つぶやき街角南部ルート
  ②・江島杉山神社~勝海舟生誕の地

( スカイ姫のつぶやき19 )

                                      ト ッ プ ペ ー ジ ヘ

バ ス 停 ル ー ト 一 覧 表

 
                                  バス停にリンクします
          






        




                   葛 飾 北 斎
Chie no Umi:Miyatogawa Naganawa
(Sea at Chie: Long-line Fishing on the
Miyato River)

宮戸川長縄━千絵の海━ 

浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、
両国界隈の景観が描かれています。





           






             


宮戸川長縄━千絵の海━

水が織り成す造形美と漁師たちを描いた「千絵の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、両国界隈の景観が描かれています。宮戸川とは、江戸時代の隅田川下流の呼称の一つ。長縄は、一本の幹糸から多くの釣糸を垂らす釣法のことです。奥の建物は幕府の軍船を係留する「御船蔵(おふなぐら)」で、今の千歳一丁目から新大橋にかけての一帯にありました。4800坪の土地に14棟の船蔵が並び、徳川家光が新造した軍船形式の御座船「安宅丸(あたけまる)」も係留されていたことから、この一帯は「御船蔵安宅町」と呼ばれていました。 

A print from the Sea at Chie series composed with formative art depicting the interwoven water and fishermen.The fishing scene on the Miyato River as seen from the banks of Hamacho shows a Panorama of the neighborhood of Ryogoku.The Miyato River was one of the names of a downriver portion of the Sumida River during the Edo Era.Long-line fishing is a method of fishing in which many hooked lines lead off from a single main line.The building at the rear are the Ofunagura boathouses in which the Shogun's military vessels were stored, and this consists of an area from Chitose 1-chome to Shin-Ohashi Bridge today.Fourteen boart houses were lined up along an area of land 4,800 tsubo(15,864 square meters) in size, and this piece of land was called Ofunagura Atakecho owing to the fact that lemitsu Tokugawa's newly-build state barge, the Atake Maru, which assumed the shape of a military vessel, was also anchored here.






                  忠 臣 蔵
一 之 橋

一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際の
最初に渡った橋として知られているそうです。
住 所 / 両国一の橋通り
 





           






       


忠 臣 蔵
一 之 橋

幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。万治二年(一六五九)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、巾二間半ほどありました。堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています






        相  生  町  跡
1688(元禄元)年~1697(元禄10)年にかけて、
本因坊拝領屋敷、川筋常設請負者の助成地等
となり、相生町1~5丁目が誕生。祝賀の意を
もって相生町の名前が付けられたそうです。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。
住 所 / 両国1丁目
 





             






       


江 戸 の 町
Site of former Ai oi-cho

相 生 町 跡
ここから東側は相生町といわれていました。嘉永五年(一八五二)の本所絵図によると、一之橋から二之橋東側にかけての堅川沿いが相生町となっています。元禄二年(一六八九)から徐々に町屋ができていったようです。町名は、おめでたい言葉である「相生」がつけられました。なお、旧両国橋の東詰め、隅田川と堅川が交差する角地が、相生と対をなす「尾上」町と名付けられました。相生町五丁目(現、緑一丁目)には、俳人の小林一茶が、深川の愛宕神社居住の後に文化元年(一八〇四)十月頃から祖母の三十三回忌に郷里に旅立つまでの文化五年(一八〇八)まで住んでいました。






      忠 臣 蔵
 
 吉 良 邸 裏 門 跡
  

住 所 / 両国
 3-10





              






          


忠 臣 蔵
Site of the back gate of lord Kira’s former residence

吉 良 邸 裏 門 跡   31

吉良邸の裏門はこの辺りにありました。赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝間き姿では鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には到底適わなかったようです。広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が三十八名だったのに対し、赤穂浪士側は二名が軽い傷を負っただけでした。






         江 東 義 塾 跡 

夏目漱石が教師をしていた
学校がありました。
住 所 / 両国
 3-9-1





            






         

江 東 義 塾 跡
絵 画 と 文 学
Site of former Koto Gijuku School

文豪、夏目漱石が明治十九年 (一八八六) から約一年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。当時漱石は、大学予備門 (一高) で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんどの教科で主席でした。漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二時間だけで、予備門から帰って来ておしえることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。






                 相 撲 部 屋
Tokitsukazu Stable
時 津 風 部 屋 (時津風一門)

住 所 / 両国3-15-4
 





             








相 撲 部 屋
Tokitsukazu Stable

時 津 風 部 屋 (時津風一門)

