スカイ姫のつぶやき19遠 征版パソコン編

小 江 戸 川 越  ・  栃 木 県  ・   秋 田 県  ・  江 東 区  

 台 東 区    ・   千 代 田 区   ・ 足 立 区
 の名所旧跡等を掲載
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小江戸川越 (埼玉県)

川越城本丸御殿   川越城中ノ門堀跡    太田道灌公像     川越氷川神社

川越大師・喜多院    道 灌 橋
     大沢家住宅    松村屋旅館

旧 山 﨑 家 別 邸     料 亭 山 家     百 足 屋     三芳野神社

永島家住宅       養 寿 院      中 院     真 行 寺

  時 の 鐘   菓子屋横丁   川越熊野神社    川越菓舗道灌

   川越陣力屋 (浪漫石焼)    どろぼう橋の由来   小江戸川越つぶやき街角

か の ん   小江戸川越屋





       川越城 本丸御殿
日本で2つしか現存しない本丸御殿は嘉永元(1848)年に
時の藩主松平斉典が造営したもので、江戸時代17万石を
誇った川越城唯一の遺構。現存しているのは玄関部分と、
移築復元された家老詰所のみです.埼玉県指定文化財となっ
ています。
なんと100円で見学ができます。
住所 / 川越市郭町2丁目13−1
営 業 : 10:00~17:00    電 話 / 049-222-5399





         






         





         





               





         





         





         





         





         





         





              





         





         





         





         





               





         





         





         





               





               





         





          





                  





                  






     三 芳 野 神 社
三芳野神社は、川越城の鎮守として寛永元年(1624)、
後の城主酒井忠勝によって再建されたといわれています。
童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれて
いて、
川越城内にあったため、一般の人の参詣はなかな
か難しく、その様子が歌われていると伝えられています。

住 所 : 川越市郭町2丁目25−7
電 話: 049-224-5940






         





         





              





         





            






      川越城中ノ門堀跡
川越城への適の侵入を防ぐために設けられた中の門堀は、
明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、旧
城内に残る唯一の堀跡となりました。構築当時の勾配を復
元し、城の雰囲気を思わせる土塀等が設置されています。
住 所 : 川越市郭町1丁目8−6
電 話: 049-224-6097
時 間 : 9:00~17:00  無 料






         





         





 
 



    川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太
田道真・道灌父子によって築城されました。当時、持朝は古河公
方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の
築城はこれに備えたものです。天文6年(1537)、小田原を本拠
とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦に
よって北武蔵への支配を盤石なものとします。しかし、天正18
年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められ
て落城します。江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとし
て重視され、新藩・譜代の大名が藩主に任じられました。寛永16
年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、
川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたりました。中ノ門
堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考え
られます。また天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定し
て作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門堀が建てられて
いました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての
櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺1階部分は梁行15尺2寸
(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9,183m)ほどの規模でした。
棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭
間を備えた土塁が巡っていました。
※ 本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源力
アップ事業の補助を受けて実施しました。






         





         





            中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)
から城内に攻め込んだ場合を想定して造られてい
ます。西大手門から本丸(博物館方面)をめざし
て侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれ
て直進できません。進撃の歩みがゆるんだところ
に、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみ
でした。また、発掘調査では城の内側と外側で
堀の法面勾配が異なることがわかりました。
中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側
の法面勾配は60 °西側は35°でした。つまり、
城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く
手を阻んでいたのです。明治時代以降、川越城の多
くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は
旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の
名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという
声が市民の間から起こり、川越市では平成20/21
年度に整備工事を行いました。






      太 田 道 灌 公 像
太田道灌は、川越城、江戸城を築城した室町時代の
武将で、道灌の像が建てられている場所はかつて川越城
の大手門があったところです。中学生の観光ボランティア
ガイドの説明がわかりやすくて癒されました。

                 
住 所 : 川越市元町1丁目3番地1
電 話:049-224-8811





               





  

太 田 道 灌 公 像
川越は、古代から、この地方の文化の中心であった。長禄元年(西暦14
57)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に
移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。明治以降も引続き埼玉県第一の都
府として、大正11年他に魁けて市制を施行した。ここに市制50周年を迎
えるに当り市庁舎を新築し、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を
建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。





         





         





         






     川 越 氷 川 神 社
今から約千五百年前(西暦541年)、古墳時代の欽明天皇二年に
創建されたと伝えられています。室町時代の長禄元(1457)年、
太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の
守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。

東参道にそびえる高さ15mの明神型の大鳥居は、木製としては
日本最大級の規模を誇る。鳥居中央の扁額に記された社号は
勝海舟の直筆によるもの。
住 所 : 川越市宮下町2丁目11−3
電 話: 049-224-0589   時 間 : 9:00~  





            





         





         





         





         





              





上 尾 (あげお)街 道

         





 

上 尾 (あげお)街 道 
所在地 川越市宮下町
 この坂道は、明治時代まで上尾街道として人々が往還し、上尾街道はここから東に
水田地帯を貫いて入間川、荒川の流れを渡り、上尾宿(現在の上尾市)に至る中山道
の脇往還としても大切な役割を果たしていた。特に、川越と江戸を結ぶ「川越夜舟」
で名高い新河岸川の舟運が発展するまでは、荒川が物資流通の大動脈として盛んに利用
されたので、老袋河岸や上尾側の平方河岸も物資の集散場として栄えた。このため、
河岸に通じるこの街道は、人馬の往来がしきりであった。昔は、この坂の途中には
冷たい水の湧き出る泉があって、街道を行く人々の疲れをいやしたという。
  昭和五十八年三月  川越市」






                 






      道  灌  橋
太田道灌に由来する橋名で、テラス状の張り出し
部分には道灌が川越の領主だった頃に詠まれた歌
の和歌が彫られている。
(七重八重花は咲けどもやまぶきの 
      実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき)

                 
住 所 : 川越市志多町





         





            





              





         






        真 行 寺
至誠山成就院眞行寺は、武田信玄の妹(娘か?)眞行尼
が当地へ落ち延び、当所で一寺を建立、武田勝頼の子息が
二世となったといわれています。

住 所 : 川越市元町1-2 電 話 : 049-222-2816





               





     





             






      松  村  屋  旅  館
明治初期の廃藩置県が行われた直後1872年創業に創業、
150年くらいの歴史があります。川越藩で最後の藩主
であった松平 康載(まつだいらやすとし)の松が名前の
由来
だそうです。
戦時中は軍事会議にも使われて
いました。

埼玉県川越市元町1丁目1-11
 電 話 / 049-222-0107




         





         





         





               





         





        





            





         






      大  沢  家  住  宅
寛政4年(1792)呉服太物を商っていた近江屋西村半右衛門
が建てたもので、明治26年の川越大火の時も焼け残り、
現存する関東地方最古の蔵造りでもある。川越商人に
蔵造りを建てさせるきっかけになった建物の一つである。

昭和46年6月22日に国指定重要文化財に認定されました。
お土産品を購入出来ますが、一味違う所が好きです!
所在地 : 川越市元町1-15-2.





         





         





 

重要文化財・建造物
大 沢 家 住 宅
桟瓦葺、切妻造、二階建、間口六間、奥行四間半の店蔵造りである。一階は
店舗で二階前面には土格子があり、外観は全体的に簡素であって荘重な感が
ある。この建造物は、川越城下町の中心部である札の辻の傍らにあって、
呉服太物の豪商近江屋半右衛門が寛政四年(1792)に店舗として建てたも
のである。防火を目的とする土蔵造りの故にその後数度の大火にも類焼を
まぬがれた。関東地方の町家の蔵造り、商家の古い例として、もっとも重要
な建造物である。なお、平成元年より平成四年にわたり、大規模な修理が行
なわれ、寛政四年当時の姿に復元された。





         





         





         





         





         






      旧  山  﨑  家  別 邸
老舗菓子店「龜屋」の五代目山崎嘉七氏の隠居所
として、大正期における中小住宅の普及発展に先駆的
かつ実践的に取り組み、数寄屋建築にも精通した
建築家保岡勝也の設計で建てられました。

住 所 : 川越市松江町2丁目7番地8





                





         





         





         





         





         





         





               






     料 亭 山 屋 (高級会席・懐石料理店)
幕末より明治初年まで、関東を代表する伝説的な豪商第11代横田
五郎兵衛」の邸宅の地続きで、「仕出屋」を営んでおりました。明治
元年~二年(1968年~1969年)に、山屋の「初代半兵衛」が、横田
氏の別邸を譲り受け、それが現在の料亭山屋となっております。
千坪近い敷地の中に、その全盛期、富にあかして贅を尽くした
この別邸は、川越藩主松平家をはじめとして多くの賓客を招き迎
えた貴賓館の名残りをとどめています。

昼はランチ弁当、夜は会席料理が用意されています。
住 所 : 川越市幸町11-2   電 話: 049-224-0048
 営業時 間 : 11:30~ 21:00   駐車場 15台





         





          
左側の電子柱が木目地でカバーされています! 





