき) 稲 荷 神 社( 榛馬場跡)
葛飾北斎が娘のお栄と稲荷神社脇に
住んでいたことがあったそうです。

          
住 所 / 両国4-34-11





            






       

葛 飾 北 斎 住 居 跡
(かつしかほくさいじゅうきょあと)
所在地  墨田区両国四丁目三十四番付近
 
この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約百八十五m、南北約二十二mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛(はんのき)があったので「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀(まつ)られていたのが「榛稲荷神社」です。本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は九十歳で没するまで常に新しい技法を試み、「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一
(つゆきいいつ)筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄(おえい)が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心(いいじまきょしん)は「蜜柑(みかん)箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍(かたわら)には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓(すし)の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜(はきだめ)と、一様なるが如(ごと)し」(葛飾北斎伝)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(一八四十年頃)で、八十歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。北斎は生涯で九十回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟(かつかいしゅう)もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉(こきち)の自伝『夢酔独言(むすいどくげん)』の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。
昭和二十一年三月
墨田区教育委員会墨田区教育委員会


Site Associated with Katsushika Hokusai

Katsushika Hokusai (1760-1849) is a famous Edo period ukiyo-e artist. He is particularly
wel known for his series of prints. The Thirty-six Vieus of Mount Fuji. Hokusai’ s Daughter, Pictured here with her aged father,Was also a talented artist. The reproduction drawing entitled “Hokusai’s Temporary House” Was made by Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s disciples, and he wrote that the house was near by the Hannoki Inari Shrine. It is said that Hokusai moved more thanninety times among his life. While the locations of most of his homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this are was made by Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s disciples, and he wrote that the house was near by the Hannoki Inari Shrine. It is said that Hokusai moved more than ninety times among his life. While the locations of most of his homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this areKats Kaishu (1823-1899) was a late Edo and Meiji period statesman. He was also born and raised in this neighbornhood.

Bord of Education, Sumida City






          


江 戸 の 町
Site of former Han-noki Riding ground

(はんのき) 馬場跡
この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。勝海舟の父子吉の著書『夢酔独言』の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。天保八年(一八三七)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗の奉仕立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。葛飾北斎も娘の阿栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがあります。
奉紙立=正式の食事の時、膳の盛物の周囲に紙をさまざまな形に折って立てる器






        小 泉 町 跡
Site of Koizumi-cho

住 所 / 両国2丁目11番
 





            






       


江 戸 の 町
Site of Koizumi-cho
小 泉 町 跡

昭和六年に横網町、元町、松坂町と合併して「東両国」と名を変えるまでこの辺りは、小泉町と呼ばれていました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図には当時、両国橋際にあった藤堂和泉守下屋敷の東隣、横網町の南隣に「小泉丁」とあります。寛文五年(一六六五)、御材木蔵手代の大縄地(おおなわち=組単位で下級武士に与えられた屋敷地)となりましたが、元禄九年(一六九六)に町屋の許しが出て、町名は小泉という者が草創者のため、小泉町と呼ばれるようになりました。






                   両  国  橋

両国橋は江戸時代に 隅田川で千住大橋に続い
て2番目に架けられた橋。明暦の大火後の
万治2年(1659)の架橋といわれる。
江戸時代から 川開きの花火の名所。
(平成20年)3月28日、言問橋と共に東京都の
東京都選定歴史的建造物に選定された。





            






           


両 国 橋
両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ“大橋”であった。しかし新大橋も造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられず、多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。回向院はその人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。この橋が架かったため、本所、深川がえどの新市街として発展ることとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場所としても、開心だ。幕末からは、川開きの花火もあって。江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は。昭和7年(1932年)に完成した。
昭和59年3月        
 
                      東 京 都






    大 高 源 吾 の 碑

赤穂浪士のひとりであり、
其角の弟子と伝える子葉
こと大 高 源 吾
「日の恩やたちまち
くだく厚氷」の碑。
昭和3年(1928)11月10日建立
  
    表 忠 碑

大 山 巌元帥の高さ4.5mの
表忠碑は日露戦争での戦没者
慰霊碑で、明治40年(1907)
1月1日に本所区徴兵慰労義会
によって建立されている。
所在地 / 墨田区両国1-11-2 
両国橋児童遊園内
  






   


両 国 橋 と 百 本 杭
所在地 墨田区両国1丁目~横網1丁目

 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
                    平成23年(2011)3月 墨田区教育委員






