つぶやき街角南部ルート②
  両国駅西口~勝海舟生誕の地

( スカイ姫のつぶやき19 )

                             ト ッ プ ペ ー ジ ヘ   つぶやき街角へ

バ ス 停 ル ー ト 一 覧 表

 
                                  バス停にリンクします

りょうごくえきにしぐち  
 
       江島杉山神社入口
えじますぎやまじんじゃ
 
      
かつかいしゅうせいたんのち
・きらていあといりぐち 
 





        両 国 駅 西 口




            葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks of the
Sumida River: Ryogoku Noryo Ichinohashi
Benten(The Cool of the Ryogoku Evening at
Ichi-no-Hashi Benten)  
両国納涼一の橋弁天 
━絵本隅田川両岸一覧━





          






          



両国納涼一の橋弁天 ━絵本隅田川両岸一覧━

狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の堅川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, panoramic
Views on Both Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people enjoying the evening coolness on Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the Ryogoku Main Street, a prominent amusement area during the Edo Era, and makeshift theaters and tea houses, etc... can be seen side by side. The main feature of this print is probably its size, which is wider thanit is high as is typical with picture books. The small bridge that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the present-day Tatekawa River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area aroud the forest is 1chinohashi Benten,which is currently the Ejima Sugiyama Shirne. The triangular building on the right is the Shogun's boathouse.








               両 国 花 火 資 料館
花火の造り方を説明するビデオを鑑賞
することができます。
住 所 / 両国2-10-8
(住友不動産両国ビル1F)

料金 / 無料
営業時間 / 12:00~16:00





          






          






          






               赤 穂 浪 士 史 跡 吉 良 邸 趾
 本所松坂町公園

        
住 所 / 両 国2-





          






                






               旧 国 技 館 跡
Site of former Kokugikan Arena
 

住 所 / 両 国2-8





          







       


大 相 撲
Site of former Kokugikan Arena
旧 国 技 館 跡
   16

旧国技館は、天保四年 (一八三三) から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年 (一九〇九) に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円 (現在の価値では七十五億円程度) です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年 (一九八三) に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。       
                                 墨 田区








          









国技館 ( 大鉄傘(だいてつさん) ) 跡
                 所在地 墨田区両国二丁目八・九番

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年 (一八三三) から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の境内に明治四十二年 (一九〇九) に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。二本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかしメモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八 (一九八三) に解体されました。そして同六十年 (一九八五) 、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
  平成二十年三月
                          墨田区教育委員会








               回 向 院

旧両国国技館の大相撲の前身の勧進相撲が
境内で行われていました。

住所 / 両国2-8-10     電話 / 03-3634-7776
 





   
回 向 院
Ekoin Temple


明暦3年 (1657) に開かれた浄土宗の寺院。振袖火事で知られる明暦の大火の犠牲者10万人以上の無縁仏供養や、鼠小僧の墓があります。また、明和5年 (1768) に境内で初めて勧進相撲が行われました。

This old temple of the Pure Land School of Japanese Buddhism
(Jodo-shu) is the site of a memorial to more than 100,000 victims
of a great fire in the seventeenth century as well as the grave of
Edo-period folk hero Nezumi Kozo







          






          






       

明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。








     

相撲関係石碑軍(力塚)
    所在  墨田区両国二丁目八番 回向院
 
墨田区と相撲の関わりは、明和5年 (一七六八) 九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保四年 (一八三三) 一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治一七年 (一八八四) に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四二年 (一九〇九) に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年 (一九一六) に建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔(ほうかいばんれいとう)もこの中に移動しました。現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七六にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。
 平成一一年三月
                     墨田区教育委員会








               回 向 院 正 門 跡

回向院の伽藍は東京大空襲で焼失し,
戦後、再建され、正門は現在の京葉
道路沿い国技館通りに移されました
住 所 / 両国2-8-10 





          







回向院開帳参(挿絵)  絵師/松濤軒斎藤長秋







       

江 戸 の 町
Site of former main gate of Eko-in Temple

回 向 院 正 門 跡

回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものといえます。両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。








        斎藤緑雨居住の地

森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」
では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り
出しました。
住所 / 両国2-19
  





          







       

斎藤緑雨(さいとうりょくう)居住の地
  墨田区両国二丁目十九番

 明治時代の作家斎藤緑雨は慶応三年 (一八六七) に伊勢国神戸(かんべ) (三重県鈴鹿市) に父斎藤利光、母のぶの長男(本名は賢(まさる))として生まれました。明治九年 (一八七六) 一家で上京し、深川、本所千歳町に居住の後、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師となったことから、本所緑町 (現緑二丁目) の藤堂家邸内に移り住みました。上京後の緑雨は、土屋小学校 (現千歳に旧在) や江東小学校 (両国小学校の前身) などで学びました。緑雨は「日記帳」の中で「読書と数学はいつも高点」、「習字と画学は、いつも落第点にちかかり」と回想しています。十二、三歳頃から上田萬年らと回覧雑誌を始め、十四歳頃からは詩文を新聞に投稿するようになりました。明治十七年、十七歳の時には父とともに俳句を師事した其角堂永機の紹介で仮名垣魯文(かながきろぶん)の門に入り、その縁で「今日(こんにち)新聞」の校正や記事収集の手伝いを始めました。この頃、社主に伴われて出かけた柳橋や新橋での見聞が江戸通人趣味につながったといわれています。翌年には坪内逍遥(つぼうちしょうよう)との親交が始まり、居住地の緑町にちなんだ緑雨のペンネームを使用するようになります。処女作は江東みどりのペンネームで明治十九年に発表した「善悪押絵羽子板」で、五年後には柳橋を舞台とした「油地獄」と「かくれんぼ」で小説家としての地位を確立しました。また、文芸批評でも旺盛な執筆活動を展開し、森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り出しました。晩年には「眼前口頭」などの新聞連載で緑雨特有のアフォリズム(警句)を表現しました。居住地を転々とした緑雨は、病気がちとなり明治三十六年十月、本所横網町一丁目十七番地(現横網一丁目・両国二丁目の一部)の金沢タケ方に寄寓することになりました。緑雨はその家の奥の六畳で臥しがちだったようです。翌年、親友馬場狐蝶に樋口家から預かっていた一葉の遺稿と日記を託し、四月十三日に三十七歳の生涯を閉じました。親友幸田露伴は緑雨の生涯に思いを馳せ、「春暁院緑雨醒客」と戒名をつけました。
平成二十七年三月
                               墨田区教育委員会


Residence of Saito Ryokuu

Saito Ryokuu (1867-1904) was an author who lived during the Meiji period.After moving to Tokyo with in 1876 and living in Fukagawa and Honjo,he resided on the precincts of the Todo family’s property Midoricho (now Midori 2-chome), as his father had become the court physician of the Todo family. His first book was “Futaomote-Oshiehagoita,”published in 1886, and his masterpieces are “Aburajigoku” and “Kakurenbo” the stories of which were set in Yanagibashi. He actively gave literary criticism as well , and the joint review column “Sanninjogo,”which he produced together with Mori Ogai and Koda Rohan, helped give Higuchi Ichiyo’ s “Takekurabe”to the public. In his later years, his characteristic aphorisms were seen in “Ganzenkoto”, serial artcles in newspaper. He moved to 1-17 Honjo Yokokawacho in October 1904 and atayed there for about half a year until he ended his short
life at the age of 37, April 13 the following year.








