つぶやき街角南部ルート8パソコン編
本所吾妻橋北〈源森橋〉~春慶寺〈東京スカイツリータウン前〉

総延長1,800mの親水公園で、錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境としてエリアごとに
人口のせせらぎや釣り堀、広場などがある大横川親水公園、王貞治選手の母校
墨田区立業平小学校、銭座跡 他8件表示


                                machikado    店・工場関係


        本所吾妻橋駅北 (清雄寺入口)

源  森  橋       源 森 川 水 門      枕  橋


        本所吾妻橋駅東 (南蔵院跡)

鬼平情景案内板(業平橋)     大横川親水公園     南 蔵 院 跡 


        春慶寺前(東京スカイ ツリータウン前)

たばこと塩の博物館    大 島 部 屋    鬼平情景案内板(西尾隠岐守屋敷)

鬼平情景春慶寺  お 城 森 八   大雲寺跡   種田の足袋  小梅銭座跡

王貞治選手母校・業平小学校    押上天祖神社   王貞治氏記念銘板(業平公園内)     



        本所吾妻橋駅北 (清雄寺入口)



        源 森 橋
名前の由来は、現在の枕橋 (本橋から約200メー
トル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれてい
たものが、明治初期に枕橋に正式決定されたこと
による。

スカイツリーの撮影ポイントとして有名です。
住 所 / 向島1丁目  





         





源森川水門の川べりに群れがいました。

         





         





 

源 森 橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋 (本橋から約200メートル隅田川寄りの橋)、
古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、
本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋
(旧源森橋) が関東郡代であった奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)
から新小梅町 (現在の向島地区) に通ずる源森側(北十間川) に架けられた。また
枕橋 (旧源森橋) 北側にあった水戸屋敷内に大川 (隅田川) から引き入れた小さな
堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、
新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるように
なったその後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った
旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった
本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和3年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)
が約80年経過し、老朽化したため、平成19年3月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け
替えられたものである。
                                     平成19年3月



タイトル:〔江戸切絵図〕. 本所絵図
著者:景山致恭,戸松昌訓,井山能知/編  出版者:尾張屋清七
出版年月日:嘉永2-文久2(1849-1862)刊


水戸殿の下の川に源森橋とあります






        源 森 川 水 門
隅田川と北十間川の接続点に設置された幅11メー
トル、門扉高さは7.5mのローラーゲート式水門
で、江東デルタ地帯を守る防潮水門です。通常は
開放されていますが高潮や津波の恐れがある
場合は直ちに閉鎖されるそうです。
住 所 / 吾妻橋1丁目  





             





           





         





         





         






        枕   橋
隅田公園が水戸家の下屋敷だった頃、新小梅橋
とそのそばの源森橋が並ぶ様子が、夫婦が枕を
並べたように見えたことから、「枕橋」とい
う名がつけられました。後に新小梅橋は撤去
され、元の源森橋だけが単独で枕橋と呼ばれ
てるいるそうです。
住 所 / 吾妻橋1丁目  





         





         





         





         





         







枕 橋 の 由 来
寛文2年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷 (現在の吾妻橋) から
向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川
(隅田川) から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。
この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるように
なった。その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治8年、残った源森橋
は正式に枕橋と呼ばれることとなった。現在の枕橋は昭和3年に架け替えられたもの
である。昭和63年、本橋は東京都著名橋に指定された。
                                平成4年3月





タイトル:[枕橋之図]
著者:[井上探景] [画]  出版者:[出版者不明]

         






枕橋 掲載資料 旅の家つと. 第29
刊行年 明治33(1900)
            
枕橋八百松楼掲載資料:東京風景
刊行年:明治44(1911)






        本所吾妻橋駅東 (南蔵院跡)


       南 蔵 院 跡
この一画には、しばられ地蔵でよく知られる
南蔵院という寺院がありました。
関東大震災で罹災したため葛飾区東水元2丁目
28番25号に移転しました。境内には荒縄で縛
られたお地蔵様が祀られています。
所在地 / 吾妻橋3-6 





          





 

南 蔵 院 跡 (しばられ地蔵と業平伝説)
            所在地  墨田区吾妻橋三丁目六番
この一画には、しばられ地蔵でよく知られる南蔵院という寺院がありました。
しばられ地蔵とは、大岡政談で一役買ったお地蔵様のことです。ある時、日本橋
木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしまいます。商いの疲れ
からお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、手がかりがまるであり
ません。そこで町奉行大岡越前守は一計を案じ、このお地蔵様を犯人として縛り
上げ奉行所に運びました。その上、お白洲で地蔵の裁きをする旨のお触れまで
出したのです。この噂はたちまち広まり、お裁き当日の奉行所は詰めかけた野次馬
でごったがえし大混乱となりました。越前守は騒ぎを起こした罰と称して、見物に
集まった人々に1反ずつ反物を納めさせました。すると、集まった反物の中には
予想どおり盗品が混じっていました。越前守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、
事件は無事解決したのでした。この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると
、失くしたものが戻ってくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、
しばられ地蔵と呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。一方、南蔵院の
境内にはかつて業平天神社がありました。平安時代の歌人・在原業平をまつった
ものといわれます。業平は、隅田川を舟で渡ったときに
「名にし負はば いざ言問(ことと)はむ都鳥(みやこどり) わが思ふ人は ありやなしやと」
と詠みました。(『伊勢物語』)。
現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残しているのは、このことに由来して
います。南蔵院は、昭和元年(一九二五)に葛飾区水元に移転しましたが、現在でも
しばられ地蔵の信仰と風習で知られています。
                             平成二十一年三月






