弥 勒 寺 橋 跡 六間堀児童遊園 六間堀の護岸の石の外壁 |
弥 勒 寺 五 間 堀 跡 |
葛飾北斎⑥ 新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目 Shinban Ukie Chushingura : Dai Juichi-Danme (Newly Published Perspective Pictures of Chushingura:Act 11) 元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。吉良邸への 赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様式で描かれております。 住 所 / 東京都墨田区両国3ー13(本所松坂町公園) |
新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目 「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも 盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの 場面が浮絵の様子で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂 浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。 この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曽祖父であると、 北斎自から語っていたそうです。 A print from the series depicting the Genroku Ako incident.This uki-e print depicts the climax Of Kanadehon Chushingura,which was performed frequently in puppet shows and Kabuki at that time, showing the forty-seven Ronin raiding the Kira Residence,and the lines of the building’s eaves and the building itself express a deepperspective. The person putting up a solitary fight against the forty-seven Ronin is Heihachiro Kobayashi, one of the kira master swordsmen,It is said that Hokusai used to speak of Heihachiro Kobayashi, a man who bravely died protecting ozukenosuke Kira that night ,was his own grandifather |
葛飾北斎⑦ 本所立川 ━富嶽三十六景━ Thirty-six View Of Mount Fuji: Honjo Tatekawa (The Timberyard at Honjo) 北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、堅川の北側 (旧相生町1丁目~2丁目付近)には、その水運を活かした 材木問屋が密集していて、北斎はそれら問屋と職人たち、 木材の間から覗富士山を描きました。 住 所 / 東京都墨田区両国4ー1 |
本 所 立 川 ━富嶽三十六景━ 富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。 江戸時代、堅川の北側(旧相生町一丁目~二丁目付近)には、その水運を活かした 材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く 富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意 とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木 には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書きがあり、版元名とその場所、 本シリーズ(「富嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。 A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt.Fuji. This print was made whenHokusai was about seventy years old. During the Edo Era. timberyards that used the river for transporting timber were crowed along the north bank of the Tatekawa River (nearby the former Aioicho 1-chome through to 2-chome). Hokusai has depicted a scene of Mt .Fuji seen from between the timberyards, the workers and the timber.The composition of this print with Mt.Fuji visible between the piles of timber is typical of Hokusai, who was very proficient at expressing perspective. “Nishimura Storage Yard”is written on the timber storage area at the bottom right-hand side amd “2-Chome Bakurocho”and“Supplied by Eijudo”is written on the timber on the left and right of this, enabling Hokusai to casually advertisethe name and address f the Thirty-six Views of Mount Fuji series' publisher. |
本所松坂町公園(吉良上野介屋敷跡) 「忠臣蔵」で広く知られる赤穂浪士の討入があり ました。吉良上野介義央の屋敷は広大で、 東西73間、南北35間で、面積は2550坪 (約8400平方メートル)だったとされています。 現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町 公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。 住 所 / 墨田区両国3-13-9 電 話 / 03-5608-6951 |
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忠 臣 蔵 Site of former residence of lord Kira 吉 良 邸 跡 吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は二千五百五十坪 (約八四00平方メートル)だったとされています。吉良上野介が隠居したのは元禄十四年 (一七〇一)三月の刀傷事件の数カ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、 代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所 松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、 邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。 |