師匠は、十六代・時津風正博 (元前頭・時津海)。昭和十七 (一九四二) 年、当時現役であった第三十五代横綱・双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士のまま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いたのが、現在の時津風部屋創設につながっています。幕内最高優勝十二回 (内、全勝八回) 、いまだに破られない歴代最高記録の六十九連勝など、輝かしい成績を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和二十(一九四五)年十一月場所後に引退、十二代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋に変更しました。双葉山道場の看板は、現在も掲げられています。十二代・時津風は、昭和四十三 (一九六八) 年十二月十六日、満五十六歳で死去するまでの間、約十一年間にわたり、第三代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱(鏡里・・・十三代・時津風)、三大関(大内山、北葉山、豊山・・・十四代・時津風。第八代相撲協会理事長)をはじめ、多くの力士を育成しました。
                    墨田区






             出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)

大正六年(一九一七)一月場所から大正十年
(一九二一)五月場所まで、十場所連続で出羽
海部屋所属力士が優勝(栃木山五回、大錦四回、
常ノ花一回)していますが、これは現在でも破
られていない大相撲記録です。
住所 / 両国2-3-15





            








相 撲 部 屋
Dewanoumi Stable


出 羽 海 部 屋 (出羽海一門)

師匠は、十一代・出羽海昭和(元小城の花)。出羽海部屋は現存する部屋では、最多の九人の横綱を輩出したほか、三人が相撲協会理事長を務めるなど、相撲界の名門中の名門、十二部屋からなる出羽海一門の中心です。その歴史は古く、初代・出羽海は、天明から寛政年間(一七八一~一八〇〇年)に活躍した前頭筆頭・出羽ノ海金蔵(のちに、運右衛門)で、年寄資格を得て、出羽ノ海部屋を創設しましたが、文化五年(一八〇八)に部屋はいったん閉じられたとされています。現在の出羽海部屋は、文久二年(一八六二)、桂川立吉が出羽ノ海を襲名、出羽海部屋を創設したもので、以来、今日まで連綿と継承されています。大正六年(一九一七)一月場所から大正十年(一九二一)五月場所まで、十場所連続で出羽海部屋所属力士が優勝(栃木山五回大錦四回、常ノ花一回)していますが、これは現在でも破られていない大相撲記録です。
               墨田区






              相 撲 部 屋
Izutsu Stabe

井 筒 部 屋 (時津風一門)

住 所 / 両国2-2-7





            








相 撲 部 屋
Izutsu Stabe
井 筒 部 屋 (時津風一門)

師匠は、十四代・井筒好昭 (元関脇・逆鉾) 。
明治時代、七代・井筒 (第十六代横綱・初代西ノ海) によって創設。昭和十九年 (一九四四)九月、九代・井筒の死去に伴い一時消滅。昭和二十二年 (一九四七) 六月、元幕内・鶴ヶ嶺道良が十代・井筒を襲名し、井筒部屋を再興しましたが、昭和四十九年 (一九七四) 四月、十一代井筒は井筒の年寄り名跡を返上、陸奥を襲名、陸奥部屋へ名称変更し、井筒部屋は再度消滅しました。同年七月、九重部屋所属の第五十二代横綱・北の富士が引退、十二代・井筒を襲名、九重部屋から分家独立して井筒部屋を創設しましたが、昭和五十二年 (一九七七) 十一月、十一代・九重の死去に伴い十二代・九重を襲名、九重部屋を継承したため、井筒部屋の名称はここでも一時消滅しました。翌月の同年十二月、君ヶ濱親方 (元関脇・鶴ヶ嶺) は、昭和四十七年 (一九七二)、井筒部屋から分家独立、君ヶ濱部屋をを創設していたが、十三代・井筒昭男を襲名、部屋名称を井筒部屋に変更し、今日に至っています。
                           墨田区






             
赤穂浪士前原伊助宅跡


赤穂浪士四十七士の一人で、米屋五兵衛として
吉良邸裏門のすぐそばに米屋を開業して、吉良
邸を探っていたそうです。
住 所 / 両国3-2-4





            






        


忠 臣 蔵
Site of former residence of Maebara Isuke


前 原 伊 助 宅 跡

この辺りに、前原伊助宅がありました。伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝四年(一六七六)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。浅野内匠頭の刀傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。討ち入りの直前には、亡君の刀傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。






            塩  原  橋

裸一貫から、「本所に過ぎたるものが二つあり、
津軽屋敷に炭屋塩原」と歌に詠まれるほどの成功
を収めた江戸時代の豪商、塩原太助が近くに住ん
でいました。
住所 / 両国三丁目1番から千歳一丁目9番 





