つぶやき街角南部ルート
       ③・元徳稲荷神社入口~春慶寺
<東京スカイツリータウン前>
( スカイ姫のつぶやき19 )

                                               ト ッ プ ペ ー ジ ヘ
 
バ ス 停 ル ー ト 一 覧 表


                                        バス停にリンクします
      

      








       元 徳 稲 荷 神 社 入 口




   
        伝・宮田製安全型自転車第一号車
         
(株式会社 ミヤタサイクル提供)
宮 田 製 作 所 跡

所在地 / 菊川3-3
新式猟銃の開発・量産に努めていましたが、
狩猟法改正の影響などもあって国産猟銃の需要
は減退し、新たな産業として自転車生産を
主力にすべく方向転換を計りました。
アメリカ製の自転車をモデルとした「旭号」を
第五回内国勧業博覧会に出品して高い評価を
受け、以後、本格的に自転車の製造を手がけ
るようになりまた。





             






 

宮 田 製 作 所 跡
                          所在地  墨田区菊川三丁目三番
  宮田製作所は、宮田栄助(一八四〇~一九〇〇)が、明治十四年(一八八一)に京橋区
木挽町一丁目(現中央区銀座)に創設した宮田製銃所から始まりました。
 栄助はもと笠間藩抱えの鉄砲鍛冶師で、廃藩後、砲兵(ほうへい)工場(こうじょう)に勤めな
がら資金を貯え、資本家大倉喜八郎の後援を得て工場を開設しました。当地 (本所区菊川町)
に工場を移したのは明治二十三年(一八九〇)のことで、次男政治郎 (一八六五~一九三一 
後の二代目宮田栄助)が協力しました。政治郎は父と同じく鉄砲鍛冶の修行経験をもつ
在来技術者の一人でしたが、田中久重工場 (東芝の前身) などに勤めたことから近代的
技術にも通じ、外国人からの依頼を受けて自転車修理を手がけるようになりました。
新工場の開設後は旋盤(せんばん)など先進的な工作機械を導入し、新式猟銃の開発・量産に
努めていましたが、狩猟法改正の影響などもあって国産猟銃の需要は減退し、新たな産業を
興す必要が生じました。そこで自転車生産を主力にすべく、政治郎は方向転換を計ったのです。
政治郎は鋼棒を穿孔(せんこう)する銃身製造技術を活かし、工場移転後、安全型自転車の試作
に成功しました。明治三十三年 (一九〇〇) には商号を宮田製作所に改称し、同三十六年には
アメリカ製の自転車をモデルとした「旭号」を第五回内国勧業博覧会に出品して高い評価を
受け、以後、本格的に自転車の製造を手がけるようになりまた。
  平成二十七年五月
              墨田区教育委員会






     すみだ小さな博物館

名刺と紙製品の博物館

楽しい紙製品のグッズの数々が展示されていて
います。紙製品を使ったワークショップなどが
開かれています名刺の製造に関わる古い機械
が展示されています。
所在地/立川3-1-7 株式会社 山櫻 墨田支店 3F
開館時間/午前10時から午後5時 電話/5625-0630





            






            






            






      長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡
平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄
の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通り
の千二百三十八坪の邸に移りました。
天明6年(1786)、御先手弓頭に昇進して火付盗賊
改役につき、8年間の在職中に石川島の人足寄場
を創設したり、多くの犯罪者を更生させたこと
で有名です。
所在地 / 菊川3-16-2
 





             









長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡

 住所 墨田区菊川三丁目十六番地二号

長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通りの千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西端にあたります。長谷川家は家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(一七八六)、かつて父もその職にあった役高千五百石の御先手弓頭(おてさきてゆみがしら)に昇進し、火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)も兼務しました。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職場訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。寛政七年(一七九五)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替となり、替わって入居したのは遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)です。通称は金四郎。時代劇でおなじみの江戸町奉行です。遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。屋敷地の南東端にあたる所(菊川3丁目16番13号)にも住居跡碑が建っています。

 平成十九年三月 墨田区教育委員会






      長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡

所在地 / 菊川3-16-13
医療法人社団丸山会 丸山歯科医院前





             






          


