スカイ姫のつぶやき街角・南部ルート1
柳嶋妙見山法性寺入口バス停~すみだ北斎美術館前バス停


    〇葛飾北斎が信仰していた寺としても有名な柳嶋妙見山法性寺 
    〇本 所 防 災 館 
    〇アトリエ創 藝 館    出村の桜屋敷    〇横川1丁目遺跡案内板・大震災遭難者追悼碑 
    〇太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角に城内鎮護の祈願所として建立された法恩寺
〇池波正太郎による鬼平犯科帳のモデル地案内板(〇「尻毛の長右衛門」の舞台)
鬼平情景(〇法 恩 寺
   〇高杉銀平道場 
  〇墨田区総合体育館  〇廣田硝子(株)   〇墨田区弓 道 場   〇江 東 寺
〇日本の歌人、小説家。明治期に活躍した伊藤左千夫の牧舎兼住居跡・歌碑
   河 童 像
  芥川龍之介の(大川の水)文学碑   国産マッチ発祥の地  〇史跡勝海舟揺籃の地
〇勝海舟の居住地(旗本岡野氏邸跡)  〇撞 木 橋
  〇菊 柳 橋 
   鬼平情景相模の彦十の家  〇尾張学校とも呼ばれた公立本所小学校跡
〇江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥終焉の地
    〇江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎のすみだ北斎美術館    〇三遊亭圓朝住居跡
〇緑町公園&緑町公園の立札色々 (江戸の町江川太郎左衛門屋敷跡前 両国物語津軽の太鼓津軽家上
屋敷跡 江戸の町南割下水) 〇・韮山に鉄製大砲を製造するための反射炉を建設したことで
有名な江川太郎左衛門邸跡案内板

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          柳嶋 妙見山 法性寺
葛飾北斎が信仰していた寺としても有名で、北斎は
法性寺の「妙見堂」を題材とした「柳嶋妙見堂」
「妙見宮」等の作品を数多く残しています。歌川
広重・豊国・中村仲蔵・市川左団次・六代目菊五郎・
六世桂文治など多くの名優や画伯などが吉運を開
いたとも伝えられています
住 所 / 業平5-7-7 電 話 / 03-3625-3838





         





         





         





         





 

「昔 ば な し 柳 塚」
所在 墨田区業平五丁目七番法性寺内
この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが
読み取りにくい部分が多いですが社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。江戸時代、
睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(一八八四)三遊派・柳派に分裂して覇をいうように
なりました同二二年(一八八九)には三游派の記念碑「三游塚」が区内の木母に建立されています。
やがて大正六年(一九一七)になって、寄席が会社組織となり、三〇〇人余りの芸人が日給制度の下
に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する一五〇人もの芸人が
睦会を結成して対峙しました。
               平成一三年三月
                         墨田区教育委員会





     

墨田区登録有形文化財
初 代 歌 川 豊 国 筆 塚 (断片)

所在地 墨田区業平五丁目七番七号 法性寺
初代歌川豊国(一七六九~一八二五)は、江戸時代後期に活躍し、歌川派を浮世絵界最大の一派に
成長させる基盤を作った人物です。豊国は江戸芝神明前に生まれ、俗名は倉橋熊吉、父倉橋熊五郎
は人形作りの職人でした。そのつながりから浮世絵の世界に入ったのが十四、五歳の頃と伝えられ、
歌川豊春の門人となりました。雅号は一陽斎で、役者絵と美人画において新境地を拓き、門人には
初代国貞(三代豊国)、国安、国芳をはじめ多数ありました。この石碑は、豊国の三回忌を経た文政
十一年(一八二八)に初代豊国の門人達と地本屋仲間、団扇屋仲間により建てられました。碑にされる
内容は、現在も豊国の伝記の基本資料として位置づけられるものです。碑文には、この碑が豊国の
遺筆数百枝を埋めた上に建てられたことが記されています。碑の撰文は狂歌堂真顔(碑では狂歌堂
四方真顔)、書と篆額は山東京山(山東庵樵者京山)、碑刻は窪世祥が受け持ちました。失われた原文
は飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』などにより知ることができ、初代豊国の業績や、絵師と文人との
交流を知る手がかりとしても貴重な内容を伝えてくれます。当初は境内の松の奥、墓城の側にあり
ましたが関東大震災で複数に損壊した後失われ、現存するのはここで見られる断片のみです。
平成二十五年九月
              墨田区教育委員会

Utagawa Toyokuni 1 Stone Monument
Utagawa Toyokuni 1 is a famous ukiyo-e artist in Edo period.He was member of the Utagawa school
and Studied under Utagawa Toyoharu,the master of his school.There were many disciples under him,
such as Kunisada 1 (Toyokuni Ⅲ), Kuniyasu and KUniyoshi. Calligraphy by Santo Kyozan and carving
by kubo Seisho was set up by his disciples and a group of fan warehousemen. In 1923 The Great
Kanto Earthquake wrecked the stone, eventually leaving only pieces.