            






      


塩 原 橋 の 由 来

塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。当時は木橋でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。天明元年(1781)当時、本所相生町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈篭は今も境内に残っています。
               平成4年3月  墨田区
 






            江 戸 の 町
Site of Shiobara Tasuke’s shio

塩 原 太 助 炭 屋 跡


住所 / 両国3丁目3-1 





            






       


江 戸 の 町
Site of Shiobara Tasuke’s shop


塩原太助炭屋跡  42

ここに、塩原多助 (一七四三~一八一六) の炭屋がありました。
太助は、文化年間 (一八〇四~一八一七) の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開きました。十八才で江戸に出、職を変えながら四十二才で炭屋山口屋に奉公しました。独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が辺り、「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めました。名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を「塩原多助一代記」として作品化しました。故郷、上野国 (現在の群馬県みなかみ町) にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材になりました。






             烏亭焉馬(うていえんば)居住の地

川向こうには塩原橋の由来の碑が立っています。

所在地 墨田区千歳2-14







            






        

烏亭焉馬(うていえんば)居住の地

所在地 墨田区千歳二丁目十四番

烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。本名は中村英祝、通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。寛保三年 (一七四三) に本所相生町三丁目 (現墨田区両国四丁目) に生まれ、文政五年 (一八二二) に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたことから、太田南?は『太平楽紀文』の序文で、「相生町のはへぬき」と呼びました。焉馬の父は大工棟梁、兄も山形庄内藩お抱えの棟梁でした。演劇や茶番に通じ、俳諧や狂歌を嗜むなど町人としては余裕のある暮らしぶりでした。隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香道を営み、さらにゆとりが増えます。多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に活動します。まず、作品として両国の見世物を題材とした滑稽本や、現在でも上演される人気演目「碁太平記白石噺」などが発表されます。天明六年 (一七八六) 、向島の料亭武蔵屋にて「落噺(らくはなし)の会」が行われました。焉馬の狂歌師仲間や競演作者たちが百人余り集い、その中には焉馬が贔屓にする五代目市川團十郎もいました。その後、焉馬の自宅などで定会 (月例会) が開かれるようになり鹿野武左衛門以来途絶えていた落語が復活しました。この流れから初代三笑亭可楽(さんしょうていからく)や初代三遊亭圓生らの職業落語家が誕生し、現在に伝統をつないでいます。ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖と呼ばれています。現在、牛嶋神社の境内にある焉馬の狂歌碑 (墨田区登録有形文化財) には「いそがずば濡れまじものと夕立の西とよりはるる堪忍の虹」  談州楼 烏亭焉馬」、裏面には「文化七???三月吉日建  本所堅川相生町  中村和助英祝」と刻まれています。
  墨田区教育委員会






      江 島 杉 山 神 社
盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693)
当地に五代将軍綱吉より屋敷地を拝領、
彼が修業した江の島の弁天岩窟を模して
屋敷内に創建されました。
 祭日→杉山大祭5月18日
住所 / 千歳1-8-2      電話 / 03-3863-1308 
 





            






         

江 戸 の 町
Ejima-sugiyama Shrine

江 島 杉 山 神 社

鍼術の神様・杉山和一(一六一〇~九四)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました








江 島 杉 山 神 社   由 緒
        墨田区千歳1-8-2
           03-3863-1308

当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。杉山和一(慶長十五年〈一六一〇〉年~元禄七年〈一六九四〉年)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十(一六七○)年一月、和一は六一歳にして検校の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。元禄五(一六九二)年五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みのものはないか」との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七(一六九四)年五月十八日八四歳没。明治四年、当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。明治二三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀、震災、戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和二七年合祀し、江島杉山神社となる。








         
杉山和一に正五位が追贈されたことを記念して、
大正十五年(1926)に建てられた点字の石碑。






           








杉山和一と総禄屋敷跡
                   
所在 墨田区千歳一丁目八番二号江島杉山神社内

 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた
総禄屋敷の跡です。杉山和一は慶長十五年(一六一〇)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼児に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼灸・入江豊明に弟子入りしました。厳しい修業の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管針術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(一六七○)、検校に任じられました。さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年(一六九三)六月のことでした。一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼灸講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
    平成十六年八月
                  墨田区教育委員会








        勝海舟生誕之地・吉良邸跡入口




            葛 飾 北 斎
Shinban Ukie Chushingura : Dai Juichi-
Danme(Newly Published Perspective
Pictures of Chushingura:Act 11)

新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目
元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。
吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵
の様式で描かれております。





              









新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目

「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様子で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曽祖父であると、北斎自から語っていたそうです。

A print from the series depicting the Genroku Ako incident.This uki-e print depicts the climax Of Kanadehon Chushingura,which was performed frequently in puppet shows and Kabuki at that time, showing the forty-seven Ronin raiding the Kira Residence,and the lines of the building’s eaves and the building itself express a deepperspective.The person putting up a solitary fight against the forty-seven Ronin is Heihachiro Kobayashi, one of the kira master swordsmen,It is said that Hokusai used to speak of Heihachiro Kobayashi, a man who bravely died protecting Kozukenosuke Kira that night ,was his own grandifather.