長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡

この一帯は江戸時代に火付盗賊改役、長谷川平蔵や江戸町奉行、遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)が暮らしていた屋敷跡です。長谷川家は家禄四00石の旗本でした。平蔵宣以一九歳の明治元年(一七六四)父平蔵宣雄の屋敷替えにより築地から本所三の箸通り菊川の一二00坪余りの屋敷へ移りました。 宣以は火付盗賊改役として通例二~三年の任期のところ、没するまで八年に及び在職し盗賊逮捕に実績を上げました。 池波丈太郎の「鬼平犯科帳」はその情景を彷彿させます。 また職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場(にんそくよせば)を提案、実現させました。 寛政七年(一七五九)病のために五0歳で本所の屋敷で没しました。その後、弘化三年(一八四六)に孫の四代目平蔵の屋敷替えにより、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)の下屋敷になりました。 遠山金四郎は江戸北町奉行に天保一一年(一八四〇)に任命されました。金四郎は天保一四年(一八四三)奉行を罷免されますが、老中水野忠邦失脚後の弘化二年(一八四五)三月再び南町奉行として任命されました。 以後、名奉行の名を残す評判を集め「遠山の金さん」として浪曲や講談に登場するほど人々にも慕われました。 天保改革で弾圧を受けた歌舞伎を浅草若町に再生したことは金四郎の尽力によると伝えられています。 この地は江戸の町人感覚にも通じ治安に貢献した二人のゆかりの土地です。
                         平成十五年十一月十日






     安 兵 衛 公 園

赤穂浪士四十七士 堀部安兵衛 武庸 道場跡

所在地 / 立川3-15-6





            






        


堀 部 安 兵 衛 道 場 跡

安兵衛は越後国新発田藩(現・新潟県新発田市)溝口家家臣中山弥次右衛門の嫡子として生を受ける。高田馬場の決闘での助太刀の大立ち回りで一躍有名になり、赤穂藩浅野家家臣堀部弥兵衛に見込まれ婿養子となる。そして家督を継ぎ堀部安兵衛武庸(たけつね)と名のる。此の地、林町五丁目に紀伊国屋店(だな)の二軒を借り長江長左衛門と称して剣術道場を開き、江戸急進派の中心的人物として吉良邸討ち入りの機会を探っていた。討入り当夜の同志終結場所の三ヶ所のひとつであり、行装を整え出撃していった場所である。また、道路を挟み東の徳右衛門町一丁目には杉野十平次が杉野九一右衛門と称して、長十郎店(だな)一軒をかり住んでいた。









忠臣蔵」討ち入り出発の地―吉良邸を目指すー

「吉良邸討ち入り」集結地のひとつ、堀部安兵衛の剣術道場はこの辺りにあった。ここから安兵衛らが、杉野十平次宅や前原伊助宅を出発した浪士と共に、表門と裏門の両門から吉良邸へ討ち入ったのは元禄15年12月14日寅の刻。明け方には討ち取りの合図が鳴り響く・・・。吉良邸まではわずかな距離だが、「松の廊下事件」から1年と9か月、ここに至るまでの道のりは、長く、険しいものであったにちがいない。

―The Point of Departure of “Chushingura”, the 47 Ronin on
Their Way to Raid the Kira Residence to Avenge their Master―
Before their raid of the Kira residence, this was one of the gathering places of the 47 ronin
(masterless samurai), and the kendo dojo (Japanese swordsmanship training hall) of warrior
Horibe Yasube, one of the ronin. From this place, Yasube and his men, along with other ronin who came from the residences of Sugino Juheiji and Maehara Isuke, raided the kira residence from its front and back gates during the early hours of Decenber 14, 1702. You can almost hear the raid’s clanging signal during the early dawn…

もっと討ち入りルートのまち歩きを楽しみましょう(多言語サイトへ)
Enjoy more of the raid route (Get more information in your lanuage)









       みどりコミュニティーセンター




      SCHLUSSEL
(デンタルラボ シュルセル)
日本では珍しい、対面できる歯科技工所(ラボ)
ドイツで修行された歯科技工士の方に歯の
悩みを相談することが出来ます。
住 所 / 墨田区立川1-9-8 1F
電 話 / 03-6884-0700






             





             




良い歯の日発祥記念碑
両国中学校・NTTドコモビルの隣です。

             







 

良い歯の日発祥記念碑

歯科界の黎明期に 本所歯科医師会は  入江義次 五十嵐庭治君等の提唱で  口腔衛生普及運動を起した  その始は奥村鶴吉 加藤清治  川上為次郎 岡本清纓 高津武の諸先生に依頼して  当時の本所高等小学校(現墨田区立両国中学校) で区内学童の口腔診査を実施した  会員の積極的活動とライオン歯磨の後援によってこの運動は  日本歯科界最初の企画として当時の新聞に報道された  この時学童数名を選び  表彰状と「良い歯の碑日」と記したメダルを贈った  大正十四年(1925年)十一月七日のことである 本会の唱導は多くの反響をよび 後年「ムシ歯予防デー」として発展するところとなった  本会発足五十周年に当り国民保健向上の一齣であるこのことが  永く後世に伝わるように この碑を記念事業として建てるものである
    昭和四十三年(1968年)
         十月十日建之