         





         






     百 足 屋(むかでや)
今から約380年前、寛永16年(1639年)に上松江町(現在の
松江町2丁目)に、田口 吉兵衛によって創業され、糸や組紐
の販売、鰹節問屋として人々に親しまれ、代々川越の町ととも
に歩んできました。店蔵が明治29年12月、内蔵が明治41年
5月、外蔵が昭和3年6月に建てられ、もっとも古い
店蔵は、川越市指定文化財建造物に指定されています。

住 所 : 川越市松江町2-5-11  電 話:049-292-0075  




         





              





はつかりの間

         





やまぶきの間

         





         





         





          





離 れ

         





         





         





         





         





                 






     川 越 大 師 喜 多 院
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)
を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は
堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山
(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。
家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。

住 所 : 川越市小仙波町1-20-1
電話:049-222-0859(喜多院拝観寺務所)

お問い合わせ時間 9:00~16:00





         





         





         





         





         





         






どろぼう橋の由来

         





                 





                 





 

どろぼうばしの由来
 所在地 川越市小仙波町一丁目
 昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩
の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の
捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕え
られ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師
に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。
そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。
その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに
一生を過ごしたという。この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、
それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。
 昭和五十八年三月
 埼玉県






      中   院
天台宗の寺院で、山号は星野山。寺号は無量寿寺。院号が中院。

平安時代、天長7(830)年淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師)
が建立しました。狭山茶発祥の地といわれ、円仁が創健の際、
京より茶の実を持ってきて境内で栽培したのが起源です。
文豪 島崎藤村が義母(加藤みき)に贈った茶室(不染亭)
があり、市の文化財に指定されています。

                 
住 所 : 川越市仙波町5-15-1





         





         





 

薬 師 堂
仙波の里、星野山無量寿寺仏地院中院には昔時三堂の御堂が共存していた。
本堂・釈迦堂・薬師堂がそれである。三堂にある本尊が三体揃うことで過去・
現在・未来を担うと考えられている。それは即ち未来永劫に亘って輝く法の灯
を記念してのことである。昭和の中期に釈迦堂・薬師堂の両堂とも火災によっ
て焼失したが、釈迦堂は昭和58年に古の天台様式に則って再築された。ここに
建立されし薬師堂は現代的な様式にし、薬師如来をはじめ十三仏を荘厳に祀り、
参拝する人誰しもが心から安らげる空間と清新さに重きを置いた。以上の歴史的
背景と意義を深く思念し、永く後世に伝うべくここに由来を附して記念碑を建立す。
   平成24年
            第68世 住職 仁平 雄俊





         







市指定・史跡
中  院(なかいん)
中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚(じかく)大師によって創立された。
元来星野山無量寿寺(せいやさんむりょうじゅじ)のなかに北院、中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、
多聞院と称していたものである。当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永
10年(1633)東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。喜多院に天海(てんかい)僧正
が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安3年(1301)
勅願所(ちょくがんじょ)たるべき口宣の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。
秋元侯の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
   平成4年3月
           川越市教育委員会





                 






      永島家住宅(武家屋敷)
川越城南大手門近くの侍町であった三久保町(旧南久保町)
に残る、江戸時代後期の川越藩御典医の武家屋敷で、
毎週土曜日9時~4時迄見学できます。川越まつりの10月15・
16日(土曜・日曜)の両日とも公開されます。
住 所 : 川越市三久保町5丁目3
 時 間 : 9:00~16:00  無 料





         





                





          

永島家住宅(武家屋敷) (市指定・史跡)
永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。
伝聞によれば、旧川越藩御典医(ごてんい)の屋敷跡であると言います。
松平大和守家七代が川越藩主をつとめた明和4年(1767)~慶応2年(1866)
当時の城下絵図によると、この場所には250石から300石の藩士が居住しました。
当家屋の小屋組は叉首(さず)構造で、棟の高さは三段となっており、痕跡などから、現在
の形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元
すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る
諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家住宅の特質を残
す遺構と考えられます。
また、松平大和守家記録による武家住宅の建築規則(明和5年6月2日条)の範囲内
であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家住宅
であることにまちがいありません。
また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地
内は後年植栽が加えられていますが、屋敷回りなど当時の状況をよく保存しています。
現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されて
いません、また、関東圏内でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な遺構と言えます。
     平成18年3月27日指定       川越市教育委員会






         






     時 の 鐘  (川越市指定文化財)
創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げ
てきた小江戸川越のシンボルの時の鐘は川越城主酒井忠勝が、寛永
4年(1627)から同11年(1634)の間に多賀町(いまの幸町)の現
在の場所に建てたものが最初といわれています。現在の鐘楼は、明治
26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもので、平成8年
に、環境庁主催の残したい日本の音風景100選に選ばれました。

住 所 : 川越市幸町15−7
 電 話:049-224-6097 (川越市教育委員会)





              





               






        養 寿 院 (曹洞宗・清龍山)
寛元二年(1244年)、 秩父平氏の末裔河越次郎経重公
(遠江守)が開基となり、大阿闍梨圓慶法印が開いた
古刹である。本堂にある銅鐘は、鎌倉の大仏を作った
丹治久友によるもの。銅鐘の「池の間」に刻まれた
"河越"の文字は、川越の歴史上価値の高いものであり、
国の重要文化財に指定されています。

住 所 : 川越市元町2丁目11−1 電 話 : 049-222-0846





         





         





              






        川 越 熊 野 神 社
「明細帳」という文献に、天正18年(1590年)
蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請し
たことに始まると記されています。地元の人から
「おくまんさま」と親しまれている神社です。

石の突起の足踏み健康ロードが印象的でした。
住 所 : 川越市連雀町17-1 電 話 : 049-225-4975
営業開始: 9:00





         





         





               






小 江 戸 川 越 街 角


            





             





         





           





            





            





         





         





         






        菓 子 屋 横 丁
明治の初めから菓子を製造していましたが、関東大震災で
被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するよう
になり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていた
といわれています。色とりどりのガラスが散りばめられた
石畳の道に、約20数軒軒程度の菓子屋があります。

住 所 : 川越市元町2丁目11
営業開始: 10:00~ 





         





         





               





              






        小 江 戸 川 越 屋
アンティーク、昭和レトロ商品の専門店
菓子屋横丁脇の門前通り(養寿院前)にあります


住 所 : 川越市幸町9-2 電 話 : 049-257-5262
時 間 :AM11:00~4:00   年中無休(雨天休業)





         





               





         





             





         





               






      川 越 菓 舗   道  灌
大正10年川越城跡に店舗を構えた老舗の菓子店で、
名前は川越城を築城した太田道灌からきています。
店頭の大きな白ウサギは発泡スチロールでできています。
玄米を使用したお饅頭は日本唯一「道灌まんじゅう」
だけだそうです。
住 所 : 川越市郭町2-11-3  電 話:049-222-1576
営業時間:9:00~17:30   定休日:月





         





         






           銀  時
フルーツをふんだんに使ったスイーツのお店

毎日メニューが変わります。
看板から美味しい!がほとばしり出ていました。
住 所 : 川越市仲町10-8  電 話:049-298-7732
営業時間:11:00~17:00   
定休日:お休みはインスタでお知らせとのこと





         






おけさ柿がなんと5玉で300円! 
           