                芥川龍之介成育の地

京葉道路に面して2ヵ所案内板が
立っています。
住所 / 両国3-21-4
  





          







       


芥川龍之介成育の地
 所在地  両国三丁目二十二番十一号

大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地にあった母の実家芥川道章の家で、一歳に満たない頃から十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。三歳の頃、自宅が改築された様子や、新しい家の庭に榧(かや)や木斛(もっこく)、五葉の松などが植えられていたことを記憶し、特に蝋梅(ろうばい)を愛したと述べています(「追憶」)。龍之介はこの家で、幼い頃から読書や文字の練習、昔話を聞くなどの教育を受け、大切に育てられました。近くの回向院の敷地には、龍之介が通った幼稚園と小学校(現在の両国小学校)があり、境内で遊んだことも「本所両国」や「追憶」から知ることができます。小学校では友人たちと回覧雑誌を編集し、龍之介は数多くの文章を執筆、挿絵なども描きました 。また、小学校最後の夏休みの日記には、「今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀にちかい)ふりまわしながら大川端を散歩しました。緑の糸をたるヽ柳やまっくろな木立や活々した川の流れや蟹(かに)の甲らをならべたよーな石崖(いしがき)などがのどかな朝日に照らされて一齊(せい)によろこびの聲(こえ)を上げて之(これ)をむかえるよーにかゞやき渡っています。」(原文通り)と自然の残る隅田川の美しい情景を記しました。また、隅田川での水泳に夢中になっていたことも多く書いており、普通の少年らしい一面もうかがえます。作家芥川龍之介の原点は、ここ両国の地で刻まれていたのです。
平成二十六年七月
                 墨田区教育委員会


Akutagawa Ryunosuke is one of the best writers in the Taisyo Period. He was in March 1892 in Tsukiji.Ryunosuke lived here in Ryogoku with his mother’s family, from not yet one year old to the age of eighteen, When he Moved to Shinjuku, The premises of Ekoin Temple,  which were ocated near the Akutagawa’s house, were quite large, at the time, and housed the kindergarten and elementary school which Ryunosuke attended. When he was an elementary school student, he enjoyed editing the kairan zasshi (magazines children circulated amongst themselves). Ryunosuke himself wrote many stories and drew illustrations for the magazines. Ryunosuke also wrote in his summer vacation diary that hewas absorbed in swimming in the Sumidagawa River, showing a more childlike side. We can read his remembrances in Ryogoku through such as “Honjyo Ryogoku ”and “Tsuioku (reiminiscences)” The orizin of Akutagawa Ryunosuke were kept here in Ryogoku.






          







          


芥川龍之介成育の地 両国三丁目二十一番四号

芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後七か月で、当時本所区小泉町十五番地(両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道草に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。芥川家は江戸時代からの旧家で、道草は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、教養伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。明治四十三年(一九一○)十九歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しま大学在学中、同人雑誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、随筆にも優れました。昭和二年(一九二七)に三十五歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。

芥川龍之介賞
通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えられる文学賞。昭和一○年(一九三五)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。








               榛(はんのき) 稲 荷 神 社( 榛馬場跡)
葛飾北斎が娘のお栄と稲荷神社脇に
住んでいたことがあったそうです。

          
住 所 / 両国4-34-11





          







       

葛 飾 北 斎 住 居 跡
(かつしかほくさいじゅうきょあと)
所在地  墨田区両国四丁目三十四番付近
 
この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約百八十五m、南北約二十二mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛(はんのき)があったので「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀(まつ)られていたのが「榛稲荷神社」です。本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は九十歳で没するまで常に新しい技法を試み、「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一
(つゆきいいつ)筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄(おえい)が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心(いいじまきょしん)は「蜜柑(みかん)箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍(かたわら)には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓(すし)の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜(はきだめ)と、一様なるが如(ごと)し」(葛飾北斎伝)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(一八四十年頃)で、八十歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。北斎は生涯で九十回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟(かつかいしゅう)もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉(こきち)の自伝『夢酔独言(むすいどくげん)』の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。
昭和二十一年三月
墨田区教育委員会墨田区教育委員会


Site Associated with Katsushika Hokusai

Katsushika Hokusai (1760-1849) is a famous Edo period ukiyo-e artist. He is particularly
wel known for his series of prints. The Thirty-six Vieus of Mount Fuji. Hokusai’ s Daughter, Pictured here with her aged father,Was also a talented artist. The reproduction drawing entitled “Hokusai’s Temporary House” Was made by Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s disciples, and he wrote that the house was near by the Hannoki Inari Shrine. It is said that Hokusai moved more thanninety times among his life. While the locations of most of his homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this are was made by Tsuyuki Iitsu, one of Hokusai’s disciples, and he wrote that the house was near by the Hannoki Inari Shrine. It is said that Hokusai moved more than ninety times among his life. While the locations of most of his homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this areKats Kaishu (1823-1899) was a late Edo and Meiji period statesman. He was also born and raised in this neighbornhood.

Bord of Education, Sumida City








          


江 戸 の 町
Site of former Han-noki Riding ground

(はんのき) 馬場跡
この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。勝海舟の父子吉の著書『夢酔独言』の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。天保八年(一八三七)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗の奉仕立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。葛飾北斎も娘の阿栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがあります。
奉紙立=正式の食事の時、膳の盛物の周囲に紙をさまざまな形に折って立てる器








        小 泉 町 跡
Site of Koizumi-cho

住 所 / 両国2丁目11番
 





            






        


江 戸 の 町
Site of Koizumi-cho
小 泉 町 跡

昭和六年に横網町、元町、松坂町と合併して「東両国」と名を変えるまでこの辺りは、小泉町と呼ばれていました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図には当時、両国橋際にあった藤堂和泉守下屋敷の東隣、横網町の南隣に「小泉丁」とあります。寛文五年(一六六五)、御材木蔵手代の大縄地(おおなわち=組単位で下級武士に与えられた屋敷地)となりましたが、元禄九年(一六九六)に町屋の許しが出て、町名は小泉という者が草創者のため、小泉町と呼ばれるようになりました。








                   両  国  橋

両国橋は江戸時代に 隅田川で千住大橋に続い
て2番目に架けられた橋。明暦の大火後の
万治2年(1659)の架橋といわれる。
江戸時代から 川開きの花火の名所。
(平成20年)3月28日、言問橋と共に東京都の
東京都選定歴史的建造物に選定された。





          







           


両 国 橋
両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ“大橋”であった。しかし新大橋も造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられず、多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。回向院はその人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。この橋が架かったため、本所、深川がえどの新市街として発展ることとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場所としても、開心だ。幕末からは、川開きの花火もあって。江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は。昭和7年(1932年)に完成した。
昭和59年3月        
 