  本所歯科医師会






      墨田区みどりコミュニティセンター

2Fパソコンコーナーとヘルストロンコーナー
は無料です。
1階は、墨田区緑出張所が併設されています。
住所 / 墨田区緑3丁目7番3号
電 話 / 03-5600-5811






             






             






     小 林 一 茶 居 住 の 地

1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿
(現信濃町)の農家に生まれ、本名は弥太郎。
我ときて遊べや親のない雀
やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ
めでたさも中位なりおらが春
是がまあついの栖か雪五尺
住 所 / 緑1-1
 





            





             

小 林 一 茶 居 住 の 地

所在地 墨田区緑一丁目一番

江戸時代後期の俳人小林一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、信濃国水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。本名は小林信之、幼名は弥太郎といいます。三歳で母くにと死別し、八歳の時迎えた継母とは不和とあり、一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。十五歳の時に江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみました。やがて葛飾派の溝口素丸や小林竹阿に師事し俳諧を学び、各地を巡歴しながら多くの俳人と交流し俳諧への理解を深めていきました。一茶は文化元年(一八〇四)十月、それまで住んでいた本所五ツ目大島(言江東区大島)から本所相生町五丁目(現一丁目一番の一部および二・三番)の借家に移ります。家財道具が運び込まれた日に一茶は        寝始る其夜を竹の時雨哉    (『文化句帖』より)
という句を詠んでおり、居宅の周辺には竹が植わっていたことがうかがわれます。一茶は五年ほどこの地を拠点に活動しましたが、文化五年十二月に旅から帰ると、留守中に借家が他人に貸し出されてしまっていました。行年を元の家なしと成りにけり (『文化五・六年句日記』より)以後弟子や後援者の家を転々とし、文化元年に故郷に戻りました。晩年は妻と三男一女の死、度重なる病、住居の類焼などに悩まされながらも句を詠み続け、文政十年(1827)六十五歳で亡くなるまでの作品数は約二万句に及びました。主な著作に『父の終焉日記』、『七番日記』、『おらが春』などがあります。子供や小動物への慈愛に満ちた作品がよく知られていますが、自らの境遇、都市や農村の日常に生きる人々の姿、政治や社会に対する思いを平明な言葉で句に詠んでおり、当時の社会状況や日常生活の実情を今日に伝えるものともなっています
平成二十五年三月
                         墨田区教育委員会






    

長谷川平蔵の住居跡


鬼平こと平蔵が27才の時迄暮らしていた
屋敷があったところです。
住 所 / 千歳4-12-7  





             






         

鬼 平 情 景

長谷川平蔵の旧邸


付け火が元の明和九(一七七二)年の目黒行人坂の大火は約一万五千人が亡くなったといわれ、明暦の大火に次ぐものでした。その下手人を捕らえたのが、平蔵宣以の実父、長谷川平蔵宣雄です。この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が変わった翌、安永二(一七七三)年六月に客死してしまいました。家督を継いだ平蔵宣以は天明七(一七八七)年、四十二才の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。義母に「妾腹の子」といじめられ、その反発で屋敷を飛び出し本所・深川を根城に「入江町の銕」と呼ばれ、後に密偵となる相模の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。
                        墨田区






               本 所 寿 座(寿劇場)跡 
寿座は、明治二五年廃絶したが、明治三一年、
廃絶を惜しむ声に支えられ、3月10日戦災
より焼失し、その幕を閉じた。
住 所 / 緑2-16
 





            






                     


本 所 寿 座(寿劇場)跡

本所相生町五丁目(現緑一丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治二十五年廃絶したが、廃絶を惜しむ声に支えられ明治三十一年、この地に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居劇場として開座した。幾多の盟友の芸の修行場や庶民の楽しみの場となっていたが、惜しくも昭和二十年二月閉座、同年三月十日戦災により焼失し、その幕を閉じた。










       野 見 宿 禰 神 社 入 口




      野 見 宿 禰(のみすくね) 神 社

大相撲
Nominosukune Shrine


かつて神社の東側に相撲の高砂部屋があり、
明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、
津軽上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様
として知られる野見宿禰を祀られました。

住 所   /  亀沢2-8-10





            






            








歴代横綱の石碑
所在地 墨田区亀沢二丁目八番十号
         野見宿禰神社(のみすくねじんじゃ)内
歴代横綱(よこづな)の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和二十七年 (一九五二) 十一月に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐 (潮) 太郎までのなまえを刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
野見宿禰神社は、明治十七年 (一八八四) に初代高砂親方 (高砂浦五郎) が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の神屋敷跡でもあります。
  平成二十八年三月
                  墨田区教育委員会

The stone monument of successive YOKOZUNA
The shrine believed in by the people in the sumo world, NOMI-NO-SUKUNE, the God of Sumo is deified. The stone monument of was built in November 1952 onWhich name of successive grand champions, “YOKOZUNA”are carved.

