スカイ姫のつぶやき街角・南部ルート2
都営両国駅(江戸東京博物館前)バス停~国技館・水上バス乗り場バス停


    江戸東京博物館  〇置いてけ堀案内板 〇本所御蔵跡 (横網1丁目遺跡)
〇徳川家康公銅像 〇言問橋の欄干と縁石 〇都立横網町公園 
  葛飾北斎〇御厩川岸より両国橋夕陽見  〇首尾松の鉤舟椎の木の夕蝉) 
小林清親の旧居地  〇本所七不思議、椎の木屋敷跡   〇旧安田庭園  刀剣博物館
アパホテル  〇NTTドコモ歴史展示スクエア  〇大東流合気柔術本部道場
  葛飾北斎(〇駒止石━馬尽━   〇柳橋の白雨御竹蔵の虹)  〇水上バス  〇御 蔵 橋 跡
 〇両 国 国 技 館  〇俵星玄蕃の道場案内板  〇舟橋聖一生誕の地  〇百本杭 跡
 

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江 戸 東 京 博 物 館   定 休 日 / 月曜
電 話 / 03-3626-9974  住 所 / 横網1-4-1  
     





         





         





         





         





         





         






      

置 い て け 堀御竹蔵跡案内板
本所を舞台とした本所七 不思議と呼ばれる
奇談・怪談の一つ
住 所 / 横網1-5-2





         





     

両 国 物 語
Oiteke-bori & Site of Otake -gura
置いてけ堀・御竹蔵跡
この辺りには、幕府の資材置き場だった御竹蔵があり、その周りには掘割がありました。ある日、
町人がこのあたりの堀で釣りをしたところ、たくさん魚が獲れたので、気を良くして帰ろうとすると、
堀の中から「置いてけ!」という怪しい声がしました。逃げるように家に帰って、恐る恐る魚籠をのぞくと、
釣れた魚が一匹も入っていませんでした。これが、本所七不思議の一つ、「置いてけ堀」の話です。話の
内容や場所には諸説があり、置いてけ堀は「錦糸堀」との説もあります。作られたのは寛政年間
(一七八九~一八〇一)といわれ、七つ以上の話が伝えられています。






      
本 所 御 蔵 跡 (横網1丁目遺跡)

JR両国駅から横網町公園にかけての範囲には、
かつて幕府の管轄する4万4千坪の広さの本所
御蔵という米倉がありました。両国中学校グラ
ンドフェンス脇に説明板が立っています
所在地 / 墨田区横網1丁目~2丁目





         











          
幕末頃の本所御蔵の図 





        

本 所 御 蔵 跡 (横網1丁目遺跡)
所在地 墨田区横網1丁目~2丁目

JR両国駅から横網町公園にかけての範囲には、江戸時代、本所御蔵という幕府の御米蔵がありました。
現在の江戸東京博物館、墨田区立両国中学校、日本大学第一中学・高等学校、国技館の一部も御蔵の
敷地内に含まれています。享保十九年(一七三四)、四万四千坪(約十四万五千㎡)の広大な敷地に、
十二棟八十八戸前の倉庫群が造られ、御米蔵として使われ始めます。安政五年(一八五八)までには
三十七棟二百四十六戸前にもなる増築がなされました。絵図を見ると、蔵の建物の間には隅田川から
導かれた舟入の堀が設けられていたことがわかります。本所御蔵は、俗に「御竹蔵」とも呼ばれました。
平成十三年(二〇〇一)、現在NTTドコモビル建設工事の際、事前に発掘調査が行われました。
その結果、御蔵の一部と考えられる掘割や護岸の跡が見つかり、徳川家の家紋である三葉葵紋の瓦も出土
しています。また、近代の建物跡と、「陸軍被服廠」と書かれた木製の荷札がまとまって見つかりました。
本所御蔵は明治五年(一八七二)に廃止され、跡地には陸軍被服廠(衣料品を取り扱う施設)が置かれましたが、
こうした荷札群の出土は珍しく、当時の物資輸送事情を物語る貴重な資料と考えられています。 本所御蔵
があった範囲内では、他の地点でも杭柵護岸や、近代の石組護岸や橋脚などが確認されています。両国
中学校と横綱町公園の敷地の一部からは、江戸時代の陶磁器などが出土しました。
平成二十一年三月
                                墨田区教育委員会