                      東 京 都







    大 高 源 吾 の 碑

赤穂浪士のひとりであり、
其角の弟子と伝える子葉
こと大 高 源 吾
「日の恩やたちまち
くだく厚氷」の碑。
昭和3年(1928)11月10日建立
  
    表 忠 碑

大 山 巌元帥の高さ4.5mの
表忠碑は日露戦争での戦没者
慰霊碑で、明治40年(1907)
1月1日に本所区徴兵慰労義会
によって建立されている。
所在地 / 墨田区両国1-11-2 
両国橋児童遊園内
  







     


両 国 橋 と 百 本 杭
所在地 墨田区両国1丁目~横網1丁目

 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
                    平成23年(2011)3月 墨田区教育委員








両 国 橋 錦 絵 集

 
新撰江戸名所 両国納涼花火ノ図
絵師:一立斎広重
  
          
両国橋川開の図   絵師:不祥 
 






 
名所江戸百景
両国花火
絵師:初代歌川広重
 
               
名所江戸百景 
両国橋大川ばた
絵師:初代歌川広重
 
               
江戸自慢三十六興
両こく大花火
絵師: 歌川豊国
 2代 歌川広重
 






 
江戸名勝図会 両国橋
絵師:二代歌川広重 
 
           
東都三十六景 両国橋
絵師:二代歌川広重
   
          
浮絵両国夜景ノ図
絵師:五渡亭国貞
  







江戸両国すずみの図    絵師/初代歌川豊国







東都名所 両国橋夕涼全図
絵師:一立斎広重
 







江戸高名会亭尽 両国柳橋
絵師:初代歌川広重
  
             
 江戸高名会亭尽  [両]国[柳]ばし
絵師:初代歌川広重
 







両国夕涼之図  絵師/ 哥川豊春  
             
江戸八景 両国橋の夕照
絵師:渓斎英泉 
    







江都名所 両国橋[納涼]
絵師:初代歌川広重
   
              
東都名所八景 両国橋秋月
絵師:歌川芳虎 
  







両国夕涼ミの図  絵師:香蝶楼豊国 
             
東都両国夕凉之図 絵師:歌川貞房   







東都両国の夕涼   絵師:歌川房種  
            
両国橋夕涼光景 絵師:国貞改二代豊国
  







両国夕涼の光景
絵師:香蝶樓豊国
  
            
両国涼船遊ノ図
絵師:香蝶楼豊国
  







両国にわか夕立
    絵師:香蝶楼豊国
   
             
両国夕景一ツ目千金
  絵師:三代歌川豊国
  







東都両国橋渡初寿之図
絵師:一幽斎重宣 
 
            
三都涼之図 東都両国ばし夏景色
 絵師:五雲亭貞秀
  






旧両国橋・東両国広小路跡の立札

                  旧両国橋・東両国広小路跡の立札

赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした後、休息
を取った場所として浮世絵にも描かれ、語り
継がれています





          






 

 
江 戸 の 町
Site of former Ryogokubashi Bridge and Hirokoji Street

旧両国橋・広小路跡  22

旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年(一六五九)十二月。明暦三年(一六五七)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。寛保二年(一七四二)の調査では一日に二万人以上が往来したとされています。
 







  


 
忠 臣 蔵
A stop-off point of Lord Asano’s 47 faithful retainers

赤穂浪士休息の地  23

元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。

 






 


 
江 戸 の 町
Site of Sekisonkoriba

石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)  24

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋
の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
 







 

 
 
江 戸 の 町
Site-of-Fujishiro-cho

藤 代 町 跡

かつてこの辺りにあった町名です。その由来は・・・・・享保年間(一七一六~三五)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場とし
て、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれています。回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で本所の入口にふさわしい繁華街でした。


 









 
 
江 戸 の 町
Site of Komadomebashi Bridge

駒 留 橋 跡
駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半(約四.五メートル)、幅三間(約五.四メートル)の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路を結んでいました。その堀の幅はもっと広いところが四間(約七.二メートル)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)のまえに夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです。
 

 









 
両 国 物 語
Kataba-no-Ashi

片 葉 の 葦

駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと考えられますが、時はそれが、本所七不思議の一つとされていました。その由来は・・昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。当時、葦は吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました
。 







           春日野部屋 (出羽海一門)

住所 / 墨田区両国1-7-11






          








相 撲 部 屋
Kasugano Stable


春日野部屋 (出羽海一門)

 師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)。
大正十四年(一九二五)五月、第二十七代横綱・栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋から分家独立し、創設しました。昭和三十四年(一九五九)十月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和三十五年(一九六○)、現役、を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営にあたりました。また、九代・春日野は昭和四十九年(一九七四)から同六十三年(一九八八)まで日本相撲協会理事長を務めました。平成二年(一九九〇)一月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方(第四十九代横綱・栃ノ海)が部屋を継承、十代春日野晃将を襲名しました。平成十五年(二○○三)二月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています
.







         与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地


住 所 / 両国1-8 
 





          










与 兵 衛 鮨 発 祥 の 地

所在 墨田区両国1丁目8番

 この横町の左手に, 江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに, 初代・小泉与兵衛(1799 ~1858)により大成されました。小泉与兵衛は, 霊岸島の生まれでしたが, 次々と商売を替えて, 本所で暮らすようになりました。その頃に, 大阪風の押し鮨にあきたらず, これを江戸風に鮮度を保ち, 手早く造る方法を工夫しました。始めは, 毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが, 評判を呼ぶようになり, 屋台を出し, 後には店舗を開くほどになり, 殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。当時の狂歌きょうかにも「鯛比良目ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。また, 食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。
以後, 昭和5年に惜しくも廃業しました。
平成12年3月
                                                             墨田区教育委員会








      江 戸 の 町
Site of the former Yohei Sushi
  与兵衛すし跡   

住 所 / 両国1-8-11 
 





          







       


江 戸 の 町
Site of the former Yohei Sushi

与兵衛すし跡   27

現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは、約二百年前の文政年間で、小泉与兵衛が考案したといわれています。当時は鮨といえば大阪風の押し鮨ばかりだったところを、酢で締めた飯の上に、ワサビをはさんでネタを乗せて握られたものを屋台で立ち喰いするという新しいスタイルは、一挙に江戸っ子の人気となりました。与兵衛は、握り鮨を岡持に入れて盛り場を売り歩くことから始め、屋台、裏店での店売りを経て、文政七年(一八二四)に元町(両国一丁目)に「華屋」という屋号の店を開き大繁盛しました。この成功によって鮨屋という形態が確立し、その軒数が増えるに従って、職人が腕を競うようになり、一大食文化を築きました。








      

料 亭 「井 筒」

Upmarket restaurant
“Izutsu” in the novel “Onihei”

小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する
料亭で、この辺りにあったとされています。
住 所 / 両国1-8-11 
 





          







        


鬼 平 情 景
Upmarket restaurant “Izutsu”in the novel“Onihei”

料亭「井 筒」 28

小説「鬼平犯科帳 麻布ねずみ坂」に登場する料亭で、この辺りにあったとされています。この小説には、裏の世界の人間がたくさん出てきます。羽沢の嘉兵衛もその一人です。表向きは両国で「井筒」という大きな料亭を経営していますが、裏では土地の盛り場ににらみをきかす香具師の元締で、江戸市中の暗黒街では知らない者はいません。大阪でたいへん羽ぶりがいい香具師の元締、白子の菊右衛門と親交が深く、その菊右衛門の依頼で、鬼平を暗殺しようとします。その計画は失敗に終わりますが、嘉兵衛はその後も鬼平の手を焼かせます。