 










       石 原 二 丁 目 南




                 
徳 ノ 山 稲 荷 神社

本所・深川の開発事業を推進した本所築地
奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡である
住 所 / 石原1-36-10 






            






             





 
       

江 戸 の 町
Site of former residence of Tokunoyama Gohei

徳 山 五 兵 衛 屋 敷 跡
明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万治三年(一六六○)、本所築地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人は山崎四郎左衛門)。堀割りの開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。また、孫の徳山五兵衛(秀榮)は、寛保四年(一七四四)に御使番から御先手鉄砲頭に転じた後、火付盗賊方に就任し、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄右衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門を捕らえたことで有名です。







                  栗 本 鋤 雲 住 居 跡

文政五年(一八二二)神田に生まれ、奥医師となる。
その後、フランスとの交流で国際感覚を身につけ、
軍艦奉行、外国奉行を歴任し、フランス式軍隊の
伝習などフランスの諸知識を日本に導入した。
維新後は新政府に仕えずこの北双葉町四一番の
借紅園に移り新聞界で活躍し、初代本所区会儀長
もつとめた。明治三0年この地で没す。
住 所 / 石原3-18-1 





            









      若 宮 公 園 入 口




                  墨田電話局の慰霊碑
昭和三十三年三月十日建立
大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換
の職務を遂行した殉職者を慰霊している。
住所 / 石原4丁目 36-1 (NTT石原ビル) 
 





             






             






 

由 来
 この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が
焼け野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳
を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員三名が最後まで職場
を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された
男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらない
ことを祈願して昭和三十三年三月十日に建立されました。
 慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による
碑文があります。
   昭和五十九年三月十日
         墨田電話局






                  能 勢 妙 見 山 東 京 別 院

勝海舟と父勝子吉親子の熱烈な信仰を
得ていたことで有名。
関西の能勢妙見山の東京別院で能勢の
妙見さんと呼ばれています。
住所 / 本所4-6-14 電話 / 03-3623-2485 





            






            









       本 所 中 学 校 入 口




                  船 江 神 社

元慶元年(877-885)に創建したと伝えられ、
江戸時代には朝日神明社と称し、船手奉行向井将監
等が船の安全を祈願したといいます。北本所表町
(現東駒形二丁目)にありましたが、関東
大震災の区画整理により当地へ遷座しました。
住 所 / 東駒形1-18-10 





             








船江神社御由緒
                      東京都墨田区東駒形一一、三二八六三二
船江神社の草創は、今より千百二十余年の昔、平安期陽成天皇の御宇元慶丁酉年(八七七二年)御祭神は天照皇大神を奉祀す。その御由緒を記すれば、往古本所の郷人あまた夢にみるよう伊勢大神宮、虚空を駆りて飛来り給ひ、虚空のあひだには又、大光明輝き光り、そのうちに気高く微妙なる御声ありて、我此土安隠天人常充満という法華経寿量品の文を唱へ、われはこれ、伊勢の神明にておはします、と見て郷中の人互いに語り合わするにすこしも違わず、誠に奇特の御事也とて宮所をかまへ伊勢大神宮を勧請し奉りけり。神明なお佛法を尊み給ひ、本地和光の内證を示し給ふもの也。それより北のかた星霜うつり年月かさぬと雖も、古にし昔のあと絶えず、利生あらたかに在わしますこと掌をさすが如くなり。
あまてらす神のめぐみのかはらねば 
                ここも五十鈴の本所なりけり  と傳わる。
船江神社は、初め朝日神明社と称し本所表町(現東駒形二丁目)に在り、本所大神宮とて、お伊勢参りが一生の念願たりしその昔、このお社に参拝することにて同じ神徳を授けられると、厚い信仰を受け、後 天祖神社と称え幕府船手奉行向井将監などの人々が船の安全を祈願したといわれる。
明治維新後神名改め、里俗に船江神社と称するを以て今は之を神名とせり。
関東大震災後の帝都復興計画の一環としての区画整理に伴い、昭和五年現在地 東駒形一丁目に遷座せられた。
昔は御大祭は五月二十一日なり。
船江神社総代会 平成十二年庚辰年五月吉日建立