 
 東都名所 柳島妙見堂
著者:一寿斎芳員  出版者:本泉市
          
江戸高名会亭尽 柳嶋之図
絵師:歌川広重







 名所江戸百景 柳しま絵師:広重
 出版者:魚栄 刊行年:安政4
 
                   
 江戸名所図会 柳嶋妙見:広重






東都三十六景 柳しま妙けん
絵師:広重
            
絵本江戸土産 10編. [1] 柳嶋妙見の社 広重
著者:松亭金水 解説[他]
出版者:菊屋三郎[ほか]


 






江戸名所図会第4  揺光之部 巻之7  国会図書館  著者:斎藤幸雄 [等著]
中央に妙見堂、その左側が「法性寺」 境内の左端に「影向松」がみえます。
右上に十間川(現在の北十間川)がみえます。下の川は現在の横十間川です。







本 所 絵 図








       



       
本 所 防 災 館
東京消防庁により開設された防災学習施防災シアターを
視聴できるほか、地震体験、消火体験、煙体験、
応急手当体験、都市型水害体験などの防災体験ができる
  住 所 / 横川4-6-6  電 話 / 03-3621-0119
入館 料 / 無料   開館時間 / 9:00~
 





         





         








       



          鬼  平  情  景
     
出 村 の 桜 屋 敷

田坂直右衛門の孫娘・おふさに想いを寄せていた
平蔵と左馬之助が、横川を行くおふさの嫁入り舟を
万感の思いで見送る場面が登場します。
住 所 / 横川1-1






         







鬼 平 情 景
出 村 の 桜 屋 敷

平蔵と左馬之助が青春を刻んだ高杉道場の北側には、田坂直右衛門の広大な屋敷があり、七十過ぎの
当主が奉公人と孫娘のおふさと暮らしていました。ここから道を隔てて斜向い辺りで、春には庭の山桜
の花片が、門弟が稽古に汗を流している道場へ舞い込んできたものでした。時にそのおふさが、打った
ばかりの蕎麦切と冷酒を下女に持たせ、祖父から申しつかったと道場に現れました。その初々しい乙女
のような姿に、平蔵、左馬之助ならずともに顔を赤らめ、はにかみ、師匠に揶揄されたものです。おふさ
が日本橋の呉服問屋近江屋へ嫁ぐ日、横川を立派な嫁入り道具を載せた舟に囲まれ、白無垢姿でゆったり
と行く様を道場の門外から両名が万感の思いで見送る場面は心に残ります。それから二十余年後の展開に
は愕然とさせられます。
                                   墨 田 区






       
横 川 一 丁 目 遺 跡 案 内 板 (右側)
(旗本太田家抱屋敷跡)


大 震 災 遭 難 者 追 悼 碑
(左側)

住所 / 横川1丁目15






左側は横川橋、中央は大震災遭難者追悼碑。 
          
 







横 川 一 丁 目 遺 跡
             (旗本太田家抱屋敷(かかえやしき)・三田土護謨(みたつちごむ)会社跡)
                                所在  横川一丁目十五番

 このあたりを含む本所一帯は、江戸時代の明暦三年 (一六五七) の大火 (振袖火事) の後に、江戸市街を
拡張するために開拓が進められ、元禄年間 (一六八八~一七〇三) 頃になると、周辺に武家屋敷や寺院など
が建てられるようになりました。室町時代に江戸を拠点とした武将太田道灌の墓がある法恩寺も、元禄
二年 (一六八九) に現在地 (太平一丁目) に移転してきました。横川一丁目遺跡の場所は、江戸時代の絵図
によると、太田道灌の一族である太田家の抱屋敷があったとされています。また、明治時代には、ゴム
製品材やエボナイト、赤Mで知られる軟式テニスボールなどを製造し、日本における近代ゴム工業の礎
となった三田土護謨製造合名会社がありました。平成九年、東京都住宅供給公社の都民住宅建設工事に
ともない、旗本太田家の抱屋敷に関わる遺跡が確認され、墨田区教育委員会の指導の下に、横川一丁目
遺跡調査会が発掘調査を実施しました。調査の結果、本所開拓のときの盛土層や本所上水の水路とみら
れる大溝、大田家抱屋敷の庭園の池や建物、陶磁器や瓦、木製品などの江戸時代の遺構・遺物が発見さ
れました。また、明治時代のものとして 「三田土」の墨書や焼印のある木札や板、ゴム製品が出土し、
三田土護謨製造合名会社の存在を裏付けています。このように、横川一丁目遺跡は、この場所の歴史を
物語る貴重な埋蔵文化財の包蔵地(ほうぞうち)となっています。
平成一一年二月
               三 田 土 会
                墨田区教育委員会





         





      