        江島杉山神社入口




                   葛 飾 北 斎
Chie no Umi:Miyatogawa Naganawa
(Sea at Chie: Long-line Fishing on the
Miyato River)

宮戸川長縄━千絵の海━ 

浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、
両国界隈の景観が描かれています。





          






          



宮戸川長縄━千絵の海━

水が織り成す造形美と漁師たちを描いた「千絵の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、両国界隈の景観が描かれています。宮戸川とは、江戸時代の隅田川下流の呼称の一つ。長縄は、一本の幹糸から多くの釣糸を垂らす釣法のことです。奥の建物は幕府の軍船を係留する「御船蔵(おふなぐら)」で、今の千歳一丁目から新大橋にかけての一帯にありました。4800坪の土地に14棟の船蔵が並び、徳川家光が新造した軍船形式の御座船「安宅丸(あたけまる)」も係留されていたことから、この一帯は「御船蔵安宅町」と呼ばれていました。 

A print from the Sea at Chie series composed with formative art depicting the interwoven water and fishermen.The fishing scene on the Miyato River as seen from the banks of Hamacho shows a Panorama of the neighborhood of Ryogoku.The Miyato River was one of the names of a downriver portion of the Sumida River during the Edo Era.Long-line fishing is a method of fishing in which many hooked lines lead off from a single main line.The building at the rear are the Ofunagura boathouses in which the Shogun's military vessels were stored, and this consists of an area from Chitose 1-chome to Shin-Ohashi Bridge today.Fourteen boart houses were lined up along an area of land 4,800 tsubo(15,864 square meters) in size, and this piece of land was called Ofunagura Atakecho owing to the fact that lemitsu Tokugawa's newly-build state barge, the Atake Maru, which assumed the shape of a military vessel, was also anchored here.







                  忠 臣 蔵
一 之 橋

一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際の
最初に渡った橋として知られているそうです。
住 所 / 両国一の橋通り
 





          






      


忠 臣 蔵
一 之 橋

幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。万治二年(一六五九)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、巾二間半ほどありました。堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています








        相  生  町  跡
1688(元禄元)年~1697(元禄10)年にかけて、
本因坊拝領屋敷、川筋常設請負者の助成地等
となり、相生町1~5丁目が誕生。祝賀の意を
もって相生町の名前が付けられたそうです。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。
住 所 / 両国1丁目
 





          






       


江 戸 の 町
Site of former Ai oi-cho

相 生 町 跡
ここから東側は相生町といわれていました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図によると、一之橋から二之橋東側にかけての堅川沿いが相生町となっています。元禄二年(一六八九)から徐々に町屋ができていったようです。町名は、おめでたい言葉である「相生」がつけられました。なお、旧両国橋の東詰め、隅田川と堅川が交差する角地が、相生と対をなす「尾上」町と名付けられました。相生町五丁目(現、緑一丁目)には、俳人の小林一茶が、深川の愛宕神社居住の後に文化元年(一八〇四)十月頃から祖母の三十三回忌に郷里に旅立つまでの文化五年(一八〇八)まで住んでいました。








      忠 臣 蔵
 
 吉 良 邸 裏 門 跡
  

住 所 / 両国
 3-10





          






          


忠 臣 蔵
Site of the back gate of lord Kira’s former residence

吉 良 邸 裏 門 跡   31

吉良邸の裏門はこの辺りにありました。赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝間き姿では鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には到底適わなかったようです。広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が三十八名だったのに対し、赤穂浪士側は二名が軽い傷を負っただけでした。








         江 東 義 塾 跡 

夏目漱石が教師をしていた
学校がありました。
住 所 / 両国
 3-9-1





          






         

江 東 義 塾 跡
絵 画 と 文 学
Site of former Koto Gijuku School

文豪、夏目漱石が明治十九年 (一八八六) から約一年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。当時漱石は、大学予備門 (一高) で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんどの教科で主席でした。漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二時間だけで、予備門から帰って来ておしえることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。







                 相 撲 部 屋
Tokitsukazu Stable
時 津 風 部 屋 (時津風一門)

住 所 / 両国3-15-4
 





          








相 撲 部 屋
Tokitsukazu Stable

時 津 風 部 屋 (時津風一門)

師匠は、十六代・時津風正博 (元前頭・時津海)。昭和十七 (一九四二) 年、当時現役であった第三十五代横綱・双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士のまま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いたのが、現在の時津風部屋創設につながっています。幕内最高優勝十二回 (内、全勝八回) 、いまだに破られない歴代最高記録の六十九連勝など、輝かしい成績を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和二十(一九四五)年十一月場所後に引退、十二代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋に変更しました。双葉山道場の看板は、現在も掲げられています。十二代・時津風は、昭和四十三 (一九六八) 年十二月十六日、満五十六歳で死去するまでの間、約十一年間にわたり、第三代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱(鏡里・・・十三代・時津風)、三大関(大内山、北葉山、豊山・・・十四代・時津風。第八代相撲協会理事長)をはじめ、多くの力士を育成しました。
                    墨田区








             出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)

大正六年(一九一七)一月場所から大正十年
(一九二一)五月場所まで、十場所連続で出羽
海部屋所属力士が優勝(栃木山五回、大錦四回、
常ノ花一回)していますが、これは現在でも破
られていない大相撲記録です。
住所 / 両国2-3-15





          









相 撲 部 屋
Dewanoumi Stable


出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)

師匠は、十一代・出羽海昭和(元小城の花)。出羽海部屋は現存する部屋では、最多の九人の横綱を輩出したほか、三人が相撲協会理事長を務めるなど、相撲界の名門中の名門、十二部屋からなる出羽海一門の中心です。その歴史は古く、初代・出羽海は、天明から寛政年間(一七八一~一八〇〇年)に活躍した前頭筆頭・出羽ノ海金蔵(のちに、運右衛門)で、年寄資格を得て、出羽ノ海部屋を創設しましたが、文化五年(一八〇八)に部屋はいったん閉じられたとされています。現在の出羽海部屋は、文久二年(一八六二)、桂川立吉が出羽ノ海を襲名、出羽海部屋を創設したもので、以来、今日まで連綿と継承されています。大正六年(一九一七)一月場所から大正十年(一九二一)五月場所まで、十場所連続で出羽海部屋所属力士が優勝(栃木山五回大錦四回、常ノ花一回)していますが、これは現在でも破られていない大相撲記録です。
               墨田区








              相 撲 部 屋
Izutsu Stabe

井 筒 部 屋 (時津風一門)

住 所 / 両国2-2-7





          








相 撲 部 屋
Izutsu Stabe
井 筒 部 屋 (時津風一門)

