スカイ姫のつぶやき街角南部ルート7
石原2丁目南~本所吾妻橋北〈源森橋〉

奥医師となった後フランスとの交流で国際感覚を身につけ、軍艦奉行、外国奉行を歴任し、
フランス式軍隊の伝習などフランスの諸知識を日本に導入した栗本鋤雲住居跡、
将棋の十四世名人木村義雄生誕の地、墨田区役所関係他20件を表示


                                    to top page    つぶやきいってみようへ
 
        石 原 二 丁 目 南

松倉米吉住居       九 重 部 屋      栗本鋤雲住居跡 

徳ノ山稲荷神社          日本帝國海軍の駆逐艦「初霜」の主錨(アンカー)



        若 宮 公 園 入 口

墨田電話局の慰霊碑        能勢妙見山 東京別院  



        本 所 中 学 校 入 口

将棋名人木村義雄生誕の地     船 江 神 社     明徳小学校発祥の地

世界のホームラン王の碑     明徳小学校跡碑      錺かんざし・かざり工芸三浦



        墨田区役所 (勝海舟像入口)

墨 田 区 役 所      鬼平犯科帳案内板(吾妻橋(大川橋) ・・・如意輪寺)

ギャラリーアビアント     ちいさな硝子の本の博物館     浩 養 園 跡

グリーンアローボルダリング      墨田区立吾妻橋公園



        本所吾妻橋駅北 (清雄寺入口)

源  森  橋       源 森 川 水 門      枕  橋





        石 原 二 丁 目 南



         松 倉 米 吉 住 居 跡
アララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなる
まで、三年間くらした理髪店があった場所。

住 所 / 石原4-22 
 





         







松倉米吉(まつくらよねきち)住居跡
    
所在 墨田区石原四丁目二二番

 ここはアララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなるまで、三年間くらした理髪店が
あった場所(本所区長岡町四十三番地)でした。米吉は明治二八年(一八九五)、新潟県
の糸魚川で生まれました。十二歳の時に母の再婚先(日毛家)に入るために上京しました。
日毛家は現在の二葉小学校の周辺にあったようです。米吉は近くのメッキ工場で働き始め
ますが、十六歳の時に作った回覧誌「青年文壇」で短歌に出会います。大正二年(一九一三)、
工場近くに住む歌人の小泉千樫を訪ねて正式に会員として活躍を始めます。米吉は結核等
の病いや貧しさと戦いながら、異色ではありましたが鋭く研ぎ澄まされた労働歌を次々と
紡ぎだしていきました。同六年(一九一七)に母の死により松倉姓に復し、ここで暮らし
始めましたが、同八年(一九一九)二四歳を目前にして没しました。
 平成十三年三月 墨田区教育委員会






        日本帝國海軍の駆逐艦「初霜」の主錨(アンカー)
山田病院の開設者である山田正明初代院長が帝國
海軍の軍医であり「初霜」軍医長を勤めた縁から
展示されてます。
住 所 / 石原2-20-1 
 





         





             







(いかり)
 
この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。 初霜はさきの大戦に北は
アリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、
最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於
いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻
の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。 初霜は
日本に残り解撤され、その錨がこれである。私は昭和15年軍医長として初霜に乗組
み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として
長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長

   元海軍々医少佐 山田正明






       九 重 部 屋
部屋別優勝回数は最多の52回を誇る
高砂一門に属する相撲部屋です。
住 所 / 石原4-22-4  電 話 / 03-5608-0404
  





         





                   






        徳 ノ 山 稲 荷 神社
本所・深川の開発事業を推進した本所築地
奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡である
住 所 / 石原1-36-10 
  





          








徳 山 五 兵 衛 邸 跡
所 在 墨田区石原一丁目
徳 之 山 神 社


江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡です。
開府当寺の江戸は、明暦3年(1657)の大火をはじめ、たびたびの火災で大きな被害を
受けたので、幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の
開拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路
の整備と市街地の造成をしました。この事業のため万冶3年(1660)に徳山五兵衛と
山崎四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。徳山五兵衛は功
により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷神としてま
つられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀され、
徳之山稲荷神社として大切にされてきました。
(墨田区教育委員会掲示より)
 