     


徳 川 家 康 公 銅 像
鷹匠の勇姿で江戸城を望んでいる家康公像
 所在地 / 墨田区横網1-4-1  





             





        

徳川家康公銅像建立由来
鷹狩の勇姿で江戸城を望んでいる徳川家康公が始めて、草深い江戸の地に天正十八年(1590年)に、
豊臣秀吉の命により国替えとなった。そして、関ヶ原の戦い後慶長八年(1603年)征夷大将軍となり
江戸に幕府を開き天下普請を大名に命じ、本格的な都市づくりの大事業を行い、政治の中心地として
明治に至るまでの永き亘って現在の東京の基礎となったことは周知の事実である。社団法人 
江戸消防記念会では、このような、江戸開府の大事業を成し遂げた徳川家康公の偉業を称え、顕彰すべく
銅像建立の計画を練っていたところ、平成五年三月、江戸東京博物館が両国の地に落成の運びとなるや、
徳川家康公銅像建立気運が一気に盛り上がり記念会創立以来の名誉ある事業であることから、これを
積極的に推進し、東京都をはじめ関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、江戸消防記念会が主体
となって平成六年四月銅像を建立、東京都に寄贈したものである。




寄 贈
この徳川家康公の銅像は江戸町火消の伝統を現在に受け継ぐ江戸文化保存伝承団体である当会が、都民文化
貢献の一環として、支援団体及び全会員の協力により建立し東京都に寄贈したものであ。平成六年四月吉日
社団法人 江戸消防記念会 






      


言 問 橋 の 欄 干 と 縁 石

東京大空襲の時に言問橋の辺りで沢山の人達が、
逃げまどって亡くなられたそうです。
 所在地 / 墨田区横網1丁目

 





         





     

言 問 橋 の 欄 干 と 縁 石
Parapet and curb stone of the Kototoi Bridge
言問橋は、1928年 ( 昭和3 ) に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年 ( 昭和20 ) 3月10日
未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする
人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。
そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が
焼死した。1992年 ( 平成4 ) の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることと
なったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。






      


都  立  横  網  町  公  園
震災・戦災の記憶
電 話 / 03-3622-1208
住 所 / 横 網2-3-25





         





         





         





         





         





 





    横 網 町 公 園  Yokoamicho Park
関東大震災(大正12年、1923年)や、東京空襲(昭和19年
~20年、1944~45年)による悲劇を、記憶・伝承し、
その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。
This park is dedicated to the remembrance of the many
victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the
Tokyo Air Raid (1944~1945)、to commemorate and
preserve the memory of these tragedies.

東京都慰霊堂 Tokyo Metropolitan Memorial Hall
関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の
御霊を慰霊する施設です。昭和5年 (1930年) に建て
られました。堂内には絵画等の展示もあります。
どなたでも入堂できます。入堂無料、
9時~16時30分、何末年始は閉堂
Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000
lives lost during the Great Kanto Earthquake and the
Tokyo Air Raid Paintings and other archives are on display
in the hall, and it is open to the public. Free admission,
open 9:00 am to 4;30 pm. Closed for the New year’sholiday

復興記念館 Great Kanto Earthquake Memorial Museum
関東大震災からの復興事業を記念するために昭和6年 (1931年) に
建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関
する資料を展示しています。
入館無料、9時~16時30分 (入館) 、毎週月曜日
(祝日の場合は翌日) および何末年始は休館
This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction projectfollowing the Great Kanto Earthquake, Documents and other materials related to the damage caused by the earthquake and the
Tokyo Air Raid, as to the ensuing reconstruction are on display.
Free admission, open 9:00am to the 4:30pm (entry).Closed on
Mondays (if a national holiday closed the following day)
and for the New Year’s holiday.