師匠は、十四代・井筒好昭 (元関脇・逆鉾) 。
明治時代、七代・井筒 (第十六代横綱・初代西ノ海) によって創設。昭和十九年 (一九四四)九月、九代・井筒の死去に伴い一時消滅。昭和二十二年 (一九四七) 六月、元幕内・鶴ヶ嶺道良が十代・井筒を襲名し、井筒部屋を再興しましたが、昭和四十九年 (一九七四) 四月、十一代井筒は井筒の年寄り名跡を返上、陸奥を襲名、陸奥部屋へ名称変更し、井筒部屋は再度消滅しました。同年七月、九重部屋所属の第五十二代横綱・北の富士が引退、十二代・井筒を襲名、九重部屋から分家独立して井筒部屋を創設しましたが、昭和五十二年 (一九七七) 十一月、十一代・九重の死去に伴い十二代・九重を襲名、九重部屋を継承したため、井筒部屋の名称はここでも一時消滅しました。翌月の同年十二月、君ヶ濱親方 (元関脇・鶴ヶ嶺) は、昭和四十七年 (一九七二)、井筒部屋から分家独立、君ヶ濱部屋をを創設していたが、十三代・井筒昭男を襲名、部屋名称を井筒部屋に変更し、今日に至っています。
                           墨田区








             
赤穂浪士前原伊助宅跡


赤穂浪士四十七士の一人で、米屋五兵衛として
吉良邸裏門のすぐそばに米屋を開業して、吉良
邸を探っていたそうです。
住 所 / 両国3-2-4





          







        


忠 臣 蔵
Site of former residence of Maebara Isuke


前 原 伊 助 宅 跡

この辺りに、前原伊助宅がありました。伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝四年(一六七六)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。浅野内匠頭の刀傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。討ち入りの直前には、亡君の刀傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。







            塩  原  橋

裸一貫から、「本所に過ぎたるものが二つあり、
津軽屋敷に炭屋塩原」と歌に詠まれるほどの成功
を収めた江戸時代の豪商、塩原太助が近くに住ん
でいました。
住所 / 両国三丁目1番から千歳一丁目9番 





          







      


塩 原 橋 の 由 来

塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。当時は木橋でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。天明元年(1781)当時、本所相生町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈篭は今も境内に残っています。
               平成4年3月  墨田区
 







            江 戸 の 町
Site of Shiobara Tasuke’s shio

塩 原 太 助 炭 屋 跡


住所 / 両国3丁目3-1 





          







       


江 戸 の 町
Site of Shiobara Tasuke’s shop


塩原太助炭屋跡  42

ここに、塩原多助 (一七四三~一八一六) の炭屋がありました。
太助は、文化年間 (一八〇四~一八一七) の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開きました。十八才で江戸に出、職を変えながら四十二才で炭屋山口屋に奉公しました。独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が辺り、「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めました。名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を「塩原多助一代記」として作品化しました。故郷、上野国 (現在の群馬県みなかみ町) にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材になりました。








             烏亭焉馬(うていえんば)居住の地

川向こうには塩原橋の由来の碑が立っています。

所在地 墨田区千歳2-14







          







        

烏亭焉馬(うていえんば)居住の地

所在地 墨田区千歳二丁目十四番

烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。本名は中村英祝、通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。寛保三年 (一七四三) に本所相生町三丁目 (現墨田区両国四丁目) に生まれ、文政五年 (一八二二) に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたことから、太田南?は『太平楽紀文』の序文で、「相生町のはへぬき」と呼びました。焉馬の父は大工棟梁、兄も山形庄内藩お抱えの棟梁でした。演劇や茶番に通じ、俳諧や狂歌を嗜むなど町人としては余裕のある暮らしぶりでした。隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香道を営み、さらにゆとりが増えます。多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に活動します。まず、作品として両国の見世物を題材とした滑稽本や、現在でも上演される人気演目「碁太平記白石噺」などが発表されます。天明六年 (一七八六) 、向島の料亭武蔵屋にて「落噺(らくはなし)の会」が行われました。焉馬の狂歌師仲間や競演作者たちが百人余り集い、その中には焉馬が贔屓にする五代目市川團十郎もいました。その後、焉馬の自宅などで定会 (月例会) が開かれるようになり鹿野武左衛門以来途絶えていた落語が復活しました。この流れから初代三笑亭可楽(さんしょうていからく)や初代三遊亭圓生らの職業落語家が誕生し、現在に伝統をつないでいます。ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖と呼ばれています。現在、牛嶋神社の境内にある焉馬の狂歌碑 (墨田区登録有形文化財) には「いそがずば濡れまじものと夕立の西とよりはるる堪忍の虹」  談州楼 烏亭焉馬」、裏面には「文化七???三月吉日建  本所堅川相生町  中村和助英祝」と刻まれています。
  墨田区教育委員会








      江 島 杉 山 神 社
盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693)
当地に五代将軍綱吉より屋敷地を拝領、
彼が修業した江の島の弁天岩窟を模して
屋敷内に創建されました。
 祭日→杉山大祭5月18日
住所 / 千歳1-8-2      電話 / 03-3863-1308 
 





          







         

江 戸 の 町
Ejima-sugiyama Shrine

江 島 杉 山 神 社

鍼術の神様・杉山和一(一六一〇~九四)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。










江 島 杉 山 神 社   由 緒
        墨田区千歳1-8-2
           03-3863-1308

当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。杉山和一(慶長十五年〈一六一〇〉年~元禄七年〈一六九四〉年)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十(一六七○)年一月、和一は六一歳にして検校の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。元禄五(一六九二)年五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みのものはないか」との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七(一六九四)年五月十八日八四歳没。明治四年、当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。明治二三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀、震災、戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和二七年合祀し、江島杉山神社となる。









         
杉山和一に正五位が追贈されたことを記念して、
大正十五年(1926)に建てられた点字の石碑。






          









杉山和一と総禄屋敷跡
                   
所在 墨田区千歳一丁目八番二号江島杉山神社内

 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた
総禄屋敷の跡です。杉山和一は慶長十五年(一六一〇)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼児に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼灸・入江豊明に弟子入りしました。厳しい修業の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管針術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(一六七○)、検校に任じられました。さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年(一六九三)六月のことでした。一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼灸講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
    平成十六年八月
                  墨田区教育委員会










        勝海舟生誕之地・吉良邸跡入口




            葛 飾 北 斎
Shinban Ukie Chushingura : Dai Juichi-
Danme(Newly Published Perspective
Pictures of Chushingura:Act 11)

新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目
元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。
吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵
の様式で描かれております。





          










新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目

「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様子で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曽祖父であると、北斎自から語っていたそうです。

A print from the series depicting the Genroku Ako incident.This uki-e print depicts the climax Of Kanadehon Chushingura,which was performed frequently in puppet shows and Kabuki at that time, showing the forty-seven Ronin raiding the Kira Residence,and the lines of the building’s eaves and the building itself express a deepperspective.The person putting up a solitary fight against the forty-seven Ronin is Heihachiro Kobayashi, one of the kira master swordsmen,It is said that Hokusai used to speak of Heihachiro Kobayashi, a man who bravely died protecting Kozukenosuke Kira that night ,was his own grandifather.