                   葛 飾 北 斎
Thirty-six View Of Mount
Fuji: Honjo Tatekawa
(The Timberyard at Honjo)

本所立川  ━富嶽三十六景━
隅田川にそそぐ竪川の両脇に並んでいた
材木問屋を描いています。





            






             


本所立川  ━富嶽三十六景━

富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、堅川の北側(旧相生町一丁目~二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書きがあり、版元名とその場所、本シリーズ(「富嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt.Fuji. This print was made when Hokusai was about seventy years old. During the Edo Era. timberyards that used the river for transporting timber were crowed along the north bank of the Tatekawa River (nearby the former Aioicho 1-chome through to 2-chome). Hokusai has depicted a scene of Mt .Fuji seen from between the timberyards,the workers and the timber.The composition of this print with Mt.Fuji visible between the piles of timber is typical of Hokusai, who was very proficient at expressing perspective. “Nishimura Storage Yard”is written on the timber storage area at the bottom right-hand side amd “2-Chome Bakurocho”and“Supplied by Eijudo”is written on the timber on the left and right of this, enabling Hokusai to casually advertisethe name and address of the Thirty-six Views of Mount Fuji series' publisher.






     本所松坂町公園(吉良上野介屋敷跡)

元禄15年(1702)12月14日赤穂浪士が討ち入った
吉良上野介の上屋敷があったところである
(東京都指定旧跡で、塀の内壁に吉良邸の見取図
や義士関係の絵などの銅板がはめこまれている)
住 所 / 両国3-13-9      電 話 / 03-5608-6951





    本所松坂町公園(吉良邸跡)
Honjo-matsuzakacho Park
(Site of the former residence of Kira)
忠臣蔵で知られる赤穂義士の討ち入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡。当時の86分の1の大きさながら、園内には吉良上野介の首を洗った井戸を再現し、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

The site of Kira kozukenosuke Yoshihisa’s mansion, which was
Raided by the 47 ronin as descnbed in the classic tale of Chuushingura also includes a reproduction of the Kubiarai-no-ido Well where the ronin washed Kira’s head after the raid. 






            






           


本所松坂町、公園由来
      所在地 墨田区両国三丁目十三番九号
      面 積 九十七・五六平方メートル

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂浪士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史跡公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております






         


忠 臣 蔵
Site of former residence of lord Kira
吉 良 邸 跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は二千五百五十坪
(約八四00平方メートル)だったとされています。吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(一七〇一)三月の刀傷事件の数カ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されてる。






        忠 臣 蔵
Site of the main gate of Lord Kira’s
former residence

吉 良 邸 正 門 跡
元禄十五年 (十七0二) 十二月十四日、
正門から大石内蔵助以下二十三名が用意
した梯子で邸内に侵入しました。
住 所 / 両国3-6-7





            






       


忠 臣 蔵
Site of the main gate of Lord Kira’s former residence
吉良邸正門跡

この辺りに吉良邸正門がありました。元禄十五年 (十七0二) 十二月十四日、寅の刻 (午前四時) の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、速水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。






       絵 画 と 文 学
Site of former residence of
Nakajima Ise

鏡師 中 島 伊 勢 住 居 跡

伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年
1763)後の葛飾北斎 となる時太郎を養子に
しました。幕府御用達の鏡師
住所/ 墨田区両国3-14-6





            






         


絵 画 と 文 学
Site of former residence of Nakajima Ise

鏡師中島伊勢住居跡

中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(一七六三)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子とします。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが北斎はその後も中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の『葛飾北斎伝によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです






       江 戸 の 町
Site of former residence of Ito So-in

伊 藤 宗 印 屋 敷 跡

京葉道路沿いの両国亭の前に立っています。
明治12年(1879)に十一世微塵を襲位した
八代伊藤宗印が住んでいました。
住 所 / 両国4-30-4





            






         