建 碑 趣 旨 碑 文
顧レバ大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如トシテ関東一體ニ亙ル未曾有ノ激震ハ我ガ帝都
五百年ノ文化ヲ一朝ニシテ烏有ニ帰セシメ三拾六萬六千戸ノ家屋ヲ焼失シ五萬八千餘人ノ市民ヲ
犠牲トシ損害実ニ三拾七億円ヲ算セリ以テ其ノ惨害ノ激甚ナルヲ知ルベシ當横川橋畔ハ本區に於ケル
第二ノ被服廠トシテ橋脚・隧道ニ橋下ノ船中ニ老幼相扶ケ父子相擁シテ殃死セルモノ實ニ三千六百
有餘人ニ及ヒ其ノ惨状言語ニ絶ス爾来星霜ヲ閲スルコト拾餘年官民一致復興ニ努力ヲ傾ケ今ヤ帝都ハ
全丗界第二ノ都市トシテ中外ニ誇称スルニ至ル是レ全ク災害犠牲者ノ賜ト謂ヲ可ナリ爰ニ於テ当地
附近有志相謀リ特ニ総理大臣齋藤閣下ノ題字ヲ乞ヒ先ノ事蹟ヲ記念シ永ク殃死者ノ追悼ト市民ノ警醒
ニ資センコトヲ希ヒ石ニ刻シ以テ後昆ニ伝フ矣
       昭和九年九月一日
                            法恩精舎 日肇識






      
ア ト リ エ 創 藝 館
江戸文字(扇子作り・提灯作り・表札他)体験ができる
すみだマイスターの職人工房ショップ
住 所 / 横川3-8-2  電 話 / 03-3622-2381
休 館 日 / 不定休  開館時間 / 10:00~18:00 
 





         





         





         





         





大石智弘先生作品集


         





         





         





言問い団子の伝統工芸品コーナーに展示されています!
大倉別邸(蔵春閣)は言問い団子さんより徒歩5分位にありました。


         





         





              











         





             








        



        法 恩 寺
法恩寺は長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城にあたり、
丑寅の方角である江戸平河に場内鎮護の祈願所を設けたことに
始まるとされます。開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公
で資高の代、本住院を法恩寺と改称しました。山号を平河山と称
するのは、当時この附近を平川村と称したことによるもので、
秀吉、家康共に小憩されたところです
住所 / 太平1丁目26-16  電話 / 03-3622-8267





         





         





         





         





     

日蓮宗 平河山法恩寺
寺伝によれば、古来法恩寺は平河村(後の江戸城平川口付近にあった村)にあった小さな草庵で、長禄元年
(一四五七)に太田道灌の助成により一寺造栄を果たしました。当初は道灌が帰依した学徳兼備の住職、
日住上人の院号をとって本住院と号しましたが大永四年(一五二四)に法恩寺に改めたと伝えられていま
す。寺号は道灌の子資康の法号『法恩斉日恵』にちなんだもので、資康の子資高が父の追善供養のため
堂塔を再建したのが改号の機縁になったとされています。そして、慶長十年(一六〇五)頃に神田柳原
へ移転し、慶安二年(一六四九)頃には再び所在を変えて谷中の清水坂に落ち着きました。また、元禄
二年(一六八九)閏正月二日には幕府の命により当地へ移転し、以後は寺内に二十もの塔頭を擁する寺院
として榮えることになりました。天保七年(一八三六)に出版された『絵戸名所図会』にはそうした当時
の景観が見え、往時の盛栄が偲ばれます。
     平成二十四年八月  墨田区教育委員会
               法恩寺 第五十六世 日元代





         







花  塚  の  記
花を愛する心は 人生をいつくしむおもいと同じである四季おりおりの花は 社会や時代を選ばず
自然を美しくいろどっているが けがれたところに其の花は咲かない日本人は花にさまざまな思いを
託してきた神を祭 仏に備えることから装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴
するものである古人も花塚を築き 花供養を営んだが昭和三十七年九月中村理運氏の発願により花
の道につながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして秋の彼岸には花供養祭が営まれ
ている敬虔な人々の心は また美しき古の花である。
  昭和四十六年九月





         






江戸名所図会 7巻. [18]  国会図書館  著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836] 







 鬼平犯科帳 「尻毛の長右衛門」の舞台

         





            

池波正太郎
鬼平犯科帳 「尻毛の長右衛門」の舞台

 引き込みのおすみは橋本屋の勝手口からぬけ出し、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。彼方に法恩寺
の大屋根がのぞまれる。法恩寺は花落本圀寺の触頭で、江戸三箇寺の一であり、表門を入った両側には
塔中が押しならび、境内の稲荷の小祠を中心にした庭園の桜花が、いまや咲きひらこうとしている。
(略)いつものように、布目の半太郎は法恩寺橋の欄干にもたれて、おすみをまっていた。