幽 冥 鐘 の 由 来
この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏
法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。また、各方面の回向が終わった後は、
「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って
永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由
で大正14 (1925) 年11月1日、記念堂建設地 (横網町公園)に運ばれました。この鐘を安置する鐘楼は、
昭和5 (1930) 年8月31日に現在地に完成し、同年10月1日 「梵鐘始撞式」 を行いました。なお、
これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏
の特段のご尽力がありました。
                     東 京 都







震災遭難児童弔魂像
大正12 (1923) 年9月1日の関東大震災により東京市(当時)の小学校児童約5千人が亡くなりました。
この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金
により、彫刻家小倉右一郎氏に製作を依頼、昭和6 (1931) 年5月16日に除幕式が行われました。
その後、像部分は、 昭和19 (1944) 年、金属回収のため撤去されましたが、昭和36 (1961) 年、都は、
小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一氏に製作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。
台座の裏面には次の言葉が記されています。大正十二年九月一日の大震火災の為に我が東京市小学校児
童の死亡せし者無慮五千人其の惨状言語に絶せり学校長等深く之を哀み之を悼み相議りて当時幸に難を
逃れ生を全うせる都下の学童をして此の不遇の霊を慰め不幸の魂を弔はしめむことを企画し第五回
の忌辰に際して之を発表するや 忽ちにして学童の共鳴する者十八萬二千二十七名に及び其 の醵金
一萬四千六十六圓四十七銭に達せり乃ち小倉右一郎氏に託して震災記念堂の傍に此の群像を建設し保存
資金を添えて之を財団法人東京震災記念事業協会に寄附し永く当時を追憶し其の冥福を祈らむとす
     昭和五年九月一日








        



       
葛 飾 北 斎

Thirty-six Views of Mount Fuji: Onmayakashi Yori
Ryogoku Bashi Sekiyo wo miru (Sunset across the
Ryogoku Bridge from the bank of the Sumida River
at Onmayakashi)
御厩川岸より両国橋夕陽見 ━富嶽三十六景━
 





     




     
 

御厩川岸より両国橋夕陽見  ━富嶽三十六景━
富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。夕陽に浮かぶ富士山を中心に、船の往来でにぎわう
両国橋や、様々な客でひしめきあう御厩川岸の渡し船の様子が描かれています。構図上の特徴は、船頭の頭
を中心点として、橋の曲線と船の弧が点対称になっている点です。また、活き活きとした彼の描写には、
北斎らしさが表れていると言えるでしょう。御厩川岸(おんまやかし)の名は、江戸時代、西岸の浅草に幕府
の馬小屋である御厩があったことに由来します。現在の墨田区本所1丁目あたりから台東区蔵前2丁目あたり
を結んでいた渡し場がありました。

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt Fuji. This scene depicts Ryogoku
Bridge surrounded by river traffic and a boat traversing the reiver at Onmayakashi crowded with various types
of passengers, while Mt.Fuji rises in the center of the background amid the sunset. The main features, of the
composition are the prow of the boat taking the center location, and the asymmetry attained with the curving
bridge and arc of the boat. The depiction of the lively waves may also be considered to be typical of
Hokusai. The name Onmayakashi originates from the fact that the Shogun' s stable, named Onmaya,was
located at Asakusa on the west bank of the reiver during the Edo Era. A ferry landing point linking 1-chome
Honjo, Sumida city, with 2- chome Kuramae, Taito  city, is currently situated at this location






      葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida
River: Shubinomatsu no Tsuribune Shiinoki no
Yuuzemi (Fishing Boat by the Shubinomatsu Pine
Tree Evening Cicada in the ShinokiForest)
首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉
━絵本隅田川両岸一覧━  





      





      


首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉  ━絵本隅田川両岸一覧━
隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の対岸から描かれて
います。釣り舟の向こう、左手に描かれているが首尾の松です。首尾の松は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん中
あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺は釣りの名所でした。釣り糸の向こう、右手の森が
肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」が
あったことから、椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。

One of the prints from the second of the three- volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both
Banks of the Sumida River, depicting a full year along the Sumida River. This print has been drawn from the
opposite bank of the Sumida River. The Shubinomatsu pine tree is located over the far side of the fishing
boat on the Left-hand side. This tree was located in the center of a long of lineof trees that flourished in
Kuramae and made a perfect landmark for a famous fishing spot located nearby. The forest shown beyond
the fishing lines to the right is the Tokyo residence of the Matsuura daimyo family of the Hirada Shinden
fuedal clan from Hizen Province. This mansion became known as the Shinoki Mansion owing to the “Leafles






