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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() (民博図書館) |
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![]() 身代わり’飛木の焼けイチョウ 名前の由来 昭和二十年(一九四五年)三月十日の東 京大空襲で、ご神木(神霊が宿ってい るとされる木)は、我が身を焦がし、 懸命に災をくい止め、町の延焼を防ぎ ました。そして幸いにも多くの人達が 助かりました。ご神木は、戦災という 大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑 の芽を吹き出しました。このようにた くましく生き延びた縁起のイチョウで す。今の世にあって、私達に生きる勇 気と希望を与えてくれています。きっ と焼けイチョウは、大変な戦争があっ たという事を、これから先も伝えてく れることでしょう。 平成二十二年六月吉日 飛木稲荷神社総代一同 掲示板奉納 多賀和弘殿 |
![]() 飛木稲荷神社のいちょう 所在 墨田区押上二丁目三十九番 六号 飛木稲荷神社内 神社の名前に由来する御神木で、目通 り約四・八メートルもあり、樹齢も 五、六百年はくだらない区内随一の大 木です。戦災で一部が焼失し、樹高も 十五メートルと低いが、近年いきおい を盛り返し、樹形も整ってきていま す。江戸時代以前、このあたりは利根 川(瀬替以前)の川口で、川の運ぶ堆 積物により陸地化が進んできたところ です。葛西地域の西の海岸線の一部と なっており、平安・鎌倉時代あたりか ら、後の本所・向島の境ともなる古川 沿いに自然堤防となっていたと推定さ れます。江戸時代この辺は寺島新田と 呼ばれ、順次開拓されていく様子もう かがえます。このいちょうの大木は、 その自然堤防に育った歴史の証しとい えます。 平成三年三月 墨 田 区 飛木稲荷神社の縁起と由来について 〇鎮座地 東京都墨田区押上二丁目 〇祭 神 宇迦之御霊神 一般に「おいなりさん」と言われ親し まれている神様で農工・殖産・生活の 加護に働きのある神様であります。 〇神 木 いちょう 樹齢千年をこえると言われ、戦 火 (昭和二十年三月九日)により、損傷 を受けましたが、ご覧のように元気に 繁茂しております。古老の言い伝えに よれば、大昔のある時、暴風雨の際、 どこからかいちょうの枝が飛んで来 、この地に刺さったとのことです。そ していつの間にか亭亭とそびえたの で、時の人が、これは異状のことであ るとして、稲荷神社をお祀りしたのが 始めであると言われております。飛木 稲荷の名もこれから起こったものです 。お祀りした時代については、当地は 再三の水害・火災等により旧家や円通 寺等では、古い書物が失われて詳しい ことはわかりませんが、旧幕舎寺奉行 書によれば応仁二年(西歴一四六八年) とありますが、おそらくそれ以前であ ると思われます。 〇お稲荷さんときつね 稲荷神社には石ぎつねがあり、 またせともののきつねがたくさんある もので、きつねがお稲荷さんと思われ がちです。そのことは、稲荷神社が最 初に祀られた京都伏見稲荷神社境内の お山にきつねがたくさん住んでいたこ とから、きつねは、お稲荷さんのお使 いであるという信仰が生まれました。 この信仰から神社の前に置かれるよう になったものです。 〇境 内 神 社 日 枝 神 社 祭神・大山咋神奥社稲荷 神社 祭神・本社と同じ 寄進・昭和五十二年七月吉日 押上三丁目・伸成睦 |
![]() 高松プロダクション・吾嬬撮影所跡 所在 墨田区京島三丁目六二番 日本映画の製作は、日活、私竹など四 つの大手会社が占めていま したが、大 正10年前後になると、短期間の内に幾 つも独立プロダ クションが生まれては 消えていく混沌とした時期を迎えまし た。 高松プロダクション の創略者・高 松豊次郎 は、始め、映画興行を 通じて 労働演説等の活動をしていましたが、 大正六年(一九一七)六月には 活動写真資 料研究会を結成し、社会教育映画を製 作するようになりました。 この過程に おいて、プロダクション創立後に協力 しあ うことになる牧野省三らと親交を 結びました。また、「大東京」 などの 映画館 を経営し、浅草六区 の興行組合 長にもなりました。映 画資料の収集に もあたりましたが、関東大震災で焼失 しました 吾嬬撮影所のグラスステージ は、高松プロダクションの活動 拠点と して、大正一四年(一九二五)10月に建て られました 敷地は 一〇〇〇坪余り、現 像室も一〇〇坪あったといわれていま す。主な スタッフとして所長兼監督山 根幹人、文芸部今東光、俳優近藤伊与 吉・・草間実・西山普烈 (江川宇礼雄)等 がいました。この撮影所で「輝ける 扉」(山本嘉次郎監督)、「愛染手綱」 (高松操監督)な ど、四二本の時代劇等 を製作配給し、俳優では西山普烈・近 藤伊与吉・滝田静江・高島愛子等 を輩 出しました。 しかし、高松プロダク シ ョンは、提携していたマキノ映画 社 の撤退、監督の他プロへの移籍な どにより、わずか一年数カ月の経営 で休業せざるを得ませんでした。 隅田川河畔にあった日活向島撮影所 (現在の桜堤中学校 敷地内)とともに、 墨田区内に存在した映画撮影所として 、日本映画史の一端 を刻んでいます 平成一一年三月 墨田区教育委員会 |