                  明 徳 小 学 校 発 祥 の 地

1872(明治5)年に学制が公布され 公立学校が設立さ
れることになり、本久寺に寺子屋が開設された。
これが 後の明徳小学校である。1946(昭和21)年
国民学校の廃止に伴い廃校になった。この発祥碑は
(2006)6月に 開校130周年記念として建立された。
住 所 / 東駒形2-21-12  (本久寺内)





             






                  






                  かんざし  三 浦

体験ができます!味わいのある工房です。
住 所 / 東駒形3-22-7
 電話 / 03-6751-8858
営業日 / 月~土曜日(祝祭日は除く)
営業時間 / 10~18時(土は~17時)
 





             






            






                  世界のホームラン王の碑

王選手自筆の「気力」の文字

住 所   東駒形3-1-10(本所中学校内)





             






             









      墨田区役所(勝海舟像入口)




                すみだ小さな博物館

ちいさな硝子の本の博物館
墨田職人手作りガラスに好きなイラストや文字
が彫れるリューター体験ができます。

住 所    吾妻橋1-19-8-1F   定休日    月曜・火曜日 
電 話    03-6240-4065   開館時間   10:00~19:00





              






             






                

如 意 輪 寺
如意輪寺は天台宗の古刹で、慈覚大師が嘉祥二年
(849年)に聖徳太子自作の太子像を安置したこ
とが始まりと伝えられています。
  住 所 / 吾妻橋1-22-14  電話 / 03-3623-4849





 


如 意 輪 寺
Nyoirinji Temple

嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁の創建とされ、境内に
水戸家の家臣雪斎の書による聖徳大師の石額があります。

It is said that this temple was founded by Jikaku-Daishi Ennin in
849. There is a stone-framed-“Shotoku-Taishi”calligraphy by Sessai,
a vassal of TOKUGAWA family in the precincts of the temple.







            






       

鬼 平 情 景
如 意 輪 寺

嘉祥二(八四九)年に慈覚大師が聖徳太子自作の太子像を安置したことに始まると伝わる天台宗の古刹です。像を納めた太子堂は「牛島太子堂」、「中之郷太子堂」と呼ばれ、広く知られていました。寺域は五六○坪あり、門前町は南と東に二カ所開かれていました。鬼平犯科帳では、「敵(かたき)」に南の門前にある花屋が何度か登場します。その最初の下りに「大滝の五郎蔵は、まっすぐに市中を突き切り、大川(隅田川)をわたって、本所、中ノ郷元町にある如意輪寺門前の花屋に入った。」とあります。後に捕縛され、密偵となる大滝五郎蔵の盗人宿ですが、亭主の利兵衛が何者かに殺されてから話が大きく転換します。






    
吾 妻 橋
(大川橋)

安永三(1七七四)年、長谷川平蔵二十九才の時、
町人から幕府への願いが受け容れられ、架橋され
ました。現在の橋は震災復興橋梁として昭和6
(1931)年に架橋されました。
  住 所 / 吾妻橋1-23
 





            








鬼 平 情 景
吾 妻 橋 (大 川 橋)
 
江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三(1七七四)年、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者からと渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約百五十メートル)、幅三間半(約六。五メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社への参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九年(一八七六)年になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。






 
吾妻橋夕涼景   絵師:歌川豊国
   
吾妻橋金竜山遠望
歌川 広重 初代






  
江戸名所発句
合之内吾妻橋
 絵師:国貞改豊国
               歌川国貞初代
 
 
東都八景 浅草夕照
歌川 広重 初代

 






     ギャラリーアビアント
貸 画 廊


住 所 / 吾妻橋1-23-30   電 話 / 03-3621-0278
営業時間 / am11:00~pm7:00





            






大 沢 昌 助 展
2019.5.8(水)~5.18(土)

            






                  






     墨   田   区   役   所

住 所 / 吾妻橋1-23-20  電 話 / 03-5608-1111
開 庁 時 間:月曜日から金曜日、午前8時30分から
午後5時まで
閉庁日:土曜日、日曜日、国民の祝日に関する法律
に規定する休日、年末年始(12月29日から1月3日)
毎週水曜日は午後7時まで区役所の一部窓口を延長
しています。毎月第2・第4日曜日は区役所の一部窓口
を開設しています。





            






         