本 所 松 坂 町、公 園 由 来 所在地 墨田区両国三丁目十三番九号 面 積 九十七・五六平方メートル この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂浪士の討入があった、吉良上野介義央 の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(両国二、三丁目)のうち約八、 四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、 いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に 伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史跡公園として、東京市に寄付したもので、 昭和二十五年九月墨田区に移管されました。周囲の石壁は、江戸時代における高家の 格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸 や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係 の記録や絵画が銅板で展示されております。 |
忠 臣 蔵 吉 良 邸 正 門 跡 この辺りに吉良邸正門がありました。元禄15年 (1702) 12月14日、寅の刻 (午前4時) の7つ鐘 を合図に正門から大石内蔵助以下23名が用意 した梯子で邸内に侵入しました。 住 所 / 両国3-6-7 |
忠 臣 蔵 Site of the main gate of Lord Kira’s former residence 吉 良 邸 正 門 跡 この辺りに吉良邸正門がありました。元禄十五年 (十七0二) 十二月十四日、寅の刻 (午前四時) の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で 邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入 しました。赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、 百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが 外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、速水藤左衛門らが侍長屋の戸板に 向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず 戦闘不能になったといわれています。 |
赤穂浪士前原伊助宅跡 赤穂浪士四十七士の一人で、米屋五兵衛として 吉良邸裏門のすぐそばに米屋を開業して、 吉良邸を探っていました。 住 所 / 両国3-2-4 |
忠 臣 蔵 Site of former residence of Maebara Isuke 前 原 伊 助 宅 跡 この辺りに、前原伊助宅がありました。伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、 浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝四年(一六七六)に家督を継ぎます。 金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。浅野内匠頭の刀傷事件後は江戸 急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、 やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して 店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。 討ち入りの直前には、亡君の刀傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に 書き綴った「赤城盟伝」を著しています。 |
絵 画 と 文 学 鏡師 中 島 伊 勢 住 居 跡 伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(1763) 後の葛飾北斎 となる時太郎を養子にしました。 住 所 / 墨田区両国3-14-6 |
絵 画 と 文 学 Site of former residence of Nakajima Ise 鏡 師 中 島 伊 勢 住 居 跡 中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺り にありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(一七六三)、後に葛飾北斎となる 時太郎を養子とします。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。 中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが北斎はその後も中島姓を名乗って いることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の『葛飾北斎伝 によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、 鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです。 |
相 撲 部 屋 時 津 風 部 屋 (時津風一門) 師匠は、十六代・時津風正博 (元前頭・時津海) 住 所 / 両国3-15-4 |
相 撲 部 屋 Tokitsukazu Stable 時 津 風 部 屋 (時津風一門) 師匠は、十六代・時津風正博 (元前頭・時津海)。昭和十七 (一九四二) 年、当時現役で あった第三十五代横綱・双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士の まま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いたのが、現在の時津風部屋創設に つながっています。幕内最高優勝十二回 (内、全勝八回) 、いまだに破られない歴代最高 記録の六十九連勝など、輝かしい成績を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和二十 (一九四五)年十一月場所後に引退、十二代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋 に変更しました。双葉山道場の看板は、現在も掲げられています。十二代・時津風は、昭和 四十三 (一九六八) 年十二月十六日、満五十六歳で死去するまでの間、約十一年間にわたり、 第三代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱(鏡里・・・十三代・時津風)、三大関 (大内山、北葉山、豊山・・・十四代・時津風。第八代相撲協会理事長)をはじめ、 多くの力士を育成しました。 墨 田 区 |
江 戸 の 町 伊 藤 宗 印 屋 敷 跡 明治12年(1879)に十一世微塵を襲位した八代 伊藤宗印が住んでいました。 京葉道路沿いの両国亭の前に立っています。 住 所 / 両国4-30-4 |