 





         






    川越陣力屋 (浪漫石焼)

   店 舗             人 力 車      
 営業時間 11:00~16:00    10:00~16:00 
定 休 日  毎週水曜日、
その他: 12月30日・31日 
  年中無休。但し年末年
を除くその他不定休あり
住 所 : 川越市連雀町11-5  電 話 : 049-225-1015





              





              





             





         






      か  の  ん(鐘つきたこせん)
鐘撞通りのかき氷屋さん
大きなえびせんべいの間にたこ焼きがはさまった
鐘つきたこせんが人気です!
ゴミ箱がユニーク!

住 所 : 川越市幸町15-7  電 話 : 049-225-5952





         





         





              





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栃  木  県

蔵の町&小江戸の栃 木 市      小江戸そば 好古壱番館      史跡足利学校跡

岡 田 記 念 館   あしかがフラワーパーク→
    山本有三 ふるさと記念館

下野新聞社栃木支局    高 平 寺      御菓子処菊家

         栃木市おおひら歴史民俗資料館、栃木市おおひら郷土資料館 白石家戸長屋敷    
 





             史 跡 足 利 学 校 跡
 平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる
足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は
大正10年に国の史跡に 指定されています。天文18年
(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル
により「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」
と世界に紹介されました。
住 所 / 足利市昌平町2338    電  話 / 0284-41-2655

 受付時間一覧→4月~9月 : 午前9時~午後4時30分
10月~3月 : 午前9時~午後4時





         





         





         







          高   平   寺
桜の花のお寺
慈覚大師円仁が9歳まで養育されたお寺だそうです。
慈覚大師の研究で博士号を授与されたライシャワー博士
は駐日大使だった昭和33年(1953年)3月誕生地を訪れ、
慈覚大師を「世界的偉人」と称えられたそうです。
 
住 所 / 栃木市下津原1457  電 話 / 0282-55-2505 





         





         






 中央に岩舟山が見えます。V字に切れているのは
東日本大震災の時にできた割れ目だそうです。
  
          






         






            栃木市おおひら歴史民俗資料館、

栃木市おおひら郷土資料館 白石家戸長屋敷

栃木市おおひら歴史民俗資料館→旧大平町の縄文時代
から近代までの考古・歴史・民俗資料を展示しています。
郷土資料館】およそ2000坪の敷地では、江戸時代の大庄屋
の風格を残す。映画テレビの撮影場所として有名です!
住 所 / 栃木市大平町西山田898-1   電 話 / 0282-43-8686






NO7/10,000部刷って既に
在庫なしの人気です!
 
 
         





         





         





         





         





         





         





         






蔵の町&小江戸の栃 木 市

 小江戸とは江戸時代の風情を残す古い町並みが残る町及び歴史的に江戸との関わりが深い町の事
を言うそうです。江戸時代に栃木が発展した理由は、巴波川(うずまがわ)から利根川に上り
江戸まで材木を運んだ交易都市として又、日光東照宮までつづく例幣使海道の宿場町としての
役割が大きいといわれています。
駅前でレンタサイクル3時間で300円



          






     岡  田  記  念  館
地元で500年以上の歴史を誇る岡田家の3棟の土蔵を公開した資料館。
古くは武士でしたが、江戸時代の慶長年間に、栃木市に移住し荒地
を開墾しました。それ以来代々の当主は嘉右衛門を名乗り、「嘉
右衛門町」の町名の由来となりました。日光例幣使街道が開通す
ると、名主役、本陣を勤め、代官職を代行するようになりました。
館内には、代々の当主が使用した調度品や、貴重な文献、交流の
あった文人、墨客が残した美術品などが展示されています。

住 所 / 栃木市嘉右衛町1-12    電 話 / 0282-22-0001    
開 館 日/土・日・月曜日・祝日     営業時間 / 9:30~17:00 (有料) 





         





         





         





         






  

  
     山 本 有 三 ふるさと記念館
大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、
政治家。日本芸術院会員、文化勲章受章者。 社会劇・歴史劇を
次々に発表し、大正末期より小説家に転じる。戦後貴族院勅選議員
に勅任され貴族院が廃止されるまで務めた。其の後第1回参議院
選挙に全国区から出馬して当選、参議院議員を1期務めた。
住 所 / 栃木市万町5-3   電 話 / 0282-22-8805
休館日/月曜日(祝日の場合、翌日)・ 年末年始(12月29日~1月3日)
営業時間 / 9:00~17:00   
入館料 / 一般個人(高校生以上) 200円/中学生以下 無料
山車会館共通券(一般個人のみ) 550円





         






栃木駅駅前の路傍の石の文学碑
「たったひとりしかない自分を たった一度
しかない一生を ほんとうに生かさなかったら
人間うまれてきたかいが ないじゃないか」







下  野  新  聞  社 栃木支局
登録有形文化財(建造物)で、もとは「毛惣」で知られた肥料商の2代目毛塚惣八
が建設した見世蔵で,墨書から大工棟梁は地元の鈴木七右衛門とわかる。

住 所 / 栃木市万町7-5   電 話 / 0282-20-1023
 


         







下 野 新 聞 と 栃 木
「下野新聞」の前身である「栃木新聞」は栃木町で産声をあげた。いわゆる第一次栃木新聞
である。ここからさほど遠くない栃木町万町一丁目三一七番地の万象堂から一八七八 (明治十一)
年六月一日に創刊された。タブロイド判四ページ、月八回の発行で一部一銭五厘。わずか五カ月
後の第三十七号で廃刊になる。しかし、啓発的新聞の発行をめざした田中正造らは、田中自らが
編集長に就き、七十九 (明治十二) 年八月二日、栃木町旭町一丁目一五九番地の共進社から第二次
栃木新聞を発行した。第二次栃木新聞も経営難で経営陣を刷新したものの台所は火の車こうした
中、足利町四丁目で「足利新報」を発行していた旭香社と合併する。八二 (明治十五) 年九月八日、
社名を旭香社と変え第三次栃木新聞が生まれた。八四 (明治十七) 年一月、県庁が栃木町から宇都宮町
に移転したため、宇都宮移転を決定、「下野旭新聞」を発行していた鶏鳴社と合併し社名を旭香社
とした。同年三月七日、題字を 「下野新聞」 として第一号が誕生した。 「下野新聞」は県民の支持
の下、その後順調に発展、今日に至っている。

付 記
 本建物は元肥料豪商で知られた毛塚惣八が建てた蔵屋敷を修復したものである。毛塚家は、江戸中期
後半から昭和まで続いた県内きっての肥料・麻苧の豪商であり「栃木の毛惣」とまでいわれた。
表通りの 「見世蔵」は二代目惣八が一八六一 (文久元)年六月に建築したもので、
直径四〇センチを超える長さ九メートルの松の梁には 「文久元年辛酉六月吉日 毛塚二代目惣八建立 
棟梁鈴木七右衛門作仕事師関口幸助」と記してある。一九九九年三月の創刊一一五周年を記念して当
見世蔵を支局とした。
下 野 新 聞 社
 






       御 菓 子 処  菊 家
蔵などが残る巴波川沿いにあります。
住 所 / 栃木市湊町2-13    電  話 / 0282-23-5652
営業時間
/9:00~5:00    定 休 日/水曜日  





             





菊屋さんのお店の前の巴 波 川

         






                    小江戸そば 好古壱番館
大正12年に建てられた洋館を利用した食事処です。
手打ちそばの他、とちぎ江戸料理メニュー「ごぼう餅」
、ジャガイモ入り焼きそばなどがあります。
住 所 / 栃木市万町4-2     電 話 / 0282-24-1188
営業時間 : 11:00~15:00    土日祭日 / 11:00〜15:30
定 休 日 / 火曜(祝日は営業)
 





         





         






       あしかがフラワーパーク
栃木県足利市堀込町(現:朝倉町)に 「早川農園」 として
1968年に開園。以来 「250畳の大藤」 として愛されておりま
したが、都市開発の為 1997年に現在の足利市
迫間町(はさまちょう)
に移設し、「あしかがフラワーパーク」 としてオープンしました。

アメリカのCNNにより、「世界の夢の旅行先10ヵ所」に日本から
唯一選ばれたそうです。
 
住所 / 足利市迫間町607     電話 / 0284-91-4939 
営業時間 / 7:00~21:00  (ライトアプ期間以外は18:00まで)
 