墨田区平和福祉都市づくり宣言

わたくしたちは 平和のうちに幸福な生活を営めるよう
これまで たゆみない努力を積み重ねてきました
平和を守り より良い生活と文化を築いていくことは
わたくしたち共通の願いです
「平成元年」という新しい時代の始まりにあたって
わたくしたち墨田区民は 心新たに 世界の平和と
ひとびとの福祉向上の実現に 一層努力することを誓い
ここに平和福祉都市づくりを宣言します
      平成元年一月十一日
              墨 田 区 
 
  ヘ リ ッ ク ス

彫刻は螺旋と平面に曲線が組み合わされた2つの柱
状のもので構成されており 螺旋の垂直を強調する
鋭角的な多面体は自然光を受け 見る位置と時刻に
より微妙に変化し限りない永遠性を現わします
この永遠性とは春・夏・秋・冬の季節の変化や 幼年・
青年・壮年・老年そしてまた幼年というような人々の
永遠の世代の移り変わりという 自然のサイクルを
意味しています 
そして彫刻全体を包んでいる思想は 互いに性格が
違う人と人とがり添い合っている和やかな姿と結
びつきをシンポライズしています
                 脇田愛二郎
 






            






             






             






             






             


建 立 の 記

勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳) は、文政六年 (一八二三年) 一月三十日、江戸本所亀沢町 (両国四丁目) で、父小吉(左衛門太郎惟寅) の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年(一八九九年) 一月十九日 (発表は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。この海舟像は、『勝海舟の銅像を建てる会』から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます
  海舟生誕百八十年
  平成十五年(二○○三年)七月二十一日(海の日)
             墨田区長  山崎昇






          

浩  養  園  跡
          所在 墨田区吾妻橋1丁目23番

この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移りかわり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。文政5年 (1822) 水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年 (1860) 佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。その後、明治33年札幌麦酒東京工場がここに設置され、39年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正9年の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。
平成3年3月
                                            墨 田 区






             






       





             





             



27万人の平和メッセージ事業について(墨田区ホームページより)

墨田区は、平成元年に「平和福祉都市づくり宣言」を行いました。
 この宣言は、関東大震災と東京大空襲の2度の大禍を経験している墨田区の過去に思いを起こしつつ、
未来にわたって国内外の平和の実現と、人々の福祉の向上の実現になお一層努力することを
誓ったものです。この趣旨の実現に向けて、東京大空襲のあった3月に毎年、平和祈念行事
「27万人の平和メッセージ」として、以下の3つの事業を実施しています。
 (※事業名の「27万人」は、墨田区の人口に由来しています。)



平成30年度「アタイの地球」
 
  1 平和のオブジェ

区内外のたくさんの方々が平和への願いを込めて折った鶴で、区役所1階
アトリウムの壁面に「平和のオブジェ」を制作しています。
 毎年、東京大空襲のあった3月10日頃の完成を目指し、ボランティア
の方々と一緒に制作しています。
 
現在の「平和のオブジェ」について
 現在展示してあるオブジェは、漫画「あしたのジョー」でおなじみの
ちばてつやさんに監修をしていただきました。ちばてつやさんは、学齢
期を墨田区で過ごされるなど、墨田区と大変ゆかりの深い漫画家です。
東京2020オリンピック・パラリンピックにおいて、両国国技館でボクシ
ング競技が行われることから、ちばてつやさんとの御縁を活かし、墨田区
は「あしたのジョー」とタッグを組んで、様々なPR活動を行っています
 




        鶴を折っていただける方や制作ボランティアの募集について

折鶴再生紙粘土「すみつる」
 毎年1月下旬から、鶴を折っていただける方やオブジェの制作ボラン
ティアの方を募集しています。興味のある方は、ぜひご協力ください。
 ご協力いただいた方には、折鶴再生紙粘土「すみつる」をお配りして
います。「すみつる」は、過去に展示された墨田区平和のオブジェ
に使用した折鶴を昇華し、再生したものです。粘土の所々に折鶴が
盛り込まれており、カラフルで可愛らしい粘土です。
  



2 平和祈念コンサート
 毎年3月10日頃に「平和のオブジェ」の完成披露を兼ねて、オブジェの前で新日本フィルハーモニー交響楽団メンバーよるオープニングコンサートを実施しています。コンサートは入場無料です。



3 平和メッセージ展
 区民や著名人の方々から平和への思いを詩や絵、文章などにつづった「メッセージ」を募集し、3月10日頃から約2週間、区役所1階アトリウムに展示します。
 毎年、墨田区民の方々をはじめ、各界の数多くの著名人の方々がメッセージを寄せてくださっています。