江 戸 の 町 Site of former residence of Ito So-in 伊 藤 宗 印 屋敷 跡 17 明治十二年 (一八七九) に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を 構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。 江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。 三家ともはじめは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけ が戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの 屋敷で腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄 です。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。 本法寺(横川一‐十二‐十二)にある墓碑は駒形をしたものでしたが、 戦災により破損してしまいました。 |
芥 川 龍 之 介 文 学 碑 自署と児童文学の「杜子春」の一節が刻まれている。 学校の北西の角にある碑は、作家芥川龍之介の人生観 を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立115 周年の記念事業として平成2年10月建立されました。 両国小学校は芥川龍之介の出身校で、江東尋常小学校 と呼ばれていました。 住 所 / 両国4-21-6(両国小学校内) |
芥川龍之介 文学碑 「━━お前はもう仙人になりたい といふ望も持ってゐまい。 大金持になることは、元より 愛想がつきた筈だ。 ではお前はこれから後、何に なったら好いと思ふな」 「何になっても、人間らしい、 正直な暮しをするつもりです。」 杜子春の聲には今までにない 晴れ晴れした調子が罩って ゐました。 「杜子春」より |
芥川龍之介 文学碑 芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、 ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介 と命名されました。生後七ケ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町 十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳 の時芥川家の養子となりました。芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は 教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、 一家あげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味豊かな家庭でした。 本所は龍之介の幼児時から小青年期までの大事な時期を育くんだ場所で「大導寺 信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることができます。 龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、 翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立 第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一 高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科 に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌 『新思潮』『新小説』に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。 この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したもの です。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する 作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立 百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。 |
錨 の 由 来 この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事 (旧岡田 菊治郎商会) が軍艦解体作業で得たのを昭和の初年 に江東 (現両国) 小学校に寄贈したものである。 芥川龍之介の文学碑の隣に置かれています。 住 所 / 両国4-21-6(両国小学校内) |
錨の 由 来 この錨は日露戦争 (一九〇四年~一九〇五年) で活躍した日本海軍の駆逐艦 「不知火」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・ 起工明治三十一年・進水三十二年・三百二十六トン・(艦長六三・五メートル・ 五四七〇馬力・三〇ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。錨の 裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。猶この錨は両国 一丁目の鉄鋼業岡田商事 (旧岡田菊治郎商会) が軍艦解体作業で得たのを昭和の初年 に江東 (現両国) 小学校に寄贈したものである。 平成三年 月 両国(相生・江東)小学校同窓会 |
尺 振 八 の 共立学舎跡 天保10年(1839) 江戸に生まれた英語学者です。 漢学を学んだ後文久元年 (1861) に幕府に勤め、 同年12月の第一回遣欧使節団に通訳として福沢 諭吉(慶應義塾創設者)などと共に随行し、同3年 (1863)の第2回遣唐使節団にも同行しました。 住 所 / 両国4丁目26番 |
尺 振 八 の 共 立 学 舎 跡 所在地 墨田区両国四丁目26番 区立両国小学校付近 尺振八は、天保10年 (1839) 、江戸に生まれた英語学者です。漢学 を学んだ後、万延元年 (1860) にジョン万次郎から英語を学びました。文久元年 1861) に幕府に勤め、同年12月の第一回遣欧使節団に、通訳 として福沢諭吉(慶應義塾創設者)などと共に随行し、同3年 (1863) の第2回遣唐使節団 にも同行しました。振八の英語学者としての力量は、当時の日本では、天下第一流 であったと伝えられています。明治3年 (1870) に本所相生町 (現両国四丁目付近) に私塾「共立学舎」を創設し、英学教育 を行いました。この学校は、名門私塾として有名で、門下生には政治家の島田三郎や 波多野伝三郎、法学博士の田口卯吉など有能な人物がいました。その後、イギリス の哲学者ハーバート・スペンサー(HerbertSpencer、当て字で斯辺撤)の❛ Education:intellectual,moral,and physical❜(教育論)を翻訳した『斯氏教育論』 (スペンサー氏の教育論という意味)を刊行しました。 平成29年3月 墨田区教育委員会 |
江 戸 の 町 Site of former residence of Hom-inbo 本 因 坊 屋 敷 跡 本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、 徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂) を開祖とする家系で棋手を輩出してきました。 住 所 / 両国3-5-7 |
江 戸 の 町 Site of former residence of Hom-inbo 本 因 坊 屋 敷 跡 ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、 徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋手を輩出 してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光時の塔頭の一つに由来 しています。もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため その代地として寛文7年(1667)この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、 常に囲碁四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・ 秀和・秀策などの棋手を生んでいます。現在は、実力制で争われるタイトルの1つ として名が残っています。 |