江 戸 の 町
Site of former residence of Ito So-in

伊藤宗印屋敷跡  17

 明治十二年 (一八七九) に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。三家ともはじめは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの屋敷で腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄です。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。本法寺(横川一‐十二‐十二)にある墓碑は駒形をしたものでしたが、戦災により破損してしまいました。






       芥 川 龍 之 介 文 学 碑

両国小学校は芥川龍之介の出身校で、江東
尋常小学校と呼ばれていました。
学校の北西の角に自署と児童文学の「杜子春」
の一節が刻まれています。
住所 / 両国4-21-6(両国小学校内) 





             






                 

芥川龍之介 文学碑

「━━お前はもう仙人になりたい
といふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より
愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何に
なったら好いと思ふな」
「何になっても、人間らしい、
正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない
晴れ晴れした調子が罩って
ゐました。
     「杜子春」より
   



杜子春」の あらすじ(ウィキペディアより)
唐王朝の洛陽の都。
西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、
今は乞食同然になっていた。そんな彼を哀れんだ片眼すがめ(斜視)の不思議な老人が、「この場所を掘る様に」
と杜子春に言い含める。その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は大富豪になる。
しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の下で老人に出会っては
黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。3度目、西門の下に来た杜子春の心境には
変化があった。金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を返したように冷たくあしらわれる。
人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。
そこで老人は自分が鉄冠子小説『三国志演義』などに登場する左慈の号)という仙人であることを明かし、
自分の住むという峨眉山へ連れて行く。峨眉山の頂上に一人残された杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰って
くるまで、何があっても口をきいてはならないのというのだ。虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に
突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も言わない。怒った閻魔大王は、畜生道に
落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、
苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れず「お母さん!」と一声、叫んでしまった。叫ぶと同時に
杜子春は現実に戻される。洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。これからは人間らしい
暮らしをすると言う杜子春に 、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を与えて去っていった。



芥川龍之介 文学碑

芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として
生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ケ月の時、
母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章
に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章
は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家あげて一
中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味豊かな家庭でした。本所は龍之介の幼児時から小青年期
までの大事な時期を育くんだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見る
ことができます。龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同
小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三中学校(現両国高等学校)に
入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年
東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌
『新思潮』『新小説』に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。この文学碑は龍之介
の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校
で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校
創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。




 


(いかり) の 由 来

この錨は日露戦争 (一九〇四年~一九〇五年) で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)」のものである。
この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治三十一年・進水三十二年・三百二十六トン・
(艦長六三・五メートル・五四七〇馬力・三〇ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。
錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事 (旧岡田菊治郎商会) が軍艦解体作業で得たのを昭和の初年に
江東 (現両国) 小学校に寄贈したものである。
平成三年  月
       両国(相生・江東)小学校同窓会







              尺 振 八 の 共立学舎跡

住所 / 両国4丁目26番





            






         


尺 振 八 の 共 立 学 舎 跡
所在地 墨田区両国四丁目26番 区立両国小学校付近
 
尺振八(せきしんぱち)は、天保10年 (1839) 、江戸に生まれた英語学者です。漢学を学んだ後、万延元年 (1860) にジョン万次郎から英語を学びました。文久元年 (1861) に幕府に勤め、同年12月の第一回遣唐使節団に、通訳として福沢諭吉(慶應義塾創設者)などと共に随行し、同3年 (1863) の第2回遣唐使節団
にも同行しました。振八の英語学者としての力量は、当時の日本では、天下第一流であったと伝えられています。明治3年 (1870) に本所相生町
(ほんじょあいおいちょう) (現両国四丁目付近) に私塾「共立学舎(きょうりつがくしゃ)」を創設し、英学教育を行いました。この学校は、名門私塾として有名で、門下生には政治家の島田三郎や波多野伝三郎、法学博士の田口卯吉など有能な人物がいました。その後、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、当て字で斯辺撤(スペンサー))の❛Education:intellectual,moral,and physical❜(教育論)を翻訳した『斯氏教育論(すしきょういくろん)』(スペンサー氏の教育論という意味)を刊行しました。
  平成29年3月

                      墨田区教育委員






     江 戸 の 町
Site of former residence of Hom-inbo
本 因 坊 屋 敷 跡


本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)
を開祖とする家系で棋手を輩出してきました。
住 所 / 両国3-5-7





            






        


江 戸 の 町
Site of former residence of Hom-inbo

本 因 坊 屋 敷 跡
 
ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋手を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光時の塔頭の一つに由来しています。もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたためその代地として寛文7年(1667)この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・秀和・秀策などの棋手を生んでいます。現在は、実力制で争われるタイトルの1つとして名が残っています。






    