                   葛 飾 北 斎
Thirty-six View Of Mount
Fuji: Honjo Tatekawa
(The Timberyard at Honjo)

本所立川  ━富嶽三十六景━
隅田川にそそぐ竪川の両脇に並んでいた
材木問屋を描いています。





          






          



本所立川  ━富嶽三十六景━

富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、堅川の北側(旧相生町一丁目~二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書きがあり、版元名とその場所、本シリーズ(「富嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt.Fuji. This print was made when Hokusai was about seventy years old. During the Edo Era. timberyards that used the river for transporting timber were crowed along the north bank of the Tatekawa River (nearby the former Aioicho 1-chome through to 2-chome). Hokusai has depicted a scene of Mt .Fuji seen from between the timberyards,the workers and the timber.The composition of this print with Mt.Fuji visible between the piles of timber is typical of Hokusai, who was very proficient at expressing perspective. “Nishimura Storage Yard”is written on the timber storage area at the bottom right-hand side amd “2-Chome Bakurocho”and“Supplied by Eijudo”is written on the timber on the left and right of this, enabling Hokusai to casually advertisethe name and address of the Thirty-six Views of Mount Fuji series' publisher.







     本所松坂町公園(吉良上野介屋敷跡)

元禄15年(1702)12月14日赤穂浪士が討ち入った
吉良上野介の上屋敷があったところである
(東京都指定旧跡で、塀の内壁に吉良邸の見取図
や義士関係の絵などの銅板がはめこまれている)
住 所 / 両国3-13-9      電 話 / 03-5608-6951





   
本所松坂町公園(吉良邸跡)
Honjo-matsuzakacho Park
(Site of the former residence of Kira)
忠臣蔵で知られる赤穂義士の討ち入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡。当時の86分の1の大きさながら、園内には吉良上野介の首を洗った井戸を再現し、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

The site of Kira kozukenosuke Yoshihisa’s mansion, which was
Raided by the 47 ronin as descnbed in the classic tale of Chuushingura also includes a reproduction of the Kubiarai-no-ido Well where the ronin washed Kira’s head after the raid. 








          







           


本所松坂町、公園由来
      所在地 墨田区両国三丁目十三番九号
      面 積 九十七・五六平方メートル

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂浪士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史跡公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。







         


忠 臣 蔵
Site of former residence of lord Kira
吉 良 邸 跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は二千五百五十坪
(約八四00平方メートル)だったとされています。吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(一七〇一)三月の刀傷事件の数カ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されてる。







        忠 臣 蔵
Site of the main gate of Lord Kira’s
former residence

吉 良 邸 正 門 跡
元禄十五年 (十七0二) 十二月十四日、
正門から大石内蔵助以下二十三名が用意
した梯子で邸内に侵入しました。
住 所 / 両国3-6-7





          







       


忠 臣 蔵
Site of the main gate of Lord Kira’s former residence
吉良邸正門跡

この辺りに吉良邸正門がありました。元禄十五年 (十七0二) 十二月十四日、寅の刻 (午前四時) の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、速水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。







       絵 画 と 文 学
Site of former residence of
Nakajima Ise

鏡師 中 島 伊 勢 住 居 跡

伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年
1763)後の葛飾北斎 となる時太郎を養子に
しました。幕府御用達の鏡師
住所/ 墨田区両国3-14-6





          







         


絵 画 と 文 学
Site of former residence of Nakajima Ise

鏡師中島伊勢住居跡

中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(一七六三)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子とします。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが北斎はその後も中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の『葛飾北斎伝によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです。







       江 戸 の 町
Site of former residence of Ito So-in

伊 藤 宗 印 屋 敷 跡

京葉道路沿いの両国亭の前に立っています。
明治12年(1879)に十一世微塵を襲位した
八代伊藤宗印が住んでいました。
住 所 / 両国4-30-4





          








         


江 戸 の 町
Site of former residence of Ito So-in

伊藤宗印屋敷跡  17

 明治十二年 (一八七九) に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。三家ともはじめは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの屋敷で腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄です。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。本法寺(横川一‐十二‐十二)にある墓碑は駒形をしたものでしたが、戦災により破損してしまいました。








       芥 川 龍 之 介 文 学 碑

両国小学校は芥川龍之介の出身校で、江東
尋常小学校と呼ばれていました。
学校の北西の角に自署と児童文学の「杜子春」
の一節が刻まれています。
住所 / 両国4-21-6(両国小学校内) 





          







                 

芥川龍之介 文学碑

「━━お前はもう仙人になりたい
といふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より
愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何に
なったら好いと思ふな」
「何になっても、人間らしい、
正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない
晴れ晴れした調子が罩って
ゐました。
     「杜子春」より
   



杜子春」の あらすじ(ウィキペディアより)
唐王朝の洛陽の都。
西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、
今は乞食同然になっていた。そんな彼を哀れんだ片眼すがめ(斜視)の不思議な老人が、「この場所を掘る様に」
と杜子春に言い含める。その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は大富豪になる。
しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の下で老人に出会っては
黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。3度目、西門の下に来た杜子春の心境には
変化があった。金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を返したように冷たくあしらわれる。
人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。
そこで老人は自分が鉄冠子小説『三国志演義』などに登場する左慈の号)という仙人であることを明かし、
自分の住むという峨眉山へ連れて行く。峨眉山の頂上に一人残された杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰って
くるまで、何があっても口をきいてはならないのというのだ。虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に
突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も言わない。怒った閻魔大王は、畜生道に
落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、
苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れず「お母さん!」と一声、叫んでしまった。叫ぶと同時に
杜子春は現実に戻される。洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。これからは人間らしい
暮らしをすると言う杜子春に 、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を与えて去っていった。



芥川龍之介 文学碑

芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として
生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ケ月の時、
母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章
に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章
は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家あげて一
中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味豊かな家庭でした。本所は龍之介の幼児時から小青年期
までの大事な時期を育くんだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見る
ことができます。龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同
小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三中学校(現両国高等学校)に
入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年
東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌
『新思潮』『新小説』に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。この文学碑は龍之介
の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校
で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校
創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。




 


(いかり) の 由 来

この錨は日露戦争 (一九〇四年~一九〇五年) で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)」のものである。
この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治三十一年・進水三十二年・三百二十六トン・
(艦長六三・五メートル・五四七〇馬力・三〇ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。
錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事 (旧岡田菊治郎商会) が軍艦解体作業で得たのを昭和の初年に
江東 (現両国) 小学校に寄贈したものである。
平成三年  月
       両国(相生・江東)小学校同窓会








              尺 振 八 の 共立学舎跡

住所 / 両国4丁目26番





          







         


尺 振 八 の 共 立 学 舎 跡
所在地 墨田区両国四丁目26番 区立両国小学校付近
 
尺振八(せきしんぱち)は、天保10年 (1839) 、江戸に生まれた英語学者です。漢学を学んだ後、万延元年 (1860) にジョン万次郎から英語を学びました。文久元年 (1861) に幕府に勤め、同年12月の第一回遣唐使節団に、通訳として福沢諭吉(慶應義塾創設者)などと共に随行し、同3年 (1863) の第2回遣唐使節団
にも同行しました。振八の英語学者としての力量は、当時の日本では、天下第一流であったと伝えられています。明治3年 (1870) に本所相生町
(ほんじょあいおいちょう) (現両国四丁目付近) に私塾「共立学舎(きょうりつがくしゃ)」を創設し、英学教育を行いました。この学校は、名門私塾として有名で、門下生には政治家の島田三郎や波多野伝三郎、法学博士の田口卯吉など有能な人物がいました。その後、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、当て字で斯辺撤(スペンサー))の❛Education:intellectual,moral,and physical❜(教育論)を翻訳した『斯氏教育論(すしきょういくろん)』(スペンサー氏の教育論という意味)を刊行しました。
  平成29年3月