       
 鬼平情景・法 恩 寺
鬼平犯科帳では、「本所・桜屋敷」で平蔵と左馬之助が門前の
茶店〔ひしや〕で湯豆腐と熱燗で二十余年ぶりに旧交を暖める
場面に登場します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に寺裏手の
木立の中で布目の半太郎と引き込み役のおすみが逢引きする
様子が描かれています。
 





         





        

鬼 平 情 景
法 恩 寺

長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に場内鎮護の
祈願所を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住上人です。大永四(一五二四)年、
道灌の孫の資高が父資康追善のために堂塔を再建、資康の法名をもって本住院から法恩寺と改め
ました。家康入府後は、数回の移転を重ね、元禄元(一六八八)年に現在の地に定められました。
鬼平犯科帳では、数作品に登場します。「本所・桜屋敷」には平蔵と左馬之助が門前の茶店〔ひしや〕
で湯豆腐と熱燗で二十余年ぶりに旧交を暖める場面が登場します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に
寺裏手の木立の中で布目の半太郎と引き込み役のおすみが逢引きする様子が描かれています。
                                      墨田区






          
 鬼 平 情 景
      高 杉 銀 平 道 場

十九才の折、平蔵は横川沿いの出村町にあった道場の門を叩き、
入門後は休むこともなく猛烈な稽古に打ち込みました。肉体
だけでなく精神も鍛えられ、その後の人格形成に大きな力と
なりました。ここで生涯の友・岸井左馬之助に出会います。
住 所 / 太平1丁目25-4 






進行方向左側に法恩寺があります。 
            







鬼 平 情 景
高 杉 銀 平 道 場

 義母の苛めに反発、土地のごろつきと放蕩無頼の日々を送っていた平蔵ですが、十九才の折、
ここから道を隔てた横川沿いの出村町にあった道場の門を叩きます。入門後は世間への欝憤を晴ら
すかのように休むこともなく猛烈な稽古に打ち込みました。当然、腕はめきめき上達、肉体だけで
なく精神も鍛えられ、その後の人格形成に大きな力となりました。道場で技量が伯仲し、気も合っ
たのが岸井左馬之助です。高杉先生から同時に目録を授けられ、竜虎と呼ばれ、酒食の場にも肩を
並べて出かける間柄になりました。平蔵一家が京都へ赴任して一時、疎遠になりましたが、再開後
は、剣友の付き合いを復活、遊軍として火付盗賊改方を支えていきます。後に道場の食客であった
小野田治平の娘、お静と夫婦になり、春慶寺から下谷の金杉下町へ移り住みます。
                                    墨田区








         



       

 墨 田 区 総 合 体 育 館
利用可能時間・・・9:00〜22:30
(営業時間 / 8:30〜23:00)
電 話 / 03-3623-7273
住 所 / 墨田区錦糸4-15-1 錦糸公園内
 





         





 
躍 進 の 像
            





         





         





         





         






         廣  田  硝  子  (株)
明治32(1899年)創業。東京で最も歴史のある硝子メーカ
ーの一つです。創業より伝わる貴重なデザイン資料を元に、
江戸切子や吹き硝子など脈々と受け継がれる手仕事によ
る伝統的製造を継承し、 現代のインテリアに調和するプロ
ダクトを作り続けています。
電 話 / 03-3623-4145  住 所 / 墨田区錦糸2-6-5  
 





         





         





         






    
住 所 /江東橋3-13(錦糸町駅前)  
       





         





         









本所茅場町の牛舎 (左から3人目が左千夫)
岡 麓撮影 明治41年(1908)頃
 上下2点とも資料提供山武市歴史民俗資料館
            
伊藤佐千夫と牛(本所茅場町牧舎にて) 
 

伊藤左千夫牧舎兼住居跡
         所在地  墨田区江東橋三丁目十四番
この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)
に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を
深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を
購入し四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業
しました随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者
の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。左千夫が歌の世界に入ったのは、明治
二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の
頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没
後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌『阿羅々木』(のちに
『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの
歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子
の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。この地は低地で湿地が多く、水害が
たびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛
の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の
江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族ととも
に転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。隣に立つ「よき日には」の碑は、
昭和五十八年(一九八三)に「伊藤佐千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年
十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ
作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月
        墨 田 区 教 育 委 員 会






  
住 所 / 江東橋4-17-1
    





            





            





         






      

墨 田 区 弓 道 場
経験者または有段者対象です。
詳細は墨田区弓道連盟 電話 / 03-3612-7887
住 所 / 墨田区江東橋4丁目1−3
電 話 / 03-3633-9463  営業時間 / 9:00~9:00





         





         





         






    
江東寺 五徳山 江東寺(通称:江東観世音)境内
 住 所 / 江東橋3-6-5
     





         





         








        



      
すみだトリフォニーホール
住 所 / 錦糸1-2-3  電 話 / 03-5608-5400
     





         





         






  
撞 木 橋(しゅもくばし)
住 所 / 緑4-22
   
   





         





         