       
 
鬼 平 情 景
     業 平 橋 (大川橋)

「敵」の中で、大滝の五郎蔵が橋を渡ったところ
で尾行されていると感じ、すばやく西尾隠岐守
下屋敷わきの木立に身を隠す場面で登場します。
所在地 / 吾妻橋3-4  






          





         

 鬼 平 情 景
      
業 平 橋
最初の橋は、本所開拓で開削された横川に、寛文二 (一六六二) 年に架けられました。
長さ七間、幅二間の板橋です。橋名は、すぐ西にあった南蔵院境内に「伊勢物語」の悲運
の主人公、在原業平の作とされる衣冠の木座像をご神体とする業平天神社があったこと
によります。「東下り」に因み舟形の業平の塚もあったとされています。南蔵院は大岡裁
きの「しばられ地蔵」で有名ですが、現在は葛飾区東水元に移転しています。鬼平犯科帳
では、「敵」に登場します。五郎蔵は人気のない業平橋を渡った時、人につけられている
と感じ、すばやく西尾隠岐守下屋敷わきの木立へ飛びこんで提灯の明かりを消し、後ろを
伺う場面があります。江戸の頃はこの辺りで採れた業平蜆が美味で特産品とされ、
作品にもたびたび出てきます。
                                  墨 田 区






       

                 
    
大 横 川 親 水 公 園
大横川を整備した総延長1,800mの親水公園です。
錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境として
エリアごとに人口のせせらぎや釣堀、広場など
特徴ある施設が設けられています。





       大横川親水公園
Oyokogawa-shinsui Park
大横川を整備した総延長1,800mの親水公園
です。錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境
としてエリアごとに人口のせせらぎや釣り堀、広
場など特徴ある施設が設けられています。

Oyokogawa-shinsui park is a water park with the
well-maintained Oyokogawa River of a total length
of ,1800 meters. The park connects Kinshicho,Oshiage,
and Narihira.Within each area divided by bridge
or other borders,you will find unique facilities
such as an artificial brook, a fishing hole, and an
open space 




1・業 平 橋~平 川 橋  2・平 川 橋~横 川 橋  3・横 川 橋~紅 葉 橋  4・紅 葉 橋~法 恩 寺 橋

5・法 恩 寺 橋~清 平 橋  6・清 平 橋~長 崎 橋  7・長 崎 橋~江 東 橋  8・江 東 橋~撞 木 橋




1・業 平 橋~平 川 橋

         





         





         





         





         





         





         





         





         





令 和 5年 2 月

            





           





           





           





         





         






平川橋からみた桜、素晴らしい!。(令和4年3月28日)

         





平 川 橋 落 慶 記 念 碑

         





       


平 川 橋 落 慶 記 念 碑
ここにあった平川橋は、長さ28.17メートル、幅13.37メートルの鋼橋 (鋼単純ワーレントラス橋)
で、関東大震災の復興事業により昭和4年に架けられました。太平洋戦争時には、金属供出のため
高欄が撤去されましたが、戦後の昭和27年には復旧されました。その後も定期的に補修を続けて
きましたが、老朽化が進行したため架橋後82年が経過した平成23年にその役目を終えて撤去し、
新たに道路として整備しました。永い間、親しまれた本橋の面影を慕い、橋名板とトラスの一部
を遺してその歩みを記します。
                                      平成24年3月






2・平 川 橋~横 川 橋

         





         





         





         





         





               





         






3・横 川 橋~紅 葉 橋

         





 
橋の右手はすみだむかしばなしのレリーフです。
          
 





         





         





         





すみだむかしばなし・本所七不思議

         





         





          





本 所 七 不 思 議

      

本所七不思議
       1・置いてけ堀

夕方になって釣り人が帰ろうとすると 堀の中から「おいてけ!」という声が聞こえてきます。
周囲に人影はなく、空耳と思って立ち去ろうとすると、途中で必ず足がすくみ、釣った魚は
いつのまにかいなくなってしまう。    ( 錦糸町駅北口付近、錦糸堀 )
( 江東区亀戸1-12第三亀戸中学校 )



昇旭斎国輝画
( 三代目歌川 国輝 )
 