      
 小 林 清 親 の 旧 居 地
江戸本所にて幕臣の子として生まれる。1862年(文久2年)、
15歳の時に父が亡くなった為元服し、清親を名乗り、家督
を継ぐ。幕府消滅後、徳川慶喜らを追って静岡に下る。
帰京後、絵師を志し、河鍋暁斎や柴田是真らと席画会(後
援者の前にて、即興で書画を揮毫すること。)を共にした
と言われる。最後の浮世絵師、明治の広重と評された。
住 所 / 横網1丁目





         







絵 画 と 文 学
Site of former residence of Kobayashi Kiyochika
小 林 清 親 旧 居 地
明治の浮世絵版画家で、最後の浮世絵師とも言われる小林清親は、江戸本所のお蔵屋敷で生まれ、
この辺りで暮らしていました。七人兄弟の末子で、明治維新の際は大阪や静岡などを転々としますが、
その後、帰京し洋風木版画の『東京名所図』を出版しました。その西洋風の画風が「光線画」として
人気となり、浮世絵版画に文明開化をもたらしたといわれています。明治十四年(一八八一)の両国の
大火後は、光線画から遠ざかり、「清親ポンチ」というポンチ絵を描くようになり、その後、錦絵の
衰退により肉筆画を多く描くようになっています。近世から近代への絵画の変遷を体現した画家
といえるでしょう




光 線 画
明治に描かれた錦絵に「光線画」と呼ばれるものがあります。光線画とは西洋絵画の遠近法、陰影法、明暗法といった手法で光を表現した浮世絵で、明治9(1876)年に小林清親によって始められ、版元の松木平吉が名付けたといわれます。小林清親は写真術を下岡蓮杖に、西洋画法をワーグマンに、日本画を川鍋暁斎・柴田是真に学び、それらの技法を総合して光線画を生み出しました。清親は明治14(1881)年から光線画を描かなくなりますが、弟子の井上安治は明治22(1889)年に亡くなるまで描き続けました。






品川海上眺望図
          
 本町通夜雪
                                                  小林清親ギャラリーヘ






       本所七不思議 椎の木屋敷跡
肥前平戸新田藩・松浦豊後守の上屋敷には、樹齢が何百年かわ
からない鬱蒼と茂った椎の古木が枝々を塀の外にまで伸ばして
いた。でもどんな時にも落葉したことがなかった為、これを
気味悪がり家人もこの家にはあまり近づかなかったそうです。
反対側に安田庭園があります。
住 所 / 横網2-1  





         





         






          

両 国 物 語
Former Mansion with the Chinkapin Tree of Unfallen Leaves
椎 の 木 屋 敷 跡
   2
本所七不思議の一つ、「落ち葉なしの椎」があった松浦家という大名屋敷は、この辺りにありました。
庭には立派な椎の木がありましたが、この木から葉が落ちるのを誰も見たことがありませんでした。
その噂はたちまち江戸中に知れ渡り、松浦家は「椎の木屋敷」と呼ばれるようになりました。もともと
椎の木というのは常緑樹で落ち葉は少ないものですが、それでも一枚も落ち葉がないということが
不思議です。大名屋敷という庶民からすれば特別の場所であったために、このような伝説が広まった
と考えられます。
                               墨 田 区





 
絵本江戸土産10編 首尾の松 大川端 椎の木屋敷
向こう岸の左側が椎の木屋敷

           
(すみだ郷土文化資料館より)






       旧 安 田 庭 園
旧安田庭園は、元禄4年(1691)、下野足利藩主本庄
氏の下屋敷として作られたのが始まりです。安政年間
に大規模な改修が施され 隅田川の水を引いた汐入回
遊庭園として整備されました。徳川時代における大名
庭園の典型をなす名園で、明治22年(1889)、安田財閥
の所有に移り、大正11年(1922)東京市に寄贈されました
現在は墨田区が管理しています。
開園時間 1月~5月、9月~12月)9:00~16:30
(6月~8月)9:00~18:00 住  所 / 横網1-12-1  