                





         







時 の 鐘 跡
 住所 墨田区緑四丁目二十二番
大横川の左岸には時の鐘を撞(つ)く鐘楼(しょうろう)がありました。江戸時代、時を知らせる手段は鐘を撞く
こと以外にはありませんでした。そのため、江戸城で打ち出された太鼓の音(のちに日本橋本石町(ほんごくちょう)
の鐘楼の鐘)を、周辺の鐘楼が鐘の音に換えて打ち出し、順次この鐘の音を引き継いで江戸の隅々へと時を知らせ
ていきました。従って、江戸城と周辺の町内とでは、少し時間にずれが生じるのが普通でした。また、当時は不定
時法を採用していたことから、季節に応じて時間の長さが変化しました。従って夜明けは常に明け六ツ(六時)、
日没は常に暮れ六ツ(六時)だったのです。日本橋本石町の鐘の音は、ここ本所の鐘楼に伝えられました。鐘楼の
近くには時鐘屋敷(緑四丁目十番・二十一番の境)があり、町会で選ばれた撞き番の人が待機していたそうです。
平成十九年三月
                              墨田区教育委員会





                






菊 柳 橋 ( 大横川下流 )
川の両サイドが桜並木


         






         
芥 川 龍 之 介 の 文 学 碑
(大川の水)は大正3年(1914年)4月1日発行
の雑誌『心の花』第18巻第4号に柳川隆之介
の署名で掲載された。
住 所 / 江東橋1-7-14
(東京都立両国高等学校附属中学校内)





         





         





     

「大川の水」(抜粋) 
 もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇
もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」
の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、
生活を愛するのである。






      


国産マッチ発祥の地
日本で初めてマッチを生産した新燧社の所在地を記念
するもので、1986年に建立されました。
住 所 / 江東橋1-7-14 





         





         






      

史 跡 勝 海 舟 揺 籃 の 地
(五柱稲荷神社内)
住 所 / 緑 4-11-6 





         





         






      

 勝 海 舟 の 居 住 地
(旗本岡野氏邸跡)
住 所 / 緑 4-35-6





         





       

勝 海 舟 居 住 の 地━━旗本岡野氏屋敷跡━━
           所在地 墨田区緑四丁目三十五番六号

勝海舟(麟太郎(りんたろう))は、文政六年(一八二三)に両国にあった父勝惟(これ)寅(とら)の実家、
男谷(おたに)氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。その後、父母とともに本所の旗本屋敷を
転々としましたが、天保二年(一八三一)頃ここにあった岡野氏の屋敷に落ち着き、十代後半までの
多感な時期を過ごしたといわれています。麟太郎は後に幕臣として出世を果たし、激動の時代に活躍の
場を広げてゆきます。麟太郎が世話になった岡野氏は後北条氏の旧臣板部岡江雪(いたべおかこうせつ)
を祖とする旗本で、文政九年十二月の屋敷替えを経て、同十年三月ごろに当地に移住していました。
家の経営費を捻出する為の屋敷替であったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に
数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移住していたようです。幕府創業期より
続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫(ひっぱく)していたようです。このため、幕末
維新の時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。
正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした武家凋落の
厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。
 平成二十五年一月
             墨田区教育委員会 








      



       鬼 平 情 景
相 模 の 彦 十 の 家

彦十が密偵となる前から住んでいた家です。 彦十は本所松井町
の「岡場所」に巣食う香具師あがりの無類者で、若かりし平蔵が
放蕩無類の暮らしを送っていた頃からの取り巻きの1人です。
密偵に転じるとその働きには目を見張るものがありました。
住 所 / 亀沢4-14-6





         





      

鬼 平 情 景
相 模 の 彦 十 の 家

密偵となる前から住んでいた家で、一時、大滝の五郎蔵も同居していました。後に引き払い、本所・二ツ目橋
の軍鶏なべ屋〔五鉄〕の二階へ寄宿します。「本所・桜屋敷」で平蔵が二十余年ぶりに南割下水で偶然出会う
シーンが出てきます。平蔵が若かりし頃、本所は松井町の岡場所に巣食う香具師上りの無頼者で、取り巻きの
一人でした。〔小川や梅吉〕の探索を頼まれ、密偵に転じます。その後の働きは枚挙に遑(いとま)のないほど
です。昔馴染みだけに、長官の平蔵を「銕つぁん」「親分」などと気安く呼び、周りを唖然とさせますが、
平蔵も「悪い友だちを持ったものよ」とあまり意に介さず、ちょいと頭の上がらないところがあります。
                                    墨 田 区






      

公 立 本 所 小 学 校 跡

本所小学校は、近所に屋敷を所持した尾張徳川家より
寄附をうけて開校し、尾張学校とも呼ばれました。
住 所 / 亀沢4-11-15
 





         