日本左衛門首洗い井戸跡の碑
日本左衛門ハ本名ヲ浜島庄兵衛ト称シ侠骨剣豪ノ士トシテ時ノ悪代官ヲ斬リ遠州ヲ
浪人シ江戸ニ出デ向島方西ニ居ヲ構ヘタ。幕府ハコノ罪ヲ以テ奉行ニ召捕リ方ヲ命ズ。
彼ノ神出鬼没ニシテ剣豪ノタメ奉行ハ召捕方ヲ出来ズココニ幕府ハ本所築地奉行タル
徳ノ山五兵衛ニ召捕方ヲ命ズ。ソノ前ニ日本左衛門ハ再三徳ノ山邸ニ現レタガ黙殺
放逐ス。ソノ命ガ出テ向島ニテ捕ヘ、ココニオイテ処刑サル時ニ寛文七年(西暦1667年)
捕ワレタ時五兵衛ハ日本左衛門ニコノ世ニ思ヒ残スコトハナイカト問ワレ彼ハ只一ツ日光
ヲ見タコトガナイト申シタノデ不憫ニ思ヒ又他の罪ノナイタメ地内ノ戸崎氏ニ連行ヲ命ジ
内々デ日光見物ノ願ヒヲ叶エテヤッタ。無事ニ戻リソノ功ニヨリ戸崎氏ハ今ノ石原町一ノ
一西側三百坪ヲ五兵衛ヨリ拝領シ現在戸崎家ノ子孫ハコノ地ノ地主トシテ今モ下北沢ニ住ム。
コノ碑ハ約三百年前由縁ノココに建立サレ大正大震災戦災等ノ災禍デ見ル影モナク損傷シ
徳ノ山講員ハコノ史蹟ヲ後世ニ残スベクコノ石碑ヲ再建ス。
昭和四十年五月十九日
         徳ノ山講
           町内有志





        

江 戸 の 町
Site of former residence of Tokunoyama Gohei
徳 山 五 兵 衛 屋 敷 跡

明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万治三年(一六六○)、
本所築地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人は山崎四郎左衛門)。
堀割りの開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を
作り上げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。五兵衛の死後、屋敷
内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。また、
孫の徳山五兵衛(秀榮)は、寛保四年(一七四四)に御使番から御先手鉄砲頭に転じた後、
火付盗賊方に就任し、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄右衛門のモデルになった盗賊、
日本左衛門を捕らえたことで有名です。






       栗 本 鋤 雲 住 居 跡
文政五年(一八二二)神田に生まれ、奥医師となる。
その後、フランスとの交流で国際感覚を身につけ、
軍艦奉行、外国奉行を歴任し、フランス式軍隊の
伝習などフランスの諸知識を日本に導入した。維
新後は新政府に仕えずこの北双葉町四一番の借紅
園に移り新聞界で活躍し、初代本所区会儀長も
つとめた。明治三0年この地で没す。
住 所 / 石原3-18-1 
  





          










        若 宮 公 園 入 口



        能 勢 妙 見 山 東 京 別 院
勝海舟と父勝子吉親子の熱烈な信仰を得ていたこ
とで有名。関西の能勢妙見山の東京別院で能勢の
妙見さんと呼ばれています。ご住職の奥様の
丹精込めた四季折々の花々との出合
いが嬉しいです。
住所 / 本所4-6-14 電話 / 03-3623-2485  





       





         





         





             





              





         





             





         





         





         






       墨 田 電 話 局 の 慰 霊 碑
昭和三十三年三月十日建立
大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換
の職務を遂行した殉職者を慰霊している。
吉川英治氏の自筆による碑文がある。
住所 / 石原4丁目 36-1 (NTT石原ビル)
 





          





          