     置 い て け 堀
                     
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
この堀では非常に魚が釣れるが、夕方になって釣り人が帰ろうとすると、堀の中
から「オイテケ! オイテケ!」と叫ぶ声が聞こえるという。周囲に人影はなく、
釣り人は空耳と思って立ち去ろうとすると、途中で必ず足がすくみ、釣った魚は
いつのまにかいなくなってしまう。釣り人は、「きっと堀に落ちたのだろう」と
あきらめて、もぬけの殻となったビク(魚を入るもの)を提げてしょんぼり家路
を急ぐだけとなる。この堀では誰もが同じ目に遭うので、釣人は「釣った魚は置
いていくしかない」とあきらめるようになったという。「オイテケ」というのは
、ビクの中の魚を置いてけという事でこれから「置いてけ堀」の名が生まれた。
しかし、この「置いてけ堀」がどこだったかというと、いろいろな説があり、い
まの東京楽天地あたりとか、亀戸とか、また横網にあった「御竹蔵」の周囲の
堀であるとか色々伝えられている。





      

本所七不思議
       2・あかりなしそば

寒い冬の夜道に、毎晩そば屋が店をはっていた。おかしなことにいつも灯はついていない。
客が火を付けてやるのだが、ふっと消えてしまう。何度付けても消える。こうして帰った人
の家には必ず凶事があるという。 
 



灯り無しの蕎麦屋」
昇旭斎国輝画
 
      あかりなしソバ
                 
 (墨田区役所・すみだむかしばなしより)
肌さえ凍る冬の夜、人の往来もまれな本所南割下水(いまの江東市場後地から
錦糸公園に通じる道。昔は中央が掘割であった)に毎晩そば屋が店をはってい
た。あんどんには、筆太の字で“二八そば”(代金十六文だったからという説と
、そば粉が八分でうどん粉が二分という説がある)”切りうどん”と書かれてい
る。だがおかしなことに、手探りするような暗い夜なのに、いつも灯はついて
いない。そこで客が火を付けてやるのだが、たちまち消えてしまう。きっと皿
に油がないのだろうとか、誰かのいたずらと思って懲りずに火をつければ、同
じように消えてしまう。「さて不思議なことよ」と思いながら家に帰ると、そ
の家には必ず災いが起こるという不吉なそば屋。「消えずのあんどん」の方は、
反対にいつでもともり、火の消えたのを見たことがないという。 





    
「送り提灯」昇旭斎国輝画   
       



本所七不思議
       
 3・送りちょうちん
夜ふけて道を歩いていると、ちょうちんのあかりが見えるので これに向って進んで行くとちょうちんのあか
りはパッと消えてしまう。しばらくたつとまた、前方に現れ、いつまでたっても追いつくことができない



「送り提灯」
昇旭斎国輝画
      

送りちょうちん
                  
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
夜ふけて道を歩いていると、いつのまにか前方にちょうちんのあかりが現れ、
人を送っているように見えるので、これに向かって進んで行くと、ちょうちん
のあかりはパッと消えてしまう。しばらくすると、また、前方に現れ、いつま
でたっても追いつくことができない。本所の人たちは、このなんとも薄気味の
悪いちょうちんに出くわしているうちに、いつのまにか「送りちょうちん」
と呼ぶようになったという。


 





       

本所七不思議
      
 4・送 り 拍 子 木
人影もとだえ、しのつく雨のなか、割下水を夜回りが「火の用心」カチカチと拍子木を打つ。
すると打ち終えたはずの拍子木なのに後から同じように繰り返してカチカチと無気味な音
が人を送るように聞こえるという。    ( 江東橋脇、緑4丁目24付近 )
 


 
「送り拍子木」
昇旭斎国輝画
    送 り 拍 子 木
                    (墨田区役所・すみだむかしばなしより)
人影もとだえた南割下水(今の江東市場跡地から錦糸公園に通じる道。昔は中央
が掘割りだった)に、ちょうちんのあかりをたよりに「火の用心」と声を大きく
して町並を行く。”夜回り”がいた。拍子木をカチカチと打って「火の用心」。
すると打ち終えたはずの拍子木なのに、後から同じように繰り返して、カチカチ
と無気味な音が人を送るように聞こえるという。これが「送り拍子木」である。
これは、静まり返った町のたたずまいの中で、拍子木の音がこだましたのであろ
う。でも、あまり科学的に突き詰めては、話も七不思議も興なしである。





       

本所七不思議
        
 5・足 洗 い 屋 敷
本所三笠町に住む旗本屋敷に、夜ごと家鳴りがし、天井からひどくよごれた大足がニョッキリ出る。
足を洗ってやるとおとなしく引込める。たまりかねた主人は同僚と屋敷を交換したところ、
足は現れなくなったという。  ( 本所三笠町→江戸時代の本所三笠町(現・墨田区亀沢2丁目 )
( 味野岌之助という旗本の上屋敷 )
 