          
あしかがフラワーパークホームページより 






         











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 秋 田  県

角館の武家屋敷 




       角 館 の 武 家 屋 敷 
みちのくの小京都と呼ばれています。この武家屋敷群の表通り
は、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けており、
文化財として保護されています。元和6年(1620)江戸時代の
はじめ、芦名氏により大規模な都市計画が実施され、その後
は佐竹北家の城下町として栄えました。保存地区は旧武家町
のほぼ中央にあり上・中級武士の武家屋敷にあたるところで
す。広い通り沿いに塀が連続し、シダレザクラやモミの
大木が深い木立を形成しております。
 





         





         





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 足 立 区

千住宿歴史プチテラス    ギャラリー千住宿歴史プチテラス    千住名倉医院

横 山 家 住 宅     足立区立柳原千草園





       千住宿歴史プチテラス
純和風の前庭と奥庭を配し、ツツジ、モミジ、ウメモドキ
など四季折々の彩りが美しいプチテラスです。
千住宿・伝馬屋敷の面影をのこす、横山家の土蔵を
“蔵造りのギャラリー”として復元しました。

住所 / 足立区千住河原町21ー11(千住大橋駅より徒歩3分)





                   





                    





             





やっちゃばの風俗展

              





            





                    





            





               





                    





         





         





         





        

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ギャラリー千住宿歴史プチテラス
生々流転 フラックス展
all things are in a state of flux /万物は流転する

2024年3月  13:00~19:00  (最終日 17:00)
9日(土) 10日(日)  15日(金)  16日(土)  17(日) 18日(月) 19日(火)
  20日(水、祝日)
9日 17:00~ギャラリートーク   18:oo~オープニングセレモニー

         





 

Introduction: ごあいさつ
「Flux Show / 生々流転」 開催にあたって
この度はコンテンポラリーアートグループ「フラックスメンバー」主催、
「フラックス展/生々流転」にお越しいただき誠にありがとうございます。
 歴史あるギャラリー千住宿プチテラスにて、展覧会開催が実現できたことを、非常に喜ばしく思っております。
展示されているのは、今創り出されていく作品の数々です。一世紀以上も前の博物館に所蔵されている評価済み
のものではなく、貴方と同時代に、此処で、貴方が生きる社会の中で、まさしく今、生まれてきた作品達です。
それらは狭い作家のアトリエから解き放たれ、貴方の目に触れたいと、貴方との出会いを望んでいます。
そんな作品群を紹介していこうとのコンセプトのもと開かれた展覧会です。
今回のテーマは「フラックス/生々流転」
すべてのものは流れていく、始まりと終わり、出会いと別れ、生まれる時があれば、死ぬ時がある。
季節の様に移り変わり繰り返す。何ものも絶えず変転してやまない。だが同じ時は二つとして訪れないのである。
All things are in a state of flux. (万物は流転する)
ご来場の方々に楽しんでいただき、皆様の記憶に少しでも残る作品があれば嬉しく思います。
この展覧会の開催にあたり、ご支援ご協力賜りました関係各位、そして本展覧会を実現するために、
多大なるご尽力をいただきましたガラス工芸家野口均先生に厚く御礼申し上げます。また、何よりも
本展覧会に足をお運びいただき、私達の作品を見てくださった皆様に心から感謝を捧げます。
コンテンポラリーアートグループ 「フラックス」
五十嵐靖喜、石黒英子、岩田信一、太田博健、大谷浩平、おかえさつき





五 十 嵐 靖 喜

            





石 黒 英 子

      

FLUX SHOW

「生々流転」フラックス展

本日はご来場いただき誠にありがとうございます。

「誰が何と言おうと構わない。たとえ無言であっても(多くの場合そうであるのだが)
。私は私の描くものを描く」段々と、こんな姿勢になってきました。今回展示させて
いただいた作品のコメントです。

「美しき人」油彩
人物は亡き姉です。最も美しき人です。蓮の池は開花の時期の上野公園不忍池を
思い出して描きました。〖とっても綺麗なところで恍惚の表情を浮かべてもらうんだ〗
との気持ちで、実際は泣きながら描きました。

「荒川土手」油彩
荒川下流が私の住む地域です。すさんで汚い河川敷で、雨風に晒され、どれだけ
虐げられようと、力強く光へと手を伸ばす。その乾き切った葦の群生の生命力に
我々を見た気がします。

「パッセンジャー」写真
パッセンジャー。さすらい、旅人、異邦人、乗客、通り過ぎるだけの人、足手
まとい、孤独。なんと訳すか?この作品を創っている時はイギーボップの
パッセンジャーを聴いていました。

「フラックス」印画紙版画

フラックス、流動。本展覧会のタイトル作品です。「アナ、カミールと私 
部屋&空気」エッチング、アクアティント私にはこう見えました。あなたには
どう見えますか?私の作品が皆様のお目に触れる機会が持てたことを、大変嬉
しく思っています。また、この展覧会の開催に向けて一緒に頑張ってきたグループ
の仲間達、協力、応援してくれた皆、そして、展覧会を見に来てくださった
すべての方々に心より感謝します。
最後に「すべての芸術には、詩がなくてはならない」

                       20243月  石黒 英子 






              





岩 田 信 一

                      





太 田 博 健

             





大 谷 浩 平

                  





お か え さ つ き

               






オープニング
ハーモニカの岩田信一さんと劇朗読のルネ・シェヴィリコフスキさん
絵の中に溶け込んだ演奏が良かったです!


             






       千 住 名 倉 医 院
文化の遺産を伝えた。たたずまいと文化と美術を今に
伝える史跡である。

ギャラリー千住宿歴史プチテラス・生々流転 フラックス展
の帰り道で出会いました。旧日光街道の荒川の土手の
手前にあります。

住 所 / 足立区千住5-22-1
fax.03-3888-7713
 





         







千 住 名 倉 医 院(せんじゅなくらいいん)
 
骨接(ほねつ)ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は
関東一円に有名である。下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便が
よかったため、駕籠や車で運ばれてくる患者がひしめいていたという。門前の広場は、
これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。
名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、享保(きょうほう)年中(一七一六~三六)に千住へ移り、
明和
(めいわ)
七年(一七七〇)に業祖名倉直賢(なおかた)が接骨医を開業したと伝わる。
三代尚壽が嘉永(かえい)元年(一八四八)に将軍家御成のために創建した母屋や、長屋門が
現存し、昭和五十七年十二月に足立区登録記念物(史跡)となった。
名倉家当主は、業祖直賢以来代々「素朴」を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々な人々と
交流した。特に四代彌一(やいち)の交流は幅広く、松方正義、橋本雅邦、菱田春草、
横山大観といった当時を代表する人々から還暦を祝う書や画の色紙を贈られている。
彌一と子の謙蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や美術家・岡倉天心、千住の琳派(りんぱ)
絵師・村越向栄(むらこしこうえい)と親交し美術や文化の遺産を伝えた。
 千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。
   令和三年三月
        東京都足立区教育委員会





             






       横 山 家 住 宅
横山家住宅(足立区登伝録有形民俗文化財)は、宿場町の名
残として、伝馬(てんま)屋敷の面影を今に伝えている。
住 所 / 足立区千住4丁目28−1





             





         





         







横 山 家 住 宅(よこやまけじゅうたく)
横山家住宅(足立区登伝録有形民俗文化財)は、宿場町の名残(なごり)として、
伝馬(てんま)屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、
各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が
与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、
伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙(じすきかみ)
問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を
下から迎える形となる。これはお客様をお迎えする心がけの現れという。また、
横山家の敷地は、間口が十三軒(約二十三・五メートル)、奥行きが五十六軒
(約一0二メートル)で(うなぎ)の寝床(ねどこ)のように長い。現在の母屋(おもや)は、
江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(一九三六)に改修が行われている。
間口が九間(約十六メートル)、奥行きが十五間(約二十七メートル)あり、大きくて
どっしりとした桟瓦葺(さんかわらぶき)の二階建てである。広い土間、商家の
書院造りと言われる帳場(ちょうば)、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格
を感じる。上野で新政府に敗れ、敗走してきた彰義隊(しょうぎたい)が切りつけた玄関の
柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾(しょういだん)が貫いた屋根なども残っており、
風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。