鬼 平 情 景 煙 草 屋・壺 屋 大滝の五郎蔵が捕縛され、密偵となり親子の契りを 結んだ養父、舟形の宗平と始めた店で作品の数多く に登場し核となる店です。鬼平情景の作品の数多く に登場し、核となる店です 住 所 / 両国4-4-5 |
鬼 平 情 景 煙 草 屋・壺 屋 大盗・蓑火の喜之助の下で修業を積んだ真の盗賊、大滝の五郎蔵が捕縛され、密偵となり 親子の契りを結んだ養父、舟形の宗平と始めました。後に夫婦となった女密偵のおまさも 同居するようになりました。作品の数多くに登場し、核となる店です。「密偵たちの宴」 では、冒頭に相模の彦十、小房の条八、伊佐次の三名が壺屋に集まり、合わせて六名が、 豪勢な料理を前に忙中閑の酒盛りをしている場面が出てきます。平蔵が最も信頼を寄せ、 腕の利く密偵たちが思い出話に耽って興趣を高め、その勢いで畜生盗めが支配する世を嘆き、 平蔵に悟られないように本格盗めの手本を示そうという話になる展開には心が踊らさせます。 |
鬼平情景 軍鶏なべ屋「五 鉄」 小説「鬼平犯科帳」に登場する本所二ツ目の軍鶏 なべ屋「五鉄」は、鬼平の行きつけの店で、 日本 橋人形町で1760年から続く老舗鶏料理店玉ひでが モデルといわれています 中田屋茶舗の前にあります。 所 在 / 両国4-1-12 |
鬼 平 情 景 軍 鶏なべ屋 「五 鉄」 小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋 「五鉄」の場所は、「二ツ目橋の角地で南側は堅川」とあるように、この辺りだと推定 されます。鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。 その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡の ササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗を ぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。 |
江 戸 の 町 二 之 橋 万治二年(一六五九)、堅川が開削されると五つの橋が 架けられ、隅田川に近い方から一之橋から五之橋と 名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ10間 (18メートル)、幅三3間(5.4メートル)ほどありました。 波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目 橋」という名で数多く登場します。 所 在 / 両国4-1-12 |
江 戸 の 町 二 之 橋 鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺 門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋 「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。 現在の橋は平成十年(一九九八)に架橋されたものです。 |
勝 海 舟 生 誕 の 地 勝海舟は文政6(1823)年、江戸本所亀沢町にある父 の実家である男谷家で生まれ、7歳までここで生活。 独立してからは実家の近くに居を構えた。咸臨丸 で渡米、帰国後は軍艦奉行となり神戸海軍操練所 を開設した。江戸城無血開城を実現したことで有名。 住 所 / 墨田区両国4-25-3(両国公園内) |
勝 海 舟 生 誕 の 地 所在の地 墨田区両国4丁目25番 勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。 父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良 に養子入りし、文政2年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。 海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの 地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口 鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、 旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居 する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に 励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。海舟が海外事情に関心を 寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで 蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学 を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、 嘉永6年(1853)6月3日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年 (1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌 3年に講武所砲術師範役、同6年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げて いきました。そして、同7年正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の 艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務める など、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(1868) 3月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に 導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。海舟は新政府 で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧 幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治19年(1886)5月には酬恩義会を創設して 将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。 明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。 平成23年3月 墨田区教育委員会 The birthplace of Katsu Kaishu The birthplace of katsu kaishu, who is a very famous person in Japanese history (1823-1899). Katsu was a servant of the Tokugawa Shogun, who learned advanced knowledge from Western countries including the military in his youth, He took an active role in the mid-19th century dedicated to the modernization of military forces. He served as the captain of the warship‘Kanrin Maru’in 1860, taking a delegate with a mission of ratification of the Convention with the Unaited States to San Francisco. |