「足洗い屋敷」
昇旭斎国輝画
       足 洗 い 屋 敷
                    
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
本所三笠町(いまの亀沢)に住む幕府旗本の屋敷毎晩不思議なことが起こる。草木
も眠るというほどのしんしんとした丑(うし)三つ(午前2時頃) どき。なまぐ
さい風が吹くにつれて、この屋敷は、家鳴りし激しく揺れ動く。ほどなく、天上
からメリメリというすさまじい音とともに天井から毛むくじゃらの大きな足が
ニョッキリ出る。足は血に染まり、ひどくよごれている。「足を洗え!」と突然
無気味な声がする。待ち構えた腰元や下女たちが大きなたらいに水を入れて、足
をきれいに洗ってやる。すると“足”はおとなしく足を引っ込める。これが毎日続
くのだから、たまったものではない。いつの間にか、この屋敷を“足洗い屋敷”と
呼ぶようになった。しかし、足をすこしでもおろそかに扱うと、たちまち、“足”
は怒って家をこわさんばかりに揺り動かす。ついにたまりかねた屋敷の主人は、
同僚と相談して屋敷を交換することにした。するとこの大きな“足”は二度と現
れなくなったという。





        

本所七不思議
        6・片葉のあし

本所藤代町の南側から両国橋の広小路に渡る 駒留橋の
下を流れる隅田川の入堀にはえていた「あし」は、双方に葉がでずに片側だけしか葉がでていないので
「片葉のあし」と呼ばれ、不思議がられたという。( 両国橋詰め 。駒止留橋は東両国広小路の北側
(現京葉道路の南側)に有ったごく小さな橋で、その下の堀を片葉掘りと言った。 )




 
「片葉のアシ」
昇旭斎国輝画  
     片 葉 の あ し
                   
 (墨田区役所・すみだむかしばなしより)
大橋(両国橋のこと、いまの橋より下流にあった)の北側に、“駒留橋”があった。
その橋の下を流れる入堀に生えていた「あし」は、片側だけしか葉が出ないので、
「片葉のあし」と呼ばれていた。なぜ、一方にしか葉が出なくなったかというと
━━。むかし、横網に留蔵というならず者がいて、これが、亀沢町のお駒という
娘に思いを寄せていた。しかし、これは、留蔵の片思いで、いつも冷たくあしら
われていた。そこで留蔵は、かわいさあまって憎さ百倍とばかり、ある夜、凶行
に及んだ。留蔵は、逃げるお駒に後ろから切りつけたが、なおあきたらず、片手、
片足を切り落として、死体をこの入堀に投げ込んでしまったのである。それから
後、この入堀に生えるあしは、みな片葉となったといわれている。「葛西志」
には、この入堀の名が「片葉堀」として記されている。また、一説によると、
この堀は西日しか受けないため、あしが片葉になったという





       

本所七不思議
      7・狸 ば や し

稲穂がなびくころ夜ごと、どこからともなく聞こえてくる太鼓の音。ついフラフラと
つり出され、歩き疲れて家に帰り寝てしまう夜が明けてみると自分の家だと思った
のが野原で、たぬきにばかされたという訳です。
 ( 備前国平戸藩松浦家下屋敷→東駒形3丁目本所中学 )
 

 
「たぬき囃子」
昇旭斎国輝画  
     狸 ば や し
                    
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
稲穂がなびくころ、本所の人の耳に夜ごと祭りのおはやしが、ある時は近くから、
ある時は遠くからというようにどこからとなく聞こえてくる。人びとはあまりの
おもしろさにつぃフラフラと浮かれ出てあちこち耳をそばだて、捜し歩いてしま
う。ついに歩き疲れて、家に帰り前後を忘れてそのまま寝てしまう。ところが、
夜明けごろ、頭上で鳴くカラスに起こされて、あたりをみると「コリャー大変」。
自分の家だと思っていたのが、なんと広々とした野原。そこにただひとり、腕
まくらで高いびきをかいていたのが自分だった。タヌキにばかされたのである。
これが世にいう「タヌキの化けばやし」で、そのころの本所には、タヌキが
住む広い野原が残っていたのであろう。タヌキばやしは千葉の証誠寺が本家
だから、もしかすると千葉の方から聞こえたのかも知れない。



 その他本所七不思議 (七不思議は七つ以上ありました。)
「落葉無き椎の木」  平戸新田藩松浦家上屋敷、 両国公会堂付近  「津軽屋敷の太鼓」 北斎通り上屋敷は亀沢2丁目緑公園一帯「消えずの行灯」、 「燈無蕎麦」   南割り下水付近=北斎通り





すみだむかしばなし


塩 原 太 助 
         
 杉 山 検 校・与 兵 衛 ず し 






駒  留  石
         
し ば ら れ 地 蔵 






四 谷 怪 談 意 外 誌・在 原 業 平
         
雨 乞 い の 句 碑 






狸 塚
 
        
梅 若 丸   





昔ばなしにちなむ、水にすむ動物を拾い集めて図案化したモザイクパネルの絵

        





         

