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宮 田 製 作 所 跡 新式猟銃の開発・量産に努めていましたが、狩猟法 改正の影響などもあって国産猟銃の需要は減退し、 新たな産業として自転車生産を主力にすべく方向転換 を計りました。アメリカ製の自転車をモデルとした 「旭号」を第五回内国勧業博覧会に出品して高い評価 を受け、以後、本格的に自転車の製造を手がける ようになりまた。 所在地 / 菊川3-3 |
![]() 宮 田 製 作 所 跡 所在地 墨田区菊川三丁目三番 宮田製作所は、宮田栄助(一八四〇~一九〇〇)が、明治十四年(一八八一)に 京橋区木挽町一丁目(現中央区銀座)に創設した宮田製銃所から始まりました。 栄助はもと笠間藩抱えの鉄砲鍛冶師で、廃藩後、砲兵工廠に勤めながら 資金を貯え、資本家大倉喜八郎の後援を得て工場を開設しました。当地 (本所区菊川町)に 工場を移したのは明治二十三年(一八九〇)のことで、次男政治郎 (一八六五~一九三一 後の二代目宮田栄助)が協力しました。政治郎は父と同じく鉄砲鍛冶の修行経験をもつ 在来技術者の一人でしたが、田中久重工場 (東芝の前身) などに勤めたことから近代的 技術にも通じ、外国人からの依頼を受けて自転車修理を手がけるようになりました。 新工場の開設後は旋盤など先進的な工作機械を導入し、新式猟銃の開発・ 量産に努めていましたが、狩猟法改正の影響などもあって国産猟銃の需要は減退し、 新たな産業を興す必要が生じました。そこで自転車生産を主力にすべく、政治郎は 方向転換を計ったのです。政治郎は鋼棒を穿孔する銃身製造技術を活かし、 工場移転後、安全型自転車の試作に成功しました。明治三十三年 (一九〇〇) には商号 を宮田製作所に改称し、同三十六年にはアメリカ製の自転車をモデルとした「旭号」を 第五回内国勧業博覧会に出品して高い評価を受け、以後、本格的に自転車の製造を 手がけるようになりまた。 平成二十七年五月 墨田区教育委員会 |
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![]() 名刺と紙製品の博物館 山 櫻 楽しい紙製品のグッズの数々が展示されていています。 紙製品を使ったワークショップなどが開かれています. 名刺の製造に関わる古い機械が展示されています。 所在地/立川3-1-7 株式会社 山櫻 墨田支店 3F 開館時間/午前10時から午後5時 電話/5625-0630 |
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長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡 平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷 替えによって築地からこの本所三之橋通りの1238坪の邸 に移りました。天明6年(1786)、御先手弓頭に昇進して 火付盗賊改役につき、8年間の在職中に石川島の人足寄場を 創設したり、多くの犯罪者を更生させたことで有名です。 所在地 / 菊川3-16-2 |
![]() 長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡 住所 墨田区菊川三丁目十六番地二号 長谷川平蔵宣以は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。平蔵十九歳の 明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通りの 千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西端にあたります。長谷川家は 家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(一七八六)、かつて父もその職にあった役高 千五百石の御先手弓頭に昇進し、火付盗賊改役も兼務しました。 火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年の ところを、没するまでの八年間もその職にありました。また、特記されるべきことは、 時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場」です。 当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職場訓練をもって、社会復帰を 目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。寛政七年(一七九五) 病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替となり、替わって入居したのは遠山左衛門尉景元 です。通称は金四郎。時代劇でおなじみの江戸町奉行です。遠山家も家禄六千 五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行 に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。屋敷地の南東端にあた る所(菊川3丁目16番13号)にも住居跡碑が建っています。 平成十九年三月 墨田区教育委員会 |
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長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡 所在地 / 菊川3-16-13 医療法人社団丸山会 丸山歯科医院前 |
![]() ![]() 長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡 この一帯は江戸時代に火付盗賊改役、長谷川平蔵や江戸町奉行、 遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)が暮らしていた屋敷跡です。長谷川家は家禄四00石 の旗本でした。平蔵宣以一九歳の明治元年(一七六四)父平蔵宣雄の屋敷替えにより 築地から本所三の箸通り菊川の一二00坪余りの屋敷へ移りました。宣以は火付盗賊改役 として通例二~三年の任期のところ、没するまで八年に及び在職し盗賊逮捕に実績を上げ ました。 池波丈太郎の「鬼平犯科帳」はその情景を彷彿させます。 また職業訓練をもって 社会復帰を目的とする石川島の人足寄場を提案、実現させました。 寛政七年(一七五九)病のために五0歳で本所の屋敷で没しました。その後、弘化三年 (一八四六)に孫の四代目平蔵の屋敷替えにより、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(遠山金四郎) の下屋敷になりました。 遠山金四郎は江戸北町奉行に天保一一年(一八四〇)に任命されました。 金四郎は天保一四年(一八四三)奉行を罷免されますが、老中水野忠邦失脚後の弘化二年 (一八四五)三月再び南町奉行として任命されました。 以後、名奉行の名を残す評判を集め 「遠山の金さん」として浪曲や講談に登場するほど人々にも慕われました。天保改革で弾圧を 受けた歌舞伎を浅草若町に再生したことは金四郎の尽力によると伝えられています。 この地は江戸の町人感覚にも通じ治安に貢献した二人のゆかりの土地です。 平成十五年十一月十日 |