        

旧 安 田 庭 園 の 沿 革
元禄年間 (1688~1703) に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)の実弟で、
後の常陸笠間(ひたちかさま)藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資(ほんじょういなばのかみむねすけ)が下屋敷
として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては
隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉回遊式庭園である
。明治になって旧備前岡山藩主池田章政(あきまさ)侯爵邸となり、明治24年(1891)には、安田財閥
の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年( 1922 )
に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正12年 (1923) 9月1日の関東大震災により壊滅的な
被害を受けたが、残った地割り石組を基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠 して
「旧安田庭園」と命名され、昭和2年(1927) 民間篤志家(とくしか)の寄附による和風庭園として都内初の
一般公開となった。昭和42年 (1967) 、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を
行い、昭和46年 (1971) に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を
今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成8年
(1996)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU=YASUDA GARDENS
In the Genroku Era ( 1688-1703),a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku,
Honjo Inabanokami Munesuke, who was a youger blood brother of the biological mother (keishoin )
of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence
and is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese character
“kokoro”(heart) at its center and uses a system ston formationsknown as shioiri by which the pond is
fed from the Sumida River so the water level in the pond rises and falls with the ebb and flow of the
river’s tide. After the Meiji Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late
Bizen-Okayama Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the
Yasuda Financial Group. After Zenjiro’s death,as specified in his will, the garden and house were
donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the following year (1923)、the grounds
were almost completely destroyed by the Great Kanto Earthquake. The City began re-construction
work on the garden, using as a base the ishigumi ston formations, which fortunately remained,
and then named the gardens after the donor- -“Kyu-Yasuda Gardens” In 1927, it was opened
to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person. Taking the
opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan Government to Sumida
City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971. It was completely restored to the original
condition of former times when it was called a “distinguished garden ”. in 1996, this garden was
designated a Metropolitan place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.





         





         





         





         





         





         





         





      

水  門  跡
江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、
それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。
これは「潮入」と呼ばれるものです。この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、
昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には
閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。潮入の池は、都内ではほかに浜離宮公園や旧芝離宮公園、
清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。
墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽
(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入
を再現しました。本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構
として現状のまま保存されています。
                    墨 田 区





         





         






駒 留 石 
          
駒 留 井 戸 





          

駒  止  石
三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年 (一六三一) に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。
本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせようとしました。しかし、あまりの
濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗りいれました。
忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが
駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒留稲荷を祀りました。
                               墨 田 区





         





         






      
刀 剣 博 物 館
The Japanese Sword Museum
2018年1月19日(金)旧両国公会堂跡地に開館
公益 財団法人日本美術刀剣保存協会運営の、
美術刀剣類の保存、展示をする博物館です。
住 所 /横網1-12-9  電話 /03-6284-1000
開館時間 9:30~17:00  





          





         





       





         





         






左側に防炎防火の防災観光風呂敷が見えます。 
          





                 






      
No.316 アパホテル&リゾート
〈両国駅タワー〉

(全室禁煙)2020年8月7日開業
住 所 / 墨田区横網1丁目11-10
TEL / 0570-021-111  FAX / 03-5619-6712
チェックIN/OUT 15:00 / 11:00 





         





          





 
31Fのプールサイドからの眺望
         
墨田区観光インフォーメーション(2F)  





         





         




2020年8月7日(金)~8月16日(日)に開催されたアパホテル&リゾート〈両国駅タワー〉
フォトコンテストで最優秀賞を頂きました。
https://www.apahotel.com/news/category/event/




 

   
最優秀賞 (東京都 SKY PRINCESS 様)
作品タイトル:「いにしえの時の流れに立つアパ!」





         






       NTTドコモ歴史展示スクエア
自動車・船舶・衛星・携帯電話、ポケットベル、携帯情報端末
(PDA)、PHSといった、電電公社 NTT、NTTドコモ、
NTTパーソナルを中心とした、300点以上の実機、移動体通信
の過去から未来への歴史を見ることができます。
住 所 / 横網1-9-2  電話 / 03-6658-3535 開館時間 / 10:00~17:00
休 館 日 / 日曜・月曜、祝祭日、年末年始  