                      墨田区教育委員







     江 戸 の 町
Site of former residence of Hom-inbo
本 因 坊 屋 敷 跡


本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)
を開祖とする家系で棋手を輩出してきました。
住 所 / 両国3-5-7





          







        


江 戸 の 町
Site of former residence of Hom-inbo

本 因 坊 屋 敷 跡
 
ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋手を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光時の塔頭の一つに由来しています。もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたためその代地として寛文7年(1667)この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・秀和・秀策などの棋手を生んでいます。現在は、実力制で争われるタイトルの1つとして名が残っています。








    

煙 草 屋・壺 屋 
鬼平情景の作品の数多くに登場し、核となる店です

住 所 / 両国4-4-5
 





          







        

鬼 平 情 景
煙 草 屋・壺 屋

大盗・蓑火の喜之助の下で修業を積んだ真の盗賊、大滝の五郎蔵が捕縛され、密偵となり親子の契りを結んだ養父、舟形の宗平と始めました。後に夫婦となった女密偵のおまさも同居するようになりました。作品の数多くに登場し、核となる店です。「密偵たちの宴」では、冒頭に相模の彦十、小房の条八、伊佐次の三名が壺屋に集まり、合わせて六名が、豪勢な料理を前に忙中閑の酒盛りをしている場面が出てきます。平蔵が最も信頼を寄せ、腕の利く密偵たちが思い出話に耽って興趣を高め、その勢いで畜生盗めが支配する世を嘆き、平蔵に悟られないように本格盗めの手本を示そうという話になる展開には心が踊らさせます。








    

軍 鶏 な べ 屋「五 鉄」
鬼平犯科帳で重要な舞台となっている軍鶏鍋屋。
日本橋人形町で1760年から続く老舗鶏料理店
玉ひでがモデルといわれています。
中田屋茶舗の前にあります。





          







         

鬼 平 情 景
軍鶏(しゃも)なべ屋 「五鉄」

小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二ツ目橋の角地で南側は堅川」とあるように、この辺りだと推定されます。鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。








     江 戸 の 町
二  之  橋


隅田川より二つ目の橋で本所堅川に架かる
橋鬼平犯科帳では「二ツ目橋」という名で
登場します。中田屋茶舗の前にあります。
所在 / 両国4-1-12
 





          







         


江 戸 の 町
二 之 橋

万治二年(一六五九)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近い方から一之橋から五之橋と名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ十間(十八メートル)、幅三間(五・四メートル)ほどありました。池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。現在の橋は平成十年(一九九八)に架橋されたものです








     勝 海 舟 生 誕 の 地

勝海舟は文政6(1823)年、江戸本所亀沢町
にある父の実家である男谷家で生まれ、7歳
までここで生活。独立してからは実家の近く
に居を構えた。咸臨丸で渡米、帰国後は軍艦
奉行となり神戸海軍操練所を開設した。
江戸城無血開城を実現したことで有名。
住所 / 墨田区両国4-25-3(両国公園内)





          






          









由 来 碑
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年77歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。

平成元年10月
墨 田 区 (幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)









  

勝 海 舟 生 誕 の 地
所在の地 墨田区両国4丁目25番

勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年(1853)6月3日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌3年に講武所砲術師範役、同6年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同7年正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(1868)3月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。
海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治19年(1886)5月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。
 
平成23年3月 墨田区教育委員会


The birthplace of Katsu Kaishu
The birthplace of katsu kaishu, who is a very famous person in Japanese history (1823-1899).
Katsu was a servant of the Tokugawa Shogun, who learned advanced knowledge from Western countries including the military in his youth, He took an active role in the mid-19th century dedicated to the modernization of military forces. He served as the captain of the warship ‘Kanrin Maru’in 1860, taking a delegate with a mission of ratification of the Convention with the Unaited States to San Francisco.















 



      
勝 海 舟 幕 末 絵 巻
勝海舟の歩みと、さまざまな出会い
鳶が鷹を生んだ
勝海舟誕生  文政6年 1823年


勝 海 舟 通称「麟太郎」、本名「義邦」のち「安芳
【文政6年1月30日―明治32年1月19日】
(1823-1899)

海舟は本所亀沢町にあった、父の実家である、男谷家の屋敷(現在の両国公園)で生まれました。海舟の曽祖父検校は元々は地方の出身で、江戸に出て成功し富を得て旗本男谷家の株を買い入れ、息子(海舟の祖父)平蔵に男谷家を継がせました。海舟の父惟寅は跡継ぎのいない勝家の婿養子となり勝小吉と称することとなりました。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが、小普請組に属する無役で、いわゆる貧乏旗本でした。若年期の海舟は貧しい生活を送りながらも、剣術、蘭学、参禅と修行に励み、この時の剣術と参禅の修行が自分の精神の土台をつくったと、後に本人が語っています。 














  黒 船 来 航
【嘉永6年6月3日】(1853年)
ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍インド艦隊の艦船が、浦賀に来航しました。アメリカの軍事力を前にして、対応に苦慮した老中阿部正弘は、幕閣のみならず広く意見を求めました。このとき海舟が提出した意見書が幕府内で注目され海舟は、次いで大阪湾の防備体制を検討するための現地調査団の一員に命じられ、自らの手で出世への足がかりを掴みました。 (ペリー提督・横浜上陸の図:横浜開港資料館所蔵 )

島田寅之助
【文化11年4月3日―嘉永5年9月16日】
(1814-1852)
男谷道場の師範代を勤めたのちに自らの道場を開き、直心影流島田派の祖となった剣客。
海舟も従弟である男谷信友の道場で剣術を学んだのち、彼の道場に入門、21歳で直心影流免許皆伝となります。彼の薦めもあって蘭学や参禅修行も修めました。



幕府海軍の礎となる
長崎海軍伝習所 安政2年 1855年

【安政2年7月29日】(1855年)海軍創設を目指す幕府が、オランダからの支援を受け設立された教育機関。海舟は伝習生を監督する「海軍伝習重立取扱」として、伝習所へ派遣されました。このとき小十人組となり、無役の小普請組から脱しました。ここで海舟はオランダ語とともに近代西洋技術、実践的な操船技術も修得しました。







 







 
勝 海 舟 ア メ リ カ へ
咸臨丸の渡航 安政7年 1860年

【万延元年】(1850年)
幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団をアメリカに派遣しました。海舟は随行艦咸臨丸に乗船し航海を指揮、アメリカまでの航海は悪天候が続き困難を極めましたが、同乗していたアメリカ海軍大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助力もあって、日本の船として始めて太平洋横断に成功しました。安政7年1月13日(1860年2月4日)に品川から出帆したのち、浦賀に寄り、安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を出港、安政7年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、約43日間で航海したとされています。海舟はアメリカの軍事技術のみならず、政治団体や社会構成について日本との違いを確認しました。