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堀部安兵衛道場跡(赤穂浪士四十七士) (安 兵 衛 公 園) 越後国新田藩(現・潟県新発田市)溝口家家臣中山弥 次右衛門の嫡子として生を受けた安兵衛は此の地、 林町五丁目に紀伊国屋店だなの二軒を借り長江長左 衛門と称して剣術道場を開き、江戸急進派の中心的 人物として吉良邸討ち入りの機会を探っていた。 所在地 / 立川3-15-6 |
![]() ![]() 忠 臣 蔵 堀 部 安 兵 衛 道 場 跡 安兵衛は越後国新発田藩(現・新潟県新発田市)溝口家家臣中山弥次右衛門の嫡子 として生を受ける。高田馬場の決闘での助太刀の大立ち回りで一躍有名になり、 赤穂藩浅野家家臣堀部弥兵衛に見込まれ婿養子となる。そして家督を継ぎ堀部安兵衛武庸 と名のる。此の地、林町五丁目に紀伊国屋店の二軒を借り長江長左衛門と称 して剣術道場を開き、江戸急進派の中心的人物として吉良邸討ち入りの機会を探っていた。 討入り当夜の同志終結場所の三ヶ所のひとつであり、行装を整え出撃していった場所である。 また、道路を挟み東の徳右衛門町一丁目には杉野十平次が杉野九一右衛門と称して、 長十郎店一軒をかり住んでいた。 |
![]() 忠臣蔵」討ち入り出発の地―吉良邸を目指すー 「吉良邸討ち入り」集結地のひとつ、堀部安兵衛の剣術道場はこの辺りにあった。 ここから安兵衛らが、杉野十平次宅や前原伊助宅を出発した浪士と共に、表門と裏門 の両門から吉良邸へ討ち入ったのは元禄15年12月14日寅の刻。明け方には討ち取りの 合図が鳴り響く・・・。吉良邸まではわずかな距離だが、「松の廊下事件」から1年と9か月、 ここに至るまでの道のりは、長く、険しいものであったにちがいない。 ―The Point of Departure of “Chushingura”, the 47 Ronin on Their Way to Raid the Kira Residence to Avenge their Master― Before their raid of the Kira residence, this was one of the gathering places of the 47 ronin (masterless samurai), and the kendo dojo (Japanese swordsmanship training hall) of warrior Horibe Yasube, one of the ronin. From this place, Yasube and his men, along with other ronin who came from the residences of Sugino Juheiji and Maehara Isuke, raided the kira residence from its front and back gates during the early hours of Decenber 14, 1702. You can almost hear the raid’s clanging signal during the early dawn… もっと討ち入りルートのまち歩きを楽しみましょう(多言語サイトへ) Enjoy more of the raid route (Get more information in your lanuage) |
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小 林 一 茶 居 住 の 地 江戸時代後期の俳人、宝暦13年(1763)5月、信濃国 水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原) で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。 我ときて遊べや親のない雀 やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ めでたさも中位なりおらが春 是がまあついの栖か雪五尺 住 所 / 緑1-1 |
![]() ![]() 小 林 一 茶 居 住 の 地 所在地 墨田区緑一丁目一番 江戸時代後期の俳人小林一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、信濃国水内郡柏原宿 (現長野県上水内郡信濃町大字柏原)で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。 本名は小林信之、幼名は弥太郎といいます。三歳で母くにと死別し、八歳の時迎えた 継母とは不和とあり、一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。十五歳の時に 江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみました。やがて葛飾派の溝口素丸 や小林竹阿に師事し俳諧を学び、各地を巡歴しながら多くの俳人と交流し俳諧への 理解を深めていきました。一茶は文化元年(一八〇四)十月、それまで住んでいた 本所五ツ目大島(言江東区大島)から本所相生町五丁目(現一丁目一番の一部 および二・三番)の借家に移ります。家財道具が運び込まれた日に一茶は 寝始る其夜を竹の時雨哉 (『文化句帖』より) という句を詠んでおり、居宅の周辺には竹が植わっていたことがうかがわれます。 一茶は五年ほどこの地を拠点に活動しましたが、文化五年十二月に旅から帰ると、 留守中に借家が他人に貸し出されてしまっていました。行年を元の家なしと成りにけり (『文化五・六年句日記』より)以後弟子や後援者の家を転々とし、文化元年に故郷に戻り ました。晩年は妻と三男一女の死、度重なる病、住居の類焼などに悩まされながらも句を 詠み続け、文政十年(1827)六十五歳で亡くなるまでの作品数は約二万句に及びました。 主な著作に『父の終焉日記』、『七番日記』、『おらが春』などがあります。子供や 小動物への慈愛に満ちた作品がよく知られていますが、自らの境遇、都市や農村の日常 に生きる人々の姿、政治や社会に対する思いを平明な言葉で句に詠んでおり、当時の 社会状況や日常生活の実情を今日に伝えるものともなっています 平成二十五年三月 墨田区教育委員会 |