         





         






        大 東 流 合 気 柔 術 本部道場
「大東流」は多くの流派に枝分かれしている合気道
界の源流で日本古来の武道です。源義家の弟、新羅
三郎源義光を流祖として、甲斐、会津と武田家秘伝の
武芸として上級武士に代々伝えられてきました。
本部道場 稽古日  日曜日 18:30~21:00 
                            青年部少年部合同
 火曜日・金曜日 17:30~18:45 少年部
        19:00~21:00 青年部
住 所 / 横網1-12-31  電 話 / 03-3517-2447 





         





         







        



         

葛 飾 北 斎
 Uma-Zukushi: Komadome-ishi
(Horse Series: Hitching Stone)
駒止石 ━馬尽━




      





      


駒 止 石 ━馬尽━
文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの1枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を
頂いた富士山が描かれています。寛永8(1631)年の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に
見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人が
その濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。
当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は安田庭園内で見ることができます。

One of the Horse Series that were printed to hang during the New Year period in the Bunsei Era (1818-1830).
A stone for hitching horses is located at the front,and the snow-covered Mt. Fuji appears in the background.
The Sumida River overflowed owing to a violent rainstorm in early summer 1631, and the third Shogun,
lemitsu, ordered a survey to be carried out to assess damage inflicted on the Honjo district when the entire
area was flooded, and it is said that only Tadaaki Abe. a direct retainer of the Shogun,displayed his loyalty
to the Shogun by skillfully crossing the turbid waters alone on horseback to carry out this order.The hitching
stone shown in this print is said to be the stone to which he tied his horse during this. This bank of the
Sumia River waslocated in front of the Shiinoki Mansion at that time, and the former Yasuda Garden can
be seen from this point today.






        葛 飾 北 斎
Panoramic Views on Both Banks or the Sumida
River: Shinyanagi Bashi no  Hakuu/Otakegura no
Niji (Sudden Rain at the New Yanagi Bridge /
Rainbow Above Bamboo Warehouses)
新柳橋の白雨御竹蔵の虹  
ー絵本隅田川両岸一覧━




      




      


新柳橋の白雨御竹蔵の虹 ー絵本隅田川両岸一覧━
狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を
走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、
幕府の材木蔵であった「御竹蔵の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管
されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称され
ました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります

One of the prints from the second of thethree-volume comic tanka picture books. Panoramic
Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a second of people with umbrellas crossing the
New Yanagi Bridge during a light shower, and it is drawn from the opposite side of the Sumida River. The
term “sudden rain” refers to an unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans
theentrance to the Otakegura bambo warehouses,where the Shogun's timber was stored. The area behind
the Otakegura warehouses was used to stor building materials at that time, but it became a rice warehouse
when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo
Rice Warehouse. This enormous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, he Edo Tokyo Museum
and other facilities.






      
HYLIC RYOGOKU RIVER CENTER
〇・THE GATE HOTEL RYOGOKU by HURIC

〇・水上バス待合所
〇・両国子育てひろば
〇・御蔵橋跡案内板
住 所 / 横網1-2-13
階段の左側は水上バス待合所で右側はホテルです。







両国国技館が見えます。
           





THE GATE HOTEL RYOGOKU by HURIC

        







THE GATE HOTEL レストランより
         
水上バス待合所より





         





         





東京水辺ライン・水上バス乗り場







水上バスで特別ゆらぶら便(隅田川・荒川・東京臨海部をゆったりと周游するコースです!
板橋区の小豆沢にも寄港しますので、下船して板橋区巡りも楽しそうです!
月1の特別便で今年度は2月11日(金・祝)が最終回です。
船からの景色も又、いいですね!