モザイクパネルの説明
 墨田区の地域が本格的に開け始めたのは、江戸時代初期の本所開拓(かいたく)からです。
それ以前は、南部は湿地帯(しっちたい)、北部は農村地帯でした。徳川幕府(とくがわばくふ)は、万治二年 (一六五九年)
本所開拓のために、多くの掘割(ほりわり)(水路) 開削(かいさく)して、その土で低湿地(ていしっち)を埋め
立てました。そうした中で、当時の開拓にまつわる様々な話が、今もなお伝説や史跡となって数多く残され
ています。このモザイクパネルの絵は、昔ばなしにちなむ、水にすむ動物をひろいあつめて図案化したもの
です。「昔は、掘割にたくさんのかっぱがすんでいました。それだけに争いも多くなって、その中でも、
源森(げんもり)川の源兵衛(げんべい)かっぱと、仙台堀(せんだいぼり)川の仙台かっぱの争いがはげしくなり
かけたため船手頭(ふなてがしら)向井将監(むかいしょうげん) (墨田川の船の通行を取り締まる
人) も困りはてて、大横川の錦糸堀かっぱの長老にたのんで、争いをやめさせているところです。」この
付近の昔話は、この 「かっぱ争い」のほかに、「(こい)の心中」 「古池の大がめ」「たにしさま」
などがあります。
                                     墨 田 区






藤の花イッパイのビルの壁

         





         






4・ 紅 葉 橋~法  恩  寺  橋

         





         





         





         





         





5・法 恩 寺 橋 ~清 平 橋

         






 
         
ニャンコが居眠りをしていました。





         





         





         





              





         





         





6・清 平 橋~長 崎 橋

         





         





         





      


         

清 平 橋 の 由 来
大横川親水公園をまたぐ清平橋は、関東大震災の復興事業により昭和4年に架けられました。
かつては川の西側が清水町、東側が太平町と呼ばれていたことから、両町名から一文字ずつ
取って清平橋と名づけられました。架橋時は長さ38.97mの鋼橋(3径間ゲルバー橋)でしたが、
老朽化が進行したため、架橋から82年が経過した平成23年に、長さ10.00mのコンクリート橋
(プレテンション方式PC単純床版橋)に架け替えました。架け替えを記念して、旧橋の橋
名板と鋼材の一部を遺してその歩みを記します。
                       平成24年3月
 





7・長 崎 橋~江 東 橋

         





      

長 崎 橋 の 由 来
ここにあった長崎橋は 元禄10年 (1697) 当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋久五郎、
両名によって、墨田区亀沢四丁目より同錦糸一丁目に架けられました。最初は長さ10間
(18.0m)、幅2間半 (4.5m) の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和
4年6月には、鋼橋 (トラス) になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業により
その役目を終えて撤去しました。なお、橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の
地名にちなんで長崎橋と名付られ、永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を
残して、その歩みを記します。
                                   平成3年6月
  





牛島神社のお祭り(平成22年9月17日)

         





         





         





         





         





         





         





8・江 東 橋~撞 木 橋

         





         





         










        春慶寺前(東京スカイ ツリータウン前)




        たばこと塩の博物館
専売品であった「たばこ」と「塩」の歴史と文化を
テーマとする博物館として、日本専売公社(現・日本
たばこ業株式会社)により設立されました。

大人100円 子供50円の入館料の安さには驚きです!
住 所 / 横川1-16-3  定 休 日 / 月曜日
電 話 / 03-3622-8801
営業時間 / AM10:00~PM6:00 





          





             





           





          






         小 梅 銭 座 跡
江戸時代後期の有名な地誌、『新編武蔵風土記稿
(
しんぺんむさしふうどこう)

によれば、当地にあった銭座はとくに「新銭座」の名
で呼ばれ、その敷地は百二十間四方(約四万七千㎡)
に及んだそうです。

業平1-7-2





         





         







小 梅 銭 座 跡
所在地  業平一丁目七番・十三番・十四番
(ぜに)は、中央に四角い小さな(あな)をあけた円形の金属貨幣で、国内では七世紀後半の
富本銭(ふほんせん)の鋳造に始まると考えられています。八世紀初頭から十世紀半ばにかけて
和同開珎(わどうかいちん)をはじめとするいわゆる皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)が鋳造(ちゅうぞう)
されました。公鋳銭の発行は、平安時代の末から長らく途絶しましたが、寛永十三年
(一六三六)六月、江戸幕府は芝網縄手と浅草橋場、近江坂本に銭座を設け、寛永通宝(かんえいつうほう)
を発行するようになりました。そして以後、幕末にいたるまで各種の銅銭が流通したのです。
江戸時代後期の有名な地誌、『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふうどきこう)』によれば、
当地にあった銭座はとくに「新銭座」の名で呼ばれ、その敷地は百二十間四方(約四万七千㎡)に
及んだそうです。稼働期間は不明ですが、『古今泉貨鑑(ここんせんかかがみ)』によれば、元文元年
(一七三六)十月二十日に裏面に「小」の一字を入れた寛永通宝が鋳造されたようです。(右図)。
運営は、幕府の御用商人が請け負いました。幕府の財政経済資料をまとめた『吹塵録(すいじんろく)
(勝海舟編)には、野州屋(やしゅうや)南部屋(なんぶや)という二つの屋号が確認できます。なお、墨田区内
では、当地の他押上や本所馬場、本所横川にも銭座があったとされ、とくに本所馬場では
天保通宝(てんぽうつうほう)【天保銭】を鋳造していたと伝わっています。
  平成二十五年五月
         墨田区教育委員会
 