煙 草 屋・壺 屋 
鬼平情景の作品の数多くに登場し、核となる店です

住 所 / 両国4-4-5
 





            






        

鬼 平 情 景
煙 草 屋・壺 屋

大盗・蓑火の喜之助の下で修業を積んだ真の盗賊、大滝の五郎蔵が捕縛され、密偵となり親子の契りを結んだ養父、舟形の宗平と始めました。後に夫婦となった女密偵のおまさも同居するようになりました。作品の数多くに登場し、核となる店です。「密偵たちの宴」では、冒頭に相模の彦十、小房の条八、伊佐次の三名が壺屋に集まり、合わせて六名が、豪勢な料理を前に忙中閑の酒盛りをしている場面が出てきます。平蔵が最も信頼を寄せ、腕の利く密偵たちが思い出話に耽って興趣を高め、その勢いで畜生盗めが支配する世を嘆き、平蔵に悟られないように本格盗めの手本を示そうという話になる展開には心が踊らさせます。






    

軍 鶏 な べ 屋「五 鉄」
鬼平犯科帳で重要な舞台となっている軍鶏鍋屋。
日本橋人形町で1760年から続く老舗鶏料理店
玉ひでがモデルといわれています。
中田屋茶舗の前にあります。





            






         

鬼 平 情 景
軍鶏(しゃも)なべ屋 「五鉄」

小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二ツ目橋の角地で南側は堅川」とあるように、この辺りだと推定されます。鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています






     江 戸 の 町
二  之  橋


隅田川より二つ目の橋で本所堅川に架かる
橋鬼平犯科帳では「二ツ目橋」という名で
登場します。中田屋茶舗の前にあります。
所在 / 両国4-1-12
 





            






         


江 戸 の 町
二 之 橋

万治二年(一六五九)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近い方から一之橋から五之橋と名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ十間(十八メートル)、幅三間(五・四メートル)ほどありました。池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。現在の橋は平成十年(一九九八)に架橋されたものです






     勝 海 舟 生 誕 の 地

勝海舟は文政6(1823)年、江戸本所亀沢町
にある父の実家である男谷家で生まれ、7歳
までここで生活。独立してからは実家の近く
に居を構えた。咸臨丸で渡米、帰国後は軍艦
奉行となり神戸海軍操練所を開設した。
江戸城無血開城を実現したことで有名。
住所 / 墨田区両国4-25-3(両国公園内)





             






             








由 来 碑
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年77歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。

平成元年10月
墨 田 区 (幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)






  

勝 海 舟 生 誕 の 地
所在の地 墨田区両国4丁目25番

勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年(1853)6月3日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌3年に講武所砲術師範役、同6年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同7年正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(1868)3月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。
海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治19年(1886)5月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。
 
平成23年3月 墨田区教育委員会


The birthplace of Katsu Kaishu
The birthplace of katsu kaishu, who is a very famous person in Japanese history (1823-1899).
Katsu was a servant of the Tokugawa Shogun, who learned advanced knowledge from Western countries including the military in his youth, He took an active role in the mid-19th century dedicated to the modernization of military forces. He served as the captain of the warship ‘Kanrin Maru’in 1860, taking a delegate with a mission of ratification of the Convention with the Unaited States to San Francisco.













 



       勝 海 舟 幕 末 絵 巻
勝海舟の歩みと、さまざまな出会い
鳶が鷹を生んだ
勝海舟誕生  文政6年 1823年


勝 海 舟 通称「麟太郎」、本名「義邦」のち「安芳
【文政6年1月30日―明治32年1月19日】
(1823-1899)

海舟は本所亀沢町にあった、父の実家である、男谷家の屋敷(現在の両国公園)で生まれました。海舟の曽祖父検校は元々は地方の出身で、江戸に出て成功し富を得て旗本男谷家の株を買い入れ、息子(海舟の祖父)平蔵に男谷家を継がせました。海舟の父惟寅は跡継ぎのいない勝家の婿養子となり勝小吉と称することとなりました。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが、小普請組に属する無役で、いわゆる貧乏旗本でした。若年期の海舟は貧しい生活を送りながらも、剣術、蘭学、参禅と修行に励み、この時の剣術と参禅の修行が自分の精神の土台をつくったと、後に本人が語っています。 













  黒 船 来 航
【嘉永6年6月3日】(1853年)
ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍インド艦隊の艦船が、浦賀に来航しました。アメリカの軍事力を前にして、対応に苦慮した老中阿部正弘は、幕閣のみならず広く意見を求めました。このとき海舟が提出した意見書が幕府内で注目され海舟は、次いで大阪湾の防備体制を検討するための現地調査団の一員に命じられ、自らの手で出世への足がかりを掴みました。 (ペリー提督・横浜上陸の図:横浜開港資料館所蔵 )