         





         





         





         





         





         





         





         





         





         






御 蔵 橋 跡

         





       

江 戸 の 町
Site of Okurabashi Bridge
御  蔵  橋  跡
御蔵橋は、隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架った橋で、この辺りにありました。
堀の突き当たりは、御竹蔵(または御蔵地)という幕府の材木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材や
竹の荷を、この堀から引き入れて、御蔵地へと収納するようにできていたのです。後に米蔵として
使用され、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています。御蔵橋は、池波正太郎の「鬼平犯科帳
特別長編雲竜剣流れ星」にも登場していて、「左側は、まんまんたる水をたたえた大川が黒く横たわり、
ここへ来ると、まったく人影もなかった。… …幅一間半、長さ五間の橋である。」と書かれています。






     
両  国  国  技  館
 住 所 / 横網1-3-28  電 話 / 03-3623-5111
       





         





         





          





         







国  歌
君が代に詠まれているさざれ石

此石は学名を石灰質角礫岩と云う石灰質の石が雨水に溶解し其石灰分をふくんだ水が時には粘着力の
強い乳状体となり地下にて小石を終結して次第に大きくなる。やがてその石が地上に出て国歌に詠
まれている如く千代八千代年をへてさざれ石が巌となりて苔のむすという景観実に目出度い石である。
全国至る処石灰質の山に産ずる石であるが特にこの石は国歌発祥の地と云われる岐阜県揖斐郡春日村の
山中にあったもので其終結過程の状態が此石を一見してよく知ることが出来る。繁栄と団結、平和と
長寿の象徴を讃歌しためでたい石であります。





         





       


1955年に戦後初めて相撲観戦した思いをしたためた和歌
昭和天皇の「御製」の歌碑

 《ひさしくも 見ざりしすまひ(相撲) 
人びとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ》

昭和三十年五月 天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸はじめて國民と共に本場所を観覧あらせられた陛下は
終戦時國民を想い「五内為ニ裂ク」と仰せられた 又日常國民の上に御念の安まる間とてもない 然るに
ご観覧中は椅子を進められ拍手を送られ大衆も之に和するという光景を現出したのであった 天皇が一般
國民と一つになって我国の国技たる相撲を御覧になった和やかな情景は戦前には見られないことであった
陛下がかくもお喜びなったことが新聞ラジオテレビジョンによって傳えられるや國民全体はまた心の底から
喜んだのであるこれは其時の御製であって翌年正月初めて発表せられたものである我國相撲道の發展興隆期
して待つべく大日本相撲協會の光榮まことに大なりと言うべきである
  昭和三十一年五月十九日 大麻唯男





         






      
忠 臣 蔵
Site of Tawaraboshi Gemba's stable
俵 星 玄 蕃 の 道 場 跡
講談における創作上の人物で忠臣蔵に宝蔵院
流の槍の名手として登場する。架空の人物である。
住 所 / 横網1-3-28   電 話 / 03-3623-5111  





         





     

忠 臣 蔵
Site of Tawaraboshi gemba's stable
俵 星 玄 蕃 の 道 場 跡 11

宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りに
あったとされています。上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、
赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」
に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十兵次の前で、「のうそば屋、お前には用のない事じゃが、
まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に
駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。






      

両 国 さ か さ か さ
傘を逆さにしたような三角屋根の“逆さ傘”
に由来する名称です。
国技館の前に設置されています。
所 在 地 / 横網1-2-16

 





          





     

天からの恵みを集めて活かす
「両国さかさかさ」
天水収穫装置(てんすいしゅうかくそうち)
雨を「よける」のではなく「集めよう」。都会ではとかくやっかいもの扱いされがちな雨。しかし、
雨なしには草花も育ちません。雨はありとあらゆる生命の源です。大地を潤し、緑を育み、地下水と
なります。豊かな地下水は湧水となり、川に豊かな流れをもたらします。コンクリートやアスファルトが
目立つ東京のまちも、実は空と大地の間を循環する雨によって支えられているのです。雨は、天水。
天からの恵みの水。この装置は、天水をもっと大切に、もっと有効に活かすシンボルとして、大地から
空に向けて広がる「逆さ傘(さかさかさ)」をコンセプトに作られました。下部は、この逆三角屋根に降った
雨を貯める容量約600ℓのタンクになっています。貯めた雨水は、付近の花壇への水やりや打ち水など
に活用します。「歩道の緑地」という都会の公共空間で、天からの恵みを集水・貯蓄・活用し、大地に戻す
━。市民と企業と行政との協調による、天水を活かしたまちづくりへの実践です。
             2010 年6月 墨田区・恵みプロジェクト