       王貞治氏「野球人生の原点」記念銘板
(業平公園内)

住 所 / 業平2丁目3-2 
 





         





         





         





         





         





             

「王貞治の野球はここから始まりました」
第二次世界大戦が終わり、日本の復興が始まった頃、この小さな公園で、夢中になって
三角ベースボールを楽しむ子ども達の中に、世界のホームラン王、王貞治の少年時代の
姿がありました。王少年の打ったボールは、たびたび隣の小学校(旧校舎)の屋上を越える
ほどの大飛球でした。野球人、王貞治の原点がここにあります。

【王貞治氏の経歴】
1940年(昭和15年)5月20日、東京市向島区(現・墨田区)生まれ。
業平小学校、本所中学校を卒業。早稲田実業学校高等部から読売巨人軍
に入団し、生涯通算本塁打は868本という世界一の記録達成者。

The Beginning of Sadaharu Oh’s Baseball Career
World War Ⅱ had ended, and japan’s reconstruction had just begun. In a small
park, a group of children are playing a three-base version of baseball. Among
them is Sadaharu Oh, the future world homerun king. He hits the ball, and time
again it flies, higher and higher, over the adjacent school building. This was the
beginning of Sadaharu Oh’s baseball career.

Background:
Sadaharu Oh was born May 20, 1940, in Tokyo’s Mukoujima Ward
(presently Sumida Ward). He graduated from Narihira Elementary school
and Honjo Junior High School. Drafted to the Yomiuri Giants from Waseda
Jitsugyo High School, he holds the world lifetime homerun record, with 868
homeruns during his career






       墨田区立業平小学校
王貞治選手の母校
入口の左側に王選手の手形があります!
住 所 / 業平2丁目4番8号
電 話 / 03-3625-0331
 





         





           





          





         






        お 城 森 八
昭和8年創業、創業当時から小豆の風味を
殺さないようにという変わらぬレシピで、
しっかりした風味のある餡を作っています。
住 所 / 業平1-3-6  定 休 日 / 不定休
電 話 / 03-3622-0006
営業時間 / 9:00~18:00  駐車場 / 2台有





         





         





                    





            





              





            





           

















                    





         





         






          大  雲  寺  跡
歌舞伎俳優の墓が数多くあることから
「役者寺」と呼ばれた大雲寺の跡地です

住 所 / 業平三丁目2-5 





      大  雲 寺 跡
Site of the former Daiunji Temple
初代中村勘三郎や五代目尾上菊五郎など歌舞伎俳優の墓が数多く
あることから「役者寺」と呼ばれた大雲寺の跡地です。関東大震
災ですべての堂が焼失し、昭和6年 (1931) に現在の江戸川区西瑞
江に再建されました。

This is the site where the Daiunji Temple was previously stood,
which was also called “Yakusyaji Temple”(Kabuki-Actors’Temple)
because there are many graves of kabuki actors including First
NAKAMURA Kanzaburo and Fifth ONOE kikugoro, All the
buildings were burnt down in the Great Kanto Earthquake and
this temple was rebuilt in current location of Nishi-Mizue,
Edogawa-ku in 1931.





         





         





          

大 雲 寺 ( 役者寺 ) 跡
   所在地  墨田区業平三丁目二番、一、三、四番の一部
 この地は「役者寺」とも「赤門寺」とも呼ばれた浄土宗知恩院末の寺院跡です。
本尊は運慶(うんけい)作の阿弥陀如来と伝えられています。元和六年 (一六二〇)
梵譽(ぼんよ)貞存が浅草森田町に創建しました。寛文八年 (一六六八) に類焼
したため、本所押上村に新しい土地を幕府から拝領しました。江戸幕府による市
街地の拡張の一環として行われた最初の本所・深川の開拓に伴う移転だったと考
えられます。歌舞伎の初代中村 (猿若) 勘三郎以後十三代、初代市村羽左衛門(うざえもん)
以後十六代、さらには四、五、六代松本幸四郎や初代、三、五、六代の尾上(おのえ)菊五郎
ら多くの歌舞伎役者たちの菩提寺であることから「役者寺」とも呼ばれました。関東大
震災を契機として、昭和六年 (一九三一) 、現在の江戸川区西瑞江二丁目に移転しました。
平成十年、この大雲寺の範囲の一画であった墨田区職員住宅の建築に伴い、江戸時代
の埋葬墓等の遺構が発見され、発掘調査が実施されました。
   平成二十年三月
            墨田区教育委員会






        大 島 部 屋
日本相撲協会に所属している伊勢ヶ濱
一門の相撲部屋である。

住 所 / 業平三丁目1-9 





         





             