      令和元年十二月
             東京都足立区教育委員会







       千住絵馬屋・吉田家
吉田家は江戸中期に際物問屋として開業し、
絵馬のほかにも行灯や凧などを作ってきました。
足立区千住4丁目15−8
電話番号: 03-3880-5984






             





 

千住絵馬屋(せんじゅえまや)吉田家(よしだけ)
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯(じぐちあんどん)や凧などを描いてきた
際物問屋(きわものどんや)である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内に
ほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、
先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲した伝統を守り続けており、昭和五十
八年(一九八三)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。
 絵馬は、縁取りした経木(きょうぎ)に、胡粉(こふん)と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、
千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願
する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、
吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。
地口は江戸時代に流行したダジャレの1種である。ことわざや芝居の台詞、
格言等を似た音に置き換をえたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の
行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午(はつうま)の
祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際
に飾られ、千住の街を灯している。
   令和二年三月
          東京都足立区教育委員会






       足立区立柳原千草園
四季をテーマにした園内には、「春の広場」には
ロウバイやさくら、「夏の庭」にはシャクナゲや
アジサイ、「秋・冬の山」の植栽区域があり、
四季折々に花や木が楽しめます。
足立区柳原1丁目21−26
電話: 03-3880-5845





             





              






               





             





      

この公園は、製紙工場跡地を足立区が買収し、平成元年
六月に開園しました。住宅や工場が混在し、密集してい
る地域の中で、身近に水と緑に親しめるとともに、
自然の植物が観察できる公園として計画しました。
左図の様に、季節ごとに植物の様々な姿が見られる
ように配植し、サクラやシャクナゲ、モミジ、水辺の
草花など、数々の植物がうえられていることから、
公園名を「柳原千草園」と命名しました。






             





         






                                               クリック印
 江 東 区 (東京都)

江東区芭蕉記念館      芭蕉庵史跡展望庭園      渋沢栄一旧居跡

亀戸天神社       清 洲 橋      佐久間象山砲術塾跡

小松橋・扇橋閘門(こうもん)      中川船番所資料館     亀戸梅屋敷


亀戸銭座跡
        船 橋 屋       亀 戸 升 本

江戸懐石・若 福     京菓子・彦 九 郎 (新 大 橋 店)     
 





東都名所 亀戸梅屋舗ノ図 /歌川広重 初代  
       亀 戸 梅 屋 敷 跡
江戸時代、呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」があり、
広さ3600坪の庭園に300株にものぼる見事な梅の木々が生えて
いました。立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や竪川
を船でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。
特に庭園のなかを数十丈(150m)にわたり枝が地中に入った
り出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけこの地を訪れた
水戸光圀は、まるで竜が臥しているようであると感嘆し、その
木に「臥竜梅」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、
一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環に
なぞらえ、「世継ぎの梅」と命名し賞賛したそうです。

住 所 / 江東区亀戸3丁目





         







江東区登録史跡
梅 屋 敷 跡   亀戸三―四0、五0~五三付近
梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋弥彦右衛門の
別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれる
ようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわ
っているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、八代将軍徳川吉宗も
鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、
その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重
はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしら
った錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治四三年(一九一0)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に
浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園
となりました。ここに残る石標柱は、江東区創立十周年を記念して、昭和三三年に建てられたものです。
    平成二一年三月    江東区教育委員会
  






 東都名所  亀戸梅屋舗全図  歌川 広重 初代 
            
東都名所 梅屋舖満花之図
歌川 広重 初代
 






       名所江戸百景 亀戸梅屋舗
歌川広重 初代
 


浮世絵師・歌川広重が安政三年(1857年)に描いた
『名所江戸百景』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代
に海を越え、フィンセント・ファン・ゴッホが模写
(作品名「日本趣味:梅の花」/1887年)するな
ど、世界から評価された傑作と言われている。


 






江戸むらさき名所源氏
亀戸梅屋舖 見立梅かえ
歌川広重 初代 
 
 



     
 
江戸自慢三十六興 梅やしき漬梅
歌川広重 2代
歌川国貞 初代
      
東都三十六景 亀戸梅やしき
歌川広重 2代
 







        亀  戸  天  神  社
一般には「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」と呼ばれ、
親しまれ、天満大神(菅原道眞公)、天菩日命(菅家の
祖神)を奉祀ししています。
寛文3年(1663)に神殿・
反橋、心字池など九州太宰府天満宮に模してつくられ
たそうです。新東京百景に選ばれています。
梅まつり/2月中旬~3月中旬:藤まつり/4月下旬~5月上旬
菊祭り/10月下旬~11月下旬
住 所/ 江東区亀戸3-6-1  電 話 / 03-3681-0010
 
 





         





         






 銀世界東十二景  亀井戸天満宮境内一覧
歌川広重 初代
 
          
 江戸高名会亭尽  亀戸裏門
歌川広重 初代
  






東都名所 亀戸天満宮境内全図
歌川広重 初代
   
          
江戸名所 亀井戸天神ふし
歌川広重 初代
  





 
東都名所合 亀井戸
歌川国貞 初代 
              
江戸自慢三十六興 亀戸初卯詣
 歌川広重 2代
   歌川国貞 初代
           
名所江戸百景 亀戸天神境内
歌川広重 初代
 
 






江戸名勝図会 亀戸天神
歌川広重 2代

 
              
東都名所
亀井戸池中藤花之盛
歌川広重 初代
  
              
東都三十六景 亀戸天満宮
歌川広重 2代

 






 亀戸藤乃景   歌川国貞 初代 
          
 亀戸藤ノ真盛  歌川国貞 初代 






        江 東 区 芭 蕉 記 念 館
3階の常設展示ではパネルなどにより、俳聖・芭蕉についてわ
かりやすく展示しています。庭には芭蕉の句に詠まれた草木
が植えられており、四季折々の草花を楽しむことができ、
芭蕉庵を模した祠と芭蕉像及び句碑が3基あります。

開業: 1981年4月19日  営業時間:9:30~ 17:00
江東区常盤1丁目6−3  電 話: 03-3631-1448

芭蕉歴史跡展望庭園分館→常盤1-1-3 





         





         





         





         












       
芭 蕉 庵 史 跡 展 望 庭 園

園内には芭蕉翁像と芭蕉庵を描いた絵のレリーフがあり、
隅田川と小名木川を臨むことができます。
閉園後は、芭蕉像がライトアップされます。
営業時間:9:15~ 14:30
入園料無料
住 所 / 江東区常盤1丁目1−3






         





         





              





         





         





         






          渋 沢 栄 一 旧 居 跡
明治9年(1876)に屋敷を購入して修繕した後本邸と
した所で、明治21年(1888)に本邸を中央区兜町に移
したのちは別邸として利用しました。

住 所 / 江東区永代2-37
  





         





      


渋 沢 栄 一 宅 跡(しぶさわえいいちたくあと)
                         永代2-37
渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保(てんぽう)一一年( 一八四〇 ) 武蔵国
榛沢郡血洗島村
(むさしのくにはんざわぐんちあらいじま)
( 深谷市 ) に生まれました。二五歳で一橋家
に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年
( 一八七三 ) に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代産業の確立に力をそそぎました。
晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年 ( 一九三一 ) 九二歳で没しました。栄一は、明治九年 ( 一八七六 )
に深川福住町 (永代二) の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二一年 ( 一八八八 ) には、兜町(かぶとちょう)( 中央区 ) に本邸を移したため、深川邸は別館として利用されました。栄一と本区との関係は深く、
明治二二年 ( 一八八九 ) から同三七年 ( 一九〇四 ) まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の
発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三十年 ( 一八九七 )、当地に
渋沢倉庫部を創業しました。大正五年 ( 一九一六 )、実業界を引退するまでに五百余の会社設立関与した
といわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会
社・旭焼陶器組合などがあげられます。
 平成二一年三月          江東区教育委員会





          





       