島田寅之助
【文化11年4月3日―嘉永5年9月16日】
(1814-1852)
男谷道場の師範代を勤めたのちに自らの道場を開き、直心影流島田派の祖となった剣客。
海舟も従弟である男谷信友の道場で剣術を学んだのち、彼の道場に入門、21歳で直心影流免許皆伝となります。彼の薦めもあって蘭学や参禅修行も修めました。



幕府海軍の礎となる
長崎海軍伝習所 安政2年 1855年

【安政2年7月29日】(1855年)海軍創設を目指す幕府が、オランダからの支援を受け設立された教育機関。海舟は伝習生を監督する「海軍伝習重立取扱」として、伝習所へ派遣されました。このとき小十人組となり、無役の小普請組から脱しました。ここで海舟はオランダ語とともに近代西洋技術、実践的な操船技術も修得しました。






 







  勝 海 舟 ア メ リ カ へ
咸臨丸の渡航 安政7年 1860年

【万延元年】(1850年)
幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団をアメリカに派遣しました。海舟は随行艦咸臨丸に乗船し航海を指揮、アメリカまでの航海は悪天候が続き困難を極めましたが、同乗していたアメリカ海軍大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助力もあって、日本の船として始めて太平洋横断に成功しました。安政7年1月13日(1860年2月4日)に品川から出帆したのち、浦賀に寄り、安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を出港、安政7年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、約43日間で航海したとされています。海舟はアメリカの軍事技術のみならず、政治団体や社会構成について日本との違いを確認しました。

咸 臨 丸
幕府がオランダから購入した船で、長さ約47m、幅約7.3m,重量380t、約100馬力の蒸気機関を搭載した木造、3本マスト、12門の大砲を備えた帆船で、幕府の所有した初期の軍艦です。安政4年(1857年)にオランダから日本に送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となり、太平洋横断後は戊辰戦争にも参加しました。新政府軍に拿捕され、明治政府の開拓史の輸送船となりました。明治4年(1871年)に輸送中に暴風雨に遭い沈没しました。
 






 




















  坂本龍馬との出会い
坂本 龍馬
【天保6年11月15日―慶応3年11月15日】
1835年―1867年
土佐藩出身 海舟に世界情勢と海軍の重要性を説かれ、その諸説に感服し弟子となり、海舟の片腕となって神戸海軍操練所設立に尽力しました。龍馬は姉乙女に宛てた手紙で「日本第一の人物」と海舟を絶賛しており、深く尊敬していたことが窺えます。亀山社中(後の海援隊)を結成し薩長同盟の成立や、大政奉還の成立に尽力するなど、倒幕及び明治維新に大きな影響を与えました。(坂本龍馬肖像写真(立位)
高知県立坂本龍馬記念館所蔵
 )



福 沢 諭 吉
【天保5年12月12日―明治34年2月3日】
(1834年―1901年)
中津藩出身 明治維新後は平民となり主に教育者として尽力しました。慶應義塾の創設者であり、一万円紙幣の肖像にもなっています。軍艦奉行の木村摂津守の従者として、海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。アメリカから帰国した翌年には、欧州各国への文久遣欧使節団にも通訳方として同行し、西洋文化を目の当たりにした諭吉は、帰国後、著書、学校、新聞を通して西欧の文化や考え方を日本に広め、学問の大切さを説きました。
      (遣欧使節一行福沢諭吉  :東京大学史料編纂)


ジョン 万次郎
【文政10年1月1日―明治31年11月12日】
(1827年―1898年)
本名は中濱万次郎 漁師の次男として生まれ、漁の最中に遭難しアメリカの捕鯨船に救助され渡米、アメリカで英語や造船技術などを学びました。帰国後は幕府の旗本となり通訳や教師として活躍しました。通訳として海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました






   わずか一年の夢の跡
神戸海軍操練所 元治元年 1864年


  【元治元年5月開所―翌慶応元年閉所】(1864年―1865年)海舟は幕府の許可を得て、海軍士官の養成機関である神戸海軍操練所を開設しました。幕府や雄藩の枠を超えた日本国海軍の創設を構想し、血筋、家柄、身分に拘泥せず、有能な人材を集めて養成することが急務と考えた海舟は、幕臣の子弟だけではなく、操練所とともに設けた私塾である海軍塾に諸藩の脱藩浪士も受け入れました。しかし、池田屋騒動や禁門の変などに塾生が参加していたことから、幕府から「激徒養成」とみなされ。海舟は海軍奉公を罷免され、操練所は閉鎖されました。【元治元年5月開所ー翌慶応元年閉所】(1864年ー1865年)