       本 所 吾 妻 橋 駅 東




       


業 平 橋
(大川橋)

所在地 / 吾妻橋3-4 





            






        

鬼 平 情 景
業 平 橋

最初の橋は、本所開拓で開削された横川に、寛文二 (一六六二) 年に架けられました。長さ七間、幅二間の板橋です。橋名は、すぐ西にあった南蔵院境内に「伊勢物語」の悲運の主人公、在原業平の作とされる衣冠の木座像をご神体とする業平天神社があったことによります。「東下り」に因み舟形の業平の塚もあったとされています。南蔵院は大岡裁きの「しばられ地蔵」で有名ですが、現在は葛飾区東水元に移転しています。鬼平犯科帳では、「敵」に登場します。五郎蔵は人気のない業平橋を渡った時、人につけられていると感じ、すばやく西尾隠岐守下屋敷わきの木立へ飛びこんで提灯の明かりを消し、後ろを伺う場面があります。江戸の頃はこの辺りで採れた業平蜆が美味で特産品とされ、作品にもたびたび出てきます。

                                                墨 田 区






     南 蔵 院 跡

関東大震災で罹災したため葛飾区東水元2丁目
28番25号に移転しました。境内には荒縄で縛
られたお地蔵様が祀られています。

所在地 / 吾妻橋3-6





            








南 蔵 院 跡(しばられ地蔵と業平伝説)
            所在地  墨田区吾妻橋三丁目六番

この一画には、しばられ地蔵でよく知られる南蔵院という寺院がありました。しばられ地蔵とは、大岡政談で一役買ったお地蔵様のことです。ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしまいます。商いの疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、手がかりがまるでありません。そこで町奉行大岡越前守は一計を案じ、このお地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所に運びました。その上、お白洲で地蔵の裁きをする旨のお触れまで出したのです。この噂はたちまち広まり、お裁き当日の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となりました。越前守は騒ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に1反ずつ反物を納めさせました。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。越前守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻ってくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵と呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。一方、南蔵院の境内にはかつて業平天神社がありました。平安時代の歌人・在原業平をまつったものといわれます。業平は、隅田川を舟で渡ったときに
「名にし負はば いざ言問(ことと)はむ都鳥(みやこどり) 
わが思ふ人は ありやなしやと」と詠みました。(『伊勢物語』)。現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残しているのは、このことに由来しています。南蔵院は、昭和元年(一九二五)に葛飾区水元に移転しましたが、現在でもしばられ地蔵の信仰と風習で知られています。
                             平成二十一年三月









        春慶寺(東京スカイツリータウン前)




       押 上 天 祖 神 社
おしなり商店街のある押上・業平橋地区
の村社として地域の人々の崇敬を集める
神社です

住 所 / 墨田区業平2丁目9−6





             






              






            

押上天祖神社御由緒
押上天祖神社は、明治五年十月元押上村の村社に列し祭日は九月十六日と定められて、今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠木正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で、今から六百余年の昔に当る。
当時は押上と云ったかどうか分らないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大紳を祭ってある。
また一説には現在の京成橋付近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治五年村社に列する事となり、明治十一年の記録には「武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖神社、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭」という文献が残っている。天祖神社は呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺という寺が管理して居たのが、明治初年に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天祖神社は其の末社と云う事になっている。
又大正十年に大祭が行われ、同十二年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は、平川橋四丁目地域にあったのが、後、昭和三年の区画整理で、現在地(業平二の十三の十三)に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大震災で焼失後社殿も新築されたが、昭和二十年三月十日の戦災で、又も焼失した。そして昭和二十七年度大祭の折、再び新築し、続いて昭和三十二年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社としての形態が整ったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社認可となっている。昭和三十七年境内には社務所、会館を設立すると共に従前の六カ町の外に新たに旧業平橋一丁目と、旧向島押上町が加わり、八カ町の神社となっている。五月五日に新調されたもので、今迄に関東大震災と戦災で二回に亘る災害にあったが、現在の神輿庫が奇跡的に焼失をまぬがれたので大神輿も当時のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。
其の間、明治四十四年九月、大正十年五月と何回かの修理を行って居ります。
                         墨田区史より
  平成十年七月吉日
                    押上天祖神社総代会






       小 梅 銭 座 跡 
『古今泉貨鑑(ここんせんかかがみ)』によれば、
元文元年(一七三六)十月二十日に裏面に
「小」の一字を入れた寛永通宝が鋳造された
ようです。

業平1-7-2





            