由 来 碑 勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内 で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦 咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸 において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃 を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。明治32年 (1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年77歳であった。墓は洗足池畔 に建立されている。 平成元年10月 墨 田 区 (幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡) |
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桐 屋 田 中 創業明治25年の桐箪笥メーカーの桐の博物館 住 所:本店-両国4-1-8 電 話:03-3632-0341 0120-72-1001 定 休 日:水曜 営業時間:9:00~180 |
六間堀石組護岸の石垣
地中から見つかった六間堀の護岸の石の外壁! 六間堀は竪川と小名木川とを南北につなぐ運河で、 隅田川のやや東側を流れていました。戦後、 空襲の瓦礫処理の為に埋められてしまったそうです。 住 所:墨田区千歳3丁目15−6 山崎製パン株式会社/本社/中央研究所 電 話:03-3632-0630 |
“Rokkenbori” Ishigaki Stone Wall Block
「六間堀」という名称は、川幅が六間(約11m)であるところから付けら、江戸時代六 間 堀 児 童 遊 園 昭和34年4月1日に墨田区の六間堀跡に開園されまし た。六間堀は、江戸時代の慶長年間に疎通した小名 木川と、明暦の大火後の万治2年に開削された竪川 を結ぶ幅六間(10.8m)、長さ900m程の掘割(北端 →墨田区千歳3-18 南端→江東区常盤1-19)で、 江戸時代には大名屋敷が並んでいたそうです。 住 所:墨田区千歳三丁目1番1号 |
突き当たりは新大橋通りです。 |
弥 勒 寺 橋 跡 弥勒寺橋は、六間堀からわかれる五間堀にかけられ ていた橋( 清澄通が五間掘と交わる森下駅のところ) で、橋の北東にある真言宗弥勒寺から名前 が付けられました。 住 所:江東区森下 |
弥勒寺橋跡 弥勒寺橋は六間堀からわかれる五間堀にかけられていた橋です。この橋の初見は 寛文十一年(一六七一) の江戸図で、江戸時代前期には、すでに架橋されていたこと がわかります。弥勒寺橋という名称は、橋の北東に真言宗弥勒寺があったことに由来 します。しかし、弥勒寺は、元禄二年(一六八九)に本所へ移ってきたので、弥勒寺橋と 呼ばれるようになったのはそれ以降のことと考えられます。五軒堀は、昭和一一年 (一九三六)・昭和三0年の二度の埋め立て許可により、全て埋め立られ、その後 弥勒寺橋も廃橋となりました。 平成十二年八月 江東区 |
弥 勒 寺 弥勒寺は、慶長15年(1610)僧宥鑁が小石川鷹匠 町に創建、元禄2年(1689)本所に移転したといい ます。真言宗関東四ヶ寺の一つとして触頭を勤めた 大寺でした。鍼灸師杉山検校の墓所があります。 住 所:立川1-4-13 |
東京都指定旧跡 杉 山 和 一 墓 所在地 墨田区立川一丁目四番十三号 弥勒寺内 指 定 昭和十八年五月 江戸時代の鍼医。慶長十五年(一六一〇)伊勢に生まれ名は和一といい、父は藤堂家の家臣。 幼くして失明し、江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学んだ。江の島弁天祠に詣でて断食 祈願を行い、杉山流管鍼術を創案した。さらに京都の入江豊明について鍼術を学び、 その道の奥義を窮めた。貞享二年(一六八五)、五代将軍綱吉の病を治療して厚く賞され、 のちに禄五百石を賜り、さらに三百石を加えられた。元禄五年(一六九二)関東総検校に 任じられ本所一ツ目に方一町(約一万二千平方メートル)の宅地を与えられた。和一は ここに鍼治講習所と弁天堂を建立したほか、諸国に講堂を建てて多くの門人を育てた。 著書には『療治之大概集』『選鍼三要集』 『医学節要集』等がある。元禄七年(一六九四) 五月十八日、八十五歳で没した。 平成二十年十二月 設置 東京都教育委員会 Historic Places Provisionally designated in 1924,Designated in 1955Sugiyama Waichi (1610-94)
is Tokyo Metropolitan Board of Education |
五 間 堀 跡 川幅が五間(約九m)であるところから付けられた 名称で六間堀とともに江戸時代から重要な 水路でした 住 所:江東区森下森下1-17~3-13 |
江東区登録史跡 五 間 堀 跡 江東区森下一~一七~三~一三 五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間堀からわかれる入り堀です。五間堀という名称 は川幅が五間(約九m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な 水路でした。五間堀の初見は寛文一一年(一六七一)の江戸図で、六間堀とともに記載 されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(一六五七)によって付近一帯の 再開発がなされた万治年間(一六五八~六〇)ころか、それ以前と考えられます。五間堀 は江戸時代には富川町(森下三)までで留となっていましたが、明治八年(一八七五)、 付近の地主であった元尾張藩主德川義宣により堀りすすめられ、明治一〇年 ころに小名木川まで貫通しました。昭和一一年(一九三六)・昭和三〇年の二度の埋め 立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。 平成一二年三月 江東区教育委員会 |
大 川 屋 本 店 大 川 屋 支 店 中 田 屋 茶 舗 |
大 川 屋 本 店 本所松坂町と呼ばれていた明治2年(1869) に開業。お店の一帯は、忠臣蔵の舞台である 吉良邸があった場所で、代々のご主人が味ひと すじに江戸のお菓子を作ってこられたそうです。 住 所:両国3-7-5 定 休 日:月曜日 電 話:03-3631-3759 営業時間:9:00~18:00 |
【大 川 屋 支 店】 大川屋さんは、吉良邸前の本店と清澄通の両国 四丁目店があり、商品は本店の工場から毎日配送 されてきます。最中、団子などの和菓子は、純国産 の北海道の小豆を使用しています。 住 所:両国4-18-6 営業時間:10:30~18:00 日曜営業 |
(株) 中 田 屋 茶 舗 安政元年創業のお茶屋さん 住 所:本店-両国4-1-12 支店-両国4-32-13 電 話:03-3632-1122 03-3634-5537 定 休 日:日曜・祭日 営業時間:9:00~19:00 |
江戸の味 Nakadaya Cya-ho 中 田 屋 茶 舗 両国では数少ない、江戸は安政元年(1854)の創業です。この年は、前年の ペリー来航を受けた日米和親条約が締結され、翌年には安政の大地震が発生 するという、政治、社会の両面において、激動の時代を迎えようとする時期 に当たります。このような時、日本橋の老舗茶舗「山本山」で修行を積んで いた中田屋創業者は独立の道を選び、現在の店に程近い、荷揚げに便利な堅川 沿いの本所相生町に店を構えました。当時は、周囲の多くの店と同様、問屋を 営んでいました。昭和20年(1945)の大空襲で店を焼失し、間もなく現在地 に再建し、昭和52年(1977)には京葉道路沿いに支店を出しています。 |