![]() ![]() 小 村 井 梅 園 の 由 来 小村井梅園は江戸時代に作られ、当時 の名所案内にも数多く紹介された江戸 近郊の梅の名所です。香取神社の東側 に位置し、小村井字出戸五百十一番に 三千三百坪の広さを持ち、切絵図には 「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御 成有」と記され、毎年梅花の盛りには 将軍家の御成りがあり、御成り梅の名 も残っていました。紅梅白梅と姿良く 、また老樹も多く、大きな実も穫れま した。園内には、築山や池に多くの名 石が組まれ、東西に亙り松の大木が二 列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が 飛び交い、利根川の魚を畜った釣堀も あり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人 で賑わいました。安藤広重の「絵本 戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸よ り四、五町巽の方に在り此の所に香取 の社あり その傍梅園ありて満開の節 は薫風馥郁として行人の鼻を穿つ 実 に新古の梅屋敷にも倍したる勝景・・ ・・・」と記されています。惜しくも 明治四十三年の大水で廃園となりまし た。面影を忍び、此處にその由来を 記して記念とします。 平成二年九月吉日 平成二年度 世話人 |
![]() ![]() 東京モスリン吾嬬工場跡 所在地 墨田区文化一丁目二十五番 ~三十二番 本所・向島両地区は、江戸時代より隅 田川につながる水路が整備され、水運 の発達には目覚ましいものがありまし た。このため、明治中期以降の両地区 には、近代産業を担う工場が次々に進 出しました。当地には東京モスリン吾 嬬工場が建設されました。東京モスリ ン紡績株式会は、明治二十九年 (一八 九六) 三月、日本橋の洋反物商人たち が三井高保 (旧三井銀行社長) と資本 提携して創設しました。同社は、モ スリンを中心に多様な製品を手がけ急 速に事業を拡大、大正十五年 (一九二 六) 頃には各地に工場を創設して四百 人余の社員と一万二千人にも及ぶ工員 を抱えるようになりました。同社の製 品の中には中国やインドで需要を伸ば すものもあり、国内繊維産業を盛況に 導く原動力になったともいわれてい ます。ただし、当時の急速な産業発展 の背景には、過酷な労働条件のもとで 働く労働者の存在がありました。東京 モスリンをはじめ多くの紡績工場では 、地方の貧しい農家から集められた女 工たちが極めて低い賃金で働いていま した。細井和喜蔵の『女工哀史』でよ く知られているとおり、彼女たちは工 場内の宿舎で共同生活をし、十一時間 以上の労働に従事していました。その ため結核などの重い感染症にかかる例 も少なくなかったのです。大正期には 各地で労働争議が起きましたが、大正 三年 (一九一四) の東京モスリン吾嬬 工場の争議は、労働運動発展の契機と して有名です。千人を超える大量解雇 に対して、この時、大規模なストラ イキが起きました。この争議は結局 成功しませんでしたが、「本区におけ る労働争議の中でも特筆しなければな らない」 『墨田区史 前史』出来事 として今日家で語りつがれています。 平成二十二年三月 墨田区教育委員会 |
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![]() (株)霧下そば本家 安永元年(1772年)新潟県妙高高原で 創業→昭和28年、墨田区のこの地に そば粉専門の製粉工場を設立、神田 やぶそば、浅草尾張屋をはじめ、全 国の名だたる名店に当社の霧下そば 粉を使っていただいております。最 上級の原料を仕入れ、石臼でていね いに挽かれたそば粉で作った無添加 の乾麺、手打ち生そば(冷凍)、ご家 庭でのそば打ち・そばがき、ガレッ トなどのそば料理に最適な各種そば 粉、毎日の健康維持に効果的なそば の実・そば茶など。一般のスーパー や小売店では中々打っておりません ので、お土産や贈り物としても大変 喜ばれております。製粉所直売の文 化名物、お気軽に店内にどうぞ! (営業時間月~金8:30~17:00) |