澁澤倉庫発祥の地
 「わが国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全な発達が
不可欠だ」日本資本主義の生みの親である、澁澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月、私邸に
澁澤倉庫部を創業した。この地は、澁澤倉庫発祥の地である。澁澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷
市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。この藍玉の商いをすると
きに使用した記章が?(ちぎり・りうこ)であった。明治四十二年七月、澁澤倉庫部は澁澤倉庫株式会社
として組織を改めたが、この?の記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。
澁澤シチィプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
        平成十六年四月吉日
          澁澤倉庫株式会社
 






        佐 久 間 象 山 砲 術 塾 跡(さくましょうざんほうじゅつじゅくあと)
幕末の兵学者・思想家として著名な佐久間象山が
西洋砲術塾を開いた信濃国
(長野県)
松代藩下屋敷
があった場所です。
住所 / 江東区永代1-15-2





         





       

江東区登録史跡
 
佐久間象山砲術塾跡(さくましょうざんほうじゅつじゅくあと)     永代1~14付近
                                
この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国 (しなののくに)(長野県) 松代藩下屋敷(まつしろはんしみやしき)
があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化(ぶんか)
八年 (一八一一)
松代城下で生まれ、名は(ひらき)、通称は修理(しゅり)、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。
天保(てんぽう)四年 (一八三三) 江戸へ出て佐藤一斎(さとういっさい)朱子学(しゅしがく)を学び、同十
三年 (一八四二) 、藩主真田幸貫(さなだゆきつら)より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・(しん)国間で勃発したアヘン戦争 (一八四〇~四二) に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、九月には
江川太郎左衛門
(えがわたろうざえもん)
(英龍(ひでたつ)坦庵(たんあん)) に入門して西洋砲術を学びました。嘉永(かえい)三年 (一八五〇) 七月、深川小松町(ふかがわこまつちょう)(永代一) の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟(かつかいしゅう)も入門しました。同年十二月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(こびきちょう)(中央区) に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰(よしだしょういん)坂本龍馬(さかもとりょうま)加藤弘之(かとうひろゆき)など多彩な人物がいました。安政(あんせい))元年 (一八五四) 、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。
元治(げんじ)元年(一八六四) に(ゆる)され、幕府に招かれて京都に上りましたが、七月十一日、
尊王攘夷派浪士
(そんのうじょういは)
に暗殺され、五四歳の生涯をとじました。
     平成二一年三月         江東区教育委員会
 






      清 洲 橋(きよすはし)
深川の清澄町と日本橋中洲町の間に架けられたことから
清洲の名が付けられた清洲橋は、昭和三年(一九二八年)
三月に完成されました。ドイツのケルン大吊橋をモデル
として関東大震災の帝都復興事業として計画され、平成
十九年(二〇〇七年)には昭和初期を 代表する橋として
永代橋、勝鬨橋とともに国の重要文化財に指定されました





          






          小 松 橋・扇 橋 閘 門(こうもん)
小名木川の新扇橋と小松橋間に位置し、東西の
水位差を調節して船の通航を可能にする施設です。
通航できる船舶は長さ90m、幅員8m、
高さA.P.+4.5m以下となります。
所 在 地→猿江二丁目~扇橋一丁目間小名木川
 





         





         







扇 橋 閘 門(こうもん)
江東区は、東側が地盤が低く西側が高い地形になっています。そこで昭和46年策定の江東内部
河川整備計画では、東側を常に水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感潮部を耐震
区域として整備をすることになりました。この閘門は、両区域の接点に当たる小名木川の中間
に位置し、水位差を調整して船舶の航行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年
3カ月の歳月を費やして昭和52年に築造されたものです。この方式はパナマ運河と同じです。
  






       江東区中川船番所資料館
(公益財団法人 江東区文化コミュニティー財団)
江戸時代、小名木川を通る船の取り締まりを行った中川船
番所跡の北側にたてられた資料館は、中川船番所の一部
を再現したジオラマ及び水運や江東区の歴史に関する
資料を収集、保存及び展示することにより区民の歴史や
文化に対する知的要求にこたえるために設置されました。
住 所 / 江東区大島9-1-15
電 話 / 03-3636-9091
  





         





         





         





         





         





         





         





         





         






        亀 戸 銭 座 跡
「銭座絵巻」(享保13年(1728年))より銭座で行われ
ていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く)
作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を
参考にして描かれたレリーフです。
寛永13年(1636年)に銅銭が本格的に鋳造されました。
そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と
称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されています。
住 所 / 江東区亀戸2-6
 





         





         






        江戸懐石 若  福
由緒ある亀戸天神の境内に在り、窓から見える
絶景を楽しみながらお食事が頂けます

・ランチメニューもあります。
   住所 / 江東区亀戸3-6-4(亀戸天神内)
電話 / 3685-3354   定休日 / 毎週月曜日
駐車場 / 完備 
 
 





         





         






               亀戸 升 本 本 店

亀戸大根のお店で両国他あちこちにあります。
住所 / 江東区亀戸4-18-9
電 話 / 3637-1533   定休日 / 毎週月曜日
  
 


亀戸大根は、文久年間(1861~1864)の頃、香取神社周辺で栽培され始め、
さかんに栽培された明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」と呼ばれていましたが、
大正初期に産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。明治38年、
酒屋としてこの地亀戸に創業した升本は、「亀戸大根」を契約農家で栽培し、
「亀戸大根あさり鍋」等をメニューとしています。



         





         






        元祖くず餅 船 橋 屋
亀戸天神参道に文化2年(西暦1805年)に開店した
亀戸天神前本店は創業から二百年あまりたちます。
住 所、フロア:江東区亀戸3-2-14
電 話 / 03-3681-2784
営業時間 / 9:00~18:00  お召上がり/ 9:00~17:00


文化二年(1805年)十一代将軍徳川家斉の頃創業。初代の勘助の出身地は下総国
(千葉県北部)の船橋で、当時下総国は良質な小麦の産地でした。勘助は、亀戸天神が梅や藤
の季節に参拝客でにぎわうのを見て上京し、湯で練った小麦澱粉をせいろで蒸し、黒蜜きな粉
をかけて餅を作り上げました。それがまたたく間に参拝客の垂涎の的となり、いつしかくず餅
と名づけられ、江戸名物の一つに数えられる程の評判になりました。



          





          





          






     京菓子 彦 九 郎  新 大 橋 店

美味しそう、食べてみたいという思いが湧き出てきました!
お店の中の和菓子巡りをしようと思いました。
営業時間 日、火~土9:00~19:00
定休日 / 月曜日
住 所 / 江東区新大橋1-4-16  電 話 / 03-3634-3633





         





         





         





         





         





                                           クリック印
 台東区 (東京都)

平成中村座発祥の地記念碑   花 の 碑    正岡子規の句碑   アンデス 

待乳山聖天(まつちやましょうでん)    台東区立山谷堀公園     今 戸 橋 跡

竹屋の渡し    
山の宿の渡し     文庫や大関     madei までい  





     平成中村座発祥の地記念碑
記念碑の高さは十八世勘三郎の背丈と同じで、
「一味徒党の連判状」と題して、募金者の氏名を記した
巻物が碑の下に納められています。記念碑の建立にあわ
せて浅草公会堂前に勘三郎の顔を模した「鼠小僧の像」
の除幕式も行われました。
住 所 : 台東区浅草7丁目1番 隅田公園





         





 

平 成 中 村 座
発祥の地の碑
「江戸時代の芝居小屋を現代に復活させ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでもらいたい」
十八世中村勘三郎丈(当時勘九郎)の抱いてきた夢が「平成中村座」として二千年十一月、
ここ山谷堀に実現しました。第一回公演は、『隅田川続佛 法界坊』でした。 





         





         






     花 の 碑
武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。武島羽衣は、
明治5年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、
美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽
学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、
同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。
羽衣28歳、滝廉太郎21歳の時であった。
台東区浅草7丁目1番 隅田公園





         





          





        

花 の 碑
                  台東区浅草7丁目1番
春のうららの隅田川
    のぼりくだりの舟人が・・・
 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年(1956)11月3日、
その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。武島羽衣は、明治5年、
日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽学校
(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。
羽衣28歳、滝廉太郎21歳の時であった。滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られて
いるものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年(1903)6月29日、
24歳の生涯を閉じた。武島羽衣はその後、明治43年から昭和36年退職するまでの長い期間、日本女子大学
で教鞭をふるい、昭和42年(1967)2月3日、94歳で没した。手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。
その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。
 平成11年3月
                               台東区教育委員会


MONUMENT OF "HANA"
The monument of "HANA" was built in honor of Takeshima Hagoromo,a songwriter and professor,
by his former students in 1956. He wrote a famous Japanese song titled "Hana", which lyrically expressed the beauty of the Sumida RIver; it starts "Sumida flowing through the warmness of
spring time while many people on boats moving upstream and downstream are enjoying the spring
and nature." Composer of this song was Taki Rentaro, an assistant professor of Tokyo Music School
(presently Tokyo National University of Fine Arts and Music) , and Hagoromo also became the professor
in the same school (Tokyo Music School) in 1897. Both of them worked together and completed the
song "HANA". Hagoromo was born in the family of a cotton cloth wholesaler in Nihonbashi in1872. He
became a scholar on Japanese literature and was also known as a writer with an expressive lyrical style.
The monument has his own writing copied and sculptured ont the stone.
 