公 立 本 所 小 学 校 跡
   所在地  墨田区亀沢四丁目11番15号  墨田区立堅川中学校
当地にほど近い亀沢三丁目13番地には、久保尊保 (田安徳川家旧臣) が明治4年(1871) に開いた私塾、松川堂
(しょうせんどう)がありました。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校となり、明治8年11月、当地に校舎が
新築されました。校舎は日本で本格的な洋風建築が普及(ふきゅう)する前に建てられた擬洋風建築(ぎようふう
けんちく)の建物で、バルコニーに唐破風(とうはふ)を付けた二階建ての洋風建物を中央に配し、その両側に
ガラス戸をはめ込んだ平屋の和風建物が接続していました。本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた
尾張徳川家より多額の寄附を受けました。(このため尾張学校とも呼ばれました)。徳川家の資料の中には校舎
を撮影した写真が残され、文明開化の息吹を伝える建物が本所地域の子供たちの新しい教育の場になったこと
をよく伝えています。児童256名、教員5名から始まった本所小学校は、明治44年 (1911) には児童2094名、教員
30名を数えるまでになり、廃校となる昭和21年 (1946) までの間に8,000名を超える卒業生を送り出しました。
平成30年11月10日
                  墨田区教育委員会






      河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地
河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言
作者です。 江戸日本橋の商家に生まれましたが、遊興にふけ
って勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木(さいき)香以
らと交流を深めました。歌舞伎を始め、狂歌や茶番などに通じ、
二十歳で五代目鶴屋南北に弟子入りをし、勝諺蔵と名乗りました。
幕末の人びとを生き生きと描き出した三六〇編に及ぶ作品を
残しました。
住 所 / 亀沢2-11-11 





         





           

河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地
                         所在地 亀沢二丁目十一番
河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。黙阿弥の本名は吉村芳三郎。江戸
日本橋の商家に生まれるも遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以(さいきこうい)らと
交流を深めました。歌舞伎をはじめ、狂歌や茶番などにも興じ、ニ十歳で五代目鶴屋南北に入門、勝(かつ)諺蔵
(げんぞう)を名乗りました。後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永七年 (一八五四) に江戸河原崎座で初演された
「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)(忍ぶの惣太)」が四代目市川小団次との提携で大当たりを取り、
「小袖曽我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい) (十六夜(いざよい)清心(せいしん)) 」、「三人吉三(さんにん
きちさん)廓(くるわの)初買(はつがい)」など、現在も上演される作品を次々と世に送り出してゆきました。七
五調の美しい台詞を巧みに活かして幕末の人々を生き生きと描き出し、三六〇編に及ぶ作品を残しました。
明治の新時代にも活躍、明治十四年 (一八八一) に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、その後も劇作の筆を
置くことはありませんでした。明治二十年三月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所
南双葉町三十一番地(現亀沢二丁目十一番)に自宅を新築し、転居しました。周囲に塀をめぐらせた広い新宅は南
割下水(現北斎通り)のほど近くにあり、庭には潮入の池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られて
いました。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で六年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」、
五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。黙阿弥の人柄は彼の作品とは対照的で、穏やかでも
の静かであったとされています。自らの死も予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理、友人への
挨拶まわりなどなすべきことを終えて、明治二十六年一月二十二日に七十七年の生涯を閉じました。
 平成二十七年一月
                     墨田区教育委員会

Final Resting place of Kawatake Mokuami
A legendary writer of Kabuki plays, Kawatake Mokuami was called“the great warehouse of Edo drama”by
famed author Tsubouchi Shoy. Originally born as Yoshimura Yoshisaburo to a merchant family in the
Nihonbashi district of Edo, Mokuami was disowned by his family for Indulging in worldly pleasures, At
the age of 20, he became an apprentice of Kabuki playwright Tsuruya Namboku V, later taking the
name of Kawasaki Shnshichi 11. In 1854, the Mokuami-penned “Miyakodori Nagare No Shiranami” (commonly
called“Shinobu No Sota”)was performed on stage. It was in this play, which he produced in collaboration
with Ichikawa Kodanji 1V、that Mokuami found his breakthrough work. Numerous leading plays by Mokuami
including “Kosode Soga Azami No Ironui”(commonly called“Izayoi Seishin”)and “Sannin Kichisa Kuruwa No
Hatsugai”continue to be performed today. In total, he penned over 360 works. In March 1887 , Mokuami
relinquished his abobe in Asakusa to Kawatake Shinshichi Ⅲ and built a new residence here in what is now
Kamezawa 2-chome 11-ban, to which he then relocated. Surrounded by a canal, this home hosts a pond as well
as a two-story storehouse and an annex that Mokuami used as a study. He spent six years being called “the
master of Honjo (an Edo suburb),”during which he penned the likes of “Momijigari”for ichikawa Danjuro Ⅸ 
and “Modoribashi” for Onoe Kikugoro V. Mokuami was said to have a gentle personality, and Spent his last days
organizing his library, paying visits to his friends, and otherwise taking care of what he had left to do. The final
chapter In his life of 77 years closed on January 22. 1893.