由 来
 
この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、
電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員
三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員
二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年
三月十日に建立されました。慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。
   昭和五十九年三月十日
         墨 田 電 話 局











        本 所 中 学 校 入 口



        世界のホームラン王の碑
王選手自筆の「気力」の文字
昭和62年(1987)本所中学校開校40周年を記念して
建立された同校大先輩の
王貞治氏の記念碑です。王選手
は墨田区に生まれ、本所中学校時代には卓球部や陸上部
で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会
にも出場しました。さらに2年生の時、それまで休部
だった野球部を再開させ3年生の時には区大会で優勝、
都大会にも出場しました。

住 所 / 東駒形3-1-10 (本所中学校内)





          





         





         






       明 徳 小 学 校 跡 碑
本所表町照本山本久寺の寺子屋を前身とし明治八年
(西暦一八七五)旧肥前平戸藩主松浦肥前守の下屋敷跡に
佐竹義脩侯爵はじめ地元有志の御協力により開校され、
旧秋田佐竹藩校明徳館の名をとり明徳小学校と命名され、
区内屈指の名門校であった。碑文は大正六年卒業生
第十四世将棋終生名人木村義雄氏の筆によるものである。

住 所 / 東駒形3-1-10 (区立本所中学校内)
 





         





                





               





            

明徳小学校は本所表町照本山本久寺の寺子屋を前身とし明治八年(西暦一八七五)文部省令
に基き旧肥前平戸藩主松浦肥前守の下屋敷跡に、佐竹義脩侯爵はじめ地元有志の御協力に
より開校され、旧秋田佐竹藩校明徳館の名をとり明徳小学校と命名され、区内屈指の名門校
であった。其の出典は「大学之道、在明明徳。」(大学)である。爾来数回増改築されたが
大正十二年(一九二三)九月一日関東大震災により木造二階建校舎は全焼、そのため若宮公園
内に仮校舎を建て移り昭和四年(一九二九)区画整理完成とともに近代型鉄筋コンクリート
三階建校舎が竣工した。然しこれも昭和二十年(一九四五)三月十日太平洋戦争の戦禍により
焼失し、惜しくも開校以来七十年の歴史を閉じた。其の二年後に修復されたが新学制による
、本所中学校となって今日に至っている。明徳卒業生は母校を失って淋しい限りであるが、
この由緒を永く記念し、歴代の教職員や関係各位に対する感謝の意を懐かしめ思い出を込め、
昭和四十二年十月二十九日この記念碑を建設した。建設資金は明徳校友会員有志の寄附に
より、碑文は大正六年卒業生第十四世将棋終生名人木村義雄氏の筆によるものである。
  照本山本久寺三十一世 持田貫道書






       明 徳 小 学 校 発 祥 の 地
1872(明治5)年に学制が公布され 公立学校が設立
されることになり、本久寺に寺子屋が開設された。
これが 後の明徳小学校である。1946(昭和21)年国民
学校の廃止に伴い廃校になった。この発祥碑は(2006)
6月に 開校130周年記念として建立された。
住 所 / 東駒形2-21-12  (本久寺内) 
 





          





             





         






        将棋名人 木村義雄生誕の地
将棋の十四世名人木村義雄は、明治三十八年(一九○五)
に本所区表町三十九番地に生まれ、明徳(めいとく)尋常
小学校(現本所中学校)を卒業しました。子どもの頃から
将棋や囲碁が強く、大正五年(一九一六)に十三世名人
関根金次郎の下に入門し、頭角を現わしました

住 所 / 東駒形一丁目十八番
 






         





 