陸奥 宗光
【天保15年7月7日―明治30年8月24日】
(1844年―1897年)
紀伊藩出身、海舟の神戸海軍操練所で航海術などを学び、坂本龍馬の海援隊に加わり、貿易で才能を発揮しました。明治維新後は政治家や外交官として活躍、地租改正の立案や、第二次伊藤内閣では外務大臣として不平等条約の改正や下関条約締結に貢献しました。






 






  山(やま) 岡(おか) 鉄(てっ) 舟(しゅう)

【天保7年6月10日―明治21年7月19日】
(1836-1888年)
江戸生まれの幕臣。武術に天賦の才能を示しました。徳川慶喜の警護役高橋(たかはし)泥(げい)舟(しゅう)が、義弟である鉄舟を東征大総督府に徳川慶喜恭順の趣旨を伝える使者として、海舟に紹介しました。鉄舟は、東征軍参謀西郷隆盛と単身で面会し、慶喜恭順の意を伝え、新政府の徳川家に対する条件を
確認し、江戸城開城の交渉に向けての大役を果たしました。勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称されています。


激動の幕末期と勝海舟
ペリー来航以来、その対応をめぐって政争は激化、「安政の大獄」によって長州藩や水戸藩を中心とする尊王攘夷派と幕府や薩摩藩を主体とする公武合体派の対立が顕著となります。これに朝廷の動静も加わり内政は混迷の度を深めていきました。その中で海舟は、攘夷を排し、有力諸藩と幕府が協力的に国内を統治する新たな政治体制の構築を目指すべきと主張しました。将軍徳川慶喜はあくまで、幕府の回復、強化を目指しますが、武力倒幕などの動きに直面し、ついに大政奉還を上表します。その後、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地の方針が決定されます。鳥羽・伏見の戦いで完敗した慶喜は大阪城を脱出し江戸に戻ります。このとき慶喜は朝敵となり、官軍となった新政府軍は慶喜追討のため江戸を目指して進撃を開始します。
 









  勝と西郷で江戸を救う
          江戸城開城 慶応4年1868年


「一朝不測の変あらば官軍へ駆入、其罪を一身に乞はむと決意す。」(ひとたび予測のつかない事態が発生したら、自分(海舟)が官軍(東征軍)に駆け入り責任はすべて自分が負うことを決意した。)「海舟日記」慶応四年(一八六八)四月十一日条(江戸城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出発)
江戸城開城談判 (結城 素明画) 聖徳記念絵画館所蔵
 

【慶応4年3月から4月】(1868年)

東征軍が江戸に迫る中、海舟は徳川慶喜の助命と徳川家の存続のため、東征軍参謀西郷隆盛との会談にのぞみました。この会談は3月13、14日の2回にわたって行われ、江戸城明け渡しについての交渉がなされました。海舟は交渉が決裂した場合に備え、民衆を避難させた上で江戸市街を焼き払う焦土作戦と、慶喜を英国に亡命させる準備をしており、和戦両様の態勢を整えていました。また、海舟は英仏公使への事情工作も行っていたと推測されています。海舟から嘆願書を受け取った隆盛は、薩長支持の英公使スパークスに攻撃を反対されていることも考慮し、江戸総攻撃中止を決断、駿府の総督府に出頭し、その後、京都二条城での三職会議に臨み、隆盛の尽力によって、海舟の嘆願がほぼ受け入れられるに至りました。これにより、江戸城は天正18年(1590年)以来、278年間、徳川氏の居城でありましたが、ついに無血開城され、江戸市民は戦火から守られ、軍事介入による内乱も防止されるに至りました。


戊 辰 戦 争
【慶応4年1月3日―明治2年5月18日】(1868年―1888年)鳥羽・伏見の戦いから始まる、新政府軍と旧幕府勢力による一連の内戦で、鳥羽・伏見の戦い後、旧幕府勢力の指導者である、徳川慶喜が恭順の意を示し、江戸城を無血開城したことによって、以降の戦闘は恭順に従えない旧幕臣及び東北諸藩による戦いとなります。新政府軍に装備で劣る旧幕府軍は、敗戦を繰り返し、東北各地での戦闘ののち箱館戦争を最後に集結しました。
 





墨田区内循環バス時刻表 
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)



メール





Copyright (C) 2011 K Asasaka All Rights Reserved