小梅銭座跡
     
所在地  業平一丁目七番・十三番・十四番
銭(ぜに)は、中央に四角い小さな孔(あな)をあけた円形の金属貨幣で、国内では七世紀後半の富(ふ)本(ほん)銭(せん)の鋳造に始まると考えられています。八世紀初頭から十世紀半ばにかけては和同開珎(わどうかいちん)をはじめとするいわゆる皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)が鋳造(ちゅうぞう)されました。公鋳銭の発行は、平安時代の末から長らく途絶しましたが、寛永十三年(一六三六)六月、江戸幕府は芝網縄手と浅草橋場、近江坂本に銭座を設け、寛永(かんえい)通宝(つうほう)を発行するようになりました。そして以後、幕末にいたるまで各種の銅銭が流通したのです。江戸時代後期の有名な地誌、『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふうどきこう)』によれば、当地にあった銭座はとくに「新銭座」の名で呼ばれ、その敷地は百二十間四方(約四万七千㎡)に及んだそうです。稼働期間は不明ですが、『古今泉貨鑑(ここんせんかかがみ)』によれば、元文元年(一七三六)十月二十日に裏面に「小」の一字を入れた寛永通宝が鋳造されたようです。(右図)。運営は、幕府の御用商人が請け負いました。幕府の財政経済資料をまとめた『吹(すい)塵録(じんろく)』(勝海舟編)には、野州屋(やしゅうや)・南部屋(なんぶや)という二つの屋号が確認できます。なお、墨田区内では、当地の他押上や本所馬場、本所横川にも銭座があったとされ、とくに本所馬場では天保(てんぽう)通宝(つうほう)【天保銭】を鋳造していたと伝わっています。
  平成二十五年五月
         墨田区教育委員会






   
      種田の足袋  磯 貝 商 店

タイムスリップ、お店の中は江戸情緒たっぷり!
心の安らぎを感じます。大正後期創業、鳶職の
方々の地下足袋を作っていたそうです。

住 所    業平1-1012   定 休 日    正月三が日 
電 話    03-3622-2665    営業時間    平日/9:00~19:00
日・祭/9:00~18:00





           






             






                        






              

西 尾 隠 岐 守 屋 敷

鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿
への経路としてたびたび登場します。

住 所 / 業平1-13-7






          






         


鬼 平 情 景
西尾隠岐守屋敷

遠江国横須賀藩三万五千石で、城中で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管理した奏者番の職にあった西尾隠岐守の抱屋敷です。敷地はおよそ一万三千坪あり、津軽家上屋敷がおよそ八千坪といいますから、その一・六倍はあったことになります。当時、周辺は押上村、小梅村と称され長閑な田園地帯が広がり、その中に寺社仏閣が点在していました。内河川が発達していたことから四季折々の変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の行楽先でした。しかし、夜ともなると、明かりもめったに見えない実に寂しい土地となり、大名の下屋敷は博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加わって、脛に疵を持つ者が身を隠す恰好の場所になります。鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への経路としてたびたび登場します。






  
塩で作られています。 
        たばこと塩の博物館

住 所    横川1-16-3    定 休 日    月曜日 
電 話    03-3622-8801    営業時間    AM10:00~PM6:00
入館料    大人・大学生 100円
・小・中・高校生 50円
 ※特別展は別料金の場合があります





             






大 横 川 入 口

            






             

春  慶  寺

江戸時代には押上の普賢様と呼ばれていました
江戸時代に活躍された歌舞伎狂言の作者四世
鶴屋南北の菩提寺。鬼平情景では平蔵の剣友、
岸井左馬之助の寄宿先として多くの作品に
登場します。

所在地 / 業平2-14-9 





                  



 






             

春 慶 寺 

元和元(一六一五)年、真如院理上人によって浅草森田町に創建され、寛文七(一六六七)年に本所押上村に移転してきました。江戸時代から押上の普賢様と親しまれ、多くの参拝客で賑わっています。鬼平犯科帳では平蔵の剣友、岸井左馬之助の寄宿先として多くの作品に登場します。なかでも「明神の次郎吉」は春慶寺が主な舞台になっていて、寺域や押上周辺の当時の様子が描かれています。左馬之助が盗人の次郎吉を荷車に乗せ、蛍が飛んでいる横川沿いの道を五鉄に向かい、もてなす下りは実に微笑ましい情景です。その左馬之助を何度も演じた俳優・江守徹の揮毫による石碑が平成十五年に建てられています。

                                       墨田区





墨田区内循環バス時刻表 
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)



メール





Copyright (C) 2011 K Asasaka All Rights Reserved