       押 上 天 祖 神 社
おしなり商店街のある押上・業平橋地区の
村社として地域の人々の崇敬を集める神社
です。
住 所 / 墨田区業平2丁目9−6 





         





         





         







押上天祖神社御由緒
押上天祖神社は、明治五年十月元押上村の村社に列し祭日は九月十六日と定められて、今日に
及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は建武の次で、
南朝の忠臣楠木正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で、今から六百余年
の昔に当る。当時は押上と云ったかどうか分らないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところ
どころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだとも伝えられ
ている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大紳を祭ってある。
また一説には現在の京成橋付近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民
等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、
明治五年村社に列する事となり、明治十一年の記録には「武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、
田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖神社、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭」
という文献が残っている。天祖神社は呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の
時代は神仏の混交時代で、徳正寺という寺が管理して居たのが、明治初年に行われた神仏分離により、
神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天祖神社は其の末社と云う事に
なっている。又大正十年に大祭が行われ、同十二年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの
頃迄は、平川橋四丁目地域にあったのが、後、昭和三年の区画整理で、現在地(業平二の十三の十三)
に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大震災で焼失後社殿も新築されたが、昭和
二十年三月十日の戦災で、又も焼失した。そして昭和二十七年度大祭の折、再び新築し、続いて昭和
三十二年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社としての形態が整ったのであります。
尚、終戦後の宗教法人法による神社認可となっている。昭和三十七年境内には社務所、会館を設立すると
共に従前の六カ町の外に新たに旧業平橋一丁目と、旧向島押上町が加わり、八カ町の神社となっている。
五月五日に新調されたもので、今迄に関東大震災と戦災で二回に亘る災害にあったが、現在の神輿庫が
奇跡的に焼失をまぬがれたので大神輿も当時のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。其の間、
明治四十四年九月、大正十年五月と何回かの修理を行って居ります。
                         墨田区史より
  平成十年七月吉日
                    押上天祖神社総代会





           





                  






      鬼 平 情 景
    西 尾 隠 岐 守 屋 敷

遠江国横須賀藩3万5千石の西尾家下屋敷が
ありました。周辺は穏やかな田園風景が広がる
人気の行楽地でした。鬼平犯科帳では、賭場や
盗人宿への経路としてたびたび登場します。
住 所 / 業平1-13-7 





           





           

鬼 平 情 景
西 尾 隠 岐 守 屋 敷
遠江国横須賀藩三万五千石で、城中で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管理した奏者番
の職にあった西尾隠岐守の抱屋敷です。敷地はおよそ一万三千坪あり、津軽家上屋敷
がおよそ八千坪といいますから、その一・六倍はあったことになります。当時、周辺は
押上村、小梅村と称され長閑な田園地帯が広がり、その中に寺社仏閣が点在していまし
た。内河川が発達していたことから四季折々の変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の行楽
先でした。しかし、夜ともなると、明かりもめったに見えない実に寂しい土地となり、大名
の下屋敷は博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加わって、脛に疵を持つ者が身を隠す恰好
の場所になります。鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への経路としてたびたび登場します。






         種田の足袋  磯 貝 商 店
お店の中は江戸情緒たっぷり!大正後期創業、
鳶職の方々の地下足袋を作っていたそうです。
(現在は足袋は作成していません)
住 所 / 業平1-1012   電 話 / 03-3622-2665
           定 休 日 / 正月三が日
 営業時間/ 平日/9:00~19:00 
      日・祭/9:00~18:00





          





         





         





         





         








    
      鬼 平 情 景 春 慶 寺 
春慶寺は元和元(一六一五)年、真如院理上人に
よって浅草森田町に創建され、寛文七(一六六七)
年に本所押上村に移転してきました。鬼平犯科帳
では平蔵の剣友、岸井左馬之助の寄宿先として
多くの作品に登場します。

所在地 / 業平2-14-9





      春 慶 寺
Shunkeiji Temple
日蓮宗の寺院で、元和元年(1615)、真如院日
理上人により浅草森田町に創建され、寛文7年
(1667)に現在地となる本所押上村に移転しま
した。池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」にも
登場するお寺として知られています。

Shunkeiji is a temple of the Nichiren sect built in
1615 by Saint Shimnyoin Nichiri in the town of
Asakusa Morita, and then relocated to its current
site, the village of Honjo Oshiage in 1667. The
temple is known as the one that appears in the novel
“Onihei Hankacho” written Shotaro Ikegami.