両 国 橋 錦 絵 集

 
新撰江戸名所 両国納涼花火ノ図
絵師:一立斎広重
  
          
両国橋川開の図   絵師:不祥 
 






 
名所江戸百景
両国花火
絵師:初代歌川広重
 
               
名所江戸百景 
両国橋大川ばた
絵師:初代歌川広重
 
               
江戸自慢三十六興
両こく大花火
絵師: 歌川豊国
 2代 歌川広重
 






 
江戸名勝図会 両国橋
絵師:二代歌川広重 
 
           
東都三十六景 両国橋
絵師:二代歌川広重
   
          
浮絵両国夜景ノ図
絵師:五渡亭国貞
  







江戸両国すずみの図    絵師/初代歌川豊国







東都名所 両国橋夕涼全図
絵師:一立斎広重
 







江戸高名会亭尽 両国柳橋
絵師:初代歌川広重
  
             
 江戸高名会亭尽  [両]国[柳]ばし
絵師:初代歌川広重
 







両国夕涼之図  絵師/ 哥川豊春  
             
江戸八景 両国橋の夕照
絵師:渓斎英泉 
    







江都名所 両国橋[納涼]
絵師:初代歌川広重
   
              
東都名所八景 両国橋秋月
絵師:歌川芳虎 
  







両国夕涼ミの図  絵師:香蝶楼豊国 
             
東都両国夕凉之図 絵師:歌川貞房   







東都両国の夕涼   絵師:歌川房種  
            
両国橋夕涼光景 絵師:国貞改二代豊国
  







両国夕涼の光景
絵師:香蝶樓豊国
  
            
両国涼船遊ノ図
絵師:香蝶楼豊国
  







両国にわか夕立
    絵師:香蝶楼豊国
   
             
両国夕景一ツ目千金
  絵師:三代歌川豊国
  







東都両国橋渡初寿之図
絵師:一幽斎重宣 
 
            
三都涼之図 東都両国ばし夏景色
 絵師:五雲亭貞秀
  






旧両国橋・東両国広小路跡の立札

                  旧両国橋・東両国広小路跡の立札

赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした後、休息
を取った場所として浮世絵にも描かれ、語り
継がれています





            






 

  江 戸 の 町
Site of former Ryogokubashi Bridge and Hirokoji Street

旧両国橋・広小路跡  22

旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年(一六五九)十二月。明暦三年(一六五七)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。寛保二年(一七四二)の調査では一日に二万人以上が往来したとされています。
 






  


  忠 臣 蔵
A stop-off point of Lord Asano’s 47 faithful retainers

赤穂浪士休息の地  23

元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。
 






 


  江 戸 の 町
Site of Sekisonkoriba

石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)  24

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋
の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
 






 

 
  江 戸 の 町
Site-of-Fujishiro-cho

藤 代 町 跡

かつてこの辺りにあった町名です。その由来は・・・・・享保年間(一七一六~三五)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場とし
て、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれています。回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で本所の入口にふさわしい繁華街でした。
 









 
  江 戸 の 町
Site of Komadomebashi Bridge

駒 留 橋 跡
駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半(約四.五メートル)、幅三間(約五.四メートル)の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路を結んでいました。その堀の幅はもっと広いところが四間(約七.二メートル)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)のまえに夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです。
  









  両 国 物 語
Kataba-no-Ashi

片 葉 の 葦

駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと考えられますが、時はそれが、本所七不思議の一つとされていました。その由来は・・昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。当時、葦は吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました
。 






           春日野部屋 (出羽海一門)

住所 / 墨田区両国1-7-11






           








相 撲 部 屋
Kasugano Stable


春日野部屋 (出羽海一門)

 師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)。
大正十四年(一九二五)五月、第二十七代横綱・栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋から分家独立し、創設しました。昭和三十四年(一九五九)十月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和三十五年(一九六○)、現役、を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営にあたりました。また、九代・春日野は昭和四十九年(一九七四)から同六十三年(一九八八)まで日本相撲協会理事長を務めました。平成二年(一九九〇)一月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方(第四十九代横綱・栃ノ海)が部屋を継承、十代春日野晃将を襲名しました。平成十五年(二○○三)二月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています
.






         与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地


住 所 / 両国1-8 
 





            









与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地

所在 墨田区両国1丁目8番

 この横町の左手に, 江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに, 初代・小泉与兵衛(1799 ~1858)により大成されました。小泉与兵衛は, 霊岸島の生まれでしたが, 次々と商売を替えて, 本所で暮らすようになりました。その頃に, 大阪風の押し鮨にあきたらず, これを江戸風に鮮度を保ち, 手早く造る方法を工夫しました。始めは, 毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが, 評判を呼ぶようになり, 屋台を出し, 後には店舗を開くほどになり, 殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。当時の狂歌きょうかにも「鯛比良目ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。また, 食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。
以後, 昭和5年に惜しくも廃業しました。
平成12年3月
                                                             墨田区教育委員会






      江 戸 の 町
Site of the former Yohei Sushi
  与兵衛すし跡   

住 所 / 両国1-8-11 
 





             






       


江 戸 の 町
Site of the former Yohei Sushi

与兵衛すし跡   27

現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは、約二百年前の文政年間で、小泉与兵衛が考案したといわれています。当時は鮨といえば大阪風の押し鮨ばかりだったところを、酢で締めた飯の上に、ワサビをはさんでネタを乗せて握られたものを屋台で立ち喰いするという新しいスタイルは、一挙に江戸っ子の人気となりました。与兵衛は、握り鮨を岡持に入れて盛り場を売り歩くことから始め、屋台、裏店での店売りを経て、文政七年(一八二四)に元町(両国一丁目)に「華屋」という屋号の店を開き大繁盛しました。この成功によって鮨屋という形態が確立し、その軒数が増えるに従って、職人が腕を競うようになり、一大食文化を築きました。






      

料 亭 「井 筒」

Upmarket restaurant
“Izutsu” in the novel “Onihei”

小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する
料亭で、この辺りにあったとされています。
住 所 / 両国1-8-11 
 





            






        


鬼 平 情 景
Upmarket restaurant “Izutsu”in the novel“Onihei”

料亭「井 筒」 28

小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する料亭で、この辺りにあったとされています。この小説には、裏の世界の人間がたくさん出てきます。羽沢の嘉兵衛もその一人です。表向きは両国で「井筒」という大きな料亭を経営していますが、裏では土地の盛り場ににらみをきかす香具師の元締で、江戸市中の暗黒街では知らない者はいません。大阪でたいへん羽ぶりがいい香具師の元締、白子の菊右衛門と親交が深く、その菊右衛門の依頼で、鬼平を暗殺しようとします。その計画は失敗に終わりますが、嘉兵衛はその後も鬼平の手を焼かせます。





墨田区内循環バス時刻表 
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)



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