       



      
三 遊 亭 円 朝 住 居 跡

三遊亭圓朝(一八三九~一九〇〇)は、江戸時代
後期から明治時代にかけて活躍した落語家です
住 所 / 亀沢2-13-7





         





                     

「三遊亭圓朝住居跡
           所在地 墨田区亀沢二丁目十三番七号
 三遊亭圓朝(一八三九~一九〇〇)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語家です。
本名は出渕(いずぶち)次郎吉。父は二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入り
しました。初舞台は弘化二年(一八四五)三月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧め
により一時高座から離れました。池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と
同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。
 その後、再び圓生門に戻り十七歳で圓朝を称します。元治元年(一八六四)に二十六歳で両国垢離場
(こりば)の昼席の真打となります。人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人
情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。圓朝は明治九年(一八七六)十月に浜町から
本所南二葉町二十三番地(この公園の南側、現在の亀沢二丁目十二番)に移り、同二十八年に牛込に転居
するまでの十九年間をこの地で過ごしました。この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作
『塩原多助一代記』を生み、明治二十二年四月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立
しました。代表作に「真景(しんけい)累ヶ淵(かさねがふち)」「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」
「塩原多助一代記」「文七元結(もっとい)」など多数あります。
                      平成二十五年三月
                      墨田区教育委員会」






    
 す み だ 北 斎 美 術 館
住所/亀沢2-7-2   
 電 話 / 03-6658-8936
     





    
Project Name : The Peter Morse Collection and The Narazaki Muneshige Collection
Organized by : The Sumida Hokusai Museum
Venue : The Sumida Hokusai Museum (2-7-2 Kamezawa, Sumida-ku)
北斎の研究者であり、世界有数の北斎作品コレクターであったピーター・モース氏のコレクションより江戸時代の風俗・流行が窺える作品、浮世絵研究の第一人者・楢﨑宗重氏のコレクションより江戸から昭和期にかけて特に人気や評価が高かったとされる絵師・画家の作品を厳選し、約140点を展観。
【開催日】2021年10月12日(火)~2021年12月05日(日)9:30~17:30
(入館は17:00まで) ※月曜休館
【観覧料】一般1,000円、高校生・大学生・65歳以上700円、中学生・障がい者300円、  小学生以下無料
【問合せ】すみだ北斎美術館 03-6658-8936





         





         





         





            
北斎ラーメン  





         





         





         





          






       緑 町 公 園
昭和5年3月31日開園
ロープで作られたジャングルジムの
ザイルクライミングが魅力の一つです。

住 所 / 墨田区亀沢2 -7 -
7





         





         





           

江 戸 の 町
江川太郎左衛門屋敷跡前 9

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門は江川家の代々の当主の通称です。
なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(一八〇一~五五)です。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な
沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防衛のため、江戸湾内
に数ヵ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。
この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年
振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。
                                    墨 田 区





        

両 国 物 語
津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡 8

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を
知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知
らせていました。なぜ、この屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのか誰も知らず、不思議なこととされて
いました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、伝説などの伝
わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。この「津軽の太鼓」には
「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。
                                             墨 田 区





         

江 戸 の 町
南 割 下 水

明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、堅川、大横川、
北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を
集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。幅は
一間(約一・八メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の
「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。昭和初期に埋め立てられ
ましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。
また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。
                        墨 田 区





        

絵 画 と 文 学
Birthplace of Ukiyo-e artist,Hokusai
葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦十(一七六0)年九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を
出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立
させて、多くの名作を遺しました。代表作『富嶽三十六景』は、天保二(一八三一)年から天保四(一八三三)
年にかけて製作。とても七十歳を過ぎてからの作品とは思えません。八十歳を過ぎても創作意欲は衰えず、
死の床に就いた嘉永二(一八四九)年、「あと一〇年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の
画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい
臨終の言葉でした。
墨 田 区






      
江川太郎左衛門邸跡
韮山に鉄製大砲を製造するための
反射炉を建設したことでも知られています。

この地で五十五歳の生涯を閉じ、韮山の本立寺
に葬られました

住 所 / 墨田区亀沢1-3-12
1





         





        