正 岡 子 規 の 句 碑
雪の日の隅田は青し都鳥

都鳥(みやこどり)とは、ユリカモメのことで、冬になると沢山のユリカモメが渡ってきます。

           






        文 庫 屋  大 関
お店の中は異次元の世界!素晴らしい沢山の作品に出会えます。
姫路の牛革を使い、型押しをして、一筆一筆手作業で彩色を施し、
漆と真菰を使った錆入れの工程を経て、一枚一枚手作業で
仕上げていく伝統的な工程を頑なにこだわり続けています。

高級革財布、ハンドバッグ、アクセサリーなどの小物類を販売。

文庫革は漆を使った皮革工芸品です。
住 所 / 台東区浅草浅草2丁目2−6
電 話 / 03-6802-8380    定 休 日 / 水曜日
営業時間 / AM 10:00 ~ PM 18:00





                        





         





                





         





文庫屋「大関」/ 有限会社田中商店
墨田区向島1-15-9 TEL:03-3625-8238


            





         





             






      待 乳 山 聖 天(まつちやましょうでん)
正式には本龍院といい、浅草寺の支院のひとつである。
古くから名所として文人墨客に愛され、多くの絵画や歌
の題材となった。歌川広重の絵に描かれている築地塀も
境内に残っている。
住 所 : 台東区浅草7丁目4−1
電 話: 03-3874-2030
時 間: 6:00~





         





         





         





               





 

待 乳 山 聖 天
台東区浅草七丁目四番一号  本龍院
 待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は
縁起によれば、推古天皇九年(六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、
十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」
として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、
江戸時代には東都髓一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなって
いる。とくに江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
哀れとは夕越えて行く人も見よ
        待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか石造出世観音立像、トーキー
渡米の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の
意匠は当時の御利益を示すもので、大根は健康で、家和合、巾着は商売繁盛を表わす
という。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。なお、震災・戦災により、
本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
   平成十一年三月
             台東区教育委員会


MATSUCHIYAMA SHODEN
Matsuchiyama Shoden is of the subordinate tenmples of Kinryusan Sensoji Temple.
Its proper name is Matsuchiyama Honryuin.Located alongside the Sumida River
and near the Takeya Ferry. It was
called a noted place featuring a good view in the
Edo Era.Here there aremany NIshikie prints of the Edo Era and poems by famous
men of letters and painters like Toda Mosui dealing with the scenary of this place.
Its mainbuilding was destroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Seconed

World War. But it was rebuilt in 1961.Radishes seen in its compounds are known
as the symhol of health and
family harmony while purses represent
commercial success.





         





               





池波正太郎生誕の地

         





 

池波正太郎生誕の地
作家・池波正太郎(1923~1990)は、大正12年旧東京市浅草区聖天町61番地に生まれ
ました。この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、その
後も少年期・青年期を台東区で暮らしました。昭和35年(1960)、「錯乱」で直木賞を
受賞し、「鬼平犯科帳 「剣客商売」「仕掛け人・藤枝梅安」などの人気シリーズを
はじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出し、このあたりもたびたび舞台として
描いています。「大川と待乳山聖天」
というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川 (隅田川) の水と待乳山聖天宮
は私の心のふるさと
のようなものだ」と記しています。生家は、待乳山聖天公園の南側 (現台東区浅草
7丁目3番付近)にありました。
               平成19年11月
                  台東区





旧 町 名 由 来 案 内

        旧町名由来案内
下町まちしるべ
旧 浅草聖天町(あさくさしょうでんちょう)、浅草聖天横町
本町の起立年代は不祥である。寛文図に「聖天丁」と記載があるので、かなり
古く開かれた町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天
宮の正式な名称は本龍院といい、聖天宮は聖天を安置していることによる。
金龍山あるいは待乳山と号し、浅草寺の子院である。待乳山は隅田川西側の
小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの
待乳山の上にある。「浅草聖天町」昭和23年(1948)に浅草山川町、同金龍
山下瓦町、同山ノ宿町の北隅を合して誕生した。「浅草聖天横町」浅草聖
天町の西側続地であり、町の地形から横丁とつけられた。起立年代はわか
らないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治5年(1872) ,浅
草寺子院の遍照院を合併して町域を広 



   





         





             





         





戸 田 茂 睡 歌 碑 
茂睡は元禄の頃活躍した歌人で歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と
称されたが、戦火に遭い昭和30年(1955)拓本をもとに再建された
あはれとは夕越えて行く人も見よ まつちの山に残すことの葉


           





日本藝術院会員 佐々木信綱の撰文による歌碑再建の碑

 

紫の一もとをもみしてゆかり深き江戸の名勝をたゝへ、梨本集を著して近世歌学の魁
となしゝ元禄の歌人戸田茂睡翁は、浅草に住みこの待乳山の風光をめでゝ御堂の傍に
歌碑を建てたりき。その石後にそこなはれしも寛政九年姪孫櫛分規貞石室をつくりて
三面を覆ひたりしが、昭和二十年三月戦災にあひて殆ど湮滅に及びぬ。ここより本龍
院住職平田真徳師光住乃息横田真精師等発起して再興をはかり、今年翁の二百五十年
忌に刻石再び新たに成れり。かくれづの翁かくり世にして喜びほゝえみてあらむ
    とこしへ尓かれじくちせじ霊ごもる 
       まつちの山乃やまと言の葉
   昭和30年4月14日
                       日本藝術院会員 佐佐木信綱撰
                                 芳翠英書





            

左側の石碑は戸田茂睡の歌碑
真中・・・日本藝術院会員 佐々木信綱の撰文による歌碑再建の碑
右側の木札・・・
茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と
称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建されたと書かれてある。






「東京風景六 待乳山から隅田川」
        大正五年 (1916) 5月
            織田一麿 画


         





 


糸  塚
  十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
この糸塚は元字元年十一世杵屋六左衛門が
父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為
建立せるものとして
十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三弦の
名人と云われた人である
      昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記






       台 東 区 立 山 谷 堀 公 園

かつて山谷堀と呼ばれる水路でしたが、経済成長に伴う
水質汚濁と悪臭の為、昭和51年(1976)頃から暗渠化
されました。
住 所 : 台東区東浅草1丁目4−9

 





            





           


        

ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と
悪臭が問題となり、東京都により昭和51年 (1976) 頃から暗渠化された。区がそ
の上部を公園として整備し、昭和52年以降に山谷堀公園として開園した、
幅約9メートル、長さ約740メートルの後援である。平成29年 (2017) から令和2年
(2020) 、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、
春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている.
埋め立てる前の山谷堀には、下流から、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・
紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本提橋の9つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い、
全て取り除かれている。公園の両側にある護岸や橋の親柱が、水であった面影を残している。
    (※欄の読みについては、橋名板のとりとしている)


A canal calld Sanyabori used to flow here, but urbanization caused it to become
polluted and smellyand the metropolitan government covered it over in 1976.
From the following year, Taito City created Sanyabori Park above the waterway,
a ribbon of parkland 9 meters wide and about 740 meters long. The park was
undergoing through a renewal from 2017 to 2020.Lined by cherry trees stretching
to Sumida Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with
Tokyo sky tree in the background. park was undergoing through a renewal from
2017 to 2020, Lined by cherry trees stretching to Sumida Park, it is renowned for
springtime views of cherry blossoms with Tokyo Sky Tree in the background.
Nine bridgs spanned Sanyabori before it was covered. Starting at the downstream
end, they were theImado Bridge, Shoten Bridge, Yoshino bridge, Shohoji Bridge
Sanyabori Bridge,Kamiarai Bridge, Jikata-shinbashi Bridge, Jikata Bridge, and
Nihontsutsumi Bridge. The bridge revetments and pillarsremain providing
lasting images the former waterway.