       舟 橋 聖 一 生 誕 の 地
1904年(明治37年)12月25日 に東京に誕生。大学在学中
に朱門に参加。四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に
劇団心座の旗揚げに尽力しました、白 い 腕で文壇に登場、
明治大学教授として教鞭をとるかたわら雑誌行動に参加
して(ダイヴィング』を発表、行動主義を宣言して注目
されました。
住 所 / 横網1丁目11-1(報知新聞社ビルの脇)






右側のビルは報知新聞社です
        
報知新聞社ビルの脇に碑があります





 
左側の黒い塀は旧安田庭園です
        
 






側面に前のビルの持ち主の名前が書かれています。
          





    

舟 橋 聖 一 生 誕 記 念 碑
作家舟橋聖一は明治37年 (1904) 12月25日に、本所区横網町二丁目二番地に生る。作家、國分学者として
盛名高く、数々の名作を遺すも、その七十二年の生涯は権威に屈せず市井の文人、文学者として独自の
風格を以て貫かれている。代表作の一つ、花の生涯は井伊大老の生涯を綴った醇乎たる絶品であるが、
文学、文化人として、前人未路の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と呼ぶにふさわ
しいものである。  
                              井 上 靖
代表作:「木石」「川音」「悉皆屋康吉」「ある女の遠景」「好きな女の胸飾り」等
略歴 東大卒・明大教授・日本文芸家協会理事長・国語審議会委員・横綱審議委員長・等 日本芸術院会員・文化功労者






      
百  本  杭  跡 立 札
隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食
されました。杭の抵抗で流れを和らげるために夥しい数の杭が
水中に打ち込まれ、それがやがて百本杭と呼ばれるように
なったそうです。
住 所 / 横網1丁目(パールホテル並び)






         





         





         

江 戸 の 町
Site of hyappon-gi
百 本 杭 跡  12
百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここから
ほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、
明治中期までは鯉の釣り場として有名で、釣り好き幸田露伴もよく出かけたといわれています。また、歌舞伎
の『色街模様薊色縫』の「稲瀬川百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて心中する場所とされ
ています。その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の浮世絵師とい
われる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭暁之図」として、浮世絵に描いています。
                                            墨 田 区

                                                   ペ ー ジ ト ッ プ へ





つぶやきいってみよう
都営両国駅(江戸東京博物館前)バス停~国技館・水上バス乗り場バス停


     〇浪 花 屋 本 店 
    R Cafe192 dog cafe   〇両 国 テ ラ ス カ フ ェ
    パールホテル両国    



        



      
元祖 浪 花 家 本 店
麻布十番たい焼き浪花屋の暖簾分け店
住 所 / 亀沢1-24-2 電 話 / 03-3623-2667
定休日 / 毎月第2第4月・日曜日
時 間 / 10:00~18:00 (月~金)
   10:00~16時(土) 





         





         





          





            






        



       両 国 テ ラ ス カ フ ェ
電 話 :03-5608-7580  住 所:横網1-12-21
OPEN EVERYDAY
[Mon-Fri]
LUNCH / 11:00~15:00(14:30 l.o.)
DINNER / 17:00~22:00(FOOD 21:00 l.o./DRINK 21:30 l.o.)
[Sat,Sun&Holiday]
LUNCH / 11:00~15:00   CAFE / 15:00~17:00
DINNER / 17:00~22:00(FOOD 21:00 l.o./DRINK 21:30 l.o.)





         





         





           






      
 R Cafe192 dog cafe
ヘルシーなお料理とオーガニックコーヒーを楽しめます。
目の前はNTTドコモのビルです。
無料WiFI:ワンチャンOK テイクアウトOK:広々52席
住 所:横網1-9-2(AHBASE内)
電 話 :03-5637-7414  定 休 日:無休/不定休あり

営業時間: 9:00~18:00(L.O 17:30)





         






        



        パールホテル両国
レストラン ようらく
和洋バイキング朝食は毎日35種類以上の料理や
おかずがいただけます。¥1,100〜
6:30〜9:00(日曜・祝祭日 6:30〜10:00)
住 所:横網1-2-24  電 話:03-3621-0585
 





         





         





         

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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