咸 臨 丸
幕府がオランダから購入した船で、長さ約47m、幅約7.3m,重量380t、約100馬力の蒸気機関を搭載した木造、3本マスト、12門の大砲を備えた帆船で、幕府の所有した初期の軍艦です。安政4年(1857年)にオランダから日本に送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となり、太平洋横断後は戊辰戦争にも参加しました。新政府軍に拿捕され、明治政府の開拓史の輸送船となりました。明治4年(1871年)に輸送中に暴風雨に遭い沈没しました。
 








 




















 
坂本龍馬との出会い
坂本 龍馬
【天保6年11月15日―慶応3年11月15日】
1835年―1867年
土佐藩出身 海舟に世界情勢と海軍の重要性を説かれ、その諸説に感服し弟子となり、海舟の片腕となって神戸海軍操練所設立に尽力しました。龍馬は姉乙女に宛てた手紙で「日本第一の人物」と海舟を絶賛しており、深く尊敬していたことが窺えます。亀山社中(後の海援隊)を結成し薩長同盟の成立や、大政奉還の成立に尽力するなど、倒幕及び明治維新に大きな影響を与えました。(坂本龍馬肖像写真(立位)
高知県立坂本龍馬記念館所蔵
 )



福 沢 諭 吉
【天保5年12月12日―明治34年2月3日】
(1834年―1901年)
中津藩出身 明治維新後は平民となり主に教育者として尽力しました。慶應義塾の創設者であり、一万円紙幣の肖像にもなっています。軍艦奉行の木村摂津守の従者として、海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。アメリカから帰国した翌年には、欧州各国への文久遣欧使節団にも通訳方として同行し、西洋文化を目の当たりにした諭吉は、帰国後、著書、学校、新聞を通して西欧の文化や考え方を日本に広め、学問の大切さを説きました。
      (遣欧使節一行福沢諭吉  :東京大学史料編纂)


ジョン 万次郎
【文政10年1月1日―明治31年11月12日】
(1827年―1898年)
本名は中濱万次郎 漁師の次男として生まれ、漁の最中に遭難しアメリカの捕鯨船に救助され渡米、アメリカで英語や造船技術などを学びました。帰国後は幕府の旗本となり通訳や教師として活躍しました。通訳として海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました







   
わずか一年の夢の跡

神戸海軍操練所 元治元年 1864年


  【元治元年5月開所―翌慶応元年閉所】(1864年―1865年)海舟は幕府の許可を得て、海軍士官の養成機関である神戸海軍操練所を開設しました。幕府や雄藩の枠を超えた日本国海軍の創設を構想し、血筋、家柄、身分に拘泥せず、有能な人材を集めて養成することが急務と考えた海舟は、幕臣の子弟だけではなく、操練所とともに設けた私塾である海軍塾に諸藩の脱藩浪士も受け入れました。しかし、池田屋騒動や禁門の変などに塾生が参加していたことから、幕府から「激徒養成」とみなされ。海舟は海軍奉公を罷免され、操練所は閉鎖されました。【元治元年5月開所ー翌慶応元年閉所】(1864年ー1865年)


陸奥 宗光
【天保15年7月7日―明治30年8月24日】
(1844年―1897年)
紀伊藩出身、海舟の神戸海軍操練所で航海術などを学び、坂本龍馬の海援隊に加わり、貿易で才能を発揮しました。明治維新後は政治家や外交官として活躍、地租改正の立案や、第二次伊藤内閣では外務大臣として不平等条約の改正や下関条約締結に貢献しました。







 






 
山(やま) 岡(おか) 鉄(てっ) 舟(しゅう)

【天保7年6月10日―明治21年7月19日】
(1836-1888年)
江戸生まれの幕臣。武術に天賦の才能を示しました。徳川慶喜の警護役高橋(たかはし)泥(げい)舟(しゅう)が、義弟である鉄舟を東征大総督府に徳川慶喜恭順の趣旨を伝える使者として、海舟に紹介しました。鉄舟は、東征軍参謀西郷隆盛と単身で面会し、慶喜恭順の意を伝え、新政府の徳川家に対する条件を
確認し、江戸城開城の交渉に向けての大役を果たしました。勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称されています。


激動の幕末期と勝海舟
ペリー来航以来、その対応をめぐって政争は激化、「安政の大獄」によって長州藩や水戸藩を中心とする尊王攘夷派と幕府や薩摩藩を主体とする公武合体派の対立が顕著となります。これに朝廷の動静も加わり内政は混迷の度を深めていきました。その中で海舟は、攘夷を排し、有力諸藩と幕府が協力的に国内を統治する新たな政治体制の構築を目指すべきと主張しました。将軍徳川慶喜はあくまで、幕府の回復、強化を目指しますが、武力倒幕などの動きに直面し、ついに大政奉還を上表します。その後、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地の方針が決定されます。鳥羽・伏見の戦いで完敗した慶喜は大阪城を脱出し江戸に戻ります。このとき慶喜は朝敵となり、官軍となった新政府軍は慶喜追討のため江戸を目指して進撃を開始します。
 










 
勝と西郷で江戸を救う
          江戸城開城 慶応4年1868年


「一朝不測の変あらば官軍へ駆入、其罪を一身に乞はむと決意す。」(ひとたび予測のつかない事態が発生したら、自分(海舟)が官軍(東征軍)に駆け入り責任はすべて自分が負うことを決意した。)「海舟日記」慶応四年(一八六八)四月十一日条(江戸城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出発)
江戸城開城談判 (結城 素明画) 聖徳記念絵画館所蔵
 

【慶応4年3月から4月】(1868年)

東征軍が江戸に迫る中、海舟は徳川慶喜の助命と徳川家の存続のため、東征軍参謀西郷隆盛との会談にのぞみました。この会談は3月13、14日の2回にわたって行われ、江戸城明け渡しについての交渉がなされました。海舟は交渉が決裂した場合に備え、民衆を避難させた上で江戸市街を焼き払う焦土作戦と、慶喜を英国に亡命させる準備をしており、和戦両様の態勢を整えていました。また、海舟は英仏公使への事情工作も行っていたと推測されています。海舟から嘆願書を受け取った隆盛は、薩長支持の英公使スパークスに攻撃を反対されていることも考慮し、江戸総攻撃中止を決断、駿府の総督府に出頭し、その後、京都二条城での三職会議に臨み、隆盛の尽力によって、海舟の嘆願がほぼ受け入れられるに至りました。これにより、江戸城は天正18年(1590年)以来、278年間、徳川氏の居城でありましたが、ついに無血開城され、江戸市民は戦火から守られ、軍事介入による内乱も防止されるに至りました。


戊 辰 戦 争
【慶応4年1月3日―明治2年5月18日】(1868年―1888年)鳥羽・伏見の戦いから始まる、新政府軍と旧幕府勢力による一連の内戦で、鳥羽・伏見の戦い後、旧幕府勢力の指導者である、徳川慶喜が恭順の意を示し、江戸城を無血開城したことによって、以降の戦闘は恭順に従えない旧幕臣及び東北諸藩による戦いとなります。新政府軍に装備で劣る旧幕府軍は、敗戦を繰り返し、東北各地での戦闘ののち箱館戦争を最後に集結しました。
 






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