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![]() 鬼平こと平蔵が27才の時迄暮らしていた 屋敷があったところです。 住 所 / 千歳4-12-7 |
![]() ![]() 鬼 平 情 景 長谷川平蔵の旧邸 付け火が元の明和九(一七七二)年の目黒行人坂の大火は約一万五千人が亡くなった といわれ、明暦の大火に次ぐものでした。その下手人を捕らえたのが、平蔵宣以の実父、 長谷川平蔵宣雄です。この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が 変わった翌、安永二(一七七三)年六月に客死してしまいました。家督を継いだ平蔵宣以 は天明七(一七八七)年、四十二才の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。 京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。義母に「妾腹の子」と いじめられ、その反発で屋敷を飛び出し本所・深川を根城に「入江町の銕」と呼ばれ、 後に密偵となる相模の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。 墨 田 区 |
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本 所 寿 座(寿劇場)跡 歌舞伎劇場寿座は、明治25年廃絶したが、明治31年、 廃絶を惜しむ声に支えられ、3月10日の戦災により 焼失し、その幕を閉じた。 住 所 / 緑2-16 |
![]() ![]() ![]() 本 所 寿 座(寿劇場)跡 本所相生町五丁目(現緑一丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治二十五年廃絶したが、 廃絶を惜しむ声に支えられ明治三十一年、この地に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居劇場 として開座した。幾多の盟友の芸の修行場や庶民の楽しみの場となっていたが、惜し くも昭和二十年二月閉座、同年三月十日戦災により焼失し、その幕を閉じた。 |
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「SCHLUSSEL」 (デンタルラボ シュルセル) 日本では珍しい、対面できる歯科技工所(ラボ)で、 ドイツで修行された歯科技工士の方に歯の悩みを 相談することが出来ます。 住 所 / 墨田区立川1-9-8 1F 電 話 / 03-6884-0700 |
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墨田区みどりコミュニティセンター 2Fパソコンコーナーとヘルストロンコーナー は無料です。 1階は、墨田区緑出張所が併設されています。 住 所 / 墨田区緑3丁目7番3号 電 話 / 03-5600-5811 |
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【玉 の 肌 石 鹸】 玉の肌石鹸は明治25年(1892年)、「芳誠舎」 という名称で誕生しました。化粧石けんの製造を 開始して以来、創業120年以上に及ぶ歴史と伝統を 誇る石けんの専業メーカーです。 天皇・皇后両陛下及び宮家へ「菊」石鹸を献上 住 所 / 緑3丁目8-12 電 話 / 03-3634-1344 |
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野 見 宿 禰神 社 大 相 撲 Nominosukune Shrine かつて神社の東側に相撲の高砂部屋があり、 明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、 津軽上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様 として知られる野見宿禰を祀られました。 住 所 / 亀沢2-8-10 |
![]() 歴 代 横 綱 の 石 碑 所在地 墨田区亀沢二丁目八番十号 野見宿禰神社内 歴代横綱(よこづな)の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和二十七年 (一九五二) 十一月 に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐 (潮) 太郎までのなまえを刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれて います。野見宿禰神社は、明治十七年 (一八八四) に初代高砂親方 (高砂浦五郎) が相撲 の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。玉垣には、力士や相撲関係者の 名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を 執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。創建当時は、神社の東側に初代高砂親方 の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の神屋敷跡でもあります。 平成二十八年三月 墨田区教育委員会 |
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![]() 800円のお弁当です、食材が豊富で嬉しいです! |
【コーチャル】 2019年家庭画報通販食品部門で 年間売り上げ4位の味! お弁当制作者さんへの安心感が嬉しいです。 住 所 /立川3-15-1 電 話 / 03-6361-1688 定 休 日 / ナシ |
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ライオンズファシリティー LIONS FACILITY 東京23区内初のドローンフライト練習場 住 所/立川2-10-10 電話 /03-6240-2053 定 休 日/ 月、火曜日 https://www.lionsfacility.com/ 国土交通省認定団体 |