江川太郎左衛門屋敷跡
 所在地 墨田区亀沢一丁目三番
 幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍は、享和元年(一八○一)現在の静岡県伊豆の国市韮山に生まれました。
天保六年(一八三五)三十五歳の時、韮山代官に就任し、伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐の五か国の天領
(幕府の直轄地)を管理していました。代官の役所は韮山と江戸の二か所にあり、韮山役所で伊豆国・
駿河国駿東郡の支配にあたり、残りは江戸屋敷で管理していました。嘉永七年(一八五四)の頃には、
最も多くの家来を召し抱えており、江戸屋敷には手付三人、手代十四人がいたようです。
 韮山代官となった英龍は、領民のために誠実な仕事を行ったので、郡内地方では、端午の節句に
世直江川大明神」と書かれた紙のぼりを立てていたようです。その後、海防の視点から、西洋文化
の知識を積極的に摂取し、品川台場の建設などに尽力しました。韮山に鉄製大砲を製造するための
反射炉を建設したことでも知られています。また、外国からの攻撃に備え、保存性、携帯性にも優
れていた乾パン(兵糧パン)を日本で初めて考案し焼かせたことでも有名です。
 安政二年(一八五五)一月十六日、この地で五十五歳の生涯を閉じ、韮山の本立寺に葬られました。
  平成二十八年二月  墨田区教育委員会」

The Site of Homestead for Egawa Tarozaemon
Egawa Tarozaemon (1801-1855) was a servant of the Tokugawa Shogun, who actively learned military
knowledge from Western countries and was dedicated to the defense of Edo Bay (the current Tokyo Bay)
in the first half of the 19th century .He is also famous for the construction of reverberator in Nirayama
in the Izunokuni City of Shizuoka prefecture which naw is aunthorized as a World Heritage.
This is the homestead Site for Egawa.





 
幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだ
その子英敏が完成させました。韮山反射炉は、実際に
稼働した反射炉として国内で唯一現存するものです。
         
重要文化財 江川家住宅 
江川邸
〒410-2143
静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地
TEL: 055-940-2200

                                             ペ ー ジ ト ッ プ へ





つぶやきいってみよう
柳嶋妙見山法性寺入口バス停~すみだ北斎美術館前バス停

   カフェチョコプリン  〇 パドルクエスト
  乳 頭 製 菓   〇ね こ づ き 
    東武ホテルレバント東京    
  〇大心堂雷おこし《古代》 
    CAFE BONFINO-墨田倶楽部店  
  東あられ両国本店   〇東京両国・江戸蕎麦・ほそ川  



       



       カフェチョコプリン
シフォンケーキが量り売りで美味しくて嬉しいお値段です。
以前、名古屋の駅ビルのお店で初めて出合い、あまりの
美味しさに驚きました。幟を見て、思わず入りましたが、
リピートしてしまいました。)
住 所 / 業平4-5-18 電 話 / 03-5619-8831
定休日 / 火・水    時 間 / 12時から





         





         





         





         





               






         パドルクエスト
PADDLE QUEST
都心唯一のカヤック・カヌー・SUNの専門店
住 所 / 業平4-6-11 電 話 / 03-6456-1712
休業日 / 火曜日・水曜日
営業時間 / 月、木、金:15:00~19:00
     土、日、祝:12:00~19:00





         





         





         





         





         





         





        



       乳  頭  製  菓
錦糸町で半世紀以上に渡りバームクーヘン一筋に
焼き続けております
工場前では焼き立てバームクーヘン
を販売しています。
住 所 / 太平3-3-11 電 話 / 03-3622-6732
 





         






       ね こ づ き
厚焼きホットケーキのお店
住 所 / 太平3-14-2 電 話 / 03-6456-1392
定休日 / 月火曜





         





         



      
東武ホテルレバント東京
東京スカイツリーを望む絶景!
住 所 / 錦糸1-2-2  電 話 / 03-5611-5511





         





        



      
大 心 堂 雷 お こ し《古代》
(工場店舗)

美味しいと有名です!
住 所 / 亀沢4-23-11 電 話 / 03-3624-8961
定休日/毎週日曜&祝祭日

時間:9:00~6:00
  





         





       



      
CAFE BONFINO 墨田倶楽部店
YKKブラジルコーヒー農場直送の豆です!
住  所 / 亀沢3-22-1(YKK 60ビル別館)
電 話 / 03-5610-8370 営業時間 / 10:00~17:30
休業日 土、日、祝日 





         





       



       
東 あ ら れ 両 国 本 店
明治43年創業
住 所 / 亀沢2-15-10 電 話 / 03-3624-9733
営業時間 / 9:00 - 19:00  定休日 / 年中無休
            (1/1~1/3除く) 





         






       

東京両国 江戸蕎麦 ほそ川
 住所 : 亀沢1丁目6-5  電話 : 03-3626-1125 
定休日 : 毎週月曜日、第1、第3火曜日
営業時間 : 11:45~14:30 17:30~21:00 





         






     
With Cafe
嬉しいお値段でお子様も大歓迎!
住 所 / 亀沢2-12-4  電 話 / 03-5637-7664
受付時間 8:00 ~18:00





         






        【MERIKOTI(メリコティ)】
布 ぞ う り

“メリヤス”の「MERI」と北欧の言葉で“ふるさと”
をあらわす「KOTI」・「メリヤスのふるさと」
に由来しています。
住 所 / 亀沢1-12-10  電 話/070-6986-0708
営業時間 / 10:00 - 18:00  月曜定休





         

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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