将棋名人 木村義雄生誕の地、
所在地 墨田区東駒形一丁目十八番


 
将棋 の十四世名人木村義雄は、明治三十八年(一九○五)に本所区表町三十九番地に生まれ、
明徳(めいとく)尋常小学校(現本所中学校)を卒業しました。子どもの頃から将棋や囲碁が強く、
大正五年(一九一六)に十三世名人関根金次郎の下に入門し、頭角を現わしました。昭和十三年
(一九三八)に第一期実力制名人となり、その後四期連続で名人位を防衛しました。同二十二年
(一九四七)に塚田八段に敗れたものの、同二十四年(一九四九)には再び名人位に就き、通算八期
十年の間、その地位を守りました。同二十七年(一九五二)に大山八段に敗れて以後、公式戦休場
を表明し、十四世永世名人を襲位しました。また、同二十二年(一九四七)には日本将棋連盟 の
初代会長に就任するなど、将棋界の近代化を進めました。多筆家としても知られ、『将棋大観』
など多くの著作を残しています。その功績が認められて、昭和五十三年(一九七三)には勲三等
旭日中綬章を授与されました。以後も執筆活動などを行っていましたが、昭和六十一年(一九八六)
十一月十七日に八十一歳で亡くなりました。墨田区は将棋とのゆかりが深く、東駒形では十一世
名人伊藤宗印の弟子で「本所小僧 」と呼ばれた相川治三吉 が生まれたほか、両国四丁目には師の
宗印も屋敷を構えていました。本法寺(横川一丁目)には駒の形をした宗印の墓があります。また、
木村義雄の実弟の文俊は駒師として有名で、押上(現在の文花一丁目)などに店を構えました。
      平成二十一年三月
                  墨田区教育委員会
 






       船 江 神 社
元慶元年(877-885)に創建したと伝えられ、
江戸時代には朝日神明社と称し、船手奉行向井将監
等が船の安全を祈願したといいます。北本所表町
(現東駒形二丁目)にありましたが、関東
大震災の区画整理により当地へ遷座しました。
住 所 / 東駒形1-18-10 
 





          





 

船 江 神 社 御 由 緒
                      
東京都墨田区東駒形一一、三二八六三二
船江神社の草創は、今より千百二十余年の昔、平安期陽成天皇の御宇元慶丁酉年(八七七二年)
御祭神は天照皇大神を奉祀す。その御由緒を記すれば、往古本所の郷人あまた夢にみるよう伊勢
大神宮、虚空を駆りて飛来り給ひ、虚空のあひだには又、大光明輝き光り、そのうちに気高く微妙
なる御声ありて、我此土安隠天人常充満という法華経寿量品の文を唱へ、われはこれ、伊勢の神明
にておはします、と見て郷中の人互いに語り合わするにすこしも違わず、誠に奇特の御事也とて
宮所をかまへ伊勢大神宮を勧請し奉りけり。神明なお佛法を尊み給ひ、本地和光の内證を示し給
ふもの也。それより北のかた星霜うつり年月かさぬと雖も、古にし昔のあと絶えず、利生あらたか
に在わしますこと掌をさすが如くなり。
あまてらす神のめぐみのかはらねば 
                ここも五十鈴の本所なりけり  と傳わる。
船江神社は、初め朝日神明社と称し本所表町(現東駒形二丁目)に在り、本所大神宮とて、
お伊勢参りが一生の念願たりしその昔、このお社に参拝することにて同じ神徳を授けられると、
厚い信仰を受け、後 天祖神社と称え幕府船手奉行向井将監などの人々が船の安全を祈願した
といわれる。明治維新後神名改め、里俗に船江神社と称するを以て今は之を神名とせり。
関東大震災後の帝都復興計画の一環としての区画整理に伴い、昭和五年現在地 東駒形
一丁目に遷座せられた。昔は御大祭は五月二十一日なり。
船江神社総代会 平成十二年庚辰年五月吉日建立






      すみだ小さな博物館

錺かんざし・かざり工芸三浦
現在かざり工芸三浦四代目として、歌舞伎や日本舞踊
などの演劇用簪を中心とする他、一般向けの和装小物
を製作。体験ができます!
住 所 / 東駒形3-22-7 電話 / 03-6751-8858
営業日 / 月~土曜日(祝祭日は除く)
営業時間 / 10~18時(土は~17時)  
 





         





                         





                





                  