         






      今 戸 橋 跡
山谷堀の最も下流、隅田川と山谷堀が合流する
ところに架かっていた橋で、山谷堀が埋め立てられた
為、親柱が記念に残っています。
台東区浅草7丁目4番 隅田公園





         





         





 

          
歌川広重 
江戸名所図絵より
 

 
井上安治 今戸橋雪
             
今戸橋(昭和49年撮影)

今 戸 橋 跡
Imado Bashi Bridge Ruins

今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された
時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記載が残っています。この橋の下を
吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人
通る」というほどのにぎわいだったと言われています。現存する欄干は、大正15年(1926年)に
竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1978年)現在のような形となりました。






      竹 屋 の 渡 し
「向島の渡し」とも称され、隅田川にあった渡し舟の
ひとつ。
待乳山聖天のふもとにあったことから
待乳(まつち)の渡し」とも称された。「竹屋」の名は
付近にあった茶屋の名に由来する。山谷堀口から 向島

三囲(みめぐり)神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
住 所 : 台東区浅草7丁目1番 隅田公園
 




            







竹 屋(たけや) (わた)
台東区浅草7丁目1番 隅田公園
 
隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から 向島三囲(みめぐり)神社 (墨田区向島2丁目)
の前あたりを結んでいた。明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり、同年発行
『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き『待乳(まつち)ノ渡、竹家ノ
渡トモ云』と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡し」とも呼ばれたようで
ある。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは
待乳山(まつちやま)の麓にあたることに由来する。 「渡し」の創設年代は不明だが、 文政
年間 (1818-1830) の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに『竹屋のわたし』
の名が見える。江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さま
ざまな文学や絵画の題材となり、その中には『竹屋の渡し』を描写したものも少なくない。
昭和3年言問橋の仮設にともない、渡し舟は廃止された。
             平成14年3月  
                               台東区教育委員会


The Ferry of Takeya
The Ferry of Takeya, also called the Ferry of Matsuchi, was one of the many ferries
operating on the Sumida River. It connected Sanyabori and Mukojima Mimeguri Shrine.
The name Takeya is said to have been derived from the name of an inn in Sanyabori.
The name “Matsuchi” came from the location of the ferry, which was below Matsuchiyama
Shoden. It is unknown when the ferry service actually began, but the business continued
until the Kototoi-bashi Bridge was constructed in the early Showa Era.
 






     山 の 宿 の 渡 し
渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、
その町名をとって命名されました。花川戸の渡し
と称されたり、東岸の船着場が北十間川の枕橋の
たもとにあったので「枕橋の渡し」とも称されました。
台東区花川戸1丁目1





         







山 の 宿 の 渡 し
                   台東区花川戸1丁目1番

隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。 明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」
は、 隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡,枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は 吾妻橋上流約250
メートル。 浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山の宿町
といった。渡しの名はその町名をとって命名。 別称は、 東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。
枕橋は 墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。渡船創設年代は
不明。枕橋上流隅田河岸は、 江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に
人出が多く、山の宿の渡しは それらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設と
みなせるが、 天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」は この渡しを描いていない。
平成4年11月 
                                 台東区教育委員会


Yamanoshuku no Watashi Ferry

In the days when ferries crossed the Sumida River there was a ferry called the “Yamanoshuku no
Watashi” (the word “watashi” means ferry). In a map printed in 1907 ferry routes are shown, and
“Yamanoshuku no watashi”, which was also known as “Makura-bashi no Watashi” is mentioned.
The ferry route was approximately 250 metres upstream of Azuma-bashi Bridge and linked the
iver-bank at Hanakawado with the Nakanogo Kawaramachi area. The name of the ferry is derived
from the name of the district of Yamanoshuku which was tothe west of the riverbank at
Hanakawado. The alternative name is connected to the fact that the arrivel point on the eastern
bank of the river was at the approach to Makura-bashi Bridge.Makura-bashi Bridge stands near to
the point where Kitajikken River from Sumi-da ward flows into the Sumida River. It is not clear
which the ferry serving this route was started. From about the mid Edo period (around the 1890s),
the bank of the Sumida River upstream of Makura-bashi Bridge was popular as a site for cherry
blossom viewing.
 






       madei  までい (ご飯×カフェ)
又食べてみたいというハンバーグランチに出合いました!
食材も豊富で嬉しいお値段です。待乳山聖天様の前です。

住 所 / 台東区浅草7-3-12(テイトビル聖天1階)
電 話 / 03-6802-4590
営業時間 / AM 11:30 ~ PM 6:00
定 休 日 / 月曜・火曜日





         





         





             





                  





 
カレーライス
            
ブリダイコン





         あんこやさんのアンパン
ア ン デ ス 
株式会社 的場製餡所のアンテナショップとして、
様々な種類のあんパン及び餡を製造・販売しいます。

住所 / 台東区浅草3-3-2
電話 / 03-3876-2569
営業時間 / AM 8:00 ~ PM 6:30
定休日 / 日曜・祝日





         





         





                                              クリック印
 千代田区 (東京都)

国民公園 皇居外苑半蔵門園地      鶴 屋 八 幡       きのこカフェ

DIAMOND HOTEL       
大學眼鏡研究所




       国民公園 皇居外苑半蔵門園地
駐日英国大使館の敷地の一部が日本に返還され、
公園(皇居外苑)になります
住 所 / 千代田区麹町1丁目12−10





         





         





         





        





             












      き の こ カフェ
岡山と東京で展開するきのこ
グループの多様な施設と事業所です。

数ある梅の品種の中でも果実が最高級とされる
南高梅の梅干しが手頃な値段で購入出来ます。
       住 所 / 千代田区麹町2丁目14-3
電 話 / 03-3222-8750





              





             





         





         






          鶴 屋 八 幡
元禄15年(1702)創業で、老舗菓子店虎屋伊織が鶴屋八幡
の前身です。店の間口は六、七間もあり、その隆盛ぶりは
『東海道中膝栗毛』に登場し、『摂津名所図会』寛政10年
(1798)には、百花群がる盛況ぶりが描かれています。

住  所 / 千代田区麹町2-4 電 話 / 03-3263-7766
定 休 日/日曜営業
営業時間 / 月~金 9:00~19:0
 /土・日・祝 9:00~17:30 





         





         






          DIAMOND HOTEL
皇居半蔵門の近くで、英国大使館のはす向かいです。
公式サイトからの予約がお得!
「レストランプルメリア」の、無料朝食付き宿泊プラン!
朝食は、AM7:00~AM10:00まで

 住 所 /千代田区麹町1-10-3 
 電 話 / 03-3623-2211
 





         





         











             





 
レストラン プルメリア
毎週火曜日は男性、毎週木曜日は女性に限り特定の
ランチメニューが半額となります。
※祝祭日は除きます。 TEL:03-3263-2214 
     
レストラン 中国料理 金剛飯店
月曜日はレディースDay!! ランチセット全て1,100円(税込)
水曜日はメンズDay!! 指定の麺・飯セット1,100円(税込)
※祝祭日は除きます。
TEL:03-3262-4756
ランチ  11:30~14:00 





 
AとBが半額になります
            





         





         大 學 眼 鏡 研 究 所
40代からの『眼を守る』ために『かけ続けてラク』なメガネ
を研究し続けて42年。免許センターで使われている専門的な
検査器も取り揃え、眼とメガネに悩む良き相談所です。

 住 所 /千代田区麹町麹町1丁目6−9 
 電 話 / 03-
3234-0011 
時 間 / 10:00~18:00 年中無休(年末年始を除く)





         





         





           

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