         





            





         





         





            

春 慶 寺
元和元(一六一五)年、真如院理上人によって浅草森田町に創建され、寛文七(一六六七)年に
本所押上村に移転してきました。江戸時代から押上の普賢様と親しまれ、多くの参拝客
で賑わっています。鬼平犯科帳では平蔵の剣友、岸井左馬之助の寄宿先として多くの作品
に登場します。なかでも「明神の次郎吉」は春慶寺が主な舞台になっていて、寺域や押上
周辺の当時の様子が描かれています。左馬之助が盗人の次郎吉を荷車に乗せ、蛍が飛んで
いる横川沿いの道を五鉄に向かい、もてなす下りは実に微笑ましい情景です。その左馬之助
を何度も演じた俳優・江守徹の揮毫による石碑が平成十五年に建てられています。
                                       墨田区

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つぶやきいってみよう
本所吾妻橋東(南蔵院跡)~春慶寺(東京スカイツリータウン前)

       本所吾妻橋駅東 (南蔵院跡)

 Voyage Side (ボヤージュサイド)  

 ささやカフェ      スカイダック東京



        春慶寺前(東京スカイ ツリータウン前)

 み り ん 堂        業 平 キ ム ラ ヤ       味 吟

 ラブタイムカフェ×TOKYO MIYAKO         ベルーガ


 (有) 春日屋製菓    山 本 珈 琲 東京営業所    工房 アトリエダイジロー






        本所吾妻橋駅東 (南蔵院跡)



       さ さ や カ フ ェ
すみだパークギャラリー
大横川親水公園に面し、ギャラリーを併設し、
広々とした空間には癒されます。
全てオーガニックメニューです。
住 所 / 横川1-1-10  電 話 / 03-3623-6341
 





         





         





         





         





         





         






       Voyage Side (ボヤージュサイド)
焼きたてのパンを毎日提供。
北海道産小麦「春よ恋」とカナダ産小麦を中心に使用。
菓子パン以外はマーガリン、イーストフード、卵は
使用していません。
御芋さんを販売してくださっています。
住 所 / 吾妻橋3-1-7-101 電 話 / 03-6240-4077
営業時間 / AM10:00~PM19:00





         





         
















大横川(徒歩5分)の緑陰で御芋さんを頂きました。炎天下でのアイスはどんどん溶ける為
避けていましたが、御芋さんは食べ終わるまで冷たくて美味しくて癒しの一時をくれます!


          






        春慶寺前(東京スカイ ツリータウン前)



      スカイダック東京
土日祝日のみ運行
住 所 / 業平1-17-6  電 話 / 03-3215-0008
運行時間 : 10:00 / 13:30 / 15:30
料金(消費税込み):
大人 2,900円(中学生以上)
こども 1,400円(4歳以上)
営業時間 / 9:30~18:00
  所要時間  : 約 90分





         





         





                      





         






       【み り ん 堂】
大正12年(関東大震災)本所区仲ノ郷業平橋
(現在の場所)で創業しました。山形の庄内米を主
とした、国内産のみを原料に使用しています。
お醤油のタレは、創業以来代々継ぎ足してきた
家伝のものです。お店の横には鬼平情景西尾隠
岐守屋敷の案内板があります
住 所 / 業平1-13-7  電 話 / 03-3621-2151
定休日 / 月曜日(臨時休業有)
営業時間 / 9時~18時
 





         





            





         






力士の方が巡業先でのプレゼントに来店されるそうです
        
 





         





        





         






       与 兵 衛 鮨
(よへえずし)
住 所 / 業平1-15-2 電 話 / 03-3623-6692
営業時間 / 11:30~14:00 
 17:00~22:00 
定休日 / 月曜日





         





               




                





             






       手づくりパン 業 平 キ ム ラ ヤ
シベリアが一味ちがいます!栗入りと
栗なしがあります!
 住 所 / 業平1-10-4 電 話 / 03-3624-6441
営業時間 / 7:00~20:00 
 定休日 / 月曜日





         





         





         






       ラブタイムカフェ×TOKYO MIYAKO
有限会社ミヤココーポレーション
コーヒーとワインのお店
 住 所 / 業平3-8-1 1F 電 話 / 03-3625-8640
休業日 /  金曜日(午後の部)日曜日、祝祭日
営業時間 / 午前の部:10時30分~12時
       午後の部:15時~19時





              





         





         





             





            





         






       工房 アトリエダイジロー
ケーキ&パン
Seven Years Caffee
instagram:
@sevenyearscoffee
 
住 所 / 業平3-12-3
 





            





         





          






         春 日 屋 製 菓
人形焼きの製造
小売もして下さいます。12個入りが2つ入
った箱で1000円でした。甘味が控えめで
美味しかったです。
住 所 / 業平2丁目8-4  電 話 / 03-3622-9502 

営業時間 / 8:30~19:00  定休日 / 無休





         





              






        味   吟(あじぎん) 押上店
一味違うお稲荷さん!
住 所 / 業平2-14-6 電 話 / 03-3623-3950
定休日 / 月曜日・火曜日 営業時間 / 8:45~15:00





         





           






       ベ ル ー ガ(Beluga
ロシア料理で有名です!
住 所 / 業平1-7-20  電 話 / 03-3623-7823
定 休 日 / 火曜日・水曜日





         





         






      
山 本 珈 琲 東京営業所
業務用有機栽培珈琲
毎月5のつく日珈琲豆半額セール、一般の方も
購入できます。
住 所 / 業平3-8-4 電 話 / 03-6284-1933
定 休 日/土・日 

ラブタイムカフェの並びです。





         

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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