        墨田区役所 (勝海舟像入口)



        鬼 平 情 景
     吾 妻 橋 (大川橋)

安永三(1七七四)年、長谷川平蔵二十九才の時、町人か
ら幕府への願いが受け容れられ架橋されました。江戸
時代明和の大火後に架けられた橋で当時は大川橋と呼
ばれ、小説の中でもたびたび登場します。現在の橋は
震災復興橋梁として昭和6(1931)年に架橋されました。
住 所 / 吾妻橋1-23





          





 

鬼 平 情 景
吾 妻 橋 (大 川 橋)

江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。
安永三(1七七四)年、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、
架橋されました。民営のため武士を除く利用者からと渡賃二文を徴収して維持費に充てました。
長さ八十四間(約百五十メートル)、幅三間半(約六。五メートル)あり、正式名は大川橋です。
吾嬬神社への参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは
明治九年(一八七六)年になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。
なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎
の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。
 





 
吾妻橋夕涼景  国会図書館
絵師:豊国  出版者:辻岡屋  刊行年:嘉永7

         
江戸名所発句合之内 吾妻橋
絵師:国貞改豊国
出版者:上金 国会図書館
  






江戸名所図会 7巻. [19]   著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836]
 






絵本江戸土産 10編. [1] 宮戸川吾妻橋
著者::松亭金水 解説[他]  出版者:菊屋三郎[ほか]
 
            
名所江戸百景 吾妻橋金竜山遠望
絵師:広重 出版者:魚栄
刊行年:安政4 国会図書館






    
     墨 田 区 立 吾 妻 橋 公 園

住 所 / 吾妻橋1丁目12





               





黄色いポールの先は階段です。ウッカリ自転車で通る人を見かけます!

         





         






           鬼 平 情 景  如 意 輪 寺
住 所 / 吾妻橋1-22-14   電 話 / 03-3623-4849
嘉祥二(八四九)年に慈覚大師が徳太子自作の
太子像を安置したことに始まると伝わる天台宗
の古刹です。鬼平犯科帳では、「(かたき)
に南の門前にある花屋が何度か登場します。)





      如 意 輪 寺
Nyoirinji Temple

嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁の創建とされ、境内に
水戸家の家臣雪斎の書による聖徳大師の石額があります。
It is said that this temple was founded by Jikaku-Daishi
Ennin in 849. There is a stone-framed-“Shotoku-Taishi”
calligraphy by Sessai, a vassal of TOKUGAWA family in
the precincts of the temple.
 





         





         





            

 鬼 平 情 景
 如 意 輪 寺
嘉祥二(八四九)年に慈覚大師が聖徳太子自作の太子像を安置したことに始まると伝わる
天台宗の古刹です。像を納めた太子堂は「牛島太子堂」、「中之郷太子堂」と呼ばれ、
広く知られていました。寺域は五六○坪あり、門前町は南と東に二カ所開かれていました。
鬼平犯科帳では、「(かたき)」に南の門前にある花屋が何度か登場します。その最初の下りに
「大滝の五郎蔵は、まっすぐに市中を突き切り、大川(隅田川)をわたって、本所、中ノ郷
元町にある如意輪寺門前の花屋に入った。」とあります。後に捕縛され、密偵となる
大滝五郎蔵の盗人宿ですが、亭主の利兵衛が何者かに殺されてから話が大きく転換します。
 






        すみだ小さな博物館
ちいさな硝子の本の博物館

墨田職人手作りガラスに好きなイラストや文字が
彫れるリューター体験ができます。
 住 所 / 吾妻橋1-19-8-1F  定休日 / 月曜・火曜日
電 話 / 03-6240-4065  開館時間 / 10:00~19:00
  





          





         





              





                






墨 田 区 役 所
(名誉区民顕彰コーナー・ちばてつやさん監修/折鶴の平和のオブジェ・
墨田区役所周辺の散歩道・ふれあい広場・勝海舟銅像(日展作家木内禮智策) )


         墨  田  区  役  所
住 所 / 吾妻橋1-23-20  電 話 / 03-5608-1111
開 庁 時 間:月曜日から金曜日、午前8時30分から
午後5時まで
閉庁日:土曜日、日曜日、国民の祝日に関する法律
に規定する休日、年末年始(12月29日から1月3日)





            





      

墨田区平和福祉都市づくり宣言
わたくしたちは 平和のうちに幸福な生活を営めるようこれまで たゆみない努力
を積み重ねてきました平和を守り より良い生活と文化を築いていくことはわたくし
たち共通の願いです「平成元年」という新しい時代の始まりにあたってわたくしたち
墨田区民は 心新たに 世界の平和とひとびとの福祉向上の実現に 一層努力する
ことを誓いここに平和福祉都市づくりを宣言します
      平成元年一月十一日
              墨 田 区



ヘ リ ッ ク ス
彫刻は螺旋と平面に曲線が組み合わされた2つの柱状のもので構成されており
螺旋の垂直を強調する鋭角的な多面体は自然光を受け 見る位置と時刻により微妙
に変化し限りない永遠性を現わしますこの永遠性とは春・夏・秋・冬の季節の変化や
 幼年・青年・壮年・老年そしてまた幼年というような人々の永遠の世代の移り変わ
りという自然のサイクルを意味しています そして彫刻全体を包んでいる思想は互
いに性格が違う人と人とがり添い合っている和やかな姿と結びつきを
シンポライズしています
                 脇田愛二郎  
  





名誉区民顕彰コーナー
〇押絵羽子板職人 西山幸一郎
〇福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長


         





         






折鶴の平和のオブジェ








           





           





         





            


27万人の平和メッセージ事業について(墨田区ホームページより)
墨田区は、平成元年に「平和福祉都市づくり宣言」を行いました。
 この宣言は、関東大震災と東京大空襲の2度の大禍を経験している墨田区の過去に思いを
起こしつつ、未来にわたって国内外の平和の実現と、人々の福祉の向上の実現になお一層
努力することを誓ったものです。この趣旨の実現に向けて、東京大空襲のあった3月に毎年、
平和祈念行事「27万人の平和メッセージ」として、以下の3つの事業を実施しています。
 (※事業名の「27万人」は、墨田区の人口に由来しています。)
  



山田洋次監督、吉永小百合&大泉洋主演の“こんにちは母さん”の映画が墨田区を
舞台に作成され、その撮影風景が、NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」
2023年9月27日7時57分 NHK総合で放映されました。

        



        



       




スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート6

見番通り入口(桜橋東詰)下車

(江戸の誂え足袋仕立て處・向島 めうがや)
 
スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート1

隅田稲荷神社入口下車
(墨 田 聖 書 教 会)
         

スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート6
見番通り入口(桜橋東詰)見番通り周辺下車
( 言 問 橋 )

 
スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート4
地 蔵 坂 下 車
( 白 鬚 神 社 )
   





火・木の11時~14時に出合えます!

         





         






        墨田区役所 周辺の坂道
広場に向かう素敵な坂道が何カ所もあり、
頂上の広場から見渡す隅田川も素敵です!
住 所 / 吾妻橋1-23-20  
 





源森川水門横の坂道

         





         





         





         






 大横川の釣り堀で見かけた大きな鳥の群れ 
          





         






墨田区役所の建物の脇の坂道

         





         





         





         






吾妻橋船着き場坂道

             





         





         






ふ れ あ い 広 場

         





         





             





              





         





         





         





         





         





         





          





          





勝海舟銅像(日展作家木内禮智策)
像の高さは2.5m

            





         





       

建 立 の 記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳) は、文政六年 (一八二三年) 一月三十日、江戸
本所亀沢町 (両国四丁目) で、父小吉(左衛門太郎惟寅) の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年
(一八九九年) 一月十九日 (発表は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。勝海舟は幕末
と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の
基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとり
きめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した
英雄であります。この海舟像は、『勝海舟の銅像を建てる会』から墨田区に寄贈されたもので
あり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、
人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます
  海舟生誕百八十年
  平成十五年(二○○三年)七月二十一日(海の日)

             墨田区長  山崎昇






浩  養  園  跡
この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の
屋敷として移り変わりましたが、邸内の庭は名園として聞こえていたようです。


         





 

浩  養  園  跡
          所 在 墨田区吾妻橋1丁目23番

この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏
の屋敷として移りかわり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
文政5年 (1822) 水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式
庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年
(1860) 佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般
公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。その後、明治33年札幌
麦酒東京工場がここに設置され、39年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造り
の建物が庭園のなかばを占めました。大正9年の工場拡張やつづく震災によって、
その面影は失われました。平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市
整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。
平成3年3月
       墨 田 区






           ギャラリーアビアント
貸 画 廊

住 所 / 吾妻橋1-23-30 電 話 / 03-3621-0278
営業時間 / am11:00~pm7:00 





            





大  沢  昌  助  展

          





                






        グリーンアロー ボルダリングパーク
浅草吾妻橋店

住 所:吾妻橋1-23-30 パトリア吾妻橋1F
電 話:03-6658-4906
営業時間 : 平日営業時間 12:00~22:00(月~金曜日)
    休日営業時間 10:00~20:00(土日・祝日)
定休日 : なし(パトリア吾妻橋の休館日は除く)
 





        





         









        本所吾妻橋駅北 (清雄寺入口)



        源 森 橋
名前の由来は、現在の枕橋 (本橋から約200メー
トル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれてい
たものが、明治初期に枕橋に正式決定されたこと
による。

スカイツリーの撮影ポイントとして有名です。
住 所 / 向島1丁目  





         





源森川水門の川べりに群れがいました。

         





         





 

源 森 橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋 (本橋から約200メートル隅田川寄りの橋)、
古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、
本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋
(旧源森橋) が関東郡代であった奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)
から新小梅町 (現在の向島地区) に通ずる源森側(北十間川) に架けられた。また
枕橋 (旧源森橋) 北側にあった水戸屋敷内に大川 (隅田川) から引き入れた小さな
堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、
新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるように
なったその後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った
旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった
本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和3年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)
が約80年経過し、老朽化したため、平成19年3月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け
替えられたものである。
                                     平成19年3月





タイトル:〔江戸切絵図〕. 本所絵図
著者:景山致恭,戸松昌訓,井山能知/編  出版者:尾張屋清七
出版年月日:嘉永2-文久2(1849-1862)刊


水戸殿の下の川に源森橋とあります






        源 森 川 水 門
隅田川と北十間川の接続点に設置された幅11メー
トル、門扉高さは7.5mのローラーゲート式水門
で、江東デルタ地帯を守る防潮水門です。通常は
開放されていますが高潮や津波の恐れがある
場合は直ちに閉鎖されるそうです。
住 所 / 吾妻橋1丁目  





             





           





         





         





         






        枕   橋
隅田公園が水戸家の下屋敷だった頃、新小梅橋
とそのそばの源森橋が並ぶ様子が、夫婦が枕を
並べたように見えたことから、「枕橋」とい
う名がつけられました。後に新小梅橋は撤去
され、元の源森橋だけが単独で枕橋と呼ばれ
てるいるそうです。
住 所 / 吾妻橋1丁目  





         





         





         





         





         







枕 橋 の 由 来
寛文2年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷 (現在の吾妻橋) から
向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川
(隅田川) から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。
この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるように
なった。その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治8年、残った源森橋
は正式に枕橋と呼ばれることとなった。現在の枕橋は昭和3年に架け替えられたもの
である。昭和63年、本橋は東京都著名橋に指定された。
                                平成4年3月





タイトル:[枕橋之図]
著者:[井上探景] [画]  出版者:[出版者不明]

         






枕橋 掲載資料 旅の家つと. 第29
刊行年 明治33(1900)
            
枕橋八百松楼掲載資料:東京風景
刊行年:明治44(1911)

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つぶやきいってみよう



        若 宮 公 園 入 口

 
割烹 三州屋         ジャパニーズ・レストラン 三州家



        本 所 中 学 校 入 口

野口鮮魚店     中 山 製 菓       風船タウン 

 こんぶの岩 崎      三代目網元・魚 鮮 水 産 
 



        墨田区役所 (勝海舟像入口)

  満 願 堂      パン メゾン   
Quebom! Riverside Café e Bar



        若 宮 公 園 入 口



       割烹 三 州 家
創業明治22年の老舗割烹料理店
会席・懐石料理店
住 所 / 本所4丁目17−3 電 話 / 03-3622-1230
時 間:  11:30~22;00
 





              





春雨や風子さん令和6年5月真打精進を決定

         





                 





         





         






       ジャパニーズ・レストラン 三州家
明治22年に創業した割烹三州家 が、より多くの人
に和食を味わっていただきたいと願って生まれた和食
レストランです。食材はコース料理をメインとした
割烹三州家と同じものを使用しているそうです。
住 所 / 本所4丁目17−3 電 話 / 03-3624-7019
営業時間 / 平日:11:30~14:30
土日曜日・祝祭日:11:30~14:30 / 16:30~21:30(LO 21:00)





         





         






 
          
お刺身定食が何と800円でした。  




        本 所 中 学 校 入 口



       野  口  鮮  魚  店
築地の魚河岸直送の新鮮な魚がいっぱい!
住 所 / 東駒形4-6-9 1F 電話 / 03-5608-063
定 休 日 / 木 営業時間 / 11:30〜14:30
           15:00〜19:00 





         





         





         





         






        中 山 製 菓
おこしや豆菓子を製造しています。
工場ならではの製品に出会えます。
住 所 / 東駒形2-15-9 電 話 / 03-3622-5669
定休日 / 日曜・祝日・土曜―不定休

 





         





         






       風 船 タ ウ ン
風船はすべて1個から小売販売しているそうです。
住 所 / 吾妻橋1-6-5 電 話 / 03-5610-4045
営業時間 / AM10:30~PM19:00





         





         





         





         






      
 三代目網元 魚鮮水産
 
本所吾妻橋店
8月3日からランチがあるそうです!
とても明るいチンドン屋さんで、楽しい一時でした!
住 所 / 吾妻橋2-1-5 電 話 / 0120-70-7621
定 休 日 / 年中無休





         





         






       こんぶの 岩 崎
明治27年昆布問屋として創業されました。先代
(三代目)が一般の方にも美味しい昆布をという
思いで問屋だけではなく小売業も始められた
そうです。干し椎茸は天然干しだそうです。
住 所 / 吾妻橋1-4-3  定 休 日 / 日曜&祝日
電 話 / 03-3622-8994 営業時間 / 9:00~20:00





         





                 





         





         




        墨田区役所 (勝海舟像入口)




        Que bom! Riverside Café e Bar
(キボン!リバーサイド カフェ エ バー)
ブラジル生まれのサッカーブランド
『ATHLETA』がプロデュース!
住 所 / 吾妻橋1-23-8
お値段も手頃で散歩の後に立ち寄るのに便利です。
 電 話 / 03-03-6658-8193  定休日 / 無休
営業時間 / AM10:30~PM19:00





         





         





            
二階はアスレチックコーナーです。






       
満  願  堂
おいもさんいろいろ
住 所 / 墨田区吾妻橋1-19-16(野口ビル1F)
TEL:03-3622-3128
【営業時間】9:30~17:30(当面の間)
定休日 / 月曜日 (祝日の場合は営業します)
 





        





         





             






        塩パン屋 ・メゾン
愛媛県で行列のパン屋さん
住 所 / 吾妻橋2-4-1  電 話 / 03-6240-4777
定 休 日 / 火 曜 日 営業時間 / AM7:30~PM19